第11章 ユニウス公子初陣と陣内の不和のこと
8月初旬、ルロワとデルロワズの連合軍が行動を開始した。
王太子グロワスを大将として王領内で動員された騎士・従士300。デルロワズ家は後継子ジャン指揮の下150騎を揃える。そこにユニウス配下二百余の歩兵隊が加わり、総勢騎士450、歩兵200の集団である。この650にさらに騎士達の世話をする従僕や糧食・武器の運搬を担う一団が付く。連合軍の総勢は千を超すものとなった。
第9期の軍事行動としてはかなり比較的大規模の部類に入る。
一行はデルロワズ領内で合流し、さらに北西を目指して国境を越えた。
街道周縁部に点在する小村を抑え(これはつまり物資の徴発とある種のささやかな娯楽を意味する)、ガイユール公領南部を進んでいく。
目指すはロワイヨブル。
ガイユール公領における水運の動脈たるグィヨン川と大河ロワ河の結節点を抑える城塞都市である。
両河川から幾分か南に逸れた平原地帯に立てられたその都市は、戦闘のみを意図して作られた城塞を中央に、それを取り巻くように自由民たちの居住区画が広がっている。「諸民族のうねり」中期から後期にかけて建設された純粋な城塞の周りを自由民の民家や商店が囲むこのような形態は中期の特徴的な都市の姿であった。
城と自由民区画を囲むように張り巡らされた城壁は、成人男性が5人ほど縦に並んでも越えられぬほどの立派なものだ。
まともな攻城兵器がまだほとんど存在しない第9期において、この城壁を力尽くで抜くのは至難の業であった。
軍勢がロワイヨブルに近づくにつれ、無人の村が増えてくる。住民達がロワイヨブルに避難しつつあるのだ。
彼らは取り残された家畜を屠り、残された穀類をかき集めて食糧を確保しつつさらに進んだ。
8月中旬、ついに一行はロワイヨブル郊外に陣を張る。
ここからは次の段階、いわゆる”挨拶”が始まる。半人達の弓兵部隊が火矢を射かけ、騎士は城壁周囲を馬で駆け回りながら降伏するよう叫び続ける。
使者が送り込まれ、交渉が始まる。
グロワス以下幹部達はこの交渉が決裂することをあらかじめ知っている。決裂させるつもりなのだから当然だ。
そうなれば合戦である。
戦の空気がゆっくりと、火をかけられた壷の中、沸き立つ水のごとく立ち上がっていた。
◆
陣屋に運び込まれてきた少年を見て
顔のあちこちが腫れ上がり、貫頭衣から覗く腕は常ならぬ方向に曲がっている。恐らく折れているのだろう。
少年は彼女が指揮する大隊——9人小隊を4つ束ねて拡大したもの——の兵士だった。
「何があったの?! 敵襲?」
夜陰に紛れて城門から敵兵が現れ、陣のどこかを荒らし回ったのだろうか? それにしてはデルロワズの陣に混乱は見られず、半人部隊の陣屋も平穏だ。
垢と埃で真っ黒になっていた少女を見て、11歳のユヌがとっさに付けたのがノワの名である。彼がまだ語彙をほとんど持たなかった頃の名付け故だ。
その後水浴びを繰り返して垢を落とせばその肌は白く、ユニウスと同様黒かと思われた頭髪は艶めいた赤毛だった。だが、彼女は自身の容姿と正反対のノワという名を気に入っていた。それはがらんどうの獣が受けた最初の「注ぎ」であったからだ。
ユニウスの集団の中で彼女は色々なことを学んだ。女性にしては発育が良く、少年兵と比べてもそれを圧する背丈がある。多弁な方ではない。規律を重んじ、きちんとしていることを重視する彼女の部隊はその影響を大きく受けていた。
「こいつ、王軍の騎士様に絡まれて…酒を飲んでたんだ! 酔って、その、こいつに!」
少年を担いで逃げ込んできた兵が興奮冷めやらぬ様子で口走る。
「”
「していません。騎士様が”
半人部隊の者は兵も指揮官も皆、”
ノワの胸裏に発火したものは「
ユニウスと語り合う中で彼女は”
「なるほど。分かりました。では”
それは明確な指示だった。部下達が槍を手に集まってくる。
