口裂け女vs.〇〇〇〇〇〇〇〇〇
サトウ・レン
走れ、逃げろ、生きろ。
暗闇を抜けた先で、俺はようやく光を見つけたんだ。
『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった』と書き出したのは川端康成だが、俺が光を見つけた時の感動は、かの文豪があの一文のために筆を原稿用紙に落とした瞬間の強烈な情動にも負けないはずだ。知らんけど。
と、初っ端から『雪国』の話をしてしまったけど、別にいまは雪がしんしんと降るような季節ではなく、例年よりも暑く、噴き出る汗がいつまでも止まらない猛暑日だ。蝉時雨が降っていた。
俺はあの夜からずっと走り続けていた。
ずっと、
ずっと、
ずっと。
俺は邪悪な存在に追われて、命がけで走り続けた。邪悪な存在が何者なのか。大抵のひとはもう気付いているだろう。だってタイトルにはっきり書いているのだから。『口裂け女』って。メタ的なことをして茶化すなよ、って? いや、真面目な奴はそもそもこんなタイトルの小説を開かないだろ。それに最初のほうにちゃんと、『ふざけた小説です』って明かしておけば、あっちも見たくないものは見なくてすんで、こっちも嫌な思いをしなくてすむじゃないか。小説って、そういうもんだろ。
おっととと、話が逸れてしまった。
まぁ、ということで俺は、口裂け女に追われている。真夏の夜に。真夏の夜の夢にでもなってくれないかなぁ、とも思うが、残念ながら、本当に。
夕暮れから夜に移り変わる境目の時間帯、高校からの帰り道にある公園の前あたりに、こんなにも暑いのに真っ赤なコートを着て、身長は2mくらいありそうな、マスクを付けた女がいたんだ。コロナ前ならそうでもないかもしれないけど、いまはマスクなんて別にめずらしくない。なんかちょっと違和感はあるけど、綺麗なひとだなぁ、って思うだけで、横を通り過ぎようとしたんだ。俺はすこしでも早く帰りたかったから。
俺、陸上部で、さ。県内でもトップクラスの強豪校で、練習漬けの毎日だ。才能があるから別に練習しなくても、日本一になれるよ、って監督にも伝えたんだけど、思いっきり殴られて、「いくら才能があろうと、俺は特別扱いはしないからな」って宣言されたんだ。この監督に熱心にスカウトされて、兵庫から岐阜までわざわざ行ったのに、この扱いだよ。もっと特別扱いしてくれよ、って思ったね。
練習は厳しくても、寮の生活は結構緩かったし、わりとだらだらとするのも許された。俺はその日見たいテレビがあったんだ。と言ってもその番組が楽しいっていうよりは、その夕方の番組にゲスト出演するアイドルが好きで。厳しい練習が終わったら、さっさと帰りたいじゃないか。
でも通り過ぎようとした俺に、声を掛けてきたんだ。その女。
「私、綺麗?」
「はぁ」
「だから、私、綺麗か、って?」
「いや、急いでるんで」
と俺は無視して、その場から走り去ろうとすると、その女が俺の腕を掴んできた。
「ねぇ、ワ、タ、シ。キ、レ、イ?」
こうやって圧を掛けてくるタイプが昔から嫌いで、俺、腹が立って、とっさにこう返しちゃったんだ。
「はいはい、キレイキレイ」
「なんだよ、その投げやりな態度。ムカついた、殺す。いますぐ殺す」って言われてさ。マスクを剥ぎ取ったんだ。そしたら口が耳もとまで裂けててさ。「てめぇ、絶対に殺すからな」
いや、まぁ想像通り、っていうか。そりゃ俺だって、『口裂け女』くらいは知ってるよ。いくら世代が違った、って。有名な都市伝説なんだから。ハサミと鎌を取り出して、右手にハサミ、左手に鎌を持って、まず一撃目は鎌を俺に向かって振り下ろしてきた。なんとか避けて、俺は逃げる。
ここからが俺の逃亡劇だよ。
