第15話
「あんた、そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
台所に立っている母が言う。
「……うん」
隣で野菜を切りながら、藍子は曖昧に頷く。
「夫婦喧嘩なんてね、どこの夫婦にもあることよ。顔見て、なんとなく一緒にいたら、また元に戻れるわよ」
「元に……戻れる……」
それは無理なことだろう。自分と夫の仲は完全に
そうしているところへ電話がかかってくる。
「そちらに、大野藍子さんはいらっしゃいますか」
警察からだった。
「ご主人が……大野洋介さんが亡くなりました」
自殺だった。
風呂で手首を切り、そのまま死んでいたという。
夫は、愛人の中野花凛を殺害したことを悔やみ、睡眠薬自殺を試みたが死にきれず、失血死を選んだのだろう、ということだった。
夫の変わり果てた姿を見て、藍子は泣き崩れた。
それは嘘ではなかった。
心変わりしていたのは、洋介の方。藍子は、最後まで、洋介を信じたかったのだ。
検視の後、洋介は荼毘に付された。
藍子に
「洋介は……苦しみましたか……?」
藍子は尋ねる。
「大量に睡眠薬を飲ませたので、最期は苦しまずに逝ったと思います」
加藤はそう言った。
四十九日が明けて、藍子は加藤を訪ねたのだった。
「家中と、洋介の鞄の中にあったボイスレコーダーは、全て処分しました」
「……ありがとうございます」
この人は、きっと最初からわかっていたのだろう。外部からの盗聴は遮断したけれど。
「それから、洋介が持っていた残りの薬も、全て回収しました」
藍子は聞きたかった。
「結局、あれは何だったんですか?」
「最初に言った通り、『毒』です」
「人や動物を殺す薬を作っていたんですか?」
「まあ、ここまでの結果から言えば、そうなりますね」
「ここまでの結果?」
「ある割合で飲ませられれば、病死に見せかけることができるんです。」
「病死に見せかけて、洋介は私を殺そうと? ……保険金目当てに?」
「実際、そんなに簡単にいくものではないです。人間で言えば、体重を50グラム間違えただけで、失敗します」
「何故、そんな毒を開発したんですか?!」
「開発したというより、他の薬を開発していた時に、たまたまできた副産物です」
「毒なら、すぐ捨ててもらえたらこんなことには……」
「毒も、薬にもなることもあるんです」
「どういう意味ですか……」
「例えば、ニトログリセリン。これは危険な物質ですが、一方で狭心症などの薬として用いられているのは有名ですよね」
「ああ……聞いたことはあります」
「また、リチウムという物質があります」
「リチウム電池の、ですか」
「あれは、人間の体内には殆どないもので、一定量以上摂取すれば、リチウム中毒を起こします。が、とても少量のリチウムは、ある種の精神病に効果があります」
「つまり、毒も使いようによれば、薬にもなる可能性がある、ということですか?」
「そうですね。勿論全てがそうではありませんが」
「でも、洋介は、そんな風に使おうとしていたとは考えられません」
「あれは……申し訳ないことをしました」
「申し訳ないこと……」
「毒のことを、洋介に、うっかり漏らしてしまいました」
「カラスの……時ですか?」
「研究室に立ち寄ったときに、その話が出まして。こちらも、効果が知りたくて10錠ほど分けまして」
「10錠……ですか」
「その後、今度は、迷惑な猫がいるから、と、倍の量を」
「……」
「あいつは、悪い意味で、研究熱心なんです。最悪の答えを知ろうとする」
「中野花凛で実験をしてしまったのは、そういうことですか……」
「カッとなって使ったようなので、薬の量は考えていなかったようですが」
「足りなかったので……死ななかった。それで、首を絞めて殺した……ということですか」
「その後、自分が飲んだのは、自分が本当に犯罪者になったことが怖かったようです。何度も、『殺してくれ』と言っていました」
「自殺に見せかけたのは?」
「洋介です。あの状態になったとき、あなたに、自分に触るなと言っていたのでしょう?」
「……はい」
「あなたを巻き込みたくなかったのだと思います」
「それがわかったから……?」
「洋介の気持ちがわかったから、あなたを逃がしました」
「私のことを殺そうとしていた人が、ですか?!」
「実験……だったんですよ、全て、彼の中では。あなたもサンプルの一つだと思っていたのでしょう、多分。でも、最後に正気に戻ったのだと思います。奥さんは自分にとって大切な人だと……。」
「大切な……人……」
「でも、あなたも……洋介の実験に手を貸していらっしゃいましたよね」
藍子は冷たく言い放つ。
「僕も、結果が知りたかったんです……。でも、こういうやり方は正しくなかったでしょうね。ちゃんと研究をやり直すつもりです」
「なんで……最初から……」
藍子の目から、涙が一粒こぼれた。
「そう言えば、体に異変はありませんか? 洋介に、奥さんの体の違和感のことについて聞いていたのですが」
「それが……洋介が発見された日の少し前に……体中の違和感が、全てなくなりました」
「そうでしたか」
「洋介が殺してきたものの恨みを、私が受け取っていたのかもしれません」
「僕は、そういう非科学的なものを信じてはいないのですが。恨みを受け取っていたと言うより、あなたへの警告だったのかもしれない、と思いました。『こいつは本当にお前を殺すぞ』という」
「……そうかも……しれませんね」
「もう、全ては闇の中です」
「僕も50錠までは、自分の体で試しました」
藍子は驚いて、加藤を見上げた。
「口の中と喉と足の痺れ感が酷いです。全身に違和感があります。まあ、一瓶飲むとどうなるかは、洋介が教えてくれたので、飲むつもりはありませんが」
「それは……治るものなんですか?」
「わかりません。一生、この違和感とつきあっていくことになるのかもしれませんね」
「……この『違和感』は、僕にとって、最低限の『罰』なのかもしれません」
加藤は、そう言って、ふっと笑った。
(了)
違和感 緋雪 @hiyuki0714
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