「
◆
ノワの部隊が臨戦態勢に入った様子は瞬く間に周囲の36人隊に伝わる。最初に兵が、次に各隊の指揮官がノワ隊の陣幕に集った。
「何があった?! 敵襲? それは腕が鳴るね!」
駆けつけたマリーの好戦的な言葉をノワは静かに否定した。
「もっと悪いこと。——
「不正?」
「はい。”我々”はそれを糺しに向かいます」
落ち着いた声だ。しかし、その内奥に押し込められた強烈な感情がマリーにはすぐにわかった。女同士、長い付き合いである。
いっそ敵襲であれば話は早い。叩き潰せば良い。だか、物事はもう少し面倒な感じがする。小柄な肢体でノワの行く手を遮った彼女は、状況を整理しようと試みる。
「聞かせて?」
ことの顛末を聞き終えてマリーは途方に暮れる。
ここでノワの手綱を手放してしまえば本当の殺し合いになる。幸いなことに、デルロワズの諸将と”
王軍の騎士達とて我々の出自は聞かされているはずだ。そしてユニウスの立場も聞かされているはず。表だって侮辱するような態度に出ることはない。
だが、戦前の高ぶり、酒。そういったものが重なって、こういうことが起こる。
自分だけでは判断できない。心情的には自身の隊も引き連れて、その不正を”我々”におしつけた騎士を串刺しにしてやりたい。だが、ユニウスと最も付き合いの長い彼女にはその感情を押し込められるだけの理性があった。
「ノワ、隊を動かすなら許可がいるでしょ。そういう規則なんだから」
つまり、ユニウスの許可、である。
◆
同時刻ユニウスはデルロワズ家の陣屋を出たところだった。
デルロワズ兄弟や配下騎士達と明日の打ち合わせである。そして、終わるやいなや早速景気づけにとバルデルが飲み始める。ユニウスも勧められて一杯飲んだ。彼は酒に強い質だ。酔うことはほとんどない。
明日の準備を口実に陣を抜け出し、ほど近い自身の宿営に帰り着いてみると、マリーを中心に部隊長達が勢揃いして待ち構えていた。
明日の段取りは既に話してある。この夜更けに集合をかけた覚えもない。初陣前の興奮が抑えきれずに皆で集まっているのかと思いきや、どうやらそうでもないらしい。
部隊を委ねた彼らのまなざしが一様に、事の深刻さを物語っている。
一団から進み出たノワが事のあらましを告げた。被害者と目撃者の証言を時系列で並べていく様は、正教僧が行う裁判の弁論に近いものがある。
彼女はほとんど息を継ぐこと無く説明を終え、最後、率直にユニウスに要求した。
「”
話を聞きながらユニウスが経験したのはある種の分裂だった。
感情は囁いている。
即座に下手人の陣に乗り込み、相応の償いを求めるべきだ。と。
ガイユール公領に足を踏み入れて以来、彼の心には澱が積み重なっていた。
村を劫掠して回る行動は、
現実問題としても、村の物資を徴発しなければ行軍自体が成り立たないのだから仕方がない。それは分かっている。「そういうもの」なのだ。
ただ、それは不正である。
騎士と農民達には違いなどない。もし仮にあったとして、食い物を奪われ、戯れに犯されることを正当化できるほどの違いだろうか。魔力の有無というならば、”
魔力など美しい欺瞞に過ぎない。
分かっていながら「そういうもの」として目を瞑ってきた自分、そしてこれからも目を瞑り続けるであろう自分に対する侮蔑。そして、見て見ぬ振りを自分に強制するこの世界の”規則”に対する尽くせぬ憎悪。この炎は11歳のあの日から、実に9年の間、絶え間なく燃え続けている。
このまま”我々”に対して不正を働いた騎士のところに出向き、その者を叩き斬ってやれば、おそらく幾分か気が晴れるだろう。
一方で、理性はまた別の視点を彼に与える。
このような出来事はデルロワズの軍勢以外と協働する際に十分起こりうることだ。そして世界の”規則”は”
