第7話 医学生のサイン

 青年に気付いた教授は、そそくさと財布から千円札を出して用向きを伝えた。

「ハチキ君、この近くに文具店があったヤロ」

「確かにあります」

「よろしい。では、これで色紙とマジックペンを買ってきてください」

 彼は教授に言われたとおりの枚数の色紙とマジックペンを買ってきた。


「これはな、明日会うアメリカ人の学生さんにサインをいただくためのものや。彼に会って話をするだけでも価値はあるが、どうせお会いするなら、形あるものを残した方がよろしいというもの。無論、君も1枚いただくとよい。それから、広島出身の王将の店長君にも、1枚渡してもらいたい」

 翌日の打合せをした後、彼らは近くの定食屋で一杯飲みながら食事を済ませた。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


 そして、翌日。この日は、8月6日の金曜日。

 広島に原子爆弾が投下されて31年目の日である。

 朝8時過ぎ、彼らは市内電車に乗って大学へと向かう。31年前のあの日と同じ時間には、電車で大学へと移動中。

 空中からは、爆弾はおろか雨粒のひとつも降って来ない。

 今日も快晴。暑くなりそうである。

 暦上の秋こそ近づいているが、この暑さがしばらく続くことは間違いない。電車内は冷房こそないが、窓が開けられているため走ればそれなりの風が入ってくる。

 学生は基本的に夏休みに入っているため、それほど混雑しているわけでもない。

 この大通りに面した企業への通勤客はいるが、学生がいないだけでもいくらか混雑は緩和されている。

 電車は鷹野橋を左折し、大学のキャンパス前の電停に停まった。小銭を払って低いホームに降り、すぐ横の横断歩道を渡ってキャンパスに入った。

 石村教授と八木青年は教務の職員に促され、講師の控室に入った。幸いにも冷房を入れてくれている。先ほどまでの汗がさっと引いていき、やがて少しばかりの寒ささえ感じられるようになった頃には、打合せは終わっていた。


 それでは、ヤギ君、今日はよろしくお願いします。

 今日の試験の後は、私と昨日お会いした花岡教授とともに近くで食事をした後、14時には藤本先生と一緒にその学生さんが来られますので、打合せの場所に参りましょう。そのとき、今お持ちの色紙とマジックペンでその方のサインをいただく予定です。これは先方もすでに快く了承されているから、問題はありません。

 その後は、いったんホテルに戻りまして、本日のテストの採点をしますのでお手伝い願う。17時過ぎから街中の居酒屋で今回の講義を履修された学生さんたちと懇親会をします。ま、コンパってことやね。それに同席してください。


「私が物理学の講座のコンパなんかに出て、よろしいものでしょうか?」

 いささか場違い感を受けている文系学生の疑問に、教授が答える。

「だからこそ、です。こういう経験がお互いできるところが、総合大学の良いところではないか。遠慮することはない。この懇親会を申し出てくれた学生さんは、君にもぜひ参加して欲しいと言われているから、是非いらしてもらいたい」


 その日の講義と試験は、昼までに無事終わった。

 試験終了後、ある大学院生が八木青年に声をかけてきた。


「八木君ですね。私は本学大学院物理学研究科の花岡喜一と申しまして、本学物理学科教授の花岡隼人の息子です。石村先生は、父のいた京都帝大の物理学研究室の後輩になると伺っております。今回は父の勧めもありまして、ぜひ受講せよとのことで、単位はともあれ受講させていただきました」

「初めまして。八木昭夫と申します。花岡さんは、昨日お会いした花岡教授の息子さんですか。まさか、研究室もお父様の?」

「いやあ、それはさすがにということで逃げようとしましたが、ほら、甲子園でも父親が監督で息子が選手みたいなことあるじゃない。東海大相模の原選手の親父さんが監督みたいなね。今、そういうことで鍛えられております。今日の懇親会も、八木君からしっかり話を聞いて来いと言われておりますので、何卒、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 昼食の後、14時からはアメリカ人の医学生を交えた話になった。その学生は大学生にしてはいささか年長の感のある、体つきもしっかりした人物であった。

 今は縁あって別の仕事をしているが、その合間を見て、この大学の医学部の研究室でも勉強しているのだという。

 どんな人物であるかは、今は御紹介を控えておこう。

 石村教授は八木青年から受取った色紙とマジックペンをアメリカ人の医学生に渡した。彼は快く、色紙にサインした。職業柄もあってか、かねてこのような形でサインをすることに手慣れているようである。

 そのサインには医学生としてではなく別の職業の所属団体と思しき名称と、6という数字が添えられている。


「ハチキクン、ガンバレヨ」


 医学生が握手を求めてきた。八木青年も、それに答えた。体格のいいスポーツマンでもある彼の手は、大聞く力強かった。

 彼はこの後、別の仕事の関係でこれから東京に出向くという。彼によれば、東京で数日間仕事をした後名古屋でもう一仕事し、15日頃に広島に戻るとのこと。広島を本拠地として日本全国をまたにかけて仕事しているというが、彼に言わせれば、アメリカにいた頃のことを思えばそれほどでもない、とのこと。

 今の仕事は、ほとんど飛行機に乗る必要はない。飛行機に乗るのはアメリカに里帰りするときだけで、日本での仕事はその移動のほとんどが新幹線か夜行の寝台車の移動だけで済むから助かるとのこと。


「シンカンセンサマサマデスネ」


 呼ばれたタクシーに乗って、年長の医学生は広島駅へと向かっていった。

 懇親会にはまだ時間がある。石村教授は八木青年とともに路面電車に乗ってホテルに戻った。

 いったんシャワーを浴びて着替え、持ち物をまとめなおして、彼らは約束の時間に会場となった居酒屋に出向いた。来賓扱である彼らの過ごすホテルの近くの居酒屋を、気を利かせた受講生らが確保してくれていた。


 この街での生活も、あと1日。泣いても笑っても、あと1日である。

 

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