俺、意外と都市伝説とか怪談が好きでさ、一応、多少の知識はあった。とりあえずその場で、「ポマードポマードポマード」って三回唱えてみたんだ。そしたら口裂け女が頭を抱えて苦しみ出した。なんか変な色の吐しゃ物まで吐き出したが、俺は見ないことにして、逃げる。途中カバンからペンを取り出して、それ以外は全部投げ捨てた。走るのに邪魔なものは不要だ。あとで取りに来れば、問題ないだろう。俺は古びたアパートを見つけたので、どうせオートロックもないだろう、と判断してアパートに入る。三階建てのアパートの階段を駆け上がりはじめたところで、こっちに追い付いてくる口裂け女が目に入り、そして目が合った。やばっ。
俺は慌てて、靴下を脱ぎ、裸足になった。重い。これはかつて、俺の走りの師匠から渡された重り付きの靴下だ。本当に重い。実は俺の足は速すぎるのだ。『あまりにも常人離れした足は、人間として身を滅ぼす。これで封印しておけ』と言われて、俺は毎日、これを履いていた。洗ったことはないので、大変臭い。あっ、いや、一、二度はあったかな。これも洗う暇がないくらいに、休みのない練習が悪い。
階段のところまで来ていた口裂け女に、とりあえず靴下を投げつけてみる。あんまり効果はない。臭いに顔をしかめたくらいだ。
足が軽くなった俺と口裂け女の距離はそんなに縮まらない。
確か口裂け女の足の速さは、100mを3~6秒で走るはず。封印を解いた俺なら、決して劣るものではないはずだ。師匠ほどではないが、俺も足には自信がある。いますぐでも世界一になれるが、普通の人間に見せるために、インターハイレベルを演じていただけなのだから。俺が本気を出せば、国かあるいはよく分からない集団にでも捕まって、人体実験をされてしまうかもしれない。さすがにそんなわけにはいかない。
三階の奥まで走ったところで、行き止まりだ。
口裂け女に追い詰められる。
「さっきはよくも。私がポマード嫌い、って知ってて。あぁ、うぇっ、自分で言ってて気持ち悪くなってきた」
「知るか。これでも食らえ」
俺は掌に書いた『犬』という文字を見せる。
「何、それ?」
くっ、これが弱点、っていう噂は嘘だったか。
その時、ちょうど俺と口裂け女の間にあった玄関のドアが開いた。「うるさい! 騒いでんの、誰」と水商売っぽい女性が部屋から出てきた。
「んっ、って、なんで口裂けてんのよ。ハロウィンか」
と口裂け女を口裂け女と思わず、嘲るように、その水商売風の女が笑って、それにまたキレた短気な口裂け女がその女の首を切りつけた。首がぱっくりと割れて、その女は動かなくなった。自分も死ぬかもしれない状況で、いちいち同情はしていられない。俺はその女の部屋に入る。
脱ぎっぱなしの服が散乱していて、なかなか汚い部屋だ。だけど俺は部屋で良い物を見つけた。なんという偶然。
市販で売られているべっこう飴の包みを外して、俺は遅れて入ってくる口裂け女の口に飴を放り込んでみる。口が大きいから、大変入れやすい。「えっ、何これ、あっ、うぇっ、うぇぇぇぇ」とまたよく分からない色の吐しゃ物を吐き出した。部屋の住人が可哀想だな、と思ってすぐに、もう死んでいることを思い出した。
とりあえずこんなことをしている場合じゃない。
俺は三階の窓から飛び降り、走る。走る走る走る。
最初は寮を目指したが、ふと考え直す。俺のせいで、他のみんなが巻き込まれてしまうのは嫌だ。俺は方向転換して、駅へと向かう。電車に乗ろう。べっこう飴のダメージが思ったより大きいのか、俺を見失ったのか、口裂け女の気配はまだない。
電車に乗ってしまえば、こっちのもんだ。いくら速いって言っても、俺も口裂け女も文明の利器には勝てない。適当にキップを買って、駅のホームのベンチで電車を待つ。死の恐怖もあるわけで、早く来い、早く来い、と貧乏ゆすりが止まらない。待っていると背後から、悲鳴が聞こえた。
振り返って、最初に認識したのは血飛沫だった。