くだんの騎士を叩き斬れば王軍とデルロワズ家の間に亀裂が生まれる。それは今回の戦を危うくするのみならず、確実に後を引くだろう。
現在の”
斬って全てを投げ出したい自分と、”上手く”処理してこの世界に居場所を作りたいと望む自分。分裂は根源的なものであり、恐らく解消されることは生涯ないだろう。そしてきっと、自分はこのやっかいなものに引き裂かれて命を落とすことになる。予感があった。
ただ、今はその時ではない。
——まだ始めたばかりだ。
「許可はしない。”
逡巡を一切感じさせない、断固とした命令である。
「なぜです」
ノワがその平静に反して強い不満を覚えているであろうことはよく分かる。9年の歳月をともに生きてきたのだ。
「
彼はノワの目をじっとのぞき込んだ。その青い目はたいまつの光を受けていつもより鮮やかに見えた。
「皆は宿営に戻って休め。明日は早い。…ノワは一緒に来てくれ。——ああ、槍は置いて。必要ない。少し散歩に行くだけだ」
◆
白地に青の盾紋。
手がかりはそれだけだが情報としては十分である。
貴族の紋章は唯一無二であることを義務づけられている。紋章の形状は紋章院にもれなく登録され、その際に他家との重複確認がなされている。
つまり、白地に青の紋を持つ家は王家軍300の中に一つしかない。
王家軍の陣張を進み、まだ外で宴会を続ける騎士達に尋ねれば、その対象はすぐに分かる。彼の
白地に青の紋はナルヴィ家という王領東南部の村落を納める軍伯のものだという。
軍伯は本来、王家が王領の管理を任じた代官を指す。その職は個人にではなく家に対して与えられるため、実体は小規模な封建であった。デルロワズ含め諸侯は形式的な従属関係にあれど、あくまでルロワ家から独立した別家だが、軍伯は王家の直臣でありルロワ家中のものとみなされた。
ユニウスはナルヴィ家の存在を知らない。そして知る気もなかった。
普段の彼であればまず兄たちに確認を取っただろう。諸侯と軍伯という格式の差はあるが双方貴族であることには変わりがない。領地の多寡で判断することもできない。軍伯は王家の直臣である。つまりルロワの家政を担う存在である。ルロワの家政とはつまり、サンテネリ王国の政治・行政そのものであった。
だが、この夜のユニウスにとって、相手が諸侯であれ軍伯であれ、どちらでもよかった。
「こちらナルヴィ殿の陣屋でいらっしゃるか?」
宿営の入口に掲げられた紋を確認しながら、入口を警護する
「いかにも。どちらの御家よりお越しか」
男の目が素早くユニウスの
デルロワズ公家。
大物の突然の来訪に驚き姿勢を正す従士にユニウスは淡々と告げた。
「御主君は中に?」
「はい。どのような御用向きでございましょう」
「先刻”我々”の兵が御家のどなたかにひどい無礼を働き、
「なんとそのようなことが…。すぐに主君に確認して参ります」
慌てて宿営に飛び込んでいく男を見送りながら、ユニウスとノワは無言で佇んでいた。互いに言葉を発することはない。ユニウスがノワを知るように、ノワもまたユニウスを知っている。ユニウスの胸の中に、腹の中に、口の中に膨満する感情を彼女もまた肌で感じていた。
宿営から飛び出してきたのは20代半ばとおぼしき青年だった。背格好はユニウスと変わらない。面長な顔立ちと落ち着き無く動く目に少し特徴がある。
「夜分にお呼びだてして申し訳ない。ユニウス・エン・デルロワズと申します。デルロワズ家中にて一部隊を預っております」
「デルロワズ公子様、ご挨拶痛み入ります。当主のシャール・エネ・エン・ナルヴィでございます。従士に聞きましたが、当家の者が御家の兵と何か
「ええ、本当に。よろしければ、実際に”我々”の兵に打擲をくださったお方にお越し願いたい。明日に戦を控えております。このような諍い、禍根とならぬよう謝罪いたしたく」
「ご配慮誠にありがたいことでございます。デルロワズ様の真摯なお心、感じ入りました。このうえ更なるご配慮は恐れ多いことでございます」
ユニウスとノワは謝罪に赴いたのだ。先方がそれを受けるというならば話は終わりのはずだった。
「いえ、エネ・シャール。それでは私の気が収まりません」
ユニウスの瞳がシャールを射貫いた。目は口ほどにものを言う。それは謝罪などではありえない。打ち倒すべき者を見据える、充満した敵意だ。
「”我々”下民の無礼を懲らしてくださったその親切なお方に、是非ともお会いしたい」
ナルヴィ家の当主は状況を悟った。
先刻浴びるように飲んだ酒が一気に抜けていく。
この目の前の青年は”激怒している”のだ、と。
「あっ、ああ、それは、そうですな。痛み入ります。ただいま弟を連れて参ります故」
ユニウスは腰に下げた剣の柄を撫でた。
シャールと名乗った男には悪意はない。恐らく状況もよく分かっていない。突然の来訪に驚いたことだろう。気の毒とすら思う。
「ユヌ様」
「ん?」
「その剣は例の?」
「そうだよ。使いやすそうだろう」
「はい。でも一箇所無駄なところがありますね」
ノワは剣の柄先に付いた大きな緑輝石を指さした。
「人を斬るのにその石は必要ありません」
彼は少し口の端を曲げた。その目が”子犬さん”よろしく空疎なものになる。彼一流のとぼけた表情だ。
「この剣で人を斬ることは多分ない。他の使い道がある」
ノワは相変わらず仏頂面で主君の顔を眺めていた。彼女はユニウスのこの表情が好きだった。
◆
目前の宿営から怒声が響き、しばらくしてシャールが戻ってきた。彼とよく似た顔をした、しかし少し幼い男を引きずって。
恐らくシャールよりも数歳若い。ユニウスと同じ、あるいは年下かもしれない。
「デルロワズ公子様、こちら当家の次男バラスにございます。あー、先刻の”問題”を、その…」
弟を紹介しながらシャールは口ごもってしまう。
なんと言えばいいのか。
無礼な兵を散々に打擲した立派な振る舞いを褒めればよいのか。話の筋ではそうだ。デルロワズの若君は「謝罪」というのだから。だが、もちろんこれが「謝罪」でないことくらいシャールにも分かる。では何と表現すれば。
「バラス殿、お初にお目にかかる。ユニウスという」
彼は素っ気なく口火を切った。
「公子様? 私が何か…」
「先刻、”我々”の兵を貴公は打擲なさった。どのような無礼があったのかお聞きしたい」
バラスの緊張をほぐすように、優しげな笑顔でユニウスは訪ねた。
「ああ、そのこと。いえ、大した話ではございません。ちょうど広場で飲んでおりましたら、ユニウス殿が操っておられる半人たちが、従士たちに混じって椅子に腰掛け酒など飲んでおったのです。これはいけないと思いまして、跪くよう命じました」
ユニウスはそこで声を上げた。湿気のない、乾いた笑いだった。
「なるほどそうか。ところで、シャール殿。一つお聞きしたいのですが、御家の領地に半人はおりますか?」
「えっ? 半人…。半人はおりません。恥ずかしながら当家はそれほどの大領でもなく、半人共を飼うなどとてもとても」
「ではエネ・シャール、そしてバラス殿、ご兄弟ともに実際の半人を見たことも?」
「いやあ、ございません。そうそう機会もありません。それに、聞くところによれば、魔力を持たず人語も解さぬ獣といいます。それならば犬でも飼った方がよほど役にたちます」
シャールの答えを依然笑顔でユニウスは聞いていた。時にはなるほどと頷きも返す。
「バラス殿、命じられた”我々”の兵は貴公の命にどう反応した?」
バラスに向き直り尋ねる。朗らかな笑みを浮かべたまま。
「それが奇怪なことに、いっぱしの口を利くのです。自分たちは明日の戦に参加するのだから、酒を飲む権利があるなどと。それで、恥ずかしながら私も酒が入っておりまして、礼儀を躾けるべく懲罰を加えた次第です」
