第5話 原爆ドーム、市民球場。そして宮島へ。
石村教授が大学方面に向かう電車に乗って去った後、八木青年もまた後続の電車に乗って宮島方面に向おうとした。
一日乗車券というものがあると聞いていたので、運転士とは別に乗務している車掌に申し出てその切符を買った。これがあれば宮島まで行けるらしい。値段もそんなに高くない。これで1日遊べるなら安い買い物である。
電車に乗ったはいいが、ふと、昨日の教授との会話を思い出した。
「ハチキ君、遊びに行くのは大いに結構やし、どこに行こうとかまわんが、行く前に原爆ドームを見ておいた方がよろしかろう。向いには広島市民球場もある。あまり野球には興味ないかも知らんが、この街を知るにはその二つは少し時間をかけてゆっくり見ておいた方がエエと思うで」
昨日の教授の講義は、確かに、原爆投下直後に所属していた研究室の教授や他の学生らとともに広島入りした時の話が中心だった。確かに専門科目の講義だけあって自分には訳の分からない話もあるにはあったが、つい31年前のちょうど今頃にこの街で起きていたことなのかと思うと、何とも言えない感情が湧き出てくる。
程なく原爆ドーム前の電停に到着した。
まずは、原爆ドーム本体の前に行った。チェコ人の建築家が作ったという広島県の産業奨励のための洒落た建物であったが、原爆のおかげで見るも無残な姿に変貌させられてしまい、それからの時間のほうが建築物だった時間に追いつき、追い越そうとしている今日この頃。いや、昨年あたりでもう追い越したか?
とにかく青年は、生まれる数年前にこの姿になって久しい建物跡をじっくりと見ていった。まだ朝の9時前。そういえば今日は5日。31年前の今日はまだ建物として機能していた場所なのだなと、そんなことを思っても見る。
瀬戸内の今日の天気はやはり、晴れ。これからさらに暑くなる。木々からはセミの音がこれでもかと周囲に響き渡る。
どうやら戦時中は、この建物は内務省の中国四国土木出張所も入っており、この原爆ドームでさあ仕事はじめという時間帯に原爆が投下されたために殉職されたということか。当時は内務省であったが、その手の業務は現在の建設省に振られているため建設省の名による碑が建てられている。転勤族の官僚もいたであろうが、現地採用の職員も少なからずいたであろう。なかには女性の名もある。
心なしか、この建物のあたりは一種の涼しささえ感じる。これが他の場所であれば「肝試し」とでもなろうが、到底そんなことを言い出せる場所ではない。そんなもの試す前にこちらの肝が凍てつかされてしまいかねない。
昨日の教授の講義の肝は、まさに、この地に象徴されているのか。
八木青年は原爆ドームに向って深々と一礼し、その地を後にした。
電車通りの向いは、広島市民球場。昨年初優勝した広島カープの本拠地。だがこの建物は広島市の管理する球場であり、ナイトゲームのある日でも朝のうちは市民に貸出もしているという。
「甲子園なら、そりゃ、こうはいかんわな」
そんなことを思いつつ、球場のあたりをしばし散策する。チームは今、阪神との3連戦中。今日が最終日。昨日迄阪神に連勝している。球場前には、今日の阪神戦の試合開始時間が明記されている。
先ほどの涼しさを通り越して寒ささえ感じさせる空気は、ここにはもうない。あるのはむしろ、街の活気から来るであろう、熱気。昨秋この地を本拠地とする広島カープは初のリーグ優勝を果たしている。日本シリーズこそ上田阪急に1勝もできぬまま終えてしまったが、日本一になるのもまあ時間の問題ではないだろうか。
そういえば、新幹線が広島まで来たのは、つい昨年。昭和50年3月のこと。ズバリその年に、広島が優勝。確かにこの数年来力をつけてきたチームではあるが、よりにもよってそんな年に優勝できるとは、何かがあるなと感じないわけにはいかない。
そうか。新幹線の開通も、カープの優勝と無縁ではないはずだ。
ふと彼は、そんなことを思った。
その疑問がこの街にいる間に解決することに、彼はまだ気づいていなかった。
ひとつ道路をまたいだだけで、どうしてこうも体感温度の差があるのだろうか?
ふと思ったが、そんなことを問うだけ野暮かと思い直した青年は、電車通りを渡って再び宮島方面への電車に乗った。西広島と書かれてはいるが、どうやら甲斐という場所まで行く電車らしい。そこで乗換の上、宮島に向うことに。
電車は少しずつ街はずれへと進んでいく。国鉄なら2駅ほどの区間を丁寧に停まりつつ、路面電車は西広島駅に着いた。ここからは路面ではなく、本格的な鉄道線になる。向こうには、国鉄の西広島駅もある。そちらに乗換してもいいが、一日乗車券があるのでそのまま広電に乗っていくことにした。
ここからは鉄道線だけあって、かつて京阪神急行電鉄で使用されていた車両も来ている。冷房はないのだが、その分窓を開けていればそれなりに涼しいものである。特にこのあたりは海辺ということもあり、心地よい風が車内に入ってくる。下手に密閉されて冷房を聞かされた電車に乗るより健全な気がしないでもない。いうなら動く平面エスカレーターともいうべき存在か。
電車は郊外の住宅地にある駅を丁寧に停車していく。時々、山側の国鉄栓と並行する。特急列車こそ新幹線の延伸で昼間は全廃されたが、湘南電車や貨物列車、時に荷物列車なども東西に向けて走っている。
乗車すること30分少々。瀬戸内海が見えてきた。そろそろ、宮島の本土側の港に着く。船に乗って10分程度もあれば、そこは宮島である。どこかで何度となく見た厳島神社の鳥居も見える。
八木青年は一日乗車券で乗れるフェリーに乗込み、宮島へと向かった。宮島では約1時間滞在したのち、再びフェリーに乗って宮島の電停まで戻った。少し山側には、国鉄の宮島口駅もある。
まだ昼にはすこし早い。彼は国鉄ではなく一日乗車券で乗車できる広電に乗って広島の市街地に戻ることにした。戻った頃には、ちょうど昼時を少し回った頃になるだろう。さすれば、どこかで昼食にもありつける。かねて聞いていたラーメン店にでも行ってみよう。確か大学に向うあの路線の真ん中あたりにあったはずだ。
電車を乗り継いで市街地に戻って来た八木青年は、原爆ドームと球場のある電停から少し先の大学方面への乗換口となる電停まで戻り、そこから乗換してラーメンの店のあるあたりの電停で降りた。
幸い、昼のピークは少し過ぎかかっている。席には難なくありつけた。
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