数人が鎌やハサミで切られて、肉の器から飛び出た血が舞う。その返り血を浴びた口裂け女が俺を見て、笑った。
「ようやく見つけた」
「見つけんなっ!」と俺は怒鳴った。
電車の到着する、カンカンカン、という音が聞こえてくるが、のんびり乗っている余裕はない。俺は線路に飛び降りて、向かい側へ行く。これは非常に危ないから俺と同じような状況でもない限りは絶対にするなよ。
駅のホームを出て、俺は西へと向かって走った。とにかく西へ。
これでも足には自信があるんだ。追い付かれるはずがない。俺は師匠との地獄の特訓の日々を思い出す。……こんな女には絶対負けない。俺と口裂け女の体力勝負だ。どちらかが尽きるまでの。
滋賀に着いた頃には、朝焼けが見えた。俺と口裂け女の距離はまだ縮まっていない。さすがに俺も最初の頃よりは疲れて、ペースも落ちてきていると思うが、それはきっと向こうも同じはずだ。距離は縮まっていないのだから。ずっと俺たちは走り続ける。途中で何度か、ぐるっと回って撒こうともしてみたが、どうやっても俺の居場所を見つけてくる。ストーカーか、こいつ。いや、ストーカーだな、うん。
京都に着いた。その頃にはもう何日経っていたのかも分からない。人間の走り続けられる限界、というのは、実際どのくらいなんだろう、って気もしたが、考えるだけ無駄だと考えて、俺は意識の外に追いやることにした。そもそも俺はすでに人間の限界なんかとっくに超えてしまっている自覚がある。とにかく逃げろ、走れ、逃げろ、走り続けろ。逆に言えば、俺はそれしかできないのだから。
京都市内に入り、お寺や鴨川、祇園なんかも通った。別に狙ったわけではないが、観光名所の様子が目に入る。生きていたら、ゆっくりと遊びに来よう、と思った。未来でも考えていないと、正直しんどい。
走っている際中、俺は色んなことを考えていた。ゆっくりと何かをする余裕もない中で、何かを考えることしかできなかったからだ。無心になると、肉体の悲鳴を自覚してしまいそうで、足の痛みを自覚してしまいそうで、つねに何かを考えた。
そんな中で、俺がよく考えたのは、過去のことだった。
師匠との出会いを思い出したのは、もうすぐ兵庫に入る頃だった。ちょうど雨が降って、そう言えば、あの時も雨が降っていたなぁ、と。
俺は兵庫で生まれた。兵庫県の中でも、田舎のほうだ。なんとなく神戸とかだと洒落た印象があるが、そういう場所ではない。治安もあまり良くなくて、俺の家庭環境も悲惨だった。父は悪逆とか横暴とか、そういう類の人間ではないのだが、典型的な仕事人間で、家族にはとことん冷たい人間だった。ただそんな父が、俺の幼かった頃に一度だけ、旅行に連れて行ってくれたことがある。と言っても、近場でもある兵庫県内の六甲山だ。あとで知ったのだが、そこら辺で、父の愛人が働いていたらしく、俺はそのひとも含めた三人で途中から行動することになった。仕事人間の癖に、やることはやっている感じが、父っぽいな、とは思う。
旅行に連れて行ってもらってなんだが、別に嬉しくはなかった。家族といるよりかは、学校にいるほうが楽しいくらいなんだから。しかも旅行に連れて行く、ということで学校まで休むことになって、クラスメートや担任から白い目で見られたのも、なかなか嫌な思い出だ。
「あとで戻ってくるから」とその時は愛人とは知らなかった女と父が途中立ち寄った神社で話していた場所から逸れた。ここで、「危ないからやめろ」と止めないあたりに、父の性格がよく出ている。本気で俺のことなんてどうでもいい、と思っているのだ。山道を歩き、途中でトンネルに入ると、ちょうどそのタイミングで雨が降り出した。すぐ止む程度の通り雨だったが、急な雨に心細くなった。トンネルを抜けたところで、「おい、何、泣いているんだ」と声を掛けてくれたのが、師匠だった。師匠と出会った瞬間、雨は晴れ上がった。