「なるほど、理解した」
上機嫌と言ってもよい声色でユニウスは大きくうなずく。
どうやら大事になることはなさそうだとシャールは胸をなで下ろした。
「ところでエネ・シャール、バラス殿、この機会ですので、”我々”の隊を束ねる者を一人ご紹介差し上げたいが、よろしいか?」
「もちろんでございます。公子様の後ろにいらっしゃるお方ですな」
要するにユニウスの女なのだろう。自分たちのような小領主とは違い、デルロワズほどの大諸侯ともなれば
女の腰周りを眺めながらシャールはそんなことを考えていた。
「こちらはブラウネ。我々は
ノワは鋭い眼光そのままに一歩前に出た。
彼女の心中には疑問符しかない。
「ああ、ブラウネ殿とおっしゃるか。ユニウス様の従士ということですね。私はシャール・エネ・エン・ナルディと申す。」
「同じく、バラス・エン・ナルディ。それにしてもブラウネ殿、お美しい方だ! 月光をも従える青き瞳。まさにお名前の通り」
バラスはまだ酔いが残っているのか、あるいは若さゆえか、陳腐な芝居の言い回しを交えてノワを讃える。
——そういえば、もう何日も女を抱いていない。バラスの中に情欲の種が生まれる。
「我が主君の部隊にて一部隊を任されております、
「
シャールは軽く揶揄したつもりだった。情婦に武勲などあろうはずもない。
「騎士様にお褒めいただけるほどのものではございません。ただ、先日、賊を数名成敗した程度です」
ノワはにこりともせず返す。
「4月の例の諍いで、我々は王女殿下をお守りするために二十余の馬に乗った賊と戦いましたが、このノワもまた槍を手に戦功を上げたのですよ。」
ユニウスが彼女の言葉を裏書きした。
「…何と!」
情婦ではなく兵なのか? 本当に? 女が? 常識外れにもほどがある。シャールは二の句が継げない。
「さてバラス殿。ノワは貴公から見ていかがか?」
左腰に吊るした剣の柄を撫でながら、ユニウスがバラスに問いかけた。
「いかが、とは?」
何を聞かれているのか分からず戸惑う青年にユニウスは言い放つ。
「ノワは半人だ。にも関わらず他の者達と同様広場で酒を飲んでいた。さらに、跪きもせず貴公に口を利いた。その上、貴公が暴行を加えた兵は彼女の部隊の者だ。——さあ、存分に膺懲されよ。この者を」
「いやっ…それは!」
「それは?」
「ブラウネ殿は立派にしゃべれるではないですか。礼儀作法も心得ておられる。その上、公子様がおっしゃった。
「そうだ。ノワはしゃべれるし礼儀作法も心得ている。戦場で敵を屠る戦士だ。——だが、半人でもある」
「半人…、それは、にわかには信じがたいことです!」
ユニウスの顔にはもう何もない。その黒い双眸がゆっくりと
「ノワ、君は半人だな」
「はい。わたしは半人です」
主従は当たり前のことを当たり前のように確認した。
「さあバラス殿、存分にノワを躾けられるとよい。貴公が先刻為したように」
事ここに至り、バラスは自分が極大の危機に直面していることに遅まきながら気づいた。今後の行動如何によってはデルロワズ公子は彼を殺すだろう。
彼は夕刻、半人の一人を小突き、殴り、足蹴にし、踏みつけた。それと同じことをノワにせよと言われている。
デルロワズ公子。ルロワの王女手ずからに剣を授けられた王女の騎士に。
バラスは弁明しようと必死でもがくが、舌が凍り付いて動かない。
彼は今回の
戦闘訓練はあれど実際に人を殺した経験などない。
彼は小領主家人の例に漏れず村人たちと平和に生きてきた。
若者らしく華々しい戦功を夢見たが、武芸の訓練といって軽く馬を乗り回す程度。馬を飼育するにも金がかかる。騎士の体面を保つために何とか維持している老馬に、無理させぬよう労りながら乗ってきた。
そんな日々に突如、悪夢が飛び込んできたのだ。
「ノワではご不満か? であれば、私を打擲されるがいい。王領の地にまで話が流れているかわは分からぬが、私は半人として生まれ育った。——そして私は今でも、デルロワズの半人頭だ」
シャールはことの顛末を噂に聞いていた。
デルロワズ家で不幸な「取り違え」があり、公の庶子が半人として生育されていたこと。長じてその魔力が知れ渡り、取り違えが判明し、正式に公の認知を得たこと。そして半人たちを率いてマルグリテ王女の危機を救い、王家より直々に贈剣をなされたこと。
兵に対する暴行を部隊長たる
王家が救いの手を差し伸べることもあり得ない。マルグリテ王女は「自分の騎士」が一軍伯家の次男に侮られるなど、決して許しはしない。
——いっそ
一瞬そんな考えがシャールの脳裏を
だが、その「筋」をひっくり返す力を目の前の男は持っている。血と地位、つまり力である。それもまた世間の常識なのだ。
「ユニウス様、何をお望みです?」
立ち尽くすバラスをかばうようにシャールが進み出た。
バラスは彼にとって弟だ。どうあっても斬れない。
ノワもまたユニウスのやり様を見ていた。これが彼の言っていた「色々あるやり方」の一つ。
前後に視線を受けている。ここで初めて彼は緊張を解いた。
「バラス殿。なぜ貴族は半人を跪かせるのでしょう」
彼は宿営の前にしつらえられた野外用の椅子に腰掛け、手振りで隣の席にバラスを誘った。
「それは、貴族だからです…」
「では、貴族はなぜ半人を従わせ、飼う権利を持つのでしょう」
「貴族には…魔力があります。半人にはない」
「魔力があるものが権利を持つ、そういうことですか?」
先ほどまでの冷酷な声色が打って変わって、とても優しい響きだ。怖がる子どもを安心させる。そんな趣がある。
「はい。貴族は魔力を持つから高貴なのだと…僧都様に教わりました」
「なるほど。あなたがた貴族が貴族である根拠はその魔力にあるのですね。では、魔力の有無はどのようにして確かめましょう」
「
「それも僧都様に?」
「はい。そう習ってきました」
未だ震えの止まないバラスの手に、ユニウスはそっと自らの手を添えた。
「バラス殿。私の恥ずかしい話を聞いていただきたい。先ほども申したとおり、私は半人の生まれです。僧都様がおっしゃるとおり、半人なので魔力などありません。…マルグリテ様の陣が襲撃された折が私の初陣でした。それは恐ろしかった。実を言うと、足が心の言うことを聞かなかった。敵から離れよう離れようと、勝手に動き出そうとする。槍を持っていましたが、恐怖のあまり柄を握りしめすぎて、戦いが終わっても手を放すことさえできなかったのです。——私はとても怖かった。臆病でした」
「しかし、公子様は華々しく勇敢に戦われたと…」
「確かに戦いましたし、賊も討ちました。外からはそう見えますね。華々しく勇敢に見える。しかし、心の中は恐怖で一杯でした。本音を言えば逃げ出したかった…」
バラスの身体を揺する律動がユニウスの手のひらと同調していく。落ち着いて、落ち着いてと、ユニウスの大きな手のひらが語りかける。
「バラス殿。私には魔力がないのです。臆病な半人に過ぎません。しかし、周りの人々は皆なぜか、私には魔力があるといいます。それはなぜでしょう」
「武勇を示されたから」
「では、武勇を示すことが魔力の証明になりましょうか?」
「それはもちろんそうです。それを常に示さなければ、誰も騎士として認めてはくれません」
「そうですね。では、バラス殿。バラス殿はこの怖がりで魔力のない私、しかし何とか必死で戦った私を騎士と認めてくださいますか?」
「ええ、ええ! もちろんです。今もこの手のひらからユニウス殿の強い魔力を感じています!」
「それは嬉しい言葉だ。ならば、私とともに戦った者たちのことも認めてくださるでしょうか。そこに立つノワも懸命に戦いました。女の身で、武装した騎士たちに槍一本で立ち向かいました。それはどれほど辛く怖いことでしょう。彼女も私と同様、魔力を持たない半人に過ぎないのに」
包み込むようなこの感じをノワは覚えている。
ある日突然彼はやってきた。住処に入ってきて、突然名を注いだ。”ノワ”という名を。
彼女はその日、自分が自分であることを知った。彼は生まれたてのノワを包み込んだ。ノワという、世界から切り離された一個の人格であることを肯定した。ノワはだから、彼の存在が好きだった。
彼はノワに色々なことを教えてくれた。同時に色々な質問を繰り返した。「なぜ痛いのか」「なぜひもじいのか」「なぜ苦しいのか」。そこで彼女は全ての出来事には理由が存在しうることを学んだ。ユニウスはいつもそのように
「ノワ殿が戦われたのであれば、それは騎士の行為であると、思います…」
「では、今日バラス殿が打擲された兵士のことも認めてくれますか? 彼もまた、ノワとともに槍を取り、死の恐怖に耐えて戦い抜きました」
バラスは答えられない。
彼は半人であるがゆえに兵をなぶったのではない。
物言わず佇むだけの半人であれば、彼は腹を立てたりしなかったはずだ。猫や犬が言葉を解さず、時には飼い主の言いつけを無視したとて心の底から怒ったりしない。相手は畜生なのだから、それは当たり前だ。
しかし、半人でありながら、あの兵は人と同じように行動し、彼の命令に意図をもって逆らった。バラスを暴行に駆り立てたのは侮蔑ゆえの怒りではない。混乱の怒りだ。
半人である者が半人ではない。
魔力を持つがゆえに王であり騎士である。魔力をもたぬがゆえに半人である。
魔力の有無は獣欲を抑えられるかどうかによって判別できる。その証明の最たるものが、死の恐怖、人が持ちうる最大の獣欲を抑え込まねばならぬ「
逆に言えば、
魔力があるがゆえに戦えるのではない。戦うがゆえに魔力の存在を認められるのである。
——そして、あの半人、彼が散々に殴りつけたあの少年は、戦った。
つまり魔力を証明した。だが彼は半人である。しかし彼は戦ったという。目の前に立つ女も、自分の手を握る男も。
「……認めます」
ユニウスはバラスの手を強く握りしめた。そして小さな声で。他の誰にも聞かれないよう、囁いた。
「ありがとう」
◆
「ユヌ様、一つお聞きしたいことがあります」
宿営への帰路、あたりは既に静かだった。各陣が
「なにかな」
「”ブラウネ”。私は”ブラウネ”ですか?」
「気に入らなかったか」
「いえ、ただ、不思議な感じがします。私はノワなのに、ブラウネなのかと」
「難しい質問だね。おれもよく悩む。おれはユヌなのに、ユニウスなのかって」
「ではユヌ様と私は同じですね」
「青い(目をした)女」。直訳すればそんな意味になる。ブラウネはサンテネリ語における女性の定番名の一つだ。つまり「世界に認められた名前」だ。
「同じだ。おれたちはどうしても「自分の名」と「他人から呼ばれる名」をもたなきゃいけないんだから。面倒くさいな」
「そうですね。でも、”私たち”はノワを使います。ユヌ様は?」
「おれもユヌを使うよ。”おれたち”は。」
それきりノワは口を閉じた。二人は無言で歩く。ガイユールの地の、城の前を、何の因果か二人で歩いている。
「ノワ。あれでよかったかな」
「はい。”私たち”はユヌ様のやり方を理解しました」
「じゃあ、明日になったら皆に伝えて欲しい。君は放っておくと何も言わないから」
「なぜですか?」
「おれは”我々”皆に、おれの考えを知ってほしい。理解して、そしてともに戦って欲しい。さらに欲を言えばね、”
女の返答に迷いはなかった。
「”
少し間を置いて彼はそっと呟いた。
「ありがとう」
半人の乱の研究 ー正教新暦9期の社会変革ー 本条謙太郞 @kentaro5707
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