「親父と一緒にいたくなくて……」
「ふむ。家族とは不仲、というわけか」
「うん、いや、まぁ」
知らない他人にそんな話をするのはためらわれた。
「悩んでる時は走れ。とにかく走れ。そうすれば、大抵の嫌なことは忘れられる」
「えぇ……」
困惑する俺の足を見ながら、師匠は言った。
「お前には、素質もありそうだしな」
それから師匠は定期的に、俺の家付近まで来てくれるようになった。そして夜中、家から連れ出され、俺は延々と走らされ、走らされ、走らされ。ちょっとでも気を抜いていると思われると、愛の鞭を受けた。時には本当に鞭を持ってきて、俺を叩いた。時には死んだほうがマシだと思えるほど、容赦のない時もあった。「これ以上やったら死んでしまいます」と本気で伝えると、「じゃあ死ね。別に死んでも困らん」と返ってきた。あれは、でもいま思うと、照れ隠しだったのかもしれない。たぶん俺が本当に死のうとしたら、助けてくれたはずだ。
だから俺はこうやって、俺の生まれた場所を目指している。……というか、いつまで追ってくるんだよ。あの口裂け女。もういい加減、諦めろよ。怪異のプライドかなんか知らないけど。
何度か訪れたことのある、師匠の住処を。
口裂け女から逃げ続けて、俺は県道を駆け上がり六甲山へと向かう。もう雨は小降りになっていて、雲間にかすかな光を見つける。
トンネルが見えてくる。あの日もここで、師匠と出会った。
トンネルの中に入ると、真っ暗になった。何も見えなくなった。それはトンネルが暗い、というのもあるが、それだけじゃない。完全に真っ暗になった。おそらく肉体が限界をとっくに超えて、おかしくなってしまったのだ。
それでも走り続けるのは本能だろうか。
トンネルを抜け出たかどうかも分からないのに、俺はそこで光を見つけた。光を確信した。声が聞こえたからだ。
「大丈夫か」
と俺を抱きとめた誰かの声だ。聞き馴染みのある声に、ほっとする。師匠は俺を抱えて、走っている。それは見えなくても分かる。口裂け女なんか、到底、太刀打ちできない猛スピードで。
俺の声が漏れる。
「久し振り。ありがとう、ばあちゃん」
「師匠と呼べ」
俺はいつも、ついつい師匠のことを『ばあちゃん』と呼んでしまう。すると師匠は絶対に、こう返すのだ。でも本気では嫌がってないのも知っている。
師匠は世間でも何度か話題になっている怪異、『ターボばばあ』だ。一応、世間では怖がられている存在なのだが、俺にとっては大切な師匠だ。
俺はそこで意識を失った。
目が覚めると、俺は古びた民宿のような場所にいて、横には師匠がいた。
「師匠……」
「おっ、今度はちゃんと呼んだな」
「こ、ここは」
「福岡だよ。お前も会ったことがあるだろ。私の親友が住んでいる場所だ。事が終わるまで、まぁここでゆっくりしてもらおうと思って、な」
師匠の親友とは一度会ったことがある。物凄いスピードで這うように進む、着物の老婆だ。
「口裂け女は」
「まぁ、報いは受けさせんとな。儂の弟子を可愛がってくれた報いは、な」
「そっか」
きっと葬られたんだろうな、と思った。師匠の仲間には強力な怪異たちもいる。
「しかし、人間にしては頑張ったんじゃないか」
「俺をまだ人間扱いできるのは、ばあちゃんたちだけだよ」
「こら、師匠と呼べ、と」
そして俺たちは笑い合った。
寮に戻った俺は監督にサボりを指摘され、無茶苦茶、怒られた。なんか途中でムカついて来て、本気を出すことにする。どうせ封印も、もうないんだから。
俺の本気を見た監督が、口をあんぐりとさせている。
「監督。俺、とっとと世界を取ることにしますね」
「口裂け女vs.ターボばばあの弟子」完
口裂け女vs.〇〇〇〇〇〇〇〇〇 サトウ・レン @ryose
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます