存在しないひと

及川盛男

本編

零、

 我らが偉大なる係長閣下より下賜されたクソタスクにより唐突に到来した三時間半の残業のおかげさまで、コロナが明け久しぶりに開かれている若手交流会には大遅刻した。会社を出てすぐタクシーを拾い一〇分ほどで、二次会会場である東銀座の中華料理屋に到着する。昔のセブンイレブンみたいな重い押し戸を、体重をかけて押し込んだ途端、隙間から喧騒と油と酒の匂いがバックドラフトし身を灼いた。


「お、一ノ瀬来た! おい!」


 ガハガハゲラゲラと無秩序な音が広がる中、同期入社の松橋がこちらに手を振ってくれた。それに合掌し首を下げ応じると、テーブル単位でそれぞれに散って後輩世代と談笑していた他の同期たちもこちらに歓迎の笑みを向けてくれて、ようやくその一団の中に入っていく口実を得ることができた。入社した当初はみなリクルートスーツに着られていた顔ぶれたちが、Tシャツにジャケットであるとかパステルカラーのブラウスであるとかを自然に着こなしていることに時間の流れを感じた。近づいてきた店員に「あ、生一つお願いします」と伝えてから、四つの席に三人しか座っていないテーブルを見つけた。そこにはこれまた同期である桜場さんが座っていて、ベージュのパンツスーツを纏っている彼女に「おー一ノ瀬、何遅れてんだよ」と脇腹を突かれる。大学までテニスをやっていた彼女の腕のスナップは強烈で、薬指に装備されている光るリングが更にその威力を三〇パーセント増した。


「マジすみません、土壇場でトラブルに巻き込まれて……あー、七年目の一ノ瀬啓です、今は事業開発二部所属です。改めてよろしくお願いします」


 そうやって桜場さんと二人の後輩男女に頭を下げながら着座した。座り心地はペラペラで脚はグラグラだった。正面の桜場さんに「何言ってんの、二人とも三年前に飲んでるじゃん。新橋でやった歓迎会で」と言われ肝を冷やしたが、横に座る肩幅のがっしりした後輩男が形のいい白い歯を見せながら「一ノ瀬さん俺のこと覚えてないんですか?」と大げさに肩を竦めるので、これは行けると踏んで「マジごめん、全く覚えてない」と言うと「ひっでー!」とウケた。


「え、じゃあこの子は?」


 そう桜場さんが指差した斜向かいの子は三個下の西原さんで、雑誌の読者モデルをやっている美女として入社当初から人気だった。同期の男だけの飲み会となれば、彼女と同じ事業本部で働いている奴が西原さんとランチに行ったことを自慢し周囲が怨嗟の声を上げるのがいつものことだった。だから、毛先までキューティクル満載の髪を揺らし口紅のような色のぴたりとしたニットで上半身のラインを強調している彼女のきゅるんとした瞳を見据えて、


「同じく覚えてないです、マージですみません……」


 と言うと、先ほどよりも少し悲鳴の成分濃度が高い笑い声が上がった。「マジかよ!」と男後輩が叫び、桜場さんが、「ね、言ったでしょ。一ノ瀬はそういうの気にしないから! こういうところがいいんだよね〜」とレモンサワーのジョッキを向けてきたから、隣の席に届いていた生ジョッキに手を伸ばして乾杯し、ぐいと呷って、


「言ったって、何話してたんですか」


「え? 一ノ瀬は面白い奴だよって話。普通じゃないっていうか、変っていうか」


 こういう褒め方をされるとき、人は一番試される。天然養殖問題だ。


「そんなこと言ってくれるのは桜場さんくらいですよ」


「いいや違うね、みぃんな言うよ。ねえ」


 桜場さんの言葉に横の男後輩は「なんか松橋さんも言ってました」と頷くし、西原さんは苦笑するものの否定はしなかった。


「なんかさ、悪い意味じゃなくシャイなんだよね。考え方も今風だし。それこそ松橋がさ、『俺たちが誰可愛いだああだこうだって話すときも、一ノ瀬は絶対他の女の容姿についてあーだこうだ言ったりしない』、って。いい意味で枯れてるっていうか。今も私に対して敬語だし」


 シャイ、今風、枯れてる。一体誰のことを話しているのか全く分からなかったが、俺は反論をしないで曖昧な微笑みを作った。はええ、と男後輩が度数たっぷりの吐息を噴出して、


「あ、そしたら。今年入社の榊くんとかとは気が合うんじゃないですか」


 あー、と桜場さんと西原さんが声を上げた。俺も流石に覚えていないと嘘は吐けなかった。半年前の入社式、新入社員代表として社長の前で榊は、自身がいわゆるノンバイナリーのアセクシュアリストであること、それに関連した社会活動を行っていたこと、そのことをエントリーシートに書き会社にカミングアウトするかどうか葛藤したこと、その末に書くことを決意したこと、結果としてそうした概念を受け入れてくれた会社への感謝、同じような立場にある声を上げられる人、上げられない人、上げないことを選んだ人、立場は違えども同じような構造的な苦しみを抱えている人をそれぞれ尊重できるような仕事をしたいことを宣言していた。創業七十五周年の節目を見据え、外部のライターにまで頼んで「SDGs」や「ジェンダーギャップ」などの言葉に富む周到に用意された社長の挨拶の言葉はそれに完全に食われ、代わりに榊の原稿文がいくつかの新聞やネットニュースで転載されたりした。社内サイトにアップされた動画では、社長の顔を映すために客席に置かれたカメラが榊の後ろ姿のみを映していた。その中で社長は呆然と榊の顔を眺め続け、その間抜け面はしばらく語り草となった。挨拶が終わり榊は壇上から降りたが、480pの低画質でストリーミングされた映像では顔は潰れてよく見えなかった。入社式実施に当たっての諸々の裏方事務処理に携わった俺としても印象深いイベントだった。


「いいじゃん一ノ瀬。そういうのも関心あるんじゃないの。そういう権利とか社会とか、大きなことについて色々考えるのが好きだみたいなこと、昔言ってたよね」


「どれだけ前のこと覚えてるんですか」


 入社して直ぐの研修の昼休み、社食でたまたま桜場さんと二人になったときに話したことを覚えてくれていた。そのことにもう発展的な意味や可能性がないことは分かっていて、彼女の人生に俺はもう存在しないも一緒なのに、それでも喜んでいる俺の心があった。西原さんが「あれ、榊くん居ないですね」と周囲を見渡すと、男後輩が「一次会で帰っちゃったみたいっす」と答えて、「あー」と嘆息が充満した。


「めちゃくちゃオーラのある人でしたよね。現場で有名な役者さんとかに会ったことあるんですけど、それに匹敵してました」


 西原さんの言葉について「そうなんだ?」と確かめると、桜場さんは「ミステリアスな圧倒的顔面強者って感じでビビった! 思わず写真撮りそうになっちゃったもん」と頷く一方で、後輩男は首を傾げた。


「言われたらそんな気もしますけど、あんまおぼえてないっすね」


 桜場さんが「えー? 強がんなって」と男後輩の肩をつつくが、「いやマジなんですよ、確かに見たときは驚いた気もしますけど、もう思い出せないです」と彼は頭を掻いた。ツーブロックに刈り上げされた後頭部がじょりじょりと音を立てる。客観的には関心を非常に唆るエピソードであるはずなのに、しかし俺はその榊と会いたい、話したいとは全く思えなかった。薄っぺらい張りぼてが存立するためには、本物が居ない時間帯をコソコソと動き回る他ない。願わくば榊とは死ぬまで会いたくない。話せば、きっと俺の浅薄さの全てがそこで暴かれてしまうに違いない。それを自分から表明することはしたくないが、しかし俺が榊に会いたがっているというような誤解を残したままにするのは意味もないので、流石にそろそろ一つは真実を開示することにした。


「けど、俺は普通に性欲もありますし、好きな女性も居ましたよ」


「え? そうなの? 誰誰?」


「内緒です」


 皆の不満が表出する前に、俺は表情筋をこわばらせたままに低い唸るような声で「うえーい」とジョッキを持ち上げる。悲しいかな桜場さん含め他の三人も反射的に各々が飲料を手に持ち、再び乾杯して無理やり中身を飲み干して、息を吐いたもう次の瞬間には別の話題に移っていた。俺の分のつまみはなかったが、桜場さんの笑顔と結婚指輪を見ているだけでビールでも紹興酒でもテキーラでもイェガーマイスターでも、なんでもいくらでも飲めるに違いない。暫くして、ようやく来た店員につまみをいくつかと、「それとすみません、お水もらえますか」と頼むと西原さんが「お水って言い方、かわいい」と笑った。一瞬俺は何のことか分からず、少なくとも笑わせたのではなく笑われたことは理解できて急に顔が熱くなり、意図的かはさて置き結果的に先ほどの意趣返しを食らったことに耐えかね、「いや俺だって水のこと、水って呼び捨てることくらいあるからね」と言い返した。すると西原さんに加えて桜場さんも男後輩も笑った。俺は、もうこの三人が俺の今後の人生には存在しなくなることを予感しながら、火照りを冷ますために水をイッキした。味はあまりにも水道水だった。








一、

 飲み会が終わり、秋葉原で乗り込んだ下りの総武線は比較的空いていた。つまり、立っていても隣の人に肩が当たらないで済んだ。ぬるりと、経済的合理性の名の下に親会社から切り離され賃金もプライドも奪われた清掃会社の事務的な拭き取りでは除去仕切れずに長年蓄積しているのであろう秘伝の労働者の皮脂で滑るつり革に掴まりながらツイッターを見る。その気持ち悪さを味わう内に酔いが醒めていく。昨晩pixivに投稿した今人気のアニメの二次創作寝取られ小説の告知ツイートは二千三百リツイート、インプレッション数は十万を数え、ここ最近でも頭一つ抜けた好評を博していた。


『脳が完全に破壊されました』


『なんで……どうして……』


『今回のも最高 次は托卵モノをお願いします!』


 リプライはフォロワーからの好意的なものが中心だが、これだけバズれば当然コミュニティーの外にも波及していく。ちらほらと引用リツイートで原作のファンであろう人々から『またこいつの餌食にされたよ、最悪すぎる』『アニメ化されたらすぐこれ ゴミイナゴにはプライドは五分もないってか? マジで死ねよ』などという反応も出てきていて、ダイレクトメッセージには直接に何の工夫もなく『撃ち殺すぞ』と届いていた。車両が大きく揺れ、サーファーのように脚をバネにして揺れを吸収する。脅迫に対して何も感じないのかと言えばそんなことはなく心の波はそれなりにざわついていた。しかしそれ以上に、自分が書きたいものを心のゆくまま書いて、それをこんなにも周囲が評価してくれているという状況への享楽のほうが勝り、全くそれを辞めるつもりも殺されるつもりも毛頭なかった。「この電車は中央・総武線各駅停車、津田沼行きです」という今や親の声より聞き馴染んだ声色のアナウンスに、ひとつ前の駅で乗り込んできた汗だくの中年が舌打ちをした。今更車両が空いている理由に納得する。彼のワイシャツのウエストのあたりはヒタヒタに濡れ、肌着を貫通し背中のほくろやニキビ、ケロイド状の小さな火傷の痕までが透けて見えた。多くの千葉県民が疲れ果てうとうとする中、道半ばの津田沼で無理やり叩き起こされるときにJR東日本に抱く憎悪、あるいは江戸川を超える前に解放感に満ちた顔で颯爽と降りていく東京都民に向ける嫉妬に比べれば、俺の浴びる殺意など大したものではない。


 図らずして命を賭して書いている格好になるそれはしかし、著作者人格権のうち同一性保持権を著しく侵害し、一般には反社会的な行為とされている題材を取り扱ったものだった。すなわち、アニメや漫画などの女性キャラクターで、主人公に好意を向けているないしは主人公のパートナーとなっているような登場人物が、主人公以外の別の男に、性的な快楽によって奪われる、という内容である。女性が他の男に言い寄られ、言葉巧みに誘導され、性技やその肉体によって絆され、堕とされ、染められていき、主人公への裏切りの言葉を吐き、主人公が涙を流して発狂するという流れの一万から三万文字程度の物語。夜十時から深夜一時までの三時間程度、そうした文物を書きなぐり、田井中哲夫というアカウントで投稿することが社会人になって以来の誰にも明かしていない趣味だった。


 体感のない知識に基づいて書かれる、存在しない女が、所有してもいない手元から奪われる物語。その下卑な内容が盗み見られないように輝度をできる限り下げた中華スマホのディスプレイを手に、次回作の構想を巡らせる。唾を飲んで、その音が存外大きく響いたのに肝を冷やして周囲を見た。しかし誰も彼もがスマートフォンを睨み耳にイヤホンを嵌め、そもそも俺の存在にすら気付いている様子はなく、自分もそれまで周囲の存在を忘れていたことを棚に上げて寂しさと恥ずかしさを抱えた。だがこれ以上構想を深めれば電車内で勃起してしまうことは請け合いで、集中がそこで途切れたのは好都合でもあった。そのとき、


「次は本八幡、本八幡。お出口は右側です。都営地下鉄新宿線はお乗り換えです」


という放送がイヤホン越しに聞こえた。乗り過ごしていた。




 彼女も妻も居たことがないのに寝取られモノの小説を書くことは、金も知識もないのに借金をして事業を始めるのによく似ている。一応それでも会社は設立できるのと同じように、愛する人間を奪われる体験を実際にしたことがなくとも書くことはできる。成功するかは別として。


 存在しないものを弄ぶ仕事は虚業で価値がない、なんていう随分攻撃的なことを、高専卒で製鉄所勤務の父親がかつてワールドビジネスサテライトを見ながら毒づいていた。大学三年の頃、ゲーム会社への就職を志望してると夕飯時に話したその後だった。父親が実業と見なし実在性を見出している鉄鋼製品や自動車の価値だって所詮人心が左右する虚ろなものだ。ガソリン車から電気自動車へと世がシフトする中で日本の自動車メーカーの時価総額が年々下がっていることがその証左だった。父親がつついている和歌山産本マグロの刺身だって、彼のストレス発散材料を提供するテレビ局だって、いつ価値がなくなるか分からない。今はそう思うし言えるが、当時の俺は返す言葉を何一つ持たず、溜息一つ零して自室に戻った。その後ベッドの上で例の涙の前兆、つまり眼と鼻の根っこに渦巻くぎゅっとした湿り気を感じて、それを必死に抑え込んだ。高校受験、大学受験、就活と続いた父からの些細な抑圧の度に、俺はそうやって逃げ隠れた。それでやり過せる程度のことなのだから、それ以上の解決を求めはしなかった。就活と共に逃げるように家を出て、その人に打ち明けるにも足らぬ微小の苦難は、すん、と、何のカタルシスもなく終わった。


 異性の肉体や性愛へ現在俺が期待している価値ですら、人類開闢以来随分長いことは純金並みに絶対的な盤石さを保っていたわけだが、ここ数十年の先進国文明では下落トレンドにある。他者を傷付けてしまうような愛は愛として認められなくなりつつある世界で、ヘテロな性愛、非対称性を前提とし絶対に男が女を肉体的に加害せざるを得ない愛の市況価格は今や人類史上の最低値を指している。俺はそんな性愛を人生のポートフォリオに今のところ組み込めていないが、状況を鑑みればそんなものを所有しなくてよかったと胸を撫でおろし腕組みし我が賢しさを自賛するべき側に居る。それでも平成の中頃にドラマやアニメあるいは周囲の喧騒によって植え付けられた価値観のせいか、俺はそれに憧れ続けている。保有していない銘柄の価値が下がることが明白なとき、合理に基づけば俺は性愛への憧れを空売りするべきだ。もしかすると俺が寝取られモノを書いているのも、そういうロジックに基づく行動なのかもしれない。落ち目の性愛という概念を、永遠に添い遂げようと誓う愛の言葉を、性欲によって、破壊的で圧倒的な男根によって簡単に転覆される下らないものだと、その葡萄の味を知りもしないのに愚弄して、確実な精神的勝利を得るという寸法だ。長年の自然淘汰により洗練された俺の本能はきっと、ぽっと出の貧弱な俺の理性なんかよりもよっぽどロジカルなので、俺にそのような行動を仕向けているのだとしても不思議ではない。


 知らんけど。


 市川駅から徒歩十三分の九畳1Kの部屋に帰り、空腹に耐えかねスーツを着たままコンビニの弁当を平らげ、全ての服と下着を床に脱ぎ捨て浴室に入ると、シャワーもそこそこに追い焚きした二日目の湯に飛び込んだ。豆腐のパックのような縦幅の狭い湯舟に体育座りで浸かる格好だが、それでも体を包む温熱によりアルコールも抜けていくような気がして、辛うじて人心地がついた後に、スマホを手にネットの巡回をする。YouTubeの動画を幾つか見て、ツイッターのタイムラインを暫く眺め、お気に入りのイラストレーター「あまてら」が新作を投稿しているのを見るや否やいいねとリツイートをして、同人販売サイトに飛んでいった。サイトの売上上位には多くの寝取られものが並んでいる。ジャンル別のランキングでは、寝取られモノが二十三カ月連続で一位、今や世界のポルノインダストリーは日本発のジャンル「Netorare」に興味津々だとか。気に入った絵柄や作風の商品にバシバシいいねを押していく。するとおすすめ欄や「この商品を買った人はこんな商品も買っています」欄に、どんどん未知の寝取られものが増えていく。今日も新たな寝取られものがこの世に生まれ落ちていた。


「病んでるなこの国」


 そう口に出して、浴室特有のリバーブでも誤魔化せないほどのあまりの軽薄さ、中身のなさに喉の裏がぺとりと渇くが、今の俺のフォロワー数であれば、そうツイートするだけですぐに数百いいねが付く。そんな言葉をあえてこの水垢と赤カビが端々に残る風呂場で一人吐き捨てることが、なんとなく贅沢に思えた。


 清潔となった身体をすぐそのままベッドに横たえ、脇に転がるくしゃくしゃになったスーツがしつこく視界に映り込むのを無視し、風呂で購入した寝取られ物の新作同人イラスト集をスマホで表示して自涜する。風呂に入る前にするのが普通だろうが、俺の場合は仕事のあと、自慰をするための体力回復が必要で、そのインターバルの役目を風呂は果たしてくれている。射精を済ますとティッシュをくるくると纏めて捨て、


『あまてら先生の作品は今回も神であった 労働の疲れを癒やすものは睡眠でも酒でもサウナでもなく寝取られ』


 とツイートする。先ほどいいねしたもの以外のあまてらの投稿もリツイートし、彼女がいいねしていた同業の新作告知やイラストを俺もどんどんいいねしていく。そうすれば明日の俺のタイムラインは、より俺の好みに合った投稿に満ちたものとなり、明日の自慰はより円滑なものとなるだろう。一通りの仕込みを終え、再びスマートフォンでYouTubeの動画を幾つか見て、それから体を起こしてパソコンデスクに向き直り、グラフィックボードが五世代分くらい古いゲーミングパソコンで今日の執筆を開始した。


 一時間半ほどの没頭がふと途切れた。書きかけの文章がそこにあるが、続きが継げない。画面に映るものが文章や文字ではなく単なるピクセルの集合に見えてくる。こういうときはさっぱり諦めることにしている。ストレス発散の趣味で頭を悩ませることほど本末転倒なことはない。洗面台に向かいながらツイッターの通知を確認する。再びダイレクトメッセージが飛んでくる。また殺害予告だろうか。歯を磨きながら渋々中身を覗いてみて、歯磨き粉を咽た。メッセージの送り主はあまてらだった。


『ご感想本当にありがとうございます! わたし田井中さんの作品、めちゃくちゃ好きです! いいねはせずブックマークばかりですけれど、いつもしっかり読んでます』


 返信の文面を迷っている間に、気に入っているという俺の作の名とその感想が続いて来る。相手のプロフィールを確認しそれが本人からの連絡に相違ないことを確かめる。震える脳味噌と指先で暫く考えた末、


『ありがとうございます。俺も先生の作品にはいつも大変お世話になっております。今後とも何卒どうぞよろしくお願い申し上げます』


 数度見直した上で意を決し送ってみると、数分後、彼女は更にメッセージを連ねてくる。


『わたし、田井中さんの小説が本当に好きなんです。イナゴとかじゃなくて、きちんと一つ一つの原作を丁寧に解釈して、その上で寝取られとして描いているというか。単なる二次創作じゃなくて、もう良質な、一個の作品として成立してます!』


 歯ブラシを水ですすぎながら、粘度たっぷりの甘い泡を吐き出した。よだれの柱が洗面台に繋がり、納豆の糸を断つように指で切り裂く。これを素直に受け止め喜べるほど無知で純粋ではなかった。二次創作と一次創作とでは天と地ほどの違いがある。まだ書き始めたばかりの頃、自作が好評だったことに図に乗って、自分のオリジナルの小説を書いて投稿してみたことがあった。箸にも棒にも掛からなかった。やがて自分には新たに魅力ある人間を作る力がないことに気付いた。既に確立された魅力的なキャラクターと文脈を間借りして、辛うじて書く文章に生気を宿らせることが出来た。ましてや、その言葉を差し向けてきたあまてらはオリジナルの同人や漫画を幾つか発表していて、一時期はマンガアプリ上で連載すら持っていたことがある、正真正銘の一次創作の能力を有する作家だった。浮つく気持ちを抑えるためにあえて最後は適当な返事をしてその夜は眠りに就いたので、その後の、


『田井中先生の小説を原作に、マンガを描いてみたいんです。今度、直接ご相談させてくれませんか』


 というメッセージに気付いたのは次の日の朝だった。




 脳味噌を一ミリたりとも動かせず惰性のまま等速直線運動して迎えた金曜日の晩、湯船に浸かると自分の腹のだらしなさが気になり、鏡を見れば肌の艶の悪さが情けなく、あと二週間でもあればこれら不摂生の物証を隠滅することも出来たろうにと悔やんだ。それでも明日、土曜日の朝に設定された逢瀬に思いを馳せながらツイッターで「あまてら」と検索する。数多と出てくる彼女のイラストへの称賛の中に、毛色の異なる投稿が幾つか目に入る。


『あまてら先生と会った夢見た・・・


 最近好きな気持ちが止まらない』


『この前のあまたやのお絵かき配信マジで最高だった。あんな声もかわいくて絵も上手くてエロくてって無敵すぎるだろ!』


『あまたやが可愛すぎて好きすぎてもうムリではある』


 あまてらのプロフィール欄に行き、彼女の投稿を見る。殆どがイラストだったが、たまに外出先で撮ったのであろうスイーツの写真が上がっている。タップしてその写真を開くと、紫と赤のグラデーションに塗られた爪と、ホワイトチョコレートのようにしっとりとした指の第一関節までが端に写っている。リプライには「おいしそう!」とか「どこのお店ですか?」という反応ばかりだが、これを見た男たちが皆その指を、あまてらがこの世界に確かに実在する証拠と見なし、握りしめるように凝視していることはまず間違いない。彼女のイラスト制作配信の動画を見る。他ならぬ俺がそうなのだから。話自体はどのファストフードが美味しいとか声優がどうとかという取るに足らない内容だが、その声は秋口の朝に嗅ぐ金木犀の香りのように中枢神経に染み渡った。作り物っぽい、しかしどこか聞き覚えのあるような懐かしさもある、そんな声。妄想は膨らむ。一体彼女はどんな容姿をしているのだろう。声と手の指のみで想像が際限なく広かる。事物を語り描くためには、その二つさえあればおおよそ事足りる。


 翌朝、目が覚めるとあまてらの同人誌で一度オナニーをしてから、朝風呂に入って髭を剃り、ワックスで髪を整えた。




 待ち合わせ場所に指定されたJR秋葉原駅の昭和通り口改札前で、あまてらに自分の格好と待っている場所を連絡し、ヨドバシカメラの店内BGMから耳を塞ぐようにソニーの世界最高性能のワイヤレスイヤホンのノイキャンを点けた。オタクの波に時折混ざる若いカップルを見付ける度に一組一組ずつ丁寧に丹精込めて呪って時間を潰す。秋分も過ぎ日差しを避ければ清涼な風を浴びることが出来る時節となったのだが、この辺りだけはどんな季節も狂ったように人通りが多く、常に蒸散した汗が狭い通路に充満し、むわりとした熱気を帯びている。暫らくして通知音。


『着きました。多分、田井中さんの真後ろに今立ってます』


 ホラー小説か、と凡庸に内心で突っ込みながら振り向き、息を呑んだ。痩身の女が居た。目が合うと彼女は照れの混じったような微笑みを浮かべるが、照れるべきはどう考えても俺の側だった。顔立ちはアプリで加工をしたように人工的なまでに端正で、手足はスマホの縦長写真の時代に合わせて進化したのではないかと思わせるほどに細長かった。黒いボブの髪はプラスチック成形のパーツを思わせる、一糸の乱れもなく艶やかな輝きを放っていた。彼女が自身の顔を世に明かさない理由は、判明と同時に不明になった。公開することのメリットとデメリットはおそらく俺には到底想像不能なほどに爆発的な量が存在しており、しかしその全ての総和を計算した結果として彼女は後悔しない決断をしたのだろう、それくらいが俺の思考力が迫れる限界であった。しばらく自分の言葉を出せなかった。彼女の姿を見れば見るほど、自分の中の混乱をそのまま言語化して取り出すことは不可能に思えた。だから代わりに、


「じゃあ、何処かカフェにでも入りましょうか」


 と、借り物の言葉を口に出した。自分のものではないそれが、恐ろしいほどするりと、何の違和感もなくその場に収まった。彼女が他人の言葉に微笑み、頷いてくれたのに胸を撫でおろした。そして彼女が口を動かすのを見て、自分がイヤホンを着けっぱなしであることに気付いた。




 あまてらがホットのカフェモカを、俺がブレンドアイスのトールを手に、柔らかなソファに挟まれた二人席に座った。丸い小さなテーブル越しに向かい合う。朝の斜光が差し込み、彼女の細い鼻先がきらめいて見えた。彼女を構成するあらゆるパーツ、感覚器官、臓器、骨格、細胞、分子、原子、素粒子の配置配列が、全て可能な選択肢の中で最も適切な組み合わせで執行されているかのように思えた。生命が地球上に誕生するというような奇跡すら既に起きた後であるこの世界においては、たかだか一人間の姿形ガチャが九蓮宝燈になる程度の奇跡はむしろ起こってくれなきゃ困るくらいの話なのかもしれないが、しかしそれが自分の前にこうして当然のような顔をして現れてくるとなると随分話が変わってくる。


 あまてらは膝の上で組んでいた手を解いて、カップを手に取る。そのまま顔に近づけ、すうっと香りを吸い、小さくうなずいてからごくりと飲む。白いスポーティーなアウターを脱いだ彼女はその下に黒のワンショルダー、色気を消しゴムマジックで除去するとつまり肩ひもと袖が片方にしかないタンクトップを着ていて、その右肩から胸の端を通過し脇ににかけての肌が大胆に露出していた。女性キャラクターの服装を描写するためにファッション誌などで調べたことがあったので「それ、ワンショルダーってやつですよね」と言いかけたが、俺という存在がそのような単語を知っていること自体が不自然に思えて止めた。「袈裟切りにされたみたいですね」と言って性欲を持って見ていないアピールをすることも考えたが、そんなエクスキューズのためにその恰好を侮辱するような手も取りえなかった。右肩に狙い澄ましたようにぽつりとアピールしているほくろをチラリと睨みながら、結局俺もコーヒーを一口含む。チェーンの味だ。


「それにしても、こんな朝早い時間になって申し訳ないです」


 土曜日の朝八時という指定に面食らったのは確かで、すぐに二、三の皮肉めいた返しを思いついていたがそれをコーヒーごと飲み込んだ。


「今週の土日、予定でみっちり埋まってしまっていて……一番直近で時間が取れたのが、この時間しかなかったんです。この後も十時半から予定があって」


「全然そんなの。お仕事の絡みですか?」


「そんな感じです。打ち合わせとか打ち合わせとか」


 親指、人差し指と折られていく。あまてらは決して、その所作を無意味に扇情的にこなしはしなかった。しかしその動きの一つ一つに何か意味があるのではないかと見る者に期待させた。


「打ち合わせとか……あと、打ち合わせとか」


 薬指を折るのに合わせて、俺は鼻音で笑った。


「先生は、アキバにはよく?」


 なんとなしに先生と呼んでしまったが、彼女のペンネームを詳らかにすることのリスクを踏まえると妙な話でもないだろう。あまてらは俺の呼び方には突っ込まずに、


「毎週のように来てますね。それこそお仕事のお相手がこの辺りに拠点置いていることが多いので。それに色々、最新のアニメとかマンガとかのトレンドも分かるし、機材とか見るのも好きなので」


「分かります。何だかんだ、ネットじゃ得られないものがありますよね、この街には」


 コーヒーで口を潤す。手に結露の水滴が沢山付いたのを、シャツの裾でこっそり拭きながら、視線は変えずにピントだけ背景にずらす。斜め前の方向に座っている、指ぬきグローブを付けてiPadを操作している男が、ちらりちらりとあまてらの様子をうかがっているのが見えた。しかし彼女の正体に気付いているというよりは、単に美しいものを目に焼き付けたいという衝動を制御出来ていないようであった。


「田井中さんもよく来ますか?」


「毎回ラジ館と、あとメロンブックスには足を運んでます。なんかもう散歩ルートみたいになってるんですよね。あと、ビックカメラ前の交差点って最近中華ソシャゲの広告が凄いじゃないですか。ああいうの見て、『ああ、秋葉原居るなあ俺』って……」


「浸ってるんですか」


「そう、浸ってる」


 その言葉にあまてらは「めっちゃ分かります」と口角を上げる。俺は彼女の表面変化を見逃すまいと、彼女の口元から頬にかけてを睨んだ。人工の美は完璧な均整を有していればいるほどに、わずかな変化で容易に破綻する。その口の筋肉と皮膚が不自然に歪み、テクスチャが破れる瞬間を俺は目撃しなくてはならなかった。しかし彼女の表皮はあっさりと柔軟に変形し、また新たな完璧、すなわち自然の美がそこに現れただけだった。


「わたしはコトブキヤとらしんばんとあみあみ行って、フィギュアはほぼ欠かさず詣でに行ってます」


「いいですね、詣で。確かに神仏みたいなもんだ」


 俺の同意に彼女は「ですよね?」と微笑み、


「ゲマズとメイトもいつも寄ってるかな……あと、ヨドバシ側に大きな本屋さんがあるの、ご存じですか?」


「書泉?」


「それです!」


 あまてらは立ち上がりそうな勢いで頷いた。


「あそこは良いね……ひたすらオタクっぽい文物が売ってて」


「ですよね! 画集とかはちょっと少ないんですけれど、資料となるものは鬼のように大量に並んでるし、アニメイトとかに比べると人少なめだし。凄く重宝してます」


「あそこ、展望デッキがあるの知ってます?」


「え、そうなんですか? 展望台めっちゃ好きなんですよ、スカイツリーとか、あと渋谷のスクランブルスクエアとか。渋谷スカイは年パス持ってます」


 どちらも知らない。だが、恐らくあまり一人で行く人は多くない場所だろう。


「ガチ勢ですね。書泉のはちょっと前まではコロナで封鎖されてましたけど、今は確か再開してて。流石に高層ビルほどじゃないですけれど、周りよりは少し高いビルだから、それなりに良い眺めなんです。首都高を見下ろすような感じで。特に夕方は街並みがいい感じにオレンジ色に染まって」


 かつて展望デッキから眺めた風景を思い起こす。そこから見渡されるのは実際、秋葉原というよりは浅草橋側の風景ではあるのだが、住所上はそちらのほうが台東区秋葉原なのだった。単調なコピペの繰り返しに見える雑居ビル群が、そのときだけ夕焼けの陰影によって深い立体感を得る。普段の世界が物足りなく感じるほどに。むしろ夕焼けに包まれたあの光景こそが、この世界に隠れたもう一つの次元が顕わになった、真にあるべき世界の姿なのではないかとすら思えた。


「夕焼けお好きですよね、田井中さんって」


 ふとあまてらの言葉が、予備動作なく心中を撃ち抜いてきた。


「わたしも夕焼け、好きなんです。朝でも昼でもない、かといってその中間とも違う、別の世界が見えるじゃないですか。展望台が好きなのも、そこで夕焼けに染まる街を見るのが好きだから」


 俺も一緒、とはしゃいだ声を上げそうになり、堪えた。しかしぐっと肩が強張った反応であまてらには筒抜けだったようで、


「田井中さんの小説を読んで、一緒だ、って思ったんですよね。夕焼け空の描写が凄く繊細じゃないですか。そこに、そういう世界の見え方が包み込まれているようで」


「そんな、そこまでは届いてないと思うけれど」


 謙遜じゃなく、本当に自信がなかった。自分の意図の範囲外を褒められるのは苦手だった。


「わたし、好きな一節があるんです。半年ぐらい前の作品で」


 彼女はiPhoneを取り出して何度かフリックとタップをして、


「『古いビルが嫌いだった。西陽を避けるように小さく並んだ窓が浅ましく、エイの裏側のようにのっぺりと気色が悪いのが許せなかった。だがある時、それは夕焼けの色に染まる壁を、少しでも広くこの世界にあらしめるための工夫なのではないかと思った。金属のフレームも、雑多な建物の中身を透かすガラスも全て取っ払った、ただオレンジに染まるためだけの巨大なキャンバスなのだとしたら、それはこれ以上ないほどに豪奢で偉大な試みであると俺は理解できた』……って。あれは揺さぶられました。ビルの壁をそんな風に思ったことがなくて、でもそれを読んだだけで、ちゃんと一瞬嫌いになったあと、好きになったんです」


 拷問だった。ポルノ小説の中にふと漏れ出した、性欲よりも浅ましい自分の文筆への憧れを、彼女は虫歯を探し当てる歯科医のような有難迷惑さで的確に指し示してくれやがったのだ。それでも中学生のころに自分の日記やラブレターを衆目の前で読み上げられた時のような恥ずかしさがなかったのだけは救いだった。それなりに自分そのものからは切り離せたものを書けていたのではないか、そう思えた。崩れそうになった表情を立て直し、意趣返しにと、ノースフェイスのバックパックをゴソゴソと漁って、


「僕も、先生の作品はいつも発売日に買ってます」


 と、チラリと口から表紙を覗かせると、あまてらは芯のない悲鳴を上げた。


「えっ、ちょっ! なんで持ってくるんですか!」


 そう言いながら彼女も薄いリュックサックの中を探る。ポケットの所に「DIOR」と書かれた小ぶりな金属プレートがついているのを見て、思わず彼女のその毛羽立ちのないワンショルダーや、耳にいくつか光る小さなピアスなどにも彼女の生活水準や嗜好を窺わせるようなブランド名が刻まれていないか探したが、少なくとも上半身にはそれ以上のヒントはなかった。その中から薄い本が何冊か出てきた。俺が持ってきたものと同じ表紙をしていた。


「せっかく田井中さんに、自分のポートフォリオの紹介がてらプレゼントしようと思ってたのに」


「そんなことされなくても、先生の仕事っぷりはかねがね……そうだ、サインをお願いしてもいいですか」


 そう言って更に胸ポケットからペンを取り出すと、あまてらはラムネのように吹き出した。


「ええっ! 準備、良!」


 暫く肩を揺らしてからあまてらは、


「いいですよ、ぜひ」


 と言ってペンと同人誌を手に取った。その細い指の先に、小さく煌めく赤い爪が見えた。


「すみません、会ったそばから。でも忘れない内に、と思って」


「いいえ。嬉しいですよ、どんなときでも誰かのために絵を描けるっていうのは」


 そう応え、あまてらは何の迷いもなく、さっ、さっと表紙裏の余白に線を伸ばし始めた。指は加工なしに白くなめらかでチョコではなくホワイトアスパラガスに例えたい気持ちにかられたが、もっと美味しいもので例えられないか探しながらそのペン先の有機的な動きを追いかけていると、


「田井中さんは、どうして寝取られ好きになったんですか」


 北は末広町、南は岩本町で囲まれたこの一帯は、サブカルチャーの治外法権が支配する永遠の子供部屋で、体面などいったものとは無縁だ。まるで仕事や家族の話をするようなテンションで、美少女キャラクターの誰と誰のどちらが良いかなどということを、この時代においても大声で話すことができる。


「つまんない話ですけど。おかずを探している内に、どんどん刺激が強いものを求めるようになっていったんです。はじめは普通のエロ漫画で抜いていたんだけれど、段々麻痺してきて、フェチズムが色濃いものや、刺激的な描写の多いものに傾倒していって。淫乱ビッチものとか快楽堕ちものとか、そういうのを経由して寝取られに至った感じです」


 その自己開示は医師に自分の症状を相談してみせるようなもので、自分のその浅はかな面など、幾つもの成人向け同人誌を出版済みの彼女の知っている世界の中に、とっくに存在しているだろうという見立てにも頼っていた。


「へええ。わたしと違うな」


 彼女のペンが髪の毛を描く。一本一本の線が加わる度に、それ以上の情報がそこに展開されているように見えた。白と黒だけで豊かに世界を描けるのは、零と一であらゆるものを表現できるデジタルデータの在り方に似ている。秋葉原を愛しながら電子ポルノ市場で覇権を握る彼女の世界の極限では、アナログとデジタルは何のトレードオフもなく一致しているのかもしれない。


「わたしは最初、純愛ものから入っていったんです。そこからもっと強烈な愛情表現を求めて行って。略奪愛とか、不倫とか、三角関係みたいなところに嵌っていって、それで行き着くところまで行った結果、寝取られになりました。こんな愛の形があって良いんだって、革命でした。出会ったとき感動しましたし、今もし続けてます。でも、ぜんぜん違うところを経由したのにふたりともゴールは同じって」


 なんだか、運命ですね。艷とも昂りともつかぬ熱を込めて彼女はそう言い、顔を上げた。寝取られが愛? 変なの。この人変だなあ。むしろその真逆だろう、率直にそう思った。愛を否定し、女はペニス一発で簡単に理性も関係性も破壊し裏切る存在だという、そんな女性蔑視の塊でしかないはずだ。しかし「そうだね」と返すほかなかった。彼女は絵を褒められた小学生のように嬉しそうに頷いて、作業に戻った。


「出来た!」


 今暫くの集中時間の後に、彼女が見せてくれた絵は紛うことなきあまてらの絵柄で、その時ようやく、この美しく愛くるしい女があまてらその人であることを信用したのだった。




 フィギュアもゲームもアイドルも守備範囲だというあまてらに「逆に弱いジャンルとか、苦手なジャンルとかはあるんですか?」と冗談半分で聞いてみたら、「ふたなりとかは苦手です」という言葉がその小さな唇から飛び出してきた。どぎまぎする俺を差し置いて彼女は滔々とその理由を説明した。


「あれってエルフとかゴブリンとか、そういうのと同じ類じゃないですか。別に、そんな実在しないものとか、超常めいた存在ってお話しには要らないと思うんですよね。そんなもの設定しなくても、普通の人間が物理法則に従いながら、まったく予想外で面白みのある言動をすることはできるじゃないですか。わたしはそれで十分だと思うけどな」


 俺はおかずとして使う分にはそれらも全く問題なく使用できる性分だったので、


「それはつまり、女性が性的な快楽に溺れて、家庭を捨ててハメ撮りのDVDを夫に送りつけたり投稿サイトにアップしたりするようなことは、ファンタジーではないと?」


 と、あまてらの一年前の夏コミケ作品の筋書きを思い出しながら尋ねた。するとその言葉は彼女のどこかを刺激したのか、それまでよりも少し早い口調で、


「起こりえるって意味では、です。もちろん、そんなことをするのに合理的な理由はないだろうけど。離婚するときに相当不利に働くし、わいせつ物の頒布の罪で捕まえることすら出来るかもしれないし」


「なるほどね」


 緊張を緩和しようと、俺は矛先を収めた。


「確かに、法令遵守のためにわざわざ間男が、ファイナルカットで寝取られ動画にモザイクを掛けるとは思えない」


 あまてらは少しぽかんとしたがやがて吹き出し、肩を震わせて笑った。僅かに遅れて、顔に暖かな風が当たる。ちょうどそのとき息を吸い込んでいた俺は風圧の感触と同時に慄いた。それは彼女の呼気に違いなかった。怖いと思っても、既に横隔膜は動作し自分の鼻はすううと音を立てている。呼気は酸素が減って二酸化炭素が増えているから人の息を吸って窒息してしまうのが怖いとかそういうことではない。鼻から吸ったそれがもしも、例えばあの紙パックの一リットルコーヒーを一日に三本飲み干す係長が説教をするときに四大公害張りに空間にまき散らす、絶望的に食道や胃粘膜が破壊しつくされたような腐敗臭だったとしたら、それを嗅いで普段えづきを我慢している俺は、彼女すらもそうなのかとこの世界に完全に絶望してしまう。感覚を遮断する咄嗟の方法を求めたがしかし俺の肉体にそのような行為はプログラミングされておらず、無情にも通常の手続きに沿って香りの情報が鼻の奥から額の裏辺りにかけての脳内で展開された。それが少し生々しさの伴った、それでいて芳醇でスパイシーな豆の香りであることに、非常な安堵を覚えた。それから、直接吸うブラックの香りより、あまてらの体内を経由したカフェモカの香りに喜んでいる自分を叱った。


 そんな俺の独り相撲は露も知らずひとしきり笑ったあまてらは、最後にため息を吐くようにしてふうっと息を整えて、


「相当間抜けな絵面ですよねー。でも、出来ちゃうのは出来ちゃうんですよね、そんな行為だって。何か物理的な実体ある制約がそれを縛ってるわけじゃない。ただ意思があるかどうかの問題でしかない。やろうと思えばそんな映像を作って送りつけることは出来ちゃうわけです。わたしはだから、現実とは地続きな物語として、寝取られを愛しているんです」




 次に書きたいものはありますか、と今度はあまてらから問われた。遂に本題が来たかと身構え、準備していた言葉を放つ。


「この前投稿した奴の続きというか、同じ原作でもう一本書こうかなって思ってます」


 ふんふん、とあまてらは頷き、


「それも面白そうですね。でも、他にもっと書きたいものがあるんじゃ?」


 思わず息が深くなる。鼻の穴が膨らんだかもしれない。


「どうして?」


「答えに間があったから。何か最初に思いついたものを、隠したのかなって」


 頭を掻いた。図星だった。


「本当は、ずっと書きたいなと思ってる話がありまして」


「どんな? それも寝取られものなんですか」


「寝取られだけど、そのアンチテーゼもので。数年前のニュース、覚えてますか? 浮気された男が居て、そのことに気付いたそいつは怒り狂って、間男の職場にハサミを持って押しかけて、局部を切断してトイレに流した、みたいな」


「えー、やば。ちょっと覚えてないかも……調べても?」


 あまてらはピンク色の革ケースを付けたiPhoneで検索を掛け、「へー、こんな凄まじいことも起きちゃうんだ現実って。でももう、十年近く前かあ」と言った。


「そんな昔のことになるのか、それじゃあ先生が知らないのも無理なさそう」


「田井中さん、わたしが何歳か知ってましたっけ?」


「知らないけどさ。お酒は飲めるけど、僕よりは年下、ってところでしょう」


 あまてらはにこりと微笑むだけだった。


「それで、そのニュースがずっと心に残ってるんだ。その事件をモチーフにした話を書きたいと思ってる」


「因果応報、復讐モノですか。5chのまとめスレみたいなスッキリもの?」


「分かんない、どうなるのかは。復讐に走る男の痛快エンタメなのか、屈折した欲望に迫る文学っぽい感じなのか。けれど、書いてみたいんです」


「書けばいいじゃないですか」と無邪気に笑う彼女に、「書けないよ」と笑い返した。


「今更ね。ファンがアンチに反転しちゃうんで」


「でも、書きたいんですよね。ただ書きたいだけだったら、別名義とかを作って投稿すればいいんじゃないですか。ツイッターのサブアカウントとか、一つの電話番号で十個まで作れるんですよ。結構簡単に作れます」


「いや、けれどそれじゃダメなんですよ。単にそういう話が書きたいって訳じゃない。今、俺の書いたものを読んでる奴らに向かって、不意打ちというか意趣返しというか、そういうことをしてやりたい気持ちなんです。だから書くからには、田井中哲夫のアカウントじゃないといけない」


 あまてらは、ただ流れ続ける名も知らないジャズピアノの音色に歌詞を乗せるようにして、


「それこそ、田井中さんの書きたいものですよ。わたし、その小説を基に描いてみたいです」


 と囀った。その瞳は銃口のように深い。


「田井中さんは書けますよ」




 店を出て一つだけ用事に付き合って欲しいと言われ、COMIC ZINに向かった。彼女がこの前の夏コミで買い忘れた同人誌が、もしかしたらそこの二階に売っているかもしれないらしい。軽やかな足取りで人混みを掻き分けていく彼女の顔を、街行く人々も、コンカフェの呼び子たちも、外国人観光客も、無遠慮に視線を向け、一瞬の驚きを浮かべたのちに、一般人に対しそのような視線を向けたことへの後ろめたさに視線を再び逸らす。他者の尊厳を犯す行為の中では相対的に微小な加害とされるものだが、ロングテールに彼女はそれを周囲に教唆し収集している。その積算が彼女に掛ける負荷はどれほどだったろう。そして、秋葉原には彼女にしつこく声をかけるスカウトやナンパ男の類が極めて少ないであろうことが、彼女がこの街を好む理由なのではないかと、周囲の視線を一切気にしていない様子の彼女の横顔を見て邪推した。オタクたちは彼女に時代遅れの視線を向けるものの、積極的に声かけなどは絶対にしないのだから。ゴーゴーカレーの右横にある赤い看板のCOMIC ZINに入店し、入り口の脇にあるおおよそスタッフ用の通路としか思えない狭く埃っぽい階段を、それでもあまてらは遠慮なく登っていく。二階は神田や早稲田のあたりにある古書店のように、棚は整然、平積みは雑然といった様子だった。単なるありふれた雑居ビルがもはやレトロな風格を備えつつあることに、楽観的に見積もっても既に俺の人生も三分の一が終わるほどに時が経ってしまったのだと一人勝手に落ち込む傍らで、彼女は前回の夏コミ新刊がぎゅうぎゅうに置かれているところを、その背表紙のない薄い冊子を一冊一冊手繰るようにして指を差し入れながら確かめていく。大学の頃、友人がディスクユニオンに古いレコードをディグりにいくのに付き添ったことがあったが、その当てもなく総当たりに行うレコード探しの光景に似ていた。


「あった」


 しばらくしてあまてらが引っ張り出したのは、「エロ漫画の細道 vol.4」と書かれた、A5サイズの冊子だった。明朝体でそう題されている以外はイラスト一つないシンプルな装丁だった。彼女がそれをぱらりと捲るのを横から眺めると、それは絵一つなく、文章だけだった。「それはどういう本なの?」と尋ねると、「どこかの出版社の編集さんが書いてる、エッセイ集みたいな同人誌です。毎回一つのテーマについてゆるく語るような内容で、今回は」


 あまてらは表紙の下、サブタイトルに「寝取られについての小論考」と書かれた部分を指差した。俺はその指先のネイルの濃紺と赤のグラデーションが、もしかすると夕焼けを表していているのではないかと思いながら「なるほどね」と言った。


「多分色々コネ使ったら、貰うこともできたんじゃないんですか?」


「かもしれないです。でも、こうやってお店で売られている状態から買われるっていうのは、やっぱりちょっと特別なんですよね。仕事でも味わってるだろうにわざわざ同人誌にするってことはきっとその感覚を直接に味わいたい人なんでしょうし、そのチャンスは奪いたくないじゃないですか」


 小さく自らの見識の狭さを恥じ、彼女との住む世界の違いの片鱗に食らってる俺に、あまてらはそれでも「なので」と、甘く語りかけた。


「田井中さんにも味わって欲しいです。革命的な感動ですよ。もし気が乗ったら、ぜひお返事ください」








二、

 数日後、まだあまてらへの返事を出来ずにいた。あのカフェで一頻り盛り上がり持ち上げられエールを飛ばされ、それでもその場で首を縦に振ることはなかった。それはひとえにその場での自分の選択が冷静なものになるかどうか信用する気になれなかったからだ。


 大なり小なり、自分の中に凡庸な欲望、つまり息を呑むような美人と何らかの受け身な出来事によってお近づきになりたいという思いはあった。彼女の言う「革命的な感動」という言葉を忘れることは出来なかった。つまり俺が求めているもの、日常から非連続的な形で脱出して、理想的な状態に移行することを、とても適切に言い表す概念が革命というものであるような気もしたのだ。しかしいざ自分の人生において思わぬ形で、あまてらのような目を見張るような美人と交流を持つことになると、全く色恋のような感情を向ける気はすっかり失せてしまった。あの秋葉原駅で彼女の顔を見た瞬間、自分がどれだけ愚かだったかを覚った。彼女に自分が、異性として認識される訳がない。その後の俺は、自動運転の赴くままに会話をするロボットとなっていた。恥じることもなく自分の性欲を晒し、一次創作に憧れる醜い気持ちをあっさりと吐露していた。良く見られようという欲は無条件に放棄され、そうなった以上ちまちまとしたカードゲーム染みた情報提示の心理戦は無意味となる。


 あまてらは、あまりにも都合がよいというか、理想的な女性過ぎた。理想的すぎて、現実味がない。彼女は自分が要求を出せば、ほしい言葉を、ほしい形で、ほしい分だけくれるような気がした。これがもう少し、彼女の眉があと少し上にずれていたら、鼻がもう少し低ければ、その語りの抑揚がもう少し平坦で面白みの演出に欠けるものであれば、彼女に気安さを感じることが出来たかもしれない。あるいはもう二回りか三回りほど自分に自信を持てていれば、もしかすると彼女を振り向かせようだと計略を講じて落とそうだとか、そういう話になったかもしれない。しかし単純に見積もってもこれまでに数千、下手すれば万単位の男から同じような視線を向けられてきたであろう彼女に対して、いまさらそのような視線を向けるのは、意味がないだろうし役者不足にも程があるだろうし、彼女にしてみても何の面白みも価値もないだろうという予感があった。これまで数多の童貞が誤ってきたのと同じ過ちを繰り返すつもりはなかったし、仮に実際に彼女が俺に好意を抱いているのだとしたら、そのとき誤っているのは彼女だという確信もあった。俺を正しく評価すれば、彼女のような存在が俺に好意を向けるなんてことはあり得ず、もしそのようなことがあるとすればその考えは誤解や誤読に基づいているのだ。


 そうしてあまてらの恐るべき完璧さに諦念を抱けたが、下手に拘泥することもなく妙にするりと自然な形でその解脱を果たせたことに不思議の念もあった。そしてそれは恐らく、彼女の完璧が過ぎることに理由がある。彼女は確かに、美しかった。しかしその美しさは例えるならば真円の美に似ていた。現実には絶対に存在しえないそれは数学的な美に満ちていることは疑いようがない。もしも不可能の壁を越え真円が実体を伴って眼前に現出してしまった暁には、これまで見てきた全ての円形が紛い物に感じられてしまうような、神秘的で深遠で不可逆な感動が与えられることを期待してしまう。しかし一方で、真の円はわざわざ眼前に現れるまでもなく、頭の中に既にイデアとして存在している。目の当たりにしたところで、そのイデアが更新されるわけでもなくただ補強される他には、実際には何ら新たな遭遇や発見は生まれない、という帰結も考えうる。彼女の顔を思い起こしても、抽象的な形容詞以外に表現する言葉を持てないことを以って、真円との遭遇がどちらの感想をもたらすのか、その答えを知れたような気がした。




 だが確たる答えはすべての問について出ず、一旦あまてらのことは棚上げすることを決めた俺は、マッチングアプリを使い始めた。地に足の着いた出会いを求めてのことだったが、実際に使ってみるとこれがまた苦手な作業だった。指南サイトやらを見ながらプロフィールを書き、自撮りには見えないような自分の写真をセルフタイマーなど小賢しく駆使して何とか撮ったりしている内に、マッチングアプリはマイナビやリクナビと同じだということがよく分かった。出会いの回数や選択肢を技術によって無際限に広げる代わりに、その一つ一つの選択を相対化し、特別性の薄いものに変換するわけだ。人間の断片を恣意的に切り取った、ペルソナやアバターにすらなってないようなプロフィールを睨む。これまで同じように数多の男どもが見せかけの情報を提示してきた。それらを、その結果顛末も含めてすり潰して混ぜ合わせ、何らかの傾向を抽出する。年収が五〇〇万円以上で、大卒で、会社員で、タバコは吸わない、休日は土日、相手に求めるのは「やさしさ」と「自立心」、結婚は「いい人がいればしたい」、趣味はYouTube鑑賞と読書、最初のデートのときは割り勘、というプロフィールを入力した男は、どんな相手と相性がいいかが分析され、おすすめの相手が紹介される。休日が一緒で相手に求めるものが「聞き上手」と「実直さ」である女性とは特に相性がいい。年収は二〇〇万円から四〇〇万円までは上がるほどマッチ率も上昇するが、それを超えると一気にゼロに近づく。趣味が海外旅行の女性との相性は悪いが、趣味が「海外旅行」と「散歩」で、身長が一五八センチから一六三センチの間の女性とは何故かマッチ率が良い、というような直感的には理解が難しいような法則までを見つけ出して、充てがう。俺が「海外旅行がご趣味なけったいな女とは反りが合わないだろう」と思っていても、「いや実は人工知能の分析によるとですね」とアルゴリズムは、俺の自覚していない真の欲望を探り当てたのだとドヤ顔をして勧めてくる。しかし、自分を少しでもよく見せようと偏向させた情報を元に行われた分析が、一体どれだけ精緻な意味を持つ? そしてマッチ後も、そこで提示したプロフィールの前提でお互いに「いいね!」としている以上、その前提を保持し続けなければならない。そんなもの、自分を元に作った二次創作キャラクターを持ち寄って、お互いに口先指先でそのキャラを動かしてテーブルトークロールプレイングゲームを繰り広げているだけじゃないか。俺は自分から遊離したそのキャラが、相手のキャラと楽しそうに会話しているのを傍から眺めているだけになるだろう。だがもし隣に、同じようにキャラ同士の会話を冷めた視線で眺めている女性が居て、彼女と目が合うことがあったら。意図しない邂逅に気まずそうに互いに会釈しながらも、そのとき俺はその彼女となら話がしたいと思う。その彼女が、それでも俺のアバターにメロメロなんだとしたら、それは寝取られだ。そんな訳でマッチングアプリへの俺の信頼はマッチの前からストップ安で、まだ自分をあけすけに見せつけるポルノコンテンツの収集履歴を分析した方が真に迫れるだろう、と考えるのは俺のポルノびいきだろうか。


 こんなことに費やす時間があれば、一体どれだけのことを他にできただろう。例えば、YouTubeで土を掘ってプールを作る動画や、変な形の鉄板でステーキを焼くのを接写で撮って忙しないテンポで編集した動画をダラダラ見たり、SNSで知らないインフルエンサーが炎上しているのを見つけてその経緯を調べて周囲の反応を読み漁ったり、アダルト動画サイトをサーフィンしたり……。ああ、結局そんなことにしか時間を使えないのだ俺は。マッチングアプリはクソだが、俺はそれよりもクソなのだ。めげそうになる度にそうやって自分の尻を叩いて、再びマッチングアプリに向かい合った。おすすめ欄ではなく、今オンラインになっている女性たちの一覧から、一つ一つプロフィールを吟味して、いいねを送った。無数の女性の顔写真が、風俗のウェブサイトのように規則的に並んでいる。機械的に女性ウケが良いとされるプロフィールだとか写真だとかを設定したのが良かったのか、結果的にはいくつかマッチングした。その中でも何となくメッセージのテンポが合い、やり取りが続いた女性のプロフィールを改めて読む。「O」と名乗る二十九歳の彼女は出版社に勤めているという。眼鏡の先にある瞳は画面越しにも理知の光を放っており、やはり自分には不釣り合いな相手にも思えたが、それなりに彼女は自分に関心を抱いてくれているようだった。いくつがある彼女のプロフ写真からは多趣味で自分の考えに自信を持っていることが伺え、同じくらいの長さをこの世界で生きているのにどうして彼女はこんなにも大人びて見えるのか不思議でたまらなかった。なぜOが俺に興味を持ってくれたんだろうということ自体に知的な関心を持った。喫煙有無の欄に、「紙も電子も吸いますが、嫌な人の前では控えます」とあった。タバコを吸ってる事実もそれを包み隠さないさばけた様子も良かった。記述されたことそのものについてではなく、それが書かれるに至った経緯や背景まで考えたくなったのはOが初めてだった。アルゴリズムなら俺の非喫煙者というプロフィールを参照して浅薄に喫煙者を弾いていただろうが、俺は女性がタバコを吸うときの、どこか異世界に向けて焦点を合わせているかのような表情を眺めるのが好きだった。


 二人とも総武線沿いを拠点にして生活を送っていることが分かり、落ちあいやすい場所として相手が御茶ノ水を提案してきた。きっと彼女の勤め先は神保町にあるのだろうと想像しながら、秋葉原と神田川を挟んでたった一駅しか離れていない御茶ノ水駅のあたりのことを殆ど知らず、ろくな店も提案できない自分に少し呆れた。自分のプロフィールに「秋葉原から神田辺りによく出かけてます」と少し盛った記載をしたことを後悔した。相手はカフェを提案してくれた。それを見て俺は一度アプリを閉じて、ネット上で動画、画像を問わずポルノ探索を始めた。数十分後に射精を処理し、この間の周到な調査研究の成果物でもあるところの、GoogleChromeの別タブに開いて残していたオカズ候補たちを、ブックマークにも残さず躊躇なくパッパと閉じて葬り去ることができたことを以て、この瞬間のポルノへの一切の興味執着を消却できたのを確認した。きっとこの後また性欲が湧いたときには「うわあれメッチャ良かったのに何で消しちゃったんだよどうやって見つけたんだっけ履歴から一個一個開いて確かめなきゃいけないのかよあの時の俺のバカ野郎が」と、このことを後悔するのだろうが、そんな未来の俺を今の俺は賢者の目で見下すことが出来た。そしてそのステータスに至ってもまだOへの関心が残っていることを確かめた上で、彼女の『タバコの臭いが結構するんですけれど、その雰囲気が良くて 臭いが大丈夫であれば』、という言葉に、『自分全然平気です。親が昔からよく吸ってたので笑』と応えた。




 待ち合わせの日の朝、寝取られものの同人誌を用いて射精し、シャワーを浴びて着替え、身だしなみを整えた。外に出ると快晴の青空が「これこそが世界の絶対的真実でございます」と言わんばかりに堂々と広がっていて、確かに気持ちは良いものの、その傲慢不遜さに辟易とした。駅のホームで電車を待ちながらLINEでOとやり取りをする。アイコンは昔NHKの教育テレビで放送されていた番組に出てくる「ワンワン」という犬の着ぐるみのキャラクターで、『うわ、自分もめっちゃ見てました いないないばあっ! ですよね』『そうです! やっぱり世代ですよね』というやり取りでその日までの空隙を埋めていた。


『今日はよろしくお願いします 予定通りに到着できそうです』


『こちらこそ 私も大丈夫そうです』


 絵文字のないシンプルな文言、句点を用いていないあたりにも、同世代の気安さを感じられて好感を抱いていた。休日に秋葉原の駅で降りずに総武線に乗り続けることなど滅多にないことで、閉じる扉を見送って背徳感に似た高鳴りを覚える。そういえばこの電車は乗り続けるだけで新宿や中野まで行けるのだった。用事など一つも持ち合わせて居ないが。巨大な書店も衣服も食事も芸術も、秋葉原で降りて山手線で東京や有楽町、あるいは上野に行けば事足りるものばかりだった。


 改装工事中の、カイジの鉄骨渡りのように狭いホームをおろおろと進んで、横から蹴れば折れるんじゃないかというくらいか細く輸送力の低いエスカレーターを昇る。工事中の聖橋口を出て、約束していた、都営三田線の新御茶ノ水駅の入口前の広場に向かいながらLINE通話を掛ける。


「もしもし」


 涼やかでハスキーな声が聞こえる。彼女の声を耳にするのはこれが初めてだった。


「一ノ瀬です。今丁度……」


「あ、見えました」


 丁度同じタイミングでスマホを耳に当てた、長身の女性と眼が合った。黒いニットのロングスリーブに、チェックのゆったりめのロングスカートだが、それでも肩や腰のラインが鋭く浮き出ていた。細縁のメガネの奥の凛とした瞳に、思わず視線を逸らしそうになる。だがここで逸らせばややこしいことこの上ない。俺の会釈に彼女もすっと応じてくれた。


「今日はよろしくお願いします。……それにしても駅の中、昔来たときと全然変わってて驚きました。今こんな風になってるんですね。あんな細いエスカレーター、初めて見ましたよ」


 挨拶代わりに少しおどけて話を向けてみると、ようやくOはふっと目尻を下げてくれて、胸を撫で下ろした。写真の印象よりも頬骨が目立つ顔をしていたが、それ自体のチャーミングさと、写真では隠そうとするいじらしさに勝手にグッと来た。移動しながらO――王城が本名であると名乗ってくれた彼女と、普段からお茶の水にはよく来るのか、といったような会話をする。案の定彼女は神保町に勤め先があるらしく、彼女が選んでくれた目的地であるカフェもたまに仕事で使う店であると教えてくれた。ちらりと見える左の犬歯が、少しだけ他の歯よりも前に出ているのを見て、どこか心が安らいだ。


「いいですよね、この辺って街ごとに色々特性があって。御茶ノ水の駅前は音楽の店が多いですし、神保町は本、みたいな」


「確かに。私、小さい頃にピアノをやってたので、その頃は御茶ノ水ばかり来てました。大学に通うときも丸ノ内線乗るために毎日この辺りを歩いてましたし、それで今は神保町通い。もう、呪縛みたいなものかもしれないですね」


 そう自嘲気味に言う王城に、「いやいや、素敵だと思いますよ」と微笑みを向けた。王城も笑みを返して、


「一ノ瀬さんの方は、どんな本がお好きなんですか。小説とか読まれたりは?」


 当然、自分が二次創作小説を書くことなどプロフィールには微塵も書いてない。


「あー、どちらかというと、雑誌とか、新書とか、そういうのを読むことが多いですね……王城さんは出版社さん勤めなんですよね。小説の編集者さんとか、なんですか」


「まだまだ駆け出しですけれどね」


 そう言いながら、彼女は視線を真っ直ぐと前に向けていた。


「それじゃあ、俺、小説好きじゃなくて、というか書いてなくて良かったですよ」


「どうしてですか?」


「だって、もし俺が小説書いてたら、きっと色々理由つけて王城さんに見せつけてたかもしれないですからね。後先も迷惑も考えずに」


 自虐だと覚られないよう注意をはらいながら、現実の自分を生贄に捧げて彼女の歓心を買うために飛ばしたジョークだったが、王城は薄く微笑んで、


「たまにそういう人も居ますけど、でも面白い作品だったら全然大歓迎ですけれどね」


 と言った。




 そのように、お互い第一印象は無難だったのだろうが、その後も恙無く進んだかと言えばそうでもなかった。王城が案内してくれた神保町の喫茶店に入ると、くすぶるような刺激臭が鼻孔を刺す。事前に聞いていた通り、中には灰皿を置いてスパスパやっている老若男女が何人か居た。


「別に今日吸うつもりはないですけれど、こういう雰囲気の場所が好きなんです」


 俺は「分かりますよ、俺もこういう、レトロな空気感は結構刺さります」と返しながらも、想像以上に分煙も何もない昔ながらの空間に少しだけ面食らった。


 幾つか選べるコーヒー豆から、王城はグアテマラを、俺はモカを選んだ。流石に酸っぱい、苦い、という特徴があるくらいは弁別できたが、豆へのこだわりに繋がるほどの好みがあるわけでもなかった。出てきたコーヒーの味の感想を、メニューに書いてあった豆の性質を辛うじて思い出しながら何とか語り合う。彼女はコーヒー好きで、自宅でも豆を挽いて呑むのだという。豆を買うために、渋谷や三軒茶屋や清澄白河のカフェにまで脚を伸ばす日もあるという話に、かすかすの関心をなんとか絞り出して、


「凄いな。俺は割りと、インスタントで済ませがちですね……ペーパードリップのコーヒーくらいはたまに飲みますけれど」


「挽きたてで淹れると、本当に美味しいんですよ。今は豆を挽くところからドリップまで全部やってくれるような機械も、そこそこ安く買えるからおすすめです。私は全部、手で挽くんですが」


 聞くにつけ、彼女が丁寧に、こだわりを持って生活をしていることが分かっていく。対照的に自分の生活のこだわりのなさが浮き彫りとなっていくようで居心地が悪かった。


「じゃあ、今度試してみようかな。秋葉原でコーヒーマシン、探してみますよ」


 指の入れづらい取手を無理やりつまみながら、コーヒーを流し込んだ。


 居心地の悪さを感じているのはこちらだけではないようだった。彼女は彼女で、俺のプロフィール上の趣味や見た目などから期待していた文化の香りを、受け答えの中に見いだすことができなかったのだろう。ふと会話が途切れると、他のテーブルでの話し声が何の遮りも減衰もなく聞こえてくる。


「でね、トイレの前のごみ箱にペットボトル捨てようとしたらびっくり。まだ昼過ぎなのにもう溢れてるの。嘘でしょって思って中覗いたらまたびっくり、その全部が、ひとっつも潰されてないの。そのままの形で、ぽいぽい、って」


「えー? それ酷いねえ」


「でしょ? ちゃんと、『中身は空けて、ふたは付けたまま、潰して捨ててください』って書いてあるのに。しかももっと酷いのがさ、溢れた分を、無理やりねじ込むんじゃなくて、ごみ箱の前に変に綺麗に並べてるの。整列してるみたいにびたーって。もう気持ち悪くて、バカじゃないのって、腹立って」


「うわあ、何だか男って感じ、そのズレ方。書いてあること一つもちゃんと守れないのに、仕事できますって顔してふんぞり返るんだよね」


「ほんとそう。旦那とかのさ、なんでそこ気にするのにもっと別の所は気にしないの? みたいなのも思い出して、何か涙出ちゃったその時。溢れてる分を含めてもさ、ちゃんと潰したらゴミ箱の半分で絶対収まるくらいなんだよ。それなのに他の人たちのせいで私のボトルは捨てられなくて、私はちゃんと潰してるのに。人の目気にして丁寧に外に置くくらいなら、そもそも最初からルール守れよ、って」


「ほんとそうだねそれは。文字も読めないのに見かけだけ紳士ぶんなってね」


「ホントだよ。で、管理部に一三階のペットボトルゴミ箱がもう酷いです、何とかしてくださいってクレーム入れて」


「それクレームじゃないよ。ちゃんとした報告」


「だよね? それで『来週にはすぐ対応します』って言うから週明け出て様子見てみたらさ、どうなってたと思う?」


「えーそんなの、張り紙を大きく張り出したんじゃないの?」


「そう思うでしょ? 違ったの」


「ええ?」


「何とね。ペットボトル用のゴミ箱がね、もう一つ増えてたの」


 「やだー!」という聞き手側の派手な大笑い。「それ見て、ああもう、ペットボトルよりこの会社の方が先に潰れる! 辞めたい! って真剣に思った」と器用に締めくくる話し手。こんな話をタダで聞いていいのか、コーヒー代に盗み聞きの権利分は含まれているのだろうか。その自然でよどみない運びに思わず自身も噴き出しそうになり、同時に自分たちの会話の人工的であることを思い知らされ打ちひしがれそうになる。どこか常に怯えながら、それでもなんとか再奮起してジョークを交えた話題振りで間を持たせるようなことを繰り返していたのだが、一時間十五分ほど粘った後に王城は、「お店、そろそろ変えてもいいかもしれませんね」と言った。


「確かにせっかく神保町に来たのに、書店街を詣でていかないのも罰当たりか」


 王城は平坦に「そうしましょうか」とだけ答えた。事前にアプリ上で王城が強調していた通り会計を割り勘で済ませたあと、少し日が落ちてきた神田古書店街に繰り出した。傾いた日差しにもたれかかるようにして歩く。続いて王城が案内してくれたのはその一帯の端の方にある、書店とカフェが一体になっているような店だった。本棚にある未購入の本を、好きに席に持っていって読んで良いのだという。平積みされている中で彼女が「三体」シリーズを指さして、前日譚やスピンオフ含め全作面白かったとおすすめしてくれた。お返しに俺はその横の棚にあった伊藤計劃の「ハーモニー」を、オチは寂しくて苦手だが考えさせられたと評して勧めた。いずれの本もしかしビニール包装がされていて、持ち込みの対象外らしかった。ちょうど小腹も空いてくる時間帯で、意外とパフェがしっかり美味しいのだと王城が言うと、それに応じてしっかり俺のお腹の虫が鳴り、二人で笑ったりもした。傍から見ればマッチングアプリの初対面同士の組み合わせであることは一目瞭然なのだろうけれども、その中でも外面上はまだ上手く行っている方の交流には見えているだろう。そんな見栄えに何の意味もないのに。


 座面のクッションが少し潰れた椅子に座り、文庫本のような装丁のメニューを開いてコーヒーとパフェを注文する。この店も再び豆の種類を選ぶタイプの店だった。かわいらしいメニューを彼女がスマホで撮るのを見て、俺もそれを真似たりした。


「少しお手洗いに行ってきますね」


 そう言って小学校の裁縫セットのようなサイズの茶色のカバンを手に席を外す王城の背中を見ながら、やはりマッチングアプリは苦手だと思った。このようにして初回で表面的な行動を見られふるいにかけられる感覚は就活時代のOB訪問を思い出し、つくづくマッチングアプリというものがシステム化された就活と同じであるという念を強くする。手慰みにスマホで撮った写真を眺めて、ふと画角の端に彼女が持ってきていたカバンが写っていることに気付いた。魔が差して、その小文字のエックスみたいな形の大きめの留め具が付いたカバンの写真をGoogleレンズの画像検索に掛けた。瞬時に正体が出てきた。CELINEというブランドのバッグらしい。ヴィトンでもシャネルでもグッチでもエルメスでもない。きっとシンプルで手頃だが質のいいものを作るブランドなのだろうとオンラインストアを開いて、税込の金額が俺の手取り月収の二・七四倍に相当することを知って、俺は動揺を抑えるためにあえて「なるほどね」と、じっとりと息の湿度を織り交ぜながらつぶやいた。




「お待たせしました……あれ」


 机の上に置かれた包装ビニールが取られた「三体」を見て王城は目を見開いた。


「買っちゃいました。せっかくだったんで」


 俺の言葉に彼女は「いいですね」と微笑み、「後悔はしないと思いますよ。三体とプロジェクト・ヘイルメアリーは、間違いがないですから」と嬉しげに語りながら、身を少し捩らせて、鍵穴をピッキングするかのようにその長い脚を椅子とテーブルの間に差し込み、座った。


 しかし、結局それを起点に話が弾むことはなかった。考えてみれば、買ったところで即座に三体の内容について話が出来るようになるわけではない。むしろネタバレを避けるために触れないようになるのは当然のことだった。彼女にハーモニーを買ってプレゼントするということも考えたが、冷静に考えてSF好きの出版社勤めが、たった二作しか遺されなかった伊藤計劃のオリジナル長編を抑えていないわけがない、先ほどの王城の表情を回想しながらそう思いとどまっていた。休日にしていることや大学時代のサークル活動などについて話をした。しかしどれも彼女のプロフィール欄に書いてあったことのような気もして、まるで彼女に興味がないことをあえてアピールしているかのようだった。そんなつもりはないのだが、文脈なく提示された情報を覚えることが苦手なのは事実だった。それはつまり、彼女と俺の間に今後を期待させるような何かがこの場では生まれなかったことを意味した。二つ前の質問で彼女がどんな答えをしたかも思い出せなかったことを受けて、俺は覚悟を決めた。


「ふと思ったんですけど。マッチングアプリって、不思議ですよね」


 それまで交わしてきた当たり障りのない言葉と全く手触りの違う内容が出てきたことに、王城は少し戸惑っているようだった。だが、


「どういうことですか」


 と、流さずに尋ねてくれた。


「だって、きっと俺たちって、普通にそのままの人生を生きていたら絶対出会わなかったじゃないですか。学校も会社も趣味も違う、まあ、生活圏が少し重なってるから、駅で何度かすれ違うことはあったかもしれないですけれど。そんな相手とこうしてお茶しながらお話してるなんて、なんだか、面白いな、って」


 突然そんなことを言って、一体どんな反応を求めているのかと言えば、積極的な反応や発展を求めての問いかけではなかった。きっと先ほど彼女がお手洗いに行ったのだってこの後どのように切り上げるかを考えるための時間だったろうし、どうせ今日で終わりの関係であるのならばせめて、自分にとって何か考えを得られるよう、自分本位に使ってやろうと思い切ったのだった。


 王城は運ばれてきていたコーヒーを一口すすり、ふっと小さく息を吐いて、


「まず、普通のそのままの人生、というものの定義から決めたほうがよい気もしますけれど」


 と、それまでとは少し異なる、硬いトーンで返してきた。


「マッチングアプリを使った出会いが普通じゃないっていう前提を言外に置いてますよね、今の考えって。でもこれだけ市民権を得ていて、周りにもマッチングアプリで出会ったとか、結婚したとか、そんな人があふれている中で、それを普通と考えない理由ってないと思うんですよね。単に、伝統的な形でないってだけで、私はもう普通にはなっていると思います。昔から手紙や電話でやり取りしていたからって、LINEでやり取りするのが普通じゃない、とはならないと思いますし」


 意外にも、しっかりと議論に乗ってくれた。しかし王城の言葉は先程までの、OB訪問で先輩が後輩に向けるようなものから、本選考で社員が志望者に向けるものに変わっていた。彼女の後ろに立ち並ぶ岩波新書の背表紙を見やりながら、


「非伝統的だから、ってことでもなくて、根本的な性質が違うというか、変えられたような気もするんです。つまり……これまでの世界は、自分が直接関わっている狭いコミュニティーの中で、その中から相手をおおよそ探してきていたわけじゃないですか。自分の手が届く世界があって、それは全世界の大きさに比べれば小さいけれども、それがそのままその人にとっての世界として信じられていて、そしてそれで何の問題もなかった。けれど、マッチングアプリは違う。その世界の外というか、自分の見えていなかった隙間というか、そこにも人間がびっしりと居て、その人達も自分の世界の選択肢として立ち現れて来る感覚というか。そうなると」


 少し言葉を探し求めて、


「迷ってしまうような気がするんです。自分にはもっといい選択肢があるんじゃないか、もっと、もっとより良い人が居るんじゃないかって、怖くなるというか。自分の今の身の上は、本当に最適なのかっていうのを、常に人に問いかけているような……いや、すみません。別に自分がそんな一方的に選ぶ立場じゃないってのは分かってます。どちらかというと一般論として話したいんです」


「マッチングアプリがなければ、そんな迷いはなかったってことですか?」


「どうだろう。少なからずはあったろうけれども」


 王城は首をかしげた。


「マッチングアプリが出会いにもたらした変化は、何か質的なものがあると言いたいんだと思うんですけれど、私はどうも、ただ単に数量が変化しただけって気がするんです。所属する学校だって会社だって、お見合いだって合コンだってSNS上のコミュニティーだって、どれに所属してそこで誰と出会うかなんて偶然の積み重ねでしょう。別にこれってそんな驚くような斬新な話でも最新の発見でもなくて、むしろ凄く当たり前で言い古されてきたものだと思うんですけどね。偶然の出会いの場が一つ増えた、それだけのことなんじゃないですか。そういう恣意的な繋がりの中に発展するものもあれば、立ち消えるものもある。昔も今も一緒ですよ」


 俺は手を軽く擦り合わせて、


「やっぱり、違う気がする。何だろうな。確かにそれらも、偶然の場ではあると思う。けれど偶然の質が違うというか……共有している物語みたいなものが、マッチングアプリにはない気がするんです。そういう部分は捨象されていて、純粋に経済的に必要な部分だけ人工的に再現している。その出会いが自分にとって唯一絶対のものだって、実際にはそうじゃなくても、そう思い込めなきゃ始まらないじゃないですか。けどマッチングアプリは、需要と供給のマッチングしかしてくれない。配分の均衡点を探るのにはいいかもしれないけど、常により良い均衡を求めさせるというか、もっといい人が居るんじゃないかって思わせる。そりゃ物語なんて勝手に抱けばいいのかもしれないけれど、この場はきっと、運命みたいな神話めいたものの存在を許してはくれない。物語があるとしても、そこにあるのは利確と損切りのストーリーだけなんじゃないかって」


 ふらふらと熱病に罹ったような足取りの展開で言葉を述べてからコーヒーをぐびりと飲んで、あたかも慎重な議論が完成した風を装った。


「運命ですか」


 眼鏡越しに、王城の目元のアイラインが紫に光った。


「王城さんは信じてませんか、運命を」


 乗りかかった船だ。笑えるくらいに気取ったその問いを、その甘ったるく気持ち悪い味が口の中に広がり切る前に王城に投げ付けた。彼女は、顔に掛かった髪を少し横に払って小さな耳の後ろに回して、


「これまで生まれた人類の中に、自分と何をするにしても、何を話すにしても相性が良くて、愛おしくて仕方なくなるような人ってのは、まあ何人かは居るんだと思いますよ。何十億って人間が居ますし、きっと何百億って人がこれまで居ましたから。ただ私は、生きている間に自分が出会える人間の範囲の中に、存在し得る中で最善の相手が居るだろうっていうのはちょっと驕りというか、見立てが甘いような気がします。十八世紀くらいにフランスで農夫として生まれて、革命に巻き込まれてあっけなく早死にしたような人が、もしかしたらこれまで存在した全人類の中で自分にとって一番相性のいい人なのかもしれない。でもその人とはもうどうやっても出会うことは出来ないんです。ある人と結ばれることが決定論的に決められているとして、最善ではない人と結ぼうとしてくる運命なんて、あるんだとしたら呪いですよ」


 俺は、その答えに圧倒されそうになったが、辛うじて、


「そんなことを思えるようになってしまったのも、技術の発展があったからだと、俺は言いたいんだと思います」


 と返した。王城の眉の固い動きを見て、あまてらの柔和で人懐っこいものとの違いを感じながら、


「技術が進んで周囲がこれほどまでに見渡せるようにならなければ、人は盲目的に、たまたま出会ったその人を運命の相手として信じていられたと思うんです。技術の発展は、そういう物語を奪ってしまったんじゃないかって」


「古い時代の物語も確かに素敵だったかもしれませんが、それを絶対視するのはどうですかね。現実がそう簡単に幸せをくれるとは、思えない。より良い均衡を求めさせるって言ってましたけど、それ、大歓迎です。市場で人々が自由に出会い、交流し、別れ、より良い人々を探す。逆転ホームランじゃなくてそういう地道な積み重ねが必要ですよ。それとも、親や地域が結婚相手を縛ってた時代のほうが良かった、と。自由で苦しむよりは支配された幸せのほうが良いってことですか?」


「そんな大仰な思想じゃないですけど……。相対的に比べて、過去の物語がもたらした幸せに、現代の在り方が勝っているとは断言できないですよね。優れた技術が、人に無条件に知識や幸福を与えるとも限らないと思うんです。メガネの度って、強ければ強いほど良いってわけじゃないでしょう。今の状況は、人が度の合わないメガネを掛けている状態なんじゃないかな……」


 そこまで話して、ようやく自分たちのパフェが届いた。アイスが載っているので、それを先に食べなければならないのは共通の理解だった。無言で食べ進めて二、三分経ったときにふと顔を上げ、彼女の口元にクリームが小さく付いているのを指摘したかったが、できなかった。


 少なくとも価値観をすり合わせるようなフェイズにまでは至れなかったのは確かだった。終わりしなに王城が見せた表情が外向きに作られたものではないことだけは何となく察せられたが、それを拝めたことが正解かどうかはわからなかった。帰る前に彼女が再び手洗いのために席を立ち、戻ってきたとき、口元のクリームはもうなくなっていた。その間に会計を済ませたことを伝えると、彼女はすぐにLINEpayで負担額を送金してきた。


 解散したころには世界はすっかり日を沈めていて、ビルと空の境目に僅かに残る赤い光に「さぞ今日の夕焼けは綺麗だったろうに」と悔やんだ。暗くなり空気は一気に冷めきり、油断していた薄着の俺を容赦なく咎めた。王城はそういえばコートを着ていなかった。その時点で、夜まで過ごすつもりはそもそもなかったんだろう。そう自分に言い聞かせた。王城に今日のお礼のLINEメッセージを送ったが、一時間後に符号めいた定形の返礼だけがあり、以降連絡は無かった。




 平日の夜半に寝取られ同人誌でシコりながらふと、王城が他の男に再配分されていくのを想像した。他の男と再びアプリでマッチし俺と行ったのとほぼ変わらない内容のチャットのやり取りをし、神保町で同じようにカフェで会話を交わす。しかしそのやりとりは俺のときよりも伸び伸びと飛び回り二人の心象世界を自由に行き来し、互いに「この人となら付き合っても良いかも」と思うようになり、それとなく恋愛関係に移る。その頃には彼女の中に俺は一欠片も存在しない。彼女は俺の運命の人ではなかった、そう歌って俺は自分を慰めることができるだろうか。しかし王城ならきっと、全ては恣意的な出会いと動的な再配分に過ぎないのだと言うんじゃないだろうか。きっと彼女の世界には寝取られなんてものは存在しない。一万円札に名前を書く欄がないのと同じように、全ての事物に所与の絶対位置などない。そしてある時点の関係性など、市場によって調整されあるべきところに配置されていく、その一過程に過ぎないのだから。裏を返せば運命を信じることこそが、古い物語に未だ夢を抱いている俺の性根こそが、寝取られることへの恐怖と悲痛の源泉なのだろう。Official髭男dismは「君の運命の人は僕じゃない」と高らかに歌い上げるが、それ故に実際には俺の歌ではなく王城の歌だ。運命だと信じていたものがそうでなかったと知ったとき、精神的破綻を来たさず、グッバイなんて爽やかに言えるのは、次があること、将来の再調整があることを見込んでいる奴だけだ。


 王城との出会いは、しかし、一つの前向きな情動を与えてくれた。あまてらのための原作小説を書いてみようという気になったのだ。いざそうなってみると、それまで躊躇していたのが不思議になるくらい、次々に書きたいもの、使ってみたい表現、描きたい場面というものが出てくる。自分にはやはり才能があるのではないかと、一瞬書く快楽の虜になる。新作投稿が止まった田井中哲夫のフォロワー数が日に日に減っていくのを見てもなんとも思わなかった。生存確認をしてくるリプライが煩わしくて、通知をオフにした。言葉の綾とはいえ、それに誰かに宣言したわけでもないとはいえ、命を懸けていると大見得切っていたそれをこんなにあっさり放棄できるという、自分の精神支柱の可換性というか代替可能性に虚しさを感じなくはなかったし、王城の考えを肯定しているようで悔しくもあったが、溢れる文章の波がそれを押し流した。


 だがそんな全能感は素人考えの調子乗りで、直ぐに行き詰まった。何より一番苦痛だったのは、自分が書こうとしているアイデアや方向というものが、本当に最善のものなのか、唯一のものなのか、信じることが出来ないことだった。小説の物語は無限に続くものではなく、必ず完結せねばならない。そこから広がる世界の可能性は無限だが、それを活用するための手立ては、どうやったって有限の手数の中から選択せねばならない。そうなると、時間と資源の制約が常に脳裏に過る。仕事の最中に上司の目を盗みスマホにアイデアのメモを書き残し、それを基に昼休みや通勤時間、帰宅後に書き連ね、捨てた。原稿用紙のようにゴミ箱に捨てられればまだ格好もつくのに、未練がましくもう参照されない思索の残滓がクラウドメモサービスにどんどん溜まっていく。人生はその取捨選択の連続だと言い切る勇気があれば割り切ることができるのだろうか。本当にそんな言い切りを、心の底からできるのか? 無限のリソースと夢を無遠慮に展開させることが出来ていた、子供の頃の記憶が今もあるのに?


 あれだけ運命の可能性を王城に説いておきながら、自分はこれだ。自分のもとに降りてきたアイデアが、運命の出会いであると信じられていない。マッチングアプリの登場などに仮託せずとも、このような悩みは太古の昔から創作者にとって悩みの種だったに違いないのだ。途端に自分のやろうとしていることがほとほと嫌になる。自分が紡ぐ言葉が、この世で最初の考えと表現であるなどと誰が断言できるだろう? 愛だの人生だの哲学だの、そんなもの全て暇を持て余した先哲共がああでもないこうでもないとどうせ考え尽くしているのだ。そしてこう悩むことすらも、所詮車輪の再発明をしているだけだ。日々の労働に囚われその僅かな隙間時間でちまちまと自慰と区別の付かない自省を重ねたところで、表層の気持ちよくないところを擦るだけで、奥の本当に気持ちいいところには俺のモノでは届かない。


 王城に勧められた小説の表紙を睨む。PCデスクの上に積まれたまま開かれていない「三体」は、すでにうっすらと埃かぶっている。読むのが嫌だった。もし仮にそこに、自分が後生大事に秘蔵しているとびきりのアイデアが、何千倍も洗練され吟味された形で実装されていたら、自分のそれまでの思索と試作、思考と試行は、一体どうなる? コンビニ弁当を食いながらふと、こんなもんばっかり食ってるから詰まんねえもんしか書けないのだろうかと急に腹立たしくなった。大量生産品を作る工場にも、それに甘える俺にもだ。もっと丁寧に自炊して野菜たっぷりの料理を作って食べたり、おしゃれな小料理屋などで酒でも飲みながら創作料理を食べたり、とにかくハンドクラフトで一回的な料理を食って、色々思いを巡らせたりするべきなんじゃないか。人生の貴重な食事の一回を、歯磨きや髭剃りのように無感動にこなしているから、俺は何も書けないのではと思って、食べかけの弁当をそのままビニール袋に突っ込んだ。しかし暫くして、フードロスへの感性の鈍さだって問題なような気がして、おずおずと袋からまた弁当箱を取り出して、冷え切ったそれを食べた。迷いが臆病を呼び続ける。もしかして一流の作家たちは、歯磨きや髭剃りすらも一回ごとにそのとき限りの価値を発見しながらこなしているんじゃないかと怯えた。だとしたら俺が敵うはずもない。


 答えが出ないままツイッターのタイムラインを彷徨っていると、あまてらの投稿が流れて来た。『先日はある方と、とても大切な打ち合わせでした! 形になるかどうかは分からないけれど、期待が止まらない・・・!(ガッツポーズの絵文字)』。添えられた画像を見てどきりとした。あのとき、COMIC ZINで一緒に買った同人誌だった。普段はそんな匂わせをしない彼女がそのような発言を行ったことに界隈はどよめいていた。『なんだかいつもよりテンションが高いね 楽しみにしてます』という模範的なファンの反応でリプライが埋まる一方で、直接的な証拠は何もないにもかかわらず捨てアカウントによる『匂わせキッツ』というような、普段はあまり現れない攻撃的な反応もいくつか湧いていた。引用リツイートの数も普段の数倍はあり、そのほとんどが鍵アカウントによるもので一体裏でどのような言葉や推測が飛び交っているのかはもはや把握不可能だった。一つだけ、『ある方って男? 考えたことなかったけれどあまたやにも男が居るのかな でもあまたやなら、あんな作品を描くんだから、どんな男が相手だとしても俺が暴力でそいつを潰して、奪い取っても良いって認めてくれるよね だから安心できる』という投稿だけ読めた。それを見ながら俺は暫し優越と背徳の感に浸る。同時に責任も感じる。この間、あまてらは一切俺に対して急かすようなことはしなかったのに、ついにそのことに間接的に触れてきた。彼女がこのように表明するほどに期待してくれていて、求めてくれているのだから、俺はそれに応えるべきだ。


 そう思ったのも束の間、すぐに疑念が湧く。あのオフ会のような打ち合わせから二週間程度が経ってから投稿されたのは、その日のうちに投稿すれば身バレの危険が高まるから、という理由が考えられる。しかしそれを恐れるならそもそもこんなもの投稿しなければいい。これはもっと、俺だけでなく、複数の人間に対してのメッセージなのではないか? そのとき一つの飛躍が脳裏に過る。もしかしてあまてらは、同じように複数の二次創作小説書きに声を掛け、俺にしたのと同じような相談をし、彼らからアイデアなどを集めているのではないか。声をかけられた男たちは彼女の美貌に魅了され、あっけなくそれを承諾する。集まったアイデアを比較して、彼女が次に書くべき作品のシナリオのコンペを実施しているのではないか。そうだ。だって二次創作は儲からない、儲けてはいけない。儲けるためには一次創作が必要だ。彼女はそうして集めたアイデアやプロットを基に作った漫画で稼いだ金を、彼女の飼い主である男に献上し、対価として抱いてもらうのだ。「こちらが馬鹿な男たちから搾って集めた一〇〇万円です、ご主人様お願いします、これでご主人様を買わせてください。この罰罰な桁桁に、ご主人様の丸丸な角角を恵んでください……」。あるいはそれら集めた作品を、潰して混ぜて元の形を見えなくしてしまえばよい。そうすれば盗作盗用トレーシング云々についての昨今面倒な議論も回避できる。あまてらとはつまり、そのようにして男性から物語を収奪する、血潮の流れないシステムの名称なのではないか。そう考えれば納得がいく。


 彼女の振る舞いを説明し解き明かす理論が欲しい。それが明快でも複雑でも良い。俺にとって都合が良いものでも悪いものでも全く構わない。理論とはそういうものだ。彼女が風俗の美人局や寝取り男の寝取らせプレイの一環として俺に近寄っているのだとか、何か俺を誤解しているのであるとか、そういった説明が欲しい。これが二体問題であるとすれば、解けないはずがない。だからこれは絶対に、二体問題に偽装された三体問題であるのだ。それくらいのことあんな小説を読まなくたって知っている。


 化けの皮を剥がなければ。


 架空の怒りが突き動かすまま、あまてらについて再び調べ始めた。ツイッターのリプライ欄、お気に入り欄を漁りまくる。徹底的なまでに男との交流は行われておらず、その痕跡さえ見当たらなかった。サブアカウントや過去の活動経歴の情報も探すが、めぼしいものは見当たらない。pixiv、You Tube、FANZA……マウスが止まる。Googleが三十五番目に紹介したのは、違法アップロードサイトへのリンクだった。彼女の作品のタイトルが多数並んでいる。二次創作ポルノの著作権はどうなっているのだろうと調べ、それにも二次的著作権なるものが適用されるとのことを知る。しかし、表立ってその権利を主張している同人作家を見たことがない。そんなことをすれば原作コミュニティーから「思い上がり」を咎められ一瞬で業火によって燃やし尽くされるに決まっているからだ。あまてらは違法アップロードサイトにはどんな思いを抱いているのだろう。権利が認められているのだとすれば、表立たずとも裏から手を回しこんな検索上位にあるサイトを潰すこともできるのではないか。ともすれば。彼女が手塩にかけて描いた作品が、いともたやすく犯罪者の手によって収奪されその恥部を公開されていることに、寝取られと同じ興奮を覚えているのではないか。妙にその可能性にそそられる自分がいた。ここ一週間の一番人気は先日あまてらから貰った作品の一つに他ならなかった。本棚に仕舞われたそれを開けばいいだけのものを、あえて、違法アップされた方を見る。大昔は紙の同人誌を裁断しスキャンしたものが流通していたと聞くが、同人誌も電子版が流通し海賊版も電子データそのままにアップされるようになった現代、老害違法ダウンローダーたちは「紙を手作業でスキャンしてアップしていたあの頃の海賊版には温かみがあった」などと懐古するのだろうか。ページを捲るたびにユーザビリティという観点とは真っ向から対立する邪魔な広告が表示され、犯罪者に小銭が入る。Now we are all sons of bitches。


 漫画の内容はもう読み慣れたもので、人妻が些細なすれ違いをきっかけに夫から離反し、意趣返しを目的に他の男と寝る。しかしその男の性技と身体の相性に絆され、やがて気持ちも奪われる。すれ違いが単なる妻側の勘違いによることが明かされると彼女は罪悪感に苛まれるが、しかしもう身体も精神も不可逆に変えられてしまった妻は、夫に対して別れを、ビデオメッセージの形で告げる。無論、男の行為によって嬌声を上げながら、である。このジャンルにおいては紋切り型の筋書きであるが、細い線で描かれる表情豊かなキャラクターたちと、扇情を煽り背徳に誘うセリフ回しや叙情描写が、彼女を、そしてこの作品を界隈の代表たらしめる所以である。無論俺もそれを愛好していた。そのサイトはコメントを残せる仕組みにもなっており、「現実ではありえない」であるとか「絵柄が薄くて微妙」とか、「バカな女と間男に天罰を」とか、金も払わず違法閲覧している分際のカス共による立場を弁えない好き勝手な言葉が並んでいる。こいつらは何をビビっているんだ? 存在しない女が、存在しない男に奪われている様子を見て、一体自分の何が脅かされていると感じてこの虫けらたちはこんなに悲鳴を上げている? 「こんな浮気の証拠残ってたら間男と女が慰謝料払って破滅して終わり笑」。このコメントをあまてらが見たらその赤い爪の隙間が血肉で埋まるまで強く、その発言主の首を締めることだろう。それとも間男を大富豪にでも設定すれば納得するのだろうか。本来、それらの連中を全員縛り首にでもしてやりたくなるのがファンたる俺の立場であるはずなのだが、なのだが。しかしそこになんとなく胸がすくような、そんな愉悦を見出している。ざまあみろ、お前の大切な作品をタダで凌辱してやったぞ……。その浅ましさに気づくと自己嫌悪にも陥る。陥るのだが、のだが。その自覚の途端に、自らの中に再び創作の火が燃え上がるのも感じた。だって、俺がこれまで書いてきた二次創作というのは、そもそも原作を凌辱することで成り立っているのだ。分からない、分かり得ないものに、勝手な自分本位の解釈を押し付け、醜悪な歪みをこの世にあらしめる事こそが俺の行いなのだ。








三、

 二次創作しか書けないのなら、それを突き詰めてやろうと思った。つまり俺は例の事件をそのまま題材にするのではなく、あまてらと俺の間の関係や感情といったものも積極的に織り交ぜることにした。Wordの置換機能で主人公の名前を俺に変え、ヒロインの名をあまてらにする。俺の感情を推進力として再び文章が進み始めた。作中で二人は毎日のように性交をした。しかし些細なすれ違いを切掛に関係性は悪化し、やがて俺はあまてらが浮気し始めたことを疑う。LINEのやりとりや興信所が撮影した写真で疑念が確信に変わると、俺は自宅に小型カメラを設置し、出張と偽って平日の日中の自宅に潜んだ。やがてインターホンが鳴り、屈強で男性性に溢れた男を、あまてらが玄関先でキスして迎える様をクローゼットの中から見た。二人は二階の寝室に向かい、そこで服を脱ぎ、激しく求めあうセックスを始めた。乾いた破裂音、湿潤とした粘っこい音が部屋に響き渡り、イヤホンに流れ込んでくる。


「どっちがいい。お前の旦那と、俺と」


「絶対こっちの方がいい」


「じゃあ別れろよ。俺と結婚すれば」


「ううん。結婚は、あの人と、だけ」


「旦那に悪いとは思わないの?」


「だって、だって、これが一番気持ちいいから。あの人のが、奥まで届かないのがいけないんだもん」


 幸せそうに嬌声を上げる彼女を見て涙を流した。そして、涙が流れ出る瞬間に瞬間に訪れるものが、射精の快楽と同じであることを覚った。善なるものを身体に取り込む幸福ではなく、鬱屈した滞留物を体外に放出することで得られる解放感、それこそがこの種の快楽の本質であるように思えたのだ。すると涙と精液を同時に吐き出す行為は解放の快楽の相乗効果を生むことになる訳で、実際に試してみると、精神が焼き切れるまでその行為に耽溺した。


 一方で俺とあまてらの愛が、肉体やその欲と全く切り離された次元に存在することを確かめられて安心した。それがあった上で、あまてらは単なる肉体のカルマとしての性欲をひたすらに貪るためにその行為を行っているのだと分かったからだ。より強い快楽を得るためにエスカレートし、一面的には裏切りを続けているように見えるその行為にも、しかし愛は存在すると俺は判断した。ほかならぬ彼女が、寝取られは愛だと言っているんだぞ? 何故それを疑える?


 だから、俺が更に強い快楽を求めることも許されるのだと考えた。各々が我欲を満たすことは単なる娯楽、レクリエーションであり、二人の愛を妨げたり汚したりすることには繋がらないのだから。解放の快楽が相乗効果によって強められるのだとすれば、もう一つ別の感情の解放を行えば更に素晴らしいことになる。この間体内に発散されることなく累々と蓄積されていた感情は何かと言えば、怒りだった。もはや膨大となり過ぎて一度放ちでもすればイエローストーンのように破局しか招き得ないようなその怒りを、快楽のための原資に転換できるのではないかという発見は心を踊らせた。


 陰茎から手を放す。先走りによって濡れた手をティッシュで拭い、モニターを消す。トランクスを履いても尚陰茎は硬度を保ちテントを張って、布の僅かなこすれに反応してびくりと震えた。涙腺の根っこの部分にぐつぐつと涙が煮えたぎっているのを感じとり、いよいよ二段階の相乗効果の土台が整っていたことを確かめた。脇に置いていた、合成樹脂繊維で出来た長方形の大きなケースのファスナーを開けた。散弾銃があった。中には弾が二発。精液と涙が身体から零れないように慎重に立ち上がり、散弾銃を手に持ってクローゼットを出た。足音を潜めて階段を昇ると、一段、一段と上がるごとに、上の方から獣のような悲鳴混じりの嬌声と淫語がはっきりと聞こえてくる。彼女はひたすらに屈服と隷属、俺への罵倒を叫ぶ。その度に俺の内容物が溢れそうになるのを、慎重に堪えながら登った。扉の前に立ち、銃の安全装置が外れていることを確認した。目は既に痛いほどに潤んでいて、トランクスには染みが出来ていた。部屋の中から聞こえる喘ぎ声と湿っぽい音が一層強まったのを聞き涙がいよいよ噴出すると、トランクスを脱ぎ、そして数度陰茎を摩った。それだけで最後の一押しには十分だった。怒涛のような射精が始まり、同時にドアを蹴破る。中に居た二人の人間と目が合う。男の目は驚愕と狼狽に染まっていたのに対し、あまてらの瞳に俺が見たのは、解放の快楽だった。果たして本当に俺の闖入に気づいているのか、ただ男の性技がもたらした快楽の余韻から抜け出せていないだけかもしれないが、俺はそれを見て、自分がこれから行うことが間違っていないことを確信した。涙、精液、涙、精液、引き金。銃声が二発、鳴り響く。




 その炸裂音で目が覚めたとき、枕代わりにしていたキーボードはよだれ塗れとなり、パンツの中に中学二年以来の夢精をしていた。寝ぼけた頭でそれを脱いで、洗濯機の前でパンツを手に暫く立ち尽くす。洗濯機で綺麗になるビジョンが描けない。手洗いをした方が絶対に確実だ。だが面倒さが勝って、洗濯槽に投げ込んで二日前のワイシャツや肌着と一緒に標準コースをスタートし、風呂場に入った。俺が打って出ることが出来るギャンブルなんていうのはこの程度だ。撃つ覚悟も、それを見届ける覚悟もない。




 ほとんど夢をそのままあらすじとし、クライマックスへ至る橋渡しの部分だけを「結婚記念日にサプライズをしようとこっそり年休取得し、クラッカーを持って自宅内に隠れていたら、間男が家に招かれ不貞行為が眼前で展開され、手に持っていたクラッカーはいつの間にか散弾銃に変わっていた」という展開に改めた原稿用紙百十三枚分の初稿を書き上げ、何度も瑕疵がないか確かめ、どうやっても直すところが見つからないことに不安を覚えた。そんなはずはない。絶対に決定的な、致命的な誤りや不足、過剰がどこかにあるはずなのに、自分の理性はこれが最も良いのだと叫び主張する。


 しかし、いくら声がデカかろうとも所詮は自分の声だった。これをそのままあまてらの下に持っていくのは気が引けた。その前に、誰かに読んでもらえないだろうか。ふと王城の存在が思い出された。御茶ノ水での逢瀬以来すっかり疎遠になっていて、きっともうブロックでもされているのだろう。しかしそれ故に気楽な気持ちだった。


『一本書いてみました。面白いものであれば歓迎とのことだったので、歓迎されることを目指しました』


 そのメッセージと共に、登場人物を全て架空の名前に置換したPDFファイルを送り、反応を待たずに閉じた。せいぜい、一旦彼女のとのチャットの中に置くことで原稿が自分の中で外部化され、再び推敲の目を光らすことができるようになることを期待しての行為だった。


 なので、それから一時間しか経っていないころに返信が返っているのを見つけたときには、喜びではなく困惑のほうが強かった。


『もう一度、今度は食事でも行きませんか』


 それは就活の面接、総合電機メーカーの三次選考において、ボコボコに採用担当者に詰められまくってしどろもどろになってそのまま何も良いところなく終わったのに、何故か次の日に通過の連絡が来たときとまさに同じような驚きで、王城との関係は返す返す就活染みているなと嘆息した。不思議な縁の力のようなものを感じたその会社は最終選考で落選している。




 約束の当日の朝、オナニーをした。それは礼儀作法だった。考えるに、オスの肉体を持ちそのホルモンバランスに思考が支配される以上、そのままの健康な状態で女性を見れば、必ず性欲を抱く。オスという生き物はとにかく発情しやすく、全く恋愛感情を抱かない純粋に親友とお互いに心の底から思っている人間相手でも発情できるし、何ならすれ違っただけの女性に対してすら興奮するし、女装した美しい男にすら興奮するし、絵に描かれた女性にも興奮するし、絵に描かれた女装した男にも興奮する。


 オナニーは最も簡便な肉体のハッキングではないか。それはサウナに入るよりも手軽で即効性があり、ドラッグのように規制もされていない。感覚神経が密集した内臓の半露出部分にほぼ直接手を伸ばして触れて、その中身を極めて直感的な物理的ユーザーインターフェースを以って操作し、性的欲求を排出するのだ。マイクロチップを埋め込んだり電磁波を浴びせたりする必要もない。


 そのようにして性欲を排泄してようやく自信を持って、自分は異性に対して一個の人間として接しているぞと表明出来る気がしていた。オナニーをしていない状態で異性と対面することはもはや考えられないことだった。その時に相手に抱く好感や親愛の情などといったものが、性欲に由来していないと断言できないことが恐怖だった。人類史の長きにわたって恥ずべき禁忌とされてきたオナニーを、趣味として、瞑想や自己研鑽、リフレッシュ作業と同じように公言できるようになる未来はきっと近い。もっともそうなれば、ポルノにタバコや酒と同じように課税されるかもしれないが。いやそれすらも一過程に過ぎないだろう。更に先、人間関係を完全に性欲とは独立に成立させることが当然となったような頃には、性欲による不用意で不本意な加害を防ぎつつも、身体的な侵襲は伴わない、オーガニックで不可逆性のない手軽な去勢行為として、オナニーが社会や文化に正式に要請されるはずだ。俺は男の暴力性が完全にコントロール可能になったと皆が信じるようになったその時代のオピニオンリーダーになるべく日々研鑽を積んでいる。逆に、このような場当たり的なつぎはぎの修正パッチの他には、今生きる俺のアイデンティティーと同一化した感性を更新する手段はないという諦念もそこにはあった。もし根本からOSをアップデートするのなら、再起動は必須だ。人生にリセットボタンはないし、リブートボタンもない。しかしリブートに関しては、専用のボタンがなくても代替策があることを皆知っている。電源ボタンを押して、もう一度押せばいいのだ。そうだと分かっていても、電源ボタンを自分で押したくはなかった。




 何週間ぶりかに会った王城は、ベージュとブラウンのチェックのジャケットとスラックスというセットアップを纏っていた。彼女の直線的で鋭利な輪郭を隠すような、ゆったりとしたオーバーサイズシルエットだった。


「久しぶりです」


 そう声かけると、


「いいよ、敬語。二回目なんだし」


 と笑った。日曜の昼過ぎ、乾いた少し温い秋風が肺の中に充填され、天日干しした布団のように肺胞が隅々までふかふかになるのを感じた。話の流れで決まった、水道橋駅近くのエイジングビーフが出てくる焼肉屋に入る。油に悩まされがちなジャンルの店にしては珍しく白を基調とした内装で、中では軽やかなポップスが流れていた。席に着き、彼女はジャケットを脱いで椅子の下の収納に仕舞った。一つボタンが外されたワイシャツの胸元からは、毛も出来物もないしっとりとした素肌が覗いていた。


「それにしてもまさか、返事をいただけるなんて」


 開口一番そうぶつけると、王城は虚を突かれたような顔をして、


「そんなに前会ったときって、微妙な感じだったっけ?」


「だったし、そこから間も空いてたから」


「それは、ごめんなさい。仕事が忙しくて。それにあの日以来、一ノ瀬さんの方からもメッセージなかったから」


 こちらのセリフだ、と言いたくもなったが、言う必要もなかった。


「やっぱり出版社って忙しいんですか。特殊な仕事ってイメージですけど」


「大変だけど、特殊ってことはないかな。変な人はいっぱい居るし変な人と沢山絡むけど、結局は雇われのサラリーマンだし。一ノ瀬さんの会社と多分そんな変わらないと思う。色々思うところはあっても、給料貰ってる以上は最終的には自分を殺して会社の利益のために働かなきゃいけなくて。それが嫌な人は辞めるし、残る人はそこに自分なりの意義やストーリーを見出してその主人公としてロールプレイするか、それとも他の目的、将来の夢を実現するための当座の手段と割り切って淡々とこなすか、各々が選択して働いてるって感じ」


 「なるほどね」と、俺は自分がどちらのタイプだろうと考えながら頷いた。「一緒だ」


次の言葉を考えながらレモンの味が付いたお冷を氷もろとも口に含むと、


「あれから、色々考えてて。この前の議論について」


 と切り出された。


「一ノ瀬さんのせいでこんなに考え込むことになったんだから、責任取ってもらおうと思って」


 「変な言い方をするな」と、これがあまてら相手なら突っ込んでいた。その代わりに口の中の砕氷をぽりぽりとかみ砕いた。その後で、下品だったから溶かせばよかったと思った。


「マッチングアプリみたいな技術と、運命について。あのとき私は、運命なんてものはあってほしくない、というような意見だったけど、現実問題として広い意味では存在するんだろうなって、今は思ってる」


「一八〇……いや、一四〇度ぐらいは意見が変わってる」


「まだ脳が柔らかい証拠かな」


「でも、どうして?」


「なんかの雑誌だったかな、こんなことが書かれてたの。単語の綴りと音の繋がりっていうのは、恣意的な要素が凄く大きい、って」


 随分俺の顔が間抜けな形をしていたのだろう、王城はくすりと笑いながら、


「ええと、わかりやすいのは英語。知っている、って意味のknowって単語があるでしょ。頭のkを発音しないってやつ。これって普通のルールに沿って考えたら、この文字列はどう考えても『くのう』、だよね。だけど私は『ノウ』って読むのを知ってるし、相手も知ってる。だから相手が『know』って書いたらノウって読むし、ノウって発音されたら『know』なんだな、って分かる」


 ほん、とだけ頷いた。


「これって極端な話、『abcde』みたいな文字列の意味を、知っている、っていう意味だと認めて、発音を『ぽろりん』とする、って決めても、お互いにそう認識が一致してるのであれば成り立っちゃう。実際歴史が進むのに応じて、英語の単語の綴りってものすごいぐちゃぐちゃと変遷してるんだって。ある意味に対して、絶対的に定まっている綴や音なんてものはなく、時代に沿って移ろっていく。大事なのはその時点に生きている人たちが、その使い方について互いに合意していること、その言葉が通じるかどうかが重要だってこと」


 先に運ばれてきたキムチの盛り合わせをそれぞれの小皿に取り分けながら、


「なるほど。変な言葉遣いとか誤用に対して『言葉は生き物だ』とか『伝われば良い』みたいな反論あるけれど、それはある意味で正しいって、そういう話?」


「そうとも言えるかも。もう少し厳密に言えば、ルールそのものが大切で偉いんじゃなくて、ルールに合意すること自体が大事ってこと。だから発音や活用のルールがちょっと無視されたくらいで怒るのはナンセンスで、受け手がそれを受け入れられれば、ルールの方を実際の合意内容に合わせて変えればいいって話。で、これはもっと一般的にも拡張できる話だと思うの。私はこの話を聞いてサピエンス全史を思い出した。知ってる?」


 首を横に振った。一時期書店などに平積みされていた、意識の高そうな人間が好んで読むタイプの本だろうという偏った理解だけはあった。


「そこでは、ここまで巨大な社会を作ることを出来たのはなぜ人間だけで、他の動物には出来なかったか、ということについての考えが述べられてて。その本は、人間は虚構を信じる力があるからこそだ、って言うの。単にその場にある事象を、例えば『ここにご飯茶碗がある』とか、『牛がそこに居る』、みたいな事象を伝える事は動物にもできる。けれどそれと同じような風にして『あの山に神が居る』とか『神が人間を作った』みたいなことを伝えて、信じることができたのは人間だけだった。存在しない虚構を、お互いに存在すると合意することで成立させてきた。神から権力を与えられた王も、国も、貨幣も、会社も、何もかも、本当は実体がないけれど、『みんなでこれがあるってことにしましょうね』と信じているから成立する。そしてそれは何千、何万、何億っていう人間が同じ目的のために共同作業をすることを可能にして、こんなにも複雑で巨大な社会を作ることが出来るようになったっていう、そういう話」


 そこでようやく言葉を切って王城がカクテキを箸でつまんだので、俺も限界に近い空腹を満たすために白菜キムチを頬張った。辛いものをこれ以上ないほど甘美に感じる不思議を味わう。ご飯はまだかと苛立った。繊維質を噛み切るのは諦めて飲み込んで、


「面白いし、それっぽい話だとは思うけど、それは何か研究結果とかに基づいてるの」


「この部分については筆者の主観かな。論文とかじゃなくて、思想書じみた歴史書って建付けに近いし。でもこの説明で興味深いのは、そこで合意される虚構について、それ自体の良し悪しとか優劣みたいなことは語られていないってこと。ある虚構に合意さえしていれば、莫大な数の人間を動かすことが出来て、巨大なことを成し遂げる事ができる。言ってしまえば、どんな虚構について合意するかどうかっていうのは、それこそ恣意的でも良いってこと」


「単語と意味、意味と音の繋がりのように、なんでもいいから合意さえされればよいと?」


 王城は我が意得たりと頷き、


「例えば国の政体。資本主義でも共産主義でも、民主主義でも独裁でも、政教分離でも祭政一致でも。実際、今挙げたどの体制も、今この世界にきちんと国家として存在して、核兵器を開発して保有する程度の巨大な計画の遂行や、革命が起きない程度の安定した体制維持は達成してる。合意さえすれば、その程度のことは合意内容に関係なく実現できる」


 話の先行きの不透明さに対する俺の不安を読み取ったのか、「で、ここからが運命の話」と彼女は続けた。


「さっき言ったように、仮にそれが恣意的な対応関係だったとしても、互いに合意をしているのであれば、それは確固たる関係性になりうるってこと。その意味では、運命を信じることそれ自体が運命を成り立たせている……言わば自己言及的な自己実現能力、とでも言えばいいのかな。内容も相手もなんでも恣意的でいい、つまりどうでもよくて、お互いが同じことを仕方なしに受け入れているが全ての根幹にあるというか……考えてみれば、家族だってそうだし。反出生主義じゃないけれど、全ての人って意に反して生まれるし、産むのだって実際はそうでしょ。子供を産むって、絶対にある個人の自由意思一つで行われることはないし、二人以上の意思が絡むのならその結果は一意なものじゃなくて、ある程度あいまいな、何となくな恣意性を帯びる」


「合意が大事って言ってたのに、今の話じゃ、なんだか合意は出来ない、って言っているように聞こえるんだけど」


「自由意思によって完全に内容をコントロールできるような、設計図通りに作られる合意なんてない、ってこと。あるいは、そのときに完全に合意したように思えても、後になって振り返ったら後悔したり、現状を見たら思ってたのと違って落胆したりするわけで。大体、過去の自分の自由意思は現在や未来の自分の自由意思を常に犯しているしね。じゃあ後から直そうにも、その直す行為からも結局恣意性を排除することはできない。直しているうちに意とか理に反した事故や侵襲みたいなことが繰り返されてく。そうやって偶発的に家族みたいな合意って作られていくけれど、でもそれで出来上がったものにこそ、ある意味のほんとらしさ、現実味があって、そういう恣意的に生まれたものを、しかたなく受け入れる。つまり、そういうなし崩しな、受動的な合意が、私の言う合意。逆に、そうした合意の虚構が崩れれば、いくら血の繋がりなんてあっても家族は崩壊する。結局、家族ほど運命的な存在っていないでしょ? 運命は後付けの物語で、それはそれでちゃんといいんだと思うっていうのが私の結論」


 その熱弁を聞いて、急に目の前の彼女が哀れに見えてきた。彼女ほどの地位と収入、社会的評価を持つような人間が、ぽっと現れた得体のしれない自分という存在に曲りなりにも関心を抱いた結果、貴重な彼女の人生を費やして何かしらの空論を考える羽目になってしまった。しかしそれは著作や学術的な成果として発表されることもなく、それにも能わない、ただ一人の男にこっそり開示するくらいしか途のない思索で、しかもその聞き手の男は話半分にしか聞いていないのだ。そんな彼女に憐憫を抱く一方で、しかしそれは誰かの造った砂の城を片足でひょいと蹴り崩してしまうような爽快の感もあった。また、いずれにせよ彼女の主張――つまり、ある種の物語、文脈によって遡行的に運命は作られる、という考えも、どこか受け付け難いものがあった。俺は、運命にはもっと絶対的なものであってほしい。俺の神保町での主張を、それなりに織り込んでくれた論であることは分かる。しかし例えばせっかく出会って恋に落ちて定型的な恋愛の過程を経て結ばれた二人の関係について、昔なんでも鑑定団によく出ていた、今にして思えば声色も姿かたちも岸田文雄にそっくりなあの鑑定士に「作り自体はとても素晴らしくてですね、本物であるとすればとても貴重な価値の高いものということになります。しかし些かですね、その経緯のあらましのところに、人為が強く出ている。おそらく後世の職人が、本物を真似し、あるいは超えてみせようと意気込んで作ったのでしょうが、その力みが入りすぎてしまった嫌いがある。故に真贋としては贋作ではございますが、しかしですね、作り自体は非常にいい仕事をしていらっしゃる。むしろ実用に際しては本物よりも冗長性もあって、しっかりとした出来栄えです。これまでも沢山の思い出があったものでしょうから、普段使いにも活用していただきながら、今後もぜひ大切になさってください」と鑑定されたとして、俺は黙って居られるだろうか。


「じゃあ、自由とか平等とか博愛とか、今俺たちが信奉しているそういうものも、王城さんにとっては恣意的なものでしかないってことか」


 痛烈な、関係性がその瞬間に終焉してしまうような攻撃となることを全く躊躇せずに俺はその言葉を放った。しかし、王城は俺が期待したような動揺を見せず、


「先人が恣意的に決めたものを、後世の人たちが運命的に引き受けている、っていう意味ではその通り。けどそれは、恣意的であることイコール無意味で無価値で相対化されるもの、ってことじゃない。むしろ当たり前のものなんて何一つなく、必然じゃなくて偶然だからこそ、その偶然の価値をまず受け入れて、蔑まないで尊重しなきゃいけない。たまたま自由とか平等が生まれ得たからこそ、私たちはその当たり前じゃない概念を引き受けて、守って、壊れそうになったら少しずつ直していかなくてはいけないってこと。狙って作れるものなら、むしろ価値なんてないでしょ」


 「こちらお冷です」と銀色のステンレスピッチャーが運ばれてきた。話題を変える切っ掛けを与えてくれたことに感謝すべきかもしれないが、もっと早く割って入ってくれてもよかった。なぜこんな小出しなんだろう。肉も米もまだかよ。俺は好き放題の演説をしたあとは自己嫌悪が襲ってくるタイプなのだが、王城は言いたいことを言ってスッキリできるタイプなのだろう、俺の反応も待たず、


「それで、あの原稿だけど」


 と、カバンから紙束を取り出した。それまでの内心の曇天を一気に吹き飛ばす自動的な緊張。だって、わざわざ俺の小説を読んでこうして呼び出してくれたのだ。このまま出版だとか、雑誌なり何なりに載せてくれるとか、そんなことを言ってくれればいいなあと思わずにはいられなかった。一方、彼女があまてらではなく王城であるということが、その妄想とバランスを取る役目を果たしてくれた。なぜなら彼女は、俺にとって耳障りの良い言葉を吐かない。そこにだけは信用が置けた。彼女の手元を覗く。赤点のテストのように真っ赤に染まった痛ましい内容を覚悟していたがが、印字された原稿はきれいなままだった。


「もっと朱書きされまくったのを想像してた」


「ごめん、ちょっと時間がなくて」


 思い上がりに赤面した。当然のこととしてこんな素人の作のために、完成品に持っていくための手の掛かる作業をしてもらえる筈がない。恥じらいを誤魔化すように「お肉が出てくる前に食欲が失せなければ良いんだけれど」と軽口をなんとか叩くと、「肉食系じゃなきゃ、不倫なんてものテーマにしないんじゃないの?」と返された。


「不倫じゃないよ、これは」


 彼女はふっと顔を上げた。


「いわゆる成人向け漫画とかで一大ジャンルなんだけど」


「それはまあ、知ってる。寝取られでしょ」


 自分で話を差し向けておきながら、いざ乗ってこられると少し気が引けた。


「商業的に流行してるのは知ってるし、それに文学においてそういう不貞は、なんなら伝統的なテーマでもあるから」


「それってやっぱり」


 なるべく、抽象的でかつ学術的な探求心からの質問であることを示せるような言葉を選んで、


「文学とポルノって、なんか通じるところがあるからなんですか」


「ほかの人がどう思ってるかは知らないけれど、私は全然関係ないと思ってる。だって、感動と性的興奮は両立しないでしょ。想定外の文学性がポルノ作品に生まれることはあるかもしれないけれども、最初からポルノは全部文学だなんていって評論しにかかるのは、それこそポルノをメタにポルノ的に消費しているだけ。なら最初からポルノをポルノとして正面切って消費したほうが、ポルノに対して誠意があると思う」


 俺がこれまでの人生で口にした「ポルノ」の回数を、今の一連の発言が一瞬で上回ってしまったのではないか。内容の高尚さに追いつけずただポルノ連呼の衝撃に圧倒されていた俺に、彼女は追い打ちをかけてきた。


「今回の場合、性的な興奮を煽るためのコンテンツと、あなたが書こうとしてる小説のジャンルはすり合わせができないと思う。こんな古びたテーマや女性に対する価値観を、今あえて文学として表現するんだったら、そこに何か意味や必要性があって欲しい。仮にこれを官能小説として見ても、厳しい。会話文ばかりだし、情景描写も擬音ばかり。濡れ場の描き方とか、経験不足がありありと表れている」


 何の経験だ言ってみろ、という言葉を飲み込む。王城が紙を捲る、その細く、少し骨張った長い指をじっと見つめる。


「色々言いたいことがあるけれど、何より最後の場面。これ、なんで散弾銃が出てくるの。何かの比喩? それとも、現実にはクラッカーを持っているけれど、精神に異常をきたした夫の目には散弾銃に見えているっていうこと?」


 その問いかけは、「そういった解釈ならばまだ意味が通るけれども」という留保あるいは助け舟を多分に含んでいた。それを読み取った上で、


「いや。彼はここで、実際に散弾銃を、ショットガンを持っている。多分、レミントンのM870」


 王城はため息を吐く。店員が運んできたごはん茶碗を会釈とともに受け取りながら、


「どうして、クラッカーがショットガンになっているの」


「どのようになったか、という理由付けをしろと言うのだったら、量子力学を持ってくるけど。夫の手の周囲の空間の量子の存在確率がたまたま揺らいで、酸素と窒素原子から鉄や炭素原子に置き換わったとか」


 SFファンならそういうの好きだろ、という皮肉と受け取ったのか、王城はおしぼりを中指でとんとんと叩いた。


「ドラえもんのポケットから取り出した、とかのほうが、まだ物語としてはマシかも」


「じゃあ、これがアメリカの南部の州で起きた出来事だったってことにすればいい」


「ええ?」


「主人公はドラッグか何か決めていて、クラッカーはその隠語。最初からこいつは銃を持ってた」


 自分でもよく分からなくなっていた。なぜ素直にあり得ないことと認めないのか、幻想じみた何かを暗示できればいいなという程度の、それっぽい比喩のようなものですと降参しないのか、必死にこれがあり得ることだと主張し続けているのか。それか、「じゃあ主人公を猟師ということにします」と言えばよかったのかもしれない。だがもう後には引けなかった。


「この文章から、それが読み取れる?」


「銃が出てくるのが現実的な社会っていったら、逆にアメリカが舞台だと考えるしかない。日本人の名前で、日本語で書かれてますけれど、アメリカの日本人街で起きたってことなら納得してくれるんですよね?」


 この勢い任せな逆上を、しかし王城は真剣に検討した様子だった。メガネの弦を摘んで、ゆっくりと顔から外し、


「それは、確かに示唆がある描写かもしれない」


「示唆?」


「つまり、あなたが考えるような寝取られなんていう情けないことは銃社会では起きないってこと。あの国には男根の代わりに銃がある。男根のサイズで負けても、銃口のサイズで相手を上回ることができれば、映像を見たりクローゼットの隙間から不貞現場を見てさめざめと泣いたりするだけじゃなくて、そこに乗り込んで銃で均衡を破壊することができる。相手がどんなに筋骨隆々で男性的な魅力に溢れた存在だろうと、ショットガンで破砕できる」


「それは」


 俺は、なにかそこに大きな繋がりを予感して尋ねた。


「つまり、革命の権利をアメリカ人たちは持ってるから、ってことですか」


「革命の権利?」


 王城は、笑いこそしなかったが、俺の言葉が随分と的はずれであることに驚くような声色だった。原稿の端をかつかつと揃えながら、


「そんな夢想的な話じゃなくて、市場参加のための力が、生まれ持った肉体以外の方法でも獲得可能になってるってこと。銃のお陰でね。つまり裏切りの心理的抑制としても働くし、いざ裏切りが発生した後もその状況を更なる均衡状態へ移行させるためのファクターとして作用する。破壊的な状況転換の手段が、万人に保証されているか、されていないか、その違いは大きいでしょ。そうして自由が担保される分、より人々の意思を反映した市場均衡へ向かうことが出来る。これも同じ、少しずつ目指すべきものへ向かって行く改善のプロセス。まあ、それを一つの革命と呼ぶのならそうなのかもね。銃がなきゃ革命なんて出来ないし。それに実際、革命が瞬時に成る例なんて稀で、殆どの場合は血みどろの戦争と抗争を経ながら少しずつ行われていくプロセスだから、それも市場によって順次調整されていく過程の一つに過ぎない。話を戻すと、問題解決の手段があるにも関わらずあえて浮気をそのままにするのであれば、それはもう意図的に愛する人を奪われることを認めるわけで、いわば寝取らせになる。だから銃社会に、意に反した伴侶の略奪被害、寝取られは存在しえない」


 いつの間にか気勢を削がれ、はあ、と返事をした。日本人も再び刀を持てば、寝取られ男という不届きものを切り伏せることが出来るということか? 農民の俺が、刀を持ったお侍様に妻を寝取られる未来しか俺には見えなかった。いや違う、だからこそか。侍しか持てない刀じゃ意味がない。誰もが店で買える銃だからこそ、王城の期待する威力効力を発揮するのか。


「そういう光るところもあるんだけれど、欠点の方が多い……あとは、これ。銃が二発撃たれてるけど、誰と誰が撃たれたの」


「それは書かないことにした」


 スピード感を意識して断言した。王城は「どうして?」と、何かの不満が零れそうになっているのを覆い隠そうとしているのが見え見えな柔らかい声色で尋ねた。


「誰が撃たれるべきか、答えが出なかった。だから見てる人に委ねようと思って」


 正直に言ったのが奏功したのか王城は視線を和らげて、


「ふうん。まあ、企みとしては外してはないと思う。三人居て撃たれるのは二人だから、組み合わせは三通り、想像を膨らませる余地はある。さっきまでに言ったことが邪魔してて機能してないから、改善の余地はまだあるとして。でも、一番致命的なのは」


 店員がコンロに火を点けた丁度そのタイミングで、王城はテーブルの上に原稿を置いたから、俺はそのまま原稿が燃やされるんじゃないかと一瞬身構えた。しかし、燃やされた方がまだマシだったかもしれない。


「これ、小説じゃなくて漫画にするべきじゃない?」


「え?」


「寝取られってジャンルが流行ってるのって漫画やイラストでの話でしょ? この小説、内容的にはその意趣返しってニュアンスが強いけれど、絵に対してそうやって挑戦状叩きつけるのなら、絵でやればいいのに、漫画にしないのはなんで?」


 こいつは、分かってて言っているのか? 俺の状況の全て承知の上でそんなことを言うのか? 違くないのに「違う。これは現実にあった事件を題材にしてる。数年前――」と、俺はあまてらにした話を王城に繰り返した。すると彼女は「そう」とそれを受け入れた。完全な嘘を言っているわけではないので信じてくれて当然とも言えるだろうが、しかしそれならば一体どこまで彼女に対し嘘を築くことが出来るのだろうとも思った。その後の「もしこういうテーマを文学的にするのなら、神話とか古典、特にフランス文学を――あるいは官能小説家なら――」などと言っているのを、俺は係長の説教を受けるときのように聞き流した。ランチセットの上カルビが届いたころ、白ご飯のてっぺんは少し乾き始めていた。




 その日も割り勘で会計を済ませて、そのまま店で別れた。帰りしな、彼女が笑顔だったのが全く意味不明だった。俺の手には縮小両面印刷されA4用紙二十枚にまとめられた原稿があった。俺はそれを、神田川に流したり、神田明神の境内で火を点けて燃やしたりしたらどうだろうということを考えた。そのいずれも違うような気がして、しかし何のメモもメッセージもない、ただ自宅のPCにある.docxファイルと同じ内容が印刷されただけの紙片を家に持って帰ることも絶対にあり得なかった。何も思いつかないままにひたすら逍遥し足が痛くなった頃に秋葉原に着いた。歩行者天国の時間帯だった。大通りが警察車両やバリケードで封鎖されている。万世橋側の際から街行く人々を眺めながら俺は原稿を半分に切り裂いた。靖国通りを通る街宣車から流れている軍歌が、ドップラー効果により縮んで、引き延ばされるのが背中から聞こえる。重ねて、再び半分に切り裂いた。A6サイズとなった紙をもう一度裂こうとして、分厚すぎてやめた。そのとき強い風が吹いた。途端、俺はもうさしたる考えもなしに、手放した。風に吹かれ原稿はクラッカーの紙片のように勢いよく飛び散って、それからタンポポの綿毛のようにゆらゆらと空中を暫く漂った。南アジアっぽい雰囲気の外国人観光客の一団がそれを指さして、スマホでパシャパシャと撮ったりしているのが見えた。いくらかは総武線の緑の高架橋の上に乗っかって、いくらかは街行く人のリュックと背中の間に入り、いくらかは地面に落ちてすぐ雑踏に擦り潰され塵芥となった。まだ中空に漂う紙片がいくつかあり、俺はその全てを見届ける義務があるような気がしたが、それまで見届けるのは出来すぎにも思えて急速に興味が薄れ、背中を向けて駅へ向かった。




 翌日の月曜日、終業後に部屋に辿り着くと何もできず、皺も臭いも気にせずスーツのままベッドの上でぼんやりと壁と天井の境目を眺めて過ごした。ぶるりとスマホが震え、配信開始の通知が届く。俺はYouTubeのサブアカウントであまてらの配信チャンネルの有料会員登録(月額三〇〇〇円)を行っており、会員限定のコンテンツにアクセスする権利を持っていた。通知はあまてらがその会員限定の生配信を開始したことを知らせるものだった。Twitterに投稿予定の一枚絵のラフを描く配信で、開くといつものように毒にも薬にもならない雑談をしていた。


「それでさー、思わず五個くらい買っちゃった。普段あんまりコンビニ行かないから、妙に楽しくて……」


 暫くそれを垂れ流す。全く自分にとって透明な言葉が、するりするりと入り、そのまま抜けていく。透明なのはむしろ言葉ではなく自分なのかもしれない。それは寂しいことであるはずなのだが、今この瞬間はむしろそれが俺のあるべき帰結であるように思えた。


「あ、この前の打ち合わせ?」


 唐突にそんな言葉が聞こえて、エアバッグのように首の筋肉が爆発し俺の顔を無理やりスマホに向けた。


「そうだなー、まだ少しお知らせには時間かかりそうかも。でもね、きっと凄いの出来上がるよ……誰と? それはちょっと言えないな……でも」


 まるでそれは俺がこの配信を見ていることを見透かしているかのようだった。咄嗟に、抵抗しなくてはならないと思った。スマホの上を指が滑り、文字が打たれていく。


『女性なのに、なぜ女性の権利の侵害や女性への蔑視を助長する作品を作るんですか? 女性の社会進出を進めようと少しずつ改善を重ねている人たちの邪魔をしているとは考えないんですか?』


 それをコメントした瞬間、他のコメントは一瞬『なんか変なの湧いた』『わざわざお金払ってまで来るかね』とぽつぽつ反応した後、最終的に俺のコメントを黙殺した。しかしあまてらは、


「お、なんか長文きた。女性なのに、なぜ……ふんふん」


 鼻で頷きながら読み上げた後に、「でもさあ」と、滔々と彼女は話す。


「近現代的な社会すら、そもそも抑圧される女の存在を前提に作られたものじゃない? なんだとしたら、それはもうそもそも後付けで改善可能なものなんじゃなくて、女性にとっては根本的に誤っているんじゃないかと思うけどなあ。たまにそういうことも考えるんですよー、これでも。SDGsとかって言うけれど、結局人類が使える資源の量って、絶対に限られてるじゃないですか。それを本当に持続可能に使い続けていくんなら、人の数はそもそも少なくなるべきだよね。こんな風に、無尽蔵に増え続けたうえで、その人数を前提にして持続可能性を考えようっていうのがそもそも男性的なんじゃないかなって。この前イーロン・マスクが日本の少子化を気にするツイートしてるの見て、こいつ一体どの立場で何を心配してるんだろうって、気持ち悪すぎて吐きそうになっちゃったんだよね。これほど人口を増やすことを可能した、技術とか思想とか作ったのって、だって大体男でしょ。男って、子孫を増やすのが生き物の本能だ、だから色んな女に目移りするんだ、とかって言うし、それも短絡的だなって思うけれど、仮に生物に何かしらの目的があるとして、それは増えることじゃなくて、残ることじゃないの? もしも生物学的な束縛から純粋に女性が出発してたとしたら、自分の子供と近所の子供を幸せにするのが第一で、その上で、その願いの連鎖が右隣の家から出発して、左隣から帰ってきてくれれば、願いの連鎖が一周繋がってくれさえすれば、それでよかったんじゃないかな。もちろん、今生きる女性の権利や主張を蔑ろにするわけじゃないよ? でも、人権とか近代的な自我とか自己決定権とかも、結局男が面白半分、ファニーじゃなくてインタレスティングの方、つまり好奇心半分で作って弄んでいた概念、虚構って言っても良いかもしれない。それが良いものだ、なんてことを暗黙の前提にしたゲームに無意識のうちに乗せられて、本当は欲しくないものを欲しがらされているだけなのかもね、今の女性は。もしそんなものから完全に解放されて、自然な状態から女性に基づいた世界を構築することができたら、むしろそっちの方が人類は持続可能なのかもしれない。数十億も増えて地表を埋め尽くして、それで持続可能性とか嘯きながら結局あと数千年くらいで資源を使い果たして絶滅するよりは、東アフリカから地中海辺りに広がるにとどまって、そこでせいぜい数百万から数千万人くらいの人類が、地縁的な規模のコミュニティーを作って、地下の資源も火星も無視して遍く地表の恵みを採取してそれを食べて、暇なときには洞窟で絵を描いて……あ、知ってます? フランスとかスペインの洞窟に、世界最古の壁画が描かれてるって話。あれ実は、大半は女性が描いたんじゃないかって研究結果もあるらしいですよ。女性ってもしかしたら皆さんが思っているよりも更に独特なのかもしれないですよ。ともかくそういう暮らしをして数十万年とか数百万年、うまく行けば数億年単位で続く方がよっぽど持続可能で、もしかしたらそれこそ女性的文明の一つの帰結だったかもしれない。ぽっと浪費の末に太く短く消滅する男の文明よりもその方が幸せかもしれないし、それを目指すっていうのは、女性にとってはよりインタレスティングなんじゃないかな、ってシンプルに思いますけれどね。まあ、男は男でいいところや凄いところもありますけど」


 コメント欄は、『あまたやどうしたの〜?』『そいつが調子乗っちゃうよ』と困惑に包まれている。こんな配信を見に来ている人々は男を批判されれば本来インスタントに切れまくるような層のはずなのだが、あまてらの言葉は女性も同時に批判しているようで、どう判定するか決めかねているようでもあった。しかしその喧騒は今俺とあまてらの間にはなかった。互いに剣先を触れ合わすことができるような間合いは、完全にこの前対面したときと同じであった。俺は反論材料をネットで探し、時折王城の発言を二次創作しながら、


『確かに過去にそういう可能性に進んでいたら、そうなってたかもしれない。けれども現実には今の状況がある。男が女を抑圧し、ジェンダーギャップは埋まるのにあと三〇〇年は掛かるなんて言われていて、LGBTQにも改めて真正面から向き合わなければならない。そんな状況で、仮想戦記みたいなIFを論じても慰めになるだけで実行力は持たないですよ。所与の前提は仕方なく受け止めて、それを少しでも今生きている人々、次に生まれる人々のためにどうよく出来るかを考えなくちゃいけない』


「実行すればいいと思うな。革命って、そういうものでしょ? 所与を疑って、連続性なんてぶちっ、って破断して、ぶっ壊せばいい。女性も、LGBTQも、もう革命を起こせばいいと思う。現代の民主主義も資本主義も、全部男が考えて作った思想の上に成り立ってるシステムじゃないですか。男じゃない人にそんなの守る義理はないと言っちゃえばいいんですよ。全人類で多数決を取ったら、女が勝つんですよ? 覚悟ある人が頑張ってアメリカ初の女性大統領になって、核ミサイルばーんって撃って一回人類を滅茶苦茶減らして、そこから女性の文明を作ればいい」


 頭を抱えた。顎を摩り、「なんでこんなベラが回るんだよ」と唸った。それでも粘り、粘って、ふと言葉が降りて来た。


『じゃあ、革命は女性の概念なんですか? 男の暴力性が作ったものじゃなくて?』


 俺の問にあまてらは「うーん」と少し唸った後、


「わたし、量子力学が好きなんです」


 と返した。反論になっていない、と俺がコメントを打つ前に、彼女は言葉を続けた。


「あの何だか無茶苦茶で、何でもありな感じ、物理学なんて微塵も理解できなくてもカッコいいって思っちゃいますよね? シュレディンガーの猫とか、二重スリットだとか、多世界解釈とか。自動車作るのにどれだけの人が苦労と犠牲を捧げているのか考えたら辛いですけれど、それでも車をカッコいいと感じる気持ちは止められないじゃないですか、きっと。それと一緒で、物理学者からしたらわたしが感じる面白みなんて噴飯か不快しかないのかもしれないですけど、それでもカッコいいと感じちゃいますよね、あんなの。量子って、つまり離散なんですよ。ある数値からある数値へ、とびとびに移る。そしたら社会だって、ちょこちょこ連続的に変化するなんて不自然で、あるところかあるところに、色々すっ飛ばして一気に移り変わることこそが、自然なことだと言えるんじゃないですか?」


 俺は暫くその言葉を転がして、


『ミクロの理論でマクロな社会を分析するのはあんまり上手じゃない』と返した。だが、革命が誰のものかという俺の反駁自体、ただの揚げ足取り以上の意味を持たないのだから、それ以降の彼女の失点は議論の勝敗に影響しないことも分かっていた。そして通報が殺到しコメントが非表示扱いになったせいかその返答も、その後もう一つ書いたコメント、『どうしてそんなに、他人事のように女性を語るのか あなたの問題でもありますよね?』も、読まれることはなかった。








四、

 いくら家でキーボードを狂ったように叩くことを趣味にしているといえども、一向に業務で文字を打つことが楽になることはなかった。それでも確実に賃金に繋がるこの作業よりも、一銭の金にもならない趣味のほうがより身が入るというのはなんとも不思議なことこの上ないが、それは自分の作業というものがいかなる付加価値を社会に生み出せているのか、なぜキーボードの上で指をバタバタさせているだけで俺は生活をすることができているのかが分からないという根源的な不安にどこか関係しているような気がした。それがあのときの父親の製造業信仰を裏付けているようにも思え、一層心は暗くなる。


 一昨年まで居た管理財務系の部署は、社内の統制監視機能を担っていた。そう言うと聞こえは良いが、要はお役所仕事である。現場部門の作った経費申請書や稟議書に不備があればそれを指摘し差し戻す。些細な誤字を見つけても、そこを黄色マーカーでわざわざ塗って示し、差し戻す。二〇代の若手社員が、三〇代の課長級、四〇から五〇代の次長、部長級相手にそれをやるのだ。本来、内容に影響しない明らかな変換ミスのような誤字など、勝手にこちらで直しても良い。しかしそれでは現場の人は同じミスを繰り返し続ける。だから丁寧に指摘し、訂正点を覚えてもらえれば今後のためになる。そのような義侠心に基づいた行為だと教わって、その通りの心持ちで実行した。異動後、今度はその稟議書を書く側の立場になった。稟議書の不備を朱書きされて突き返されたときに、そのあまりの嫌味ったらしさに俺は発狂して頭を掻きむしりたくなった。そしてこれまで突き返してきた相手に自分がどれだけの恨みを買っているかを考え戦慄した。


 俺はその朱書き塗れの稟議書に向かい合っている。腹立たしいことに、読み直していると指摘されていないところでもどんどん改善案が湧いてくる。一文目はもっと端的にできる。ここは文言よりも図表で説明したほうがいい。ああ、ここは前に出てきたことを繰り返し述べてる。あれ、この記述は裏取り出来てたっけ……メールは残せてない、なら突っ込まれるのも嫌だし本論には影響しないし削除しよう。誤りが訂正され、軽やかなタイピングと共にどんどんと見栄えが良くなっていく稟議書に反比例して俺の苛立ちは増す一方だった。なぜこんなものに良いアイデアがどんどん湧くのに、あの小説の改善案は一向に浮かばない? 「小説じゃなく漫画にするべき」? 「しないのはなんで」? 


 絵が描けないからだよバーカ。


 絵を描けないから、漫画描けないからライトノベル書いてるような人だって沢山いるだろ? 言わないで、上手に隠してるだけで。俺だってそうだ。嫉妬してるよ、美しい、可愛い、理想の人を、その手で自由に描いて、世界にあらしめることができるんだから。だからAIが絵を描くようになったって聞いて、自分の仕事も自分の趣味も奪われるかもしれないなんてことから眼をそむけて、怒りを撒き散らす絵師たちにこっそり「ざまあみろ」なんて思ってたのだ。ああそうだ。あまてらのイラストを違法に学習したモデルを使って漫画を描いてやろう。違法ダウンロードなどするよりも、よっぽど収奪の興奮を味わえるに違いない。


 小説の話に戻れば、そんな人たちの書く文章にだって買手は居る。いくらでもメディアミックスされて、アニメでも漫画でも語ることが可能な物語が小説という媒体で未だ売れてるじゃないか。ならそんな、「小説でしか」というものが本当に需要されているなんて、ただの思い上がりなんじゃないか。書きたいやつが書いて、読みたいやつが読む。それでいいじゃないか。なあ王城、お前の言う市場って、そういうのを肯定してくれるもんじゃないのか? あいつ、結局わざわざ焼肉焼いて食って、最後までタバコの一本も吸って見せなかった。吸える店だから選んだんじゃないのかよ。


 じゃあ売れないときどうするんだ、お前の価値はそれで否定されるのかと言われるかもしれないが、しかし結局俺にはこんなものしか書けない。読まれるかどうかに関係なく、俺には書けるものしか書けない。俺に出来ることしか、俺には出来ない。


「おい一ノ瀬」


 その声に反射的に立ち上がった。それまでの思考はすべて白飛びした。


「ちょっと来い」


 その言葉から始まる一〇分程度の係長からの叱責が終わり、「ありがとうございました」と小さく頭を下げてから席に戻る。周囲からの視線が痛い。そう感じてちらりと見やるが、実際には彼らの首も眼もそれぞれのモニターに向かっており、こちらを見ている訳ではない。しかし杞憂のはずがなく、不自然に固定され微動だにしないその視線の角度こそが、こちらに意識が向いている何よりの証拠であった。


 ぽこん、と社内チャットが送られてくる。


『今日は一ノ瀬の番だったな、お疲れ様 最近パワハラっぽさが増しててるな』


 少し上の年次、平社員の中では一番年齢の高い先輩からだった。ちらりと彼の席を見るがやはりこちらを見てはいない。同時に、こちらに視線を向けるな、というメッセージでもあるのだろう。自宅のメカニカルとは比較にならない、ぱたぱたというぬるい打ち心地のキーボードを叩く。送信。


『自分はまあ、あからさまに自責でミスってるのでいいんですが ほかの人の些細なミスにもあのテンションだとマズいですよね』


 三分の二は本音だ。自分のミスが原因であることを素直に受け入れているのはそうだし、一方であの怒り方が部全体を委縮させているのも間違いない。今回個別の事情については受け入れつつ、一般的にはあの言動は許されない。そのような意見表明だったわけだが、この出来事についても別に係長の言動を俺が許容しているわけではない。というより、よくあんなに呑気に罵倒をまき散らすことが出来るな、と思う。もし社員の一人が精神異常者で、カバンにナイフを忍ばせているような手合いだったとしたら一体どうするつもりなのだろう。当然それを振り回せばそいつは裁かれるだろうが係長を捌くことには流石に成功するだろう。床に血まみれで倒れ伏し意識が失われていく中、しかし法が犯人に報いを与えるだろうと安心しながら死ぬことができるとでもいうのだろうか(当然、このような仮定はあくまで思考実験の便宜として置かれているものであり、俺自身にそうした内的欲求はない)。そう考えると、彼は俺に「視野が狭い」と叱責していたのだが、そう言う割には、彼もまた人生の安全保障を十分に考えられていないという意味で視野が狭いように思う。それとも仕事をしている間は、他者の行動には仕事のルールしか適用されないとでも思っているのだろうか? だとしたらあいつは随分なゲーム脳だ。人の行動を縛っているのは、究極にはただ物理法則のみだ。


 じゃあ、なぜ俺は物理的に可能な範囲で最も良い小説を書くことができないんだ?


 書くことに挑戦していないから。


 じゃあ、なぜ挑戦しない?


 挑戦して失敗することが、自分にそんな能力がないことが分かるのが、怖いから。


 ぽこん。意識のピントが眼前のモニターにぎゅっと戻ってくる。まったく。仕事の手を抜きまくってようやく、エヴァを安っぽくしたような悩みしか捻り出せない自分が、酷く憂鬱だ。


『そろそろ事例も溜まってきたし、部長に報告するわ』


 本当にそれが行われて、改善につながるような気がしなかった。どちらかというと先輩が、人は好いが事なかれ主義な部長とグルになって、こうして俺にケアもどきをすることでガス抜きをしている可能性の方が高い。そう思いながらも俺は感謝を伝えた。すると夜、飲みに誘われた。あの若手交流会以来の飲酒の機会だった。


 食べログの点数が三・〇二の新橋の居酒屋で午後九時から始まった会は、係長に対する愚痴合戦のために開かれたはずだった。しかしいつの間にかつい先週彼女に浮気されて別れたのだという話に切り替わり、それが会の真の趣旨であることを知った。憎き寝取り男は総合商社勤めで年収は我々の二・五倍、ランボルギーニのSUVに乗り、赤羽橋の共益費込み家賃三十万円の1LDKに住んでいる。興信所が撮ったという間男の写真を見せてくれた。紺のスーツを腕と胸の筋肉でパツパツに膨らませていて、自動ドアと内側のオートロックドアの間の空間ですら俺の部屋より広いような豪奢な共用エントランスに先輩の元彼女と腕を組んで入っていく様子を写したものもあった。男の顔を「ゴリラみたいで不愉快っすね」と馬鹿にして先輩のことを立てながら、俺は元カノの蕩け切った表情から目が離せなかった。


「なんというか、浮気ってマジであり得んわ。一ノ瀬昔さ、好きなAVのジャンルについて話したときに寝取られ系が好きって話してたじゃん」


「……あー、話しちゃってましたね」


 そう絞り出してから、ビールをいつもの倍くらい多く口に含んで、無理やり飲み込んだ。


「実はあれ聞いてからさ、俺もこそこそ見てたのよ。まあちょっと俺もMっぽいところもあるじゃん。だからそういう意味で楽しんでたんだけど、けど浮気された瞬間、もう完全に無理になったわ。あれはね、本当にその苦痛知ってたらね、とても見れない」


 俺は「どうなんですかねえ」とはじめ適当に流そうとした。しかし段々と胃の中に溜まりすぎたビールが泡を立て捲っているせいか、口から勝手に言葉が出て来ていた。


「でも、実際に体験したからこそ、それで性癖とか感性が歪められるとか、刺激が増すとか、そういうこともあるんじゃないですかね」


 先輩はきょとんとしてから、鼻で笑った。


「本当に好きな相手についてのことじゃなけりゃ、自分の性癖を気にする余裕もあるんだろうな。俺はさ、あいつと家族になって、子供も持って、家も買って、そんなことを真剣に考えてたわけ。俺一人で。バカみたいだよな」


 すみません、と頭を下げると、先輩は手をひらひらと振った。そのまま、身体の芯からしなびた、ひらがなの「ら」のような姿勢で空のグラスを呷る。机に置かれたのを見計らって、別に視線が向いてもいないのに俺はラベルを上にしてビール瓶を持って、そのグラスに注いだ。


「それでも、子供が出来る前でまだよかったよ、マジでさ。母の不貞で、一家離散。そんなことになってたら、一体どれほど辛いもんか分からんもんな」


 どう返すかとめどなく迷った。離散というのは量子力学の観点から見れば自然の成り行きらしいですよ。違うな。子供と夫の前で、妻と間男がセックスを堂々と見せつけるような胸糞悪くなるタイプの同人誌もあるんですよ。これも違う。あれこれ迷っているうちに、「家族を持ちたいって気持ち、そんなに変か?」と尋ねられた。


「いや。俺だって憧れてはいますよ」


 言った傍から自分の言葉が怪しくなる。脳裏に父親の顔が浮かぶ。俺と父の微妙な関係を顧みたうえで、なぜ無批判に家族に憧れることが出来るだろうか?


「俺、言ったっけ。メンターやってんのよ」


「ああ」


 ありましたね、そんな制度、とは言わなかった。入社一年目の新人に対して他部署の中堅社員が担当に着き、。社会人一般についてのアドバイスをしてくれるという制度だ。正直何の意味があったのか受けた頃は全く理解できなかったし将来やりたい気持ちもなかったが、まさにそれを進行形でこなしている当人の前でそれを言う勇気は流石にない。先輩は犬歯を出す。


「それで俺、榊の担当になってるのよ」


「……おお」


 絶対に不自然な反応の遅れを見せたにも関わらず、先輩は一切それに気付いてはいなかった。ただ無意味にビールの入ったグラスを回し、泡が一つ一つ潰れていくのを睨んでいる。


「で、メンターって一緒に飯食いに行ったりするじゃん。そんときにあいつと、将来のキャリアプランの話になったのよ。参考にしたいって言うから、そんときはまだあいつの浮気も知らんかったし、俺のライフプランも併せて話したら、『なんで家族を作ることを人生の中心に据えたいんですか』って聞かれてさ。まあ、俺だってあいつの入社式は見てたから、別にそれは当たり前のことじゃないなとは、自覚したわけよ。だから俺なりにその場で考えてさ、自分が家族で感じた幸せとかを、新たに生み出したり分け合ったりしたからだって答えたわけよ」


 一聴した限りでは、誠実な回答に思えた。


「そうしたら?」


 コン、とグラスが机に置かれた。


「あいつ、『先輩のそれは、自分自身の欲望なんですか? 一体どこで得たものなのか、自覚した上でそう言ってるんですか? その目的は本当に、家族じゃなきゃ実現できないんですか?』とか言ってきやがった」


 苦々しげに先輩は吐き捨てる。


「親が居るから、俺が居る。どんなに親がクソ野郎で、親が望まず自分が望まず、そんな最悪な状況でさえ、親の後に子が居ることだけはひっくり返りようないだろ。その影響だって同じだ。あいつが言ってるのって、その当然を疑ったのか? っていう難癖じゃんか。親によって作られる自分は独自のものじゃないっていうのなら、この世に独自に立つ人間なんてあいつ含め一人だって居ない。無から勝手に生まれたのは原初の生命だけだろ。あいつにこれまでどんなことがあったか知らないし、知ろうとしても今どきはアウティングだなんだって燃える。人事部に口酸っぱく言われたよ、変なこと話したり聞いたりすんなよ、ってな。けどそんなん知らなくたって、あいつの底は知れた。本当はそこで反論したかったよ。お前のその、子供も家族も要らないって感性だって、望むでもなく生まれ持ってのもんなんだろ、じゃあそれをお前は疑い切ったのか? って」


 その後先輩は浴びるようにハイボールを飲んで、「同棲解消して迷惑を掛ける奴も居ないから」とガールズバーに向かい、そこで女の子に浮気のことを話して「えーかわいそー! そんな奴らのこと飲んで忘れよ!」と唆されるままテキーラのショットを五、六ほど呷って、完全に潰れた。その直前むにゅむにゅと、言葉と排泄物の中間にあたる何かを漏らした。「でもね、あの男も被害者だよ。あんな女つかまされる羽目になったんだから」。堂に入った負け惜しみに苦笑するが、「だって、だって、ちんぽで奪える女だぜ? ってことはちんぽで簡単に奪われるってことじゃんか?」と崩れた呂律で言われて、少し考えさせられた。といっても脳がふわついているので大した思考は纏まらない。少なくとも、先輩の榊に対する反論は行われなくて正解だったとは思った。何故なら榊のような立場の人間が自己への疑念を突き詰めずに済むほどにこの世界は寛容でないし、それに話を聞く限り榊は、家族が欲しくないなどとは一言も言っていないからだ。榊のことはこれ以上俺だって知る予定はないし、関わるつもりもないが。


 トイレでゲロを吐いて、店の前のアスファルトの上でぐったり横たわっている先輩を、丁度止めたタクシーの後部座席に土嚢を積むような気持ちで押し込む。財布を彼のカバンから取り出して免許証を見て、今や部屋の一つは空っぽになったという亀有の家賃十五万2DKの住所を運転手に告げた。本当に腹が立っている。新橋で飲むと言われそれを了承したのは、市川まで総武線快速で一本で帰れるからだ。それがこんなタクシーで先輩の家までランデブーしてから市川まで行くなんて、幾らかかるのやら。


 深夜のタクシーは遠慮や慎重という言葉からもっとも縁遠い。一般道を高速並みのスピードで駆け抜け、カーブはスキール音が鳴らないのが不思議なくらい減速不足で遠心力が体をドアに押し付け、首都高の下をくぐるアンダーパスを抜けるときなど腰の浮き方はジェットコースターだ。しかし尋常でない速度で流れてゆく東京の夜景は非日常の色に満ちていて、それを眺めることは喜びでもあった。乗っているのが自分一人であればの話である。こちとら車窓を流れる夜景を見て感性の肥やしにしたくてたまらないってのに、なんで自己管理もまともに出来ない男がゲロを噴出してしまわないかを絶えず気を張って見守らなきゃいけないんだ。傍らの先輩が呻くたびに俺は手元のビニール袋をスタンバイする。普段はなめらかな彼の頬が、今やぽつぽつと青髭に食い破られているのを見て、他者の陰部や汚物を見てしまったときのような気不味さを覚える。そしてそんな俺の引け目もつゆ知らず間抜けに唸ってるゲロ時限爆弾に、明確で計画的な殺意を抱いたとして責められる謂れはないだろう。その感情を暫く燻らせた後に、自分の中の破壊的な衝動の存在を恥じた。俺は先輩の股間に視線をやる。彼のペニスは、あのゴリラのペニスよりも貧弱だったのだろうか。先輩はゴリラ男の虚飾を先ほど熱心に批判していた。しかし寝取られの文法によれば、金による成功すらも容姿の優劣すらもペニスは容易に転覆可能だ。部長の美人妻などが、配達員やホームレスなどに寝取られることだってざらなのだ。ペニス以外の勝ち負けは全て、ペニスによって覆すことが出来る、それ以外は年齢も顔も年収も性格も全て無意味で無価値というのが寝取られというジャンルの唯一の交戦規定であった。ペニス一本立志伝。


 暫くして、すやすやと先輩が規則的な寝息を立て始めて、ようやく窓の外に視線を移したが、既にタクシーは隅田川を越え墨田区の下町に入っており、ビルが織りなす立体的な夜景は消え失せてしまっていた。もしあのとき米軍が焼夷弾で市街を焼き尽くしていなかったら、今頃この本所の辺りにも高層ビル群が立ち並ぶような大きな副都心が出来上がっていたのだろうか。そんなことを考え少し感傷的になっていたが、段々となんだか戦争、もっと言えば敗戦というものに、あえて不謹慎な表現をすれば俺はどこか可能性を見出しはじめていた。国家総力戦における敗北というのは外圧の最上あるいは最悪の形態で、生きる者死んだ者その全ての価値と評価が一瞬で革命のように逆転する。多くの戦犯が自裁することもなくその後民主主義国家の再興の立役者に平気な顔して成り代わっていったことを思えば、それに負ければ俺は、生まれ直しや再起動などを経なくても俺の感性や価値観を決定的に変えることが出来るのではないかと考えた。大学の頃に教養科目の憲法学で習った「八月革命説」を思い出す。今どき、血を流さずに革命的に敗北する方法はいくらでもある。だが結局、そんな破壊と罪悪の記憶すらも真なる変革をこの国にもたらすには至っていないことに思い当たり、そのアイデアを放棄した。


 久しぶりに自分のスマホに目をやる。あまてらからのダイレクトメッセージが届いていた。既に下町の平坦な道に入っているのに、身体がビクリと跳ねた。


『今週末に時間が出来たので、秋葉原に行きませんか? 今度は同人誌巡りとかしたいです!』


 凝視する。


『この前のご相談の件、まだ検討中です』


『全然! 一旦、それはさておいて田井中さんとまた遊びたいな、って!』


 次の瞬間には応諾していた。反射的に湧いた無防備な喜びと、彼女に会うべきではないという心の声の葛藤を、大手インフルエンサーの誘いを断ればどうなるかわからないという打算で覆い隠した。「酒の勢い」とはよく言ったもので、実際アルコールの作用というのは未知の選択肢を啓示のように与えるものでも可能性を拓くようなものでもなく、ただ自分の言動の決定についてブレーキを弱めその勢いを加速するものに過ぎない。それに、俺はあの配信でのあまてらの発言を聞いて、随分彼女について分からないということを再び自覚できた。知ったような気で居た自分を虚心坦懐に見つめ直し、改めて彼女との接し方を探す気になった。さっそくその週の土曜日の午後に予定が組まれた。隣で先輩が水っぽく、溺れるような音のげっぷをして、彼のボタンダウンのワイシャツにペットボトルのキャップ一杯分くらいのゲロを零していたが、もうどうでもよかった。




 土曜日の朝、窓から差す朝日を目覚ましに午前八時に起きて、朝食のカップラーメンを食べ、少し外を散歩して、家に戻ってオナニーをした。三枚重ねたティッシュペーパーをくるくるとまとめ、体液が滲み出しはじめたそれをゴミ箱に投げた。軌道は逸れ、びっ、という音を立てて床にへばりついた。




 秋葉原駅の電気街口改札に近づくと、改札の向こうであまてらがこちらに小さく手を振るのが人混みの中からでも直ぐ分かった。改札にスマホをタッチしながら、左手を挙げてそれに応じた。彼女は、百インチはあるだろう、構内にいくつも設置されている縦長のデジタルサイネージのひとつの前で待っていた。駅の柱という柱を覆うサイネージが、どれもまったく同一の姿かたちの二次元の美少女を映し出す中、あまてらの待つ柱だけが一際光って見えた気がして、自分がどれだけ馬鹿正直に今日を楽しみにしていたのかを知った。


「お待たせしました」


「いいえ、わたしも今来たところです」


 ありきたりなセリフの応酬に思わず二人で笑った。今日の彼女の、ベージュのニットワンピース越しにはっきりと見て取れるくびれたボディーラインに言及するか迷ったが、性欲を帯びさせずに誉めるテクニックを持ち合わせてなど居ない俺は、ただ彼女の眼を見て笑った。


「本当に? 待たせてたなら、何かお詫びしなきゃいけないと思ってたんだけど」


「えー? それじゃあ、待ってたことにしようかな」


 背にした画面に表示されるライトノベルやスマホゲームの広告が忙しなくぱっぱと切り替わる度、彼女の白い肌が画面の放つ緑やピンクに染まる。


「今日は、取り敢えずはメロンブックから?」


「そうだね。あそこ狭くて通りにくいから、荷物が手軽な内に行っちゃおう」


 電気街口を出ると、ラジオ会館やソフマップの並ぶ、秋葉原の玄関口とも言えるような光景が広がる。そこに広がる道は普通の車道なのだが、日中に自動車が通っているのをこれまで一度も見たことが無く、歩道と変わらない様相を示していた。atreのガラス面に大きく貼られた、今売出中のアニメのキャラクターたちのイラストのラッピングの前で人々がたむろし写真を撮っている様と、その横に立つ古びたポール時計を見る度に、秋葉原に自分が来たことを感じるのだった。


「最近はお仕事忙しいんですか」


「結構。毎年この時期は忙しいから、覚悟はしてたんだけど」


 秋葉原電気街のメインストリートである中央通りを目指し歩みを進める。土曜日の昼は歩行者天国も行われていないので、秋葉原の道は特に人の密度が高くなる。自然と並んで歩く距離も近くなり、あまてらの耳元のピアスに施された細かな意匠までをはっきりと読み取ることが出来た。しかしその視線を気取られてしまう前に無理やり視線を前に向け、正面にそびえるオノデンの大型サイネージを睨んだ。


 総武線の高架橋に沿うように走る、中央通りの横断歩道を二人で渡る。向かいから無言で歩いて行く男がこちらに真っ直ぐ歩いてくる。避ける気配がないので左にずれようとすると、あまてらも合わせて左にずれた。向かいの男は表情を変えなかったが、身体の向きは少し変え二人を躱した。


 オノデン側の歩道に着くと、赤信号で止まっている痛車にあまてらが目を向けた。釣られてそれを見やる。シルバーの国産車のセダンに、二年位前に流行ったアニメのヒロインが、後部座席側のサイドガラスまでを使って広々と描かれていた。


「さっきのキャラ、なろう系の小説のやつだよね」


「ですね」


「あれも主人公が無双するタイプのやつなのかな」


「そうなんじゃないですか? 詳しくは知らないですけれど」


「なろうだと、絶対に寝取られって流行らないんだろうな。この前覗いたら、寝取られた女に対して復讐する話ばかりだったよ。しかも結局可愛い女が慰めるようにして無条件に寄ってきてさ、ハーレムの変種でしかないんだよね……」


 そんな批判を展開しようとして、しかし歪みに気づいた。美しい女に囲われて幸せ、という物語と、そんな美しい女との愛が破壊され他者に奪われていく物語が同時代に流行っている。それは偶然なのか。分かりやすく単純化された歪みを需要する人々、供給する人々。それを「成り立っているからそれで良い」と肯定するのは、極めて王城的な態度ではないか。相反する両者の共犯関係に言葉を詰まらせる俺を差し置いて、あまてらは言った。その顔は見えなかった。


「ああ。あれって甘いですよねえ。本当の愛を見つけた人が、どんなことされたところで後悔とか心残りとかする訳ないのに」




 中央通り沿いに多く建つゲームセンターのビルの一つの地下一階に、最初の目的地であるメロンブックスはあった。ただでさえ狭い通路に巨大なクレーンゲームマシンを並べて更に狭くなった場所を何とか抜けて、店頭に置かれたアルコールで手を消毒する。地上階から見える範囲はまだ穏当なイラストが多かったが、下へ続いていく階段をちょっと降りた壁にはもう、色々な同人誌やエロゲーの、肌色の度合いが極端に高い巨大ポスターがビタビタに張り出されている。


 あまてらはそこに気心を知った作家の絵を見つけたのか、近寄って、誰々先生のだ、凄い、と興奮した声で小さく叫んだ。


「お知り合い?」


「はい。昔からpixivで仲良くさせてもらってて。色々アドバイスも頂いてたんですよ、コミケに出せばいいのに、とか、出すならこうしたほうが良いよ、とか」


 へえ、と無理やり返事を絞り出して、改めてその誰々先生のポスターを見やる。今風のどことなく線や色遣いの淡い絵で、当然のように上裸で乳首までが露出していた。きちんと素敵な絵だったので、あまりちゃんと見過ぎるとその場で容易に勃起しそうだった。その時丁度下から上がろうとする客が見えたので、二人はポスターを離れて歩を進めた。


 店内に入った途端、この秋葉原の街を煮詰めて熟成させたような、濃厚な香りが鼻孔を突く。汗や生乾きの洗濯物の饐えた臭気。声優かバーチャルユーチューバーであろう女性の歌唱による、爽快さと切なさを打ち込みのサウンドで纏めたような曲が流れる店内で、狭い通路の中を大量の男たちが、無言ですり足しながら少しずつ対流している。成人向けの同人誌に相見えるには店の少し奥の方へ行く必要があった。するとあまてらがこちらにアイコンタクトを送った後、すっと躊躇なくその流れの中に向かおうとする。


 それに着いてゆくと面白い光景に出くわした。通路の両脇で、平積みされた同人誌を俯きながら真剣に吟味している男たちの間を、あまてらが身を捩りながら通り抜けようとする。ちょうど背中合わせになっているところはもう無理矢理ねじ開けるほかなく、狭い隙間に細い肩、胸、腹と尻、脚という順で身体を擦り付けながら通っていく。一人、襟から白いタグを飛びださせたヨレヨレアニメTシャツの男は舌打ち混じりに後ろを睨もうと振り向き、途端にあまてらの姿を認めて驚きに眼を見張る。そして先程の背中に触れた感触が、脂ぎった男のものでなくあの柔らかくしなやかな肉体によってもたらされたということを覚ったのであろうその瞬間、その男の股間が僅かにもぞりと動くのが見えた。きっと彼女の甘い香りも悪さをしたのだろう、ひゅっと息を吸った後、男は目を閉じてギュッと下を向き、さり気なくポケットに手を入れて股間を正していた。勃起していたのは明らかだった。


 ここまで動物的な反応を見せてくれたのは流石に一人だけだったが、その他にもあまてらのことを思わず眼で追いかける大学生風の男や、あるいは何の遠慮もなくじっくり彼女の頭から爪先までを遠目に視姦する眼がぎょろりとした中年男性などが居た。それを見て、優越感に浸ることを我慢できるほど聖人君子ではなかった。あまてらと会話する自分に向けられる殺気にも似た視線にホモ・サピエンスのオスとしての優越感を感じ、加えてその実二人の関係性が全く性愛を廃したものであることに、今度は人間人格としての余裕に似た優越感を感じていた。


「田井中さん、こういうの絶対好きですよね」


 横に並んだあまてらがそう言って見せてくれた表紙を一瞥して、俺は二度頷いた。




 らしんばんや駿河屋にも足を運び少し前に話題になっていた同人誌を探して回る。気がつけば二人の両手には一杯の紙袋があった。


「流石にこんなに紙の同人誌を買ったのは俺も初めてだよ」


 あまてらは「わたしもです」と快い顔持ちで、


「別に、買おうと思えば電子版でも、通販でも、買えるって分かってるのに。なんでこんな楽しいんですかね。宝探しみたいな気分になれるから、なのかな」


 その言葉に、先日の王城とのデートの会話を思い出した。王城による迂遠な例えよりも、あまてらの純粋そうな言葉の方がよりずっと取り回しが良い。


 購入した作品をさっそく読んで語り合いたい、あまてらがそう言うので、それでは前回使ったカフェにもう一度行こうかと提案する。あまてらは頷き、二人は中央通りを東へと歩き始めた。この街ならではの光景はそこら中に転がっていて、それは道端でフィギュアやカードを並べて友人と確かめ合う人々や、甲高い声で客を呼び込むコンカフェ嬢が街灯のように並ぶ様、あらゆる建物の壁面という壁面を余すこと無く埋め尽くすように描かれた二次元の美少女、赤軍と米軍と旧日本軍とナチスの軍事車両のプラモデルが横並びにされているミリタリーショップ、などといったものだ。その何れも「許されている」。もちろん街ごとに特色があり、それぞれの文化や景観の傾向といったものはあるだろう。神保町には神保町の、上野には上野の、原宿には原宿の街並みがあるように。しかし秋葉原のそれは、丁度歌舞伎町における外国人犯罪やぼったくりのバーや家出少女達の野営キャンプといったものと同じように、本来あるべきでないものが、如何ともしがたいものとして「許されている」だけのものであるように、そう感じられた。そして、あくまで許容が一時的でしかない歌舞伎町に比べれば、もう何十年という単位で許容されているこの街は、浅草の仲見世通りの域に達しようとしている。


「もしかしたら俺は、ここに何かを許されに来ているのかもしれない」


 思わず言葉が零れた。


「最初はここを聖地として、憧れとかそういう前向きな気持ちで来ていたような気もするんだ。でも最近はそういう明るい気持ちというよりは、こう何か、自分の中の何かを許される……吹き溜まりとして好きになっているのかもしれない」


 ふうんと、ハミングのようにあまてらが息を漏らした。


「許すのは大事ですよ。人にやさしく、自分にもっとやさしく。わたしもいつも、その気持ちです。最近の人って、みんな自分に厳しすぎるんですよ」


「随分、大きく構えた話だ。物申したい?」


 物申します、とけらけら笑ってからあまてらは、


「今の人たちって、頭ではこう思っているのに、身体は違う反応をしてしまう、っていうことに、あまりにもナイーブになっていると思うんです。あまりにも頭で考えたことを正義としているというか。頭だって体の一部なんだから、そこでの感覚って、腕の痛みとか背中のかゆみとかと同じというか、並列な感覚でしかないと思うんですよ。そういう身体のいろんな感覚で民主主義した結果として、行動が決まるのが尤もらしいんじゃないかって」


「それも、先生流の寝取られの哲学?」


 俺の言葉にあまてらは目を見開いて、「よく分かりましたね、さすが田井中さん」と言った。


「例えば、人にシャンプーされたり、耳かきされたりするのって、自分でするよりも圧倒的に、めちゃくちゃ気持ちいいじゃないですか。この感覚は、自分と他者についての根本的な何かを表しているような気がするんですよ。でも今どきの人って、下手したらそんな感覚さえ、頭の中の、他者と必要以上に近づくべきじゃないみたいな頭でっかちな考えで否定しちゃうような、そんな危うさがある。もっと、自分の感覚を信じて、身体で感じたことに正直になって良いと思う。つまり!」


 ビックカメラの前の交差点で、北に向かう歩行者信号が赤に変わる。足が止まったところで彼女が俺を見た。


「結婚や恋愛なんかに縛られず、快楽に流されてしまったっていいわけです!」


「そう着地すると思ったよ」


 二人で笑った。洗濯機と冷蔵庫のセールを謳う爆音のCMが二回流れる。信号が青に変わる。


「でも何だろうな。ここに来て、風景って意味でも、そこに息づく空気感っていう意味でも、あー昔と変わっていないなと思うとき、凄い安心するんだ。いや、変わってはいるんだよ色々。青果売場や鉄道の町が、家電やパソコンの街になり、そしてアニメやゲームの街になり、今やコンカフェ風俗街だ。この街の本質は変化だってことは頭では分かってるんだけど、それでも、変わらないままの自分が安心できるんだ。自分は今のままで良いのかもしれない、みたいな、そういう……」


 ごめん、自分でもよく分からないけれど。俺の謝罪にあまてらは微笑みかけた。


「良いじゃないですか、許される場所。田井中さんは吹き溜まり、なんて悪し様に言ってましたけど。何かを許される場所なんて、十分わたしたちにとっては聖地なんじゃないかな、って思いますよ」


 どんな顔も持っていることは無貌であることに等しい。ジャンルとしての本質はもはやこの街には何一つ残っていない。ただ昔の残照が合わせ鏡の中で反射され、減衰していくだけだ。しかしそれでもなお、この街は俺を許してくれる。だからまだここに未練たらしく通うのだ。あまてらも同じようなものだった。得体も知れず、本心もわからない。それでも俺が、彼女を都合よく見なすことを、彼女は許してくれた。であれば、俺もまた、彼女が俺に見出している何か都合のいいものを、肯定してあげなくてはならない気がしていた。騙し合うのとも信じあうのとも違う、信じられ合い、騙され合うような関係。それはどこか清新な関係性に思えた。


 再び秋葉原駅の方へ戻り、昭和通り口のすぐ近くの雑居ビルが目的地だった。無言でスマホを眺めながらラーメン屋に並ぶ男共の列を避けて、あまてらが中にするりと入っていくのに追随した。昭和に建てられたであろう色の褪せた古い外見に反して、中の床や壁は比較的最近張り替えられたのか清潔感を保っており、これからもまだまだ建物としての役割を果たしていくのだという生命力のような強い意思をそこに感じた。


 階段で三階まで登ると、そこに「コワーキングスペース サードフロア」という立て看板が置いてあった。学校の教室を思い出させる引き戸を開いて、あまてらは早速店員と二、三、談笑しながら、スマホの画面で会員証か何かを見せた。店員はカウンターの下に手を伸ばし、ストラップ付きのカードを二つ取り出して、あまてらと俺に一つずつ手渡した。


「利用中はそちらを常に首から下げて頂いて、カードが見えるようにしてください。一部の部屋はオートロックがかかっていて、その解錠もそちらのカードで行なえます。Wi-FiのSSIDとパスワードも記載されていますので、利用時にはそちらを見てください」


 淀みない店員の説明に頷くと、「では、ごゆっくり」と入館のお許しが出た。


 中は廊下同様、白を基調とした明るい空間で、カフェよりは区の図書館を想起させた。長机や個人作業用の小さなテーブルがいくつか置かれていて、そこでモニターや書類を並べて共同作業する集団や、一人ノートPCを開いてヘッドホンを着けながら黙々と作業をする人などがいた。テレワークの時代となり、こういう場所を使って仕事を行ったという同僚の話を聞いたことがあるが、なるほど確かに誘惑の多い自宅で仕事をするよりは遥かに生産的に働けるだろう。見ればモニターやキーボード、ケーブル類の貸出まで行っているようだった。もっとも会社員のこの身からすれば、仕事をするために経費にもならない自費を出すというのはなかなか不合理で、福利厚生が厚く使用料も会社負担となるような優良企業勤めか、生産性が上がればその分所得も増える個人事業主がこういうところに来るのだろう。


 あまてらはその脇を抜けて更に奥へと向かっていく。するとそこに幾つか、メインのスペースからは区切られた部屋があった。その一つの扉にあまてらはカードをかざす。うぃーん、がちゃ、と、作ったように間抜けな擬音がした。その音だけで「鍵が開いた」と万人が直感的に分かるように、もしかしたらメーカーの職人がモーターの回転数やギアの軋み具合などをわざわざ念入りに計算しカスタマイズした結果生み出された会心のサウンドなのかもしれない、そう思わせるほどの完璧な解錠音だった。あるいは、近頃のハイブリット車が周囲に危険を伝えるためにわざわざ録音したエンジン音を再生しているように、録音した鍵の音を鳴らしているのかもしれないない、なんて考えていると「ほら、入ってくださーい」と背中を押された。


「どうです、ここならちょうどいいですよね」


 中はしっかりとした会議室だった。一瞬、せっかくの休日に会社に来てしまったかのような気不味さを感じてしまうが、しかし同時にワクワクの感もあった。昔休日出勤をしたときに、人っ子一人居ないオフィスの空間や什器などを見て、これらは全て自分の意のままに使えるんだという事実に対して抱いた全能感と背徳感。部屋に置かれた備品などを眺め、


「これはいいね。どうしよう、読み終わったらそれぞれ、そこのホワイトボードとか使って発表でもする?」


 いいですね、とあまてらがくすくす笑う。


「あっちにドリンクバーもあって、飲み放題なんですよ。コーヒーもデロンギの、凄いちゃんとしたコーヒーマシンがあって。美味しいんですよ」


 しばらく黙々と二人で同人誌を読みふけった。埃が目詰まりしている換気扇と空調の温風とが、ひたすら規則的に空気を震わす音はひっきりなしに鳴っていても、なお静か。もっと雑談が交わされることを予想し期待していた俺にとって辛い展開で、自慰行為の可能性が許されぬままにエロ同人誌を読む行為は想像以上に苦痛だった。家で射精以外のため、つまり描写やストーリー展開の勉強のためとして同人誌をつまむことはあれども、そういうときに不随意にムラついてしまうことは当然あるし、そうなればそのまま自慰にスムーズに移行する。しかしこの場でまさかそれをするわけにも行かない。そのような気持ちに冗談ではなく本気で駆られている、ということを覚られたくない気持ちもあった。あれだけ開けっぴろに性について語ってくれるあまてらであればもしかすると笑い飛ばしてくれたり、「じゃあわたしもちょっと行ってきますね」などと言って彼女もトイレに五分ほど籠もった後に戻ってきたりするかもしれないが、しかしそれでも彼女の前では、性欲を完全に管理できている存在でありたかった。その意味では、先程のメロンブックスで勃起していたオタクを俺は馬鹿にしていたが、むしろ彼は正常で、あれだけポルノで囲まれた空間に居て、「自分はあくまで商品を吟味しているのでござい」といった様子で一切勃起せずに全裸まろび出た女キャラが描かれた表紙を真剣に睨む彼らの集団はあの場において彼らの性欲を完全にコントロールできており、社会的にはむしろ正しいのだ。そしてそこにポルノではない、生身の女性との肉感的な予想外の接触に動揺して初めて勃起するというのは自然でもあった。社会的な空間において常に勃起することを恐れている俺のほうがむしろ異常で、もしかしたら世の人々は何か認知のスイッチのようなものを持ち合わせていて、通常外の世界では女性を見てもそれをポルノ的には認識しないように切り替えることができるのかもしれない。俺にしてみれば、彼らも俺と同じように、外出前には必ず一発抜くようにしている、という答えが最も納得がいくのだが。しかしどうやら奇妙なのは俺で、二次元の女を理性経由で見ても勃起をせず、理性をすり抜け偶発的に三次元のあまてらを見て初めて勃起する彼らこそ、俺よりもよっぽど健全な存在であるような気がどんどん強まってくる。それにあの場にいた彼らはポルノ一つを探すのにも、効率ではなく偶然の出会いやその過程に価値を求めている。そんな彼らの方が、結局アルゴリズムにポルノコンテンツを差配されている俺よりも断然に人間らしい気がしてきたのだ。




 もう一つ耐えかねていたのは、ほかならぬ、同人原作依頼についてであった。あまてらはDMでの約束通り、本当に一言もそれについて口に出すことはなかった。しかし彼女が触れなければ触れないほどに俺は焦る。だが同時に答えを熱烈に求められることを、どこか期待する節もあった。わざわざ呼び出して、それでも尋ねないということは、あの要望は一時の思い付きで本心からの望みではなかったのか。答えを先延ばしにしているのはほかならぬ俺自身であるにもかかわらず、しかし今ここで強い求めでもなければ一生答えを出せないような心地もしていた。絵に描いたような幼稚なアンビバレンスに、この状況すらも彼女が描いた絵なのではないかとかつての猜疑がだらりと染み出す。


「さっきの続きなんですけど」


 一冊を読み終えたタイミングで、彼女が切り出した。


「人にされた方が気持ちいいってこと、わたしも描いてて凄く実感するんですよ。よく創作論って、『自分で読んで面白いものを創ればいい』って言うじゃないですか」


「言うね」


 言うし、俺もそれが目指すべき境地であると思っていたが、言葉の流れからそれが否定的に扱われることは簡単に予想できたのでそう反応するにとどめた。案の定あまてらは、


「あれ、全然簡単じゃないんですよね。さっきの例えからして、シャンプーだって耳かきだってマッサージだって愛撫だって、他の人からされた方が気持ちいいじゃないですか。どれだけ自分のツボが明確だったとしても、それを自分の手で触るのと、人から触られるのとで全然感覚が違うのなんて、誰だって当然知ってる。下手したら全く同じ内容でも、人が描いたものと自分が描いたものとじゃ、人が描いた物の方が心動かされるわけで。自分で自分を気持ち良くするのって、えぐいくらい大変。自分で読んで本当に面白いものなんて、全然簡単には作れないんですよ」


「でも、オナニーは自分一人でしても気持ちいいじゃないですか。その違いはなんだろう?」


 ふんわり飛び出した愛撫という言葉に、あまてらは誰かに愛撫された経験があるんだろうか、そりゃあるだろうなという思考が渦巻くがあまりにもTwitter過ぎるその邪念を払うために、俺もあえてオナニーを持ち出した。半ばヤケも混ざったその言葉に、あまてらは「それです」と人さし指を上に向けた。


「その違いを踏まえなきゃ、『自分で読んで面白いものを』っていう言葉は、人をオナニーに誘うんです。オナニーだと分かっててするオナニーと、その自覚のないオナニーじゃ全然違うってことは田井中さんなら分かると思うんですけど」


「俺は自覚あるオナニーの名手だからね」


 あまてらは仰け反って笑った。一億年ぶりくらいに心が安らいだ気がする。


「……えっと。名手の田井中さんご存知の通り。その、自分でやっても気持ち良くないことと、自分でやって気持ちいいことの違いみたいなものを、よく分析しなきゃいけないんです」


「何か仮説とかはあるの?」


「そうですね。自信はないですけれど、多分、自動詞の行為か他動詞の行為か、っていうのが関係してるんだと思います」


 王城といい、多弁な女性は言語に関心を持つらしい。


「マッサージはそのまま、自動詞にも他動詞にもなれる。けれどオナニーを他の人にしてあげることはできないし、自分を愛撫することはできない。愛撫は他動詞、目的語が必須。オナニーは自動詞……」


 ……みたいな? とあまてらは首を傾げたが、俺はそれが正解、少なくとも本質を撃ち抜いた指摘であると直観した。自分に見せるだけなら、無自覚なオナニーでいい。他者に見せる以上は、愛撫か、自覚あるオナニーになっていないといけない。そしてそれは当然に、他者の存在を意識せよ、という話に繋がる。


「この時期から準備すると、目指すのは来年の夏コミとかになる感じなのかな」


 カレンダーを見やり、たまたま連想した風を装って尋ねた。


「まだ冬にはギリ間に合うかも。長さにもよりますけどね」


 期待していた答えに胸を撫でおろす。


「原稿用紙で百枚分くらいを見てもらえると。一応、短編小説の部類には入ると思う」


 あまてらは「えっ」と口に出して手を頬に当て、


「それじゃあ、ついに?」


 慌てて、


「いや、仮に上手く完成したら、って話だよ。もし間に合わないとして、そこからいつも通り、自作を準備する余裕は?」


 そう窘めるのだが、あまてらは立ち上がって、


「それはたぶん、全然大丈夫です。ストックもありますし。それに、別にコミケに絶対出そうってことではないですし。普通に電子版で頒布しても、今どきは沢山の人に見てもらえるんで」


 想像以上の反応に俺は火消しに躍起になり、


「本当に迷ってるんだよね。俺も、やるんだとしたら妥協はしたくないから、自信があるものが出来上がったときに、正式に返事はしようかなって」


 と口走る。すると途端は机越しに身を乗り出して、


「めっちゃ楽しみです」


 と、俺の手を握った。口を滑らせたことの後悔はもう始まっていた。しかし白いテーブルの角に押しつぶされことさらにその存在が強調される彼女の胸が、胸元から見えるその素肌と谷間が、シンプルで古典物理学的な作用を以って理性を揺らがせ、拒絶の道を塞いだ。そして少しだけ、彼女の俺に対する評価が誤解などではないのではないかと思えてきた。彼女は俺の真の素質を看破していて、俺は実際にそのような実力を持っているのではないか、あるいはそれが今引き出されようとしているのではないかと思った。俺の内的な素養がこれまでの文筆活動からどこか滲み出していて、彼女はその匂いを鋭敏にかぎ取ってくれたのだ。


 家に帰り同人誌の詰まったショッピングバッグを床に置いてスマホを見ると、王城からLINEが来た。


『もし勉強をする気があるんだとしたら、東浩紀の動物化するポストモダンとか読んでみたらいいと思う 最近のオタクの傾向を掴めてるとは言えないけれど、あなたの記号の再生産の仕方は、とてもゼロ年代らしいやり口だと思うから、参考になるはず』


 ブロックした。それから彼女に見せて散々にやられたところから全く一言一句変わらない原稿を、あまてらに送り付けた。その反応も見ずに布団に入って寝た。とても深く、心地の良い夜だった。








五、

 ラフが出来上がったから、直接見せたい。昼過ぎにはもう空が白ばむようになった晩秋の頃に届いた突然の呼び出しに一つ射精をしてから秋葉原のカフェに向かい、あまてらと対面する。あいさつもそこそこに、彼女は興奮した様子で「さっそく読んで欲しい」と、BURBERRYと大きく書かれた紙袋みたいな形のバッグからA4用紙の束を取り出した。原稿を送ってからまだ三週間も経っていなかった。しかしその三週間、あまてらがインターネット上で一切活動を行っていないことも知っていたので、もしやとも思っていた。


 本来であれば、他に言葉を交わすべきだった。いや、交わすなんていう相互的で対等なものではなく、俺が一方的に彼女に告解をするべき立場にあった。しかしそのための言葉をここに辿り着き、ついに彼女から原稿を手渡されるその瞬間まで持つことは出来ず、彼女の、俺がそれを読むことを期待する真っすぐな視線に気圧されて、ただそれを読み始めることしかできなかった。


 ページを捲る。自分で書いた物語を描いたものなのだから、するりするりと頭に入ってくるのかと思いきや、全然そんなことはない。むしろ絵の背景、キャラの容姿、セリフの配置の仕方から、この人たちはこんな見た目をしていて、こんな喋りをしていたんだな、と新鮮に驚く。主人公の男と妻は、俺とあまてらの二人とは全く異なる見た目をしていた。当然念頭に置いていたのは自分たちの姿だったはずなのに、そこに描かれた二人は、それこそが真なる姿であるように思えた。俺はほかならぬ自分の作を誤読していたのではないか、そう思わせるような迫真さがそこにあった。一瞬それが、爆炎のように心中で燃え上がった瞬間があった。俺はそのとき、自分のモチーフや作そのものが、あまてらによって奪われてしまったことに、どうしようもない敗北感と喪失感と、そして真の可能性を他人の腕の中で縦横無尽に表現する我がモチーフの美しさに対する感動とを、それぞれ抱いていた。


 クライマックス、描写はより濃くなり、人妻は獣のような声を上げて乱れ、それに合わせて夫は散弾銃を持って階段を上がる。次の展開を、この後散弾銃が二人の人間の命を奪うのだということを知っている。しかし同時に、それがいったい誰であるのかは、俺すら決めていないのだ。考えてみればそんな解釈を俺はあまてらに押し付けていたわけで無責任極まりないのだが、彼女は俺に何一つ聞くことなくこれを描き上げた。コマの一つ一つを見るたびにその結末が近づいていくことを感じ、だんだんと呼吸が浅くなってきた。男が扉の前に立ち、射精をしながらドアを開ける。次だ。汗で湿った指でページを捲りそのページを見る。即座に、先ほどの考えすらも浅はかな独りよがりな思いに過ぎなかった、ということが分かった。彼女はやはり俺など見てはいない。


「どうでしたか?」


 あまてらの手が、自分の手の上に重ねられていた。その途端、俺は太もものガスサスペンションが爆発してしまったのではないかという勢いで立ち上がり、「ごめん、トイレ」とだけ言ってその場を離れた。


 カフェを出た共用部にある男子トイレの個室に鍵を掛け、ベルトを急いで緩めて下着ごとズボンを下ろすと既に怒張していた。手でそれを握った途端、目の奥がツンとするような感覚に襲われる。


 右手は勝手に動き、気付いた時には絶頂を迎えそうになっていた。「あっ」とトイレットペーパーを巻き取り始めるが遅く、咄嗟に左手で放精を受け止めた。まるで夏場の鉄棒を握ったときのような熱が手のひらに広まり思わず赤面する。思えば普段左手には常にポルノを閲覧するための道具が握られていて、このように素手で受け止めるという経験は自覚する限りでは初めてのことであった。それほどまでにこの昂ぶりは鮮烈で、その反動もまた強烈だった。暫く左手に広がる精液を、呆然と見つめる。陰茎が完全にしなびた頃にようやく右手で改めて紙を取って、手と陰茎を拭こうとして、ふと念のため、もう一度射精をしておこうと思った。結局そこで四度射精し、ようやく脳味噌から全ての無意味な思考を追い出すことに成功した。それから俺はあることを思い立った。Open AIかGoogleのどちらかが最近リリースした最新の画像生成AIのサイトに、「a beautiful young girl, black short hair, dressing black one shoulder, gazed at a store window in Akihabara, Japan」というプロンプトを打ち込む。トークンが一つ消費され、プログレスバーがにょきにょきと進行する。画面が切り替わり、数枚の画像が表示される。黒い服を着た、若く美しい女性の写真。表示された三枚に映る女性は髪型も、目鼻の形も化粧の具合も、どれも微妙に異なっている。しかしどれも人工的なまでに美しい。背景の看板の文字は歪み、細かな服の装飾は描写が崩れ、戦火に焼けた金属細工のように歪んでいる。存在しない女。暫く眺めて、俺は当初の懸念――つまり、そこで出てくる顔があまてらの顔そのものだった、というような安いホラーめいた展開が起こらなかったことに安堵した。しかしもし、あまてらの顔写真をここに混ぜたとして、それを区別することは果たして可能なのか。画像を拡大し、皮膚が肌理の幾何学的な繰り返しによって作られているという事実は完全に捨象されたのっぺりとした色の広がりを見た。あるいは、あまてらの顔がこの女たちの顔の何れかだったとして、一体これまでの展開に、俺の彼女についての葛藤に、何の影響があっただろう。何も変わらず、スムーズに交換可能であるように思えた。


 今なら王城の議論に返答できる。乾いた精液により手のひらに張り付いて硬くなりつつあるトイレットペーパーを剥がす。恣意的でも合意されていればよいと彼女は言った。しかし合意の原動力はなんだ? 単にそこに提示されればよいってもんじゃない。提示された恣意的な関係のいくつかを比較検討して、その中で最も合理的なものを選んでいるのか。そういう人も居るだろうがごく少数のように思える。実際にはほとんどの場合、俺たちはある種所与に提示された恣意的な関係性に、何となしに参加し、何となしに居続け関わり続け、そしてそこで成立していった文脈というか時系列的な累積によって、そうした連続性によって何となしに縛られ続けている。単純接触効果と言ってしまえばそれまでかもしれないが、しかしその力によって、人々は恣意的な関係に流されるままに合意していき、それが世界を形作っている。文脈抜きに、いきなり与えられた合理的で最善で最高効率な関係性は、だから、理想的なようでいて、意味を持たないのだ。時間が進むこと、それがこの世界の唯一絶対の公理だ。その公理に基づかない、不変の完璧を標榜する理論や制度が、不完全や絶え間ない改善の必要を認める理論に絶対的に劣る理由。無性に王城と話がしたくなった。今思ったことが、決して彼女に対する反論ではなく、王城の真意の正しい理解であるような気がしたのだ。それを確かめたかった。まだあの女性がタバコを薫らせる様を、どんな手つきでタバコをつまみ、口に近づけ、吸うのかを、拝むことが出来ていなかった。動物化するポストモダンの電子版を買って、王城のLINEのブロックを解除した。『長い間返信できず申し訳ありませんでした 本、買って見ました』。誤字も気にせずそう送って個室を出た。




『すみません、ちょっと体調がすぐれないのでこのまま帰ろうと思います 今度お詫びをさせてください』


 あまてらLINEを送信してビルを出て歩く。既に会計は済ませていて、そういえばあまてらと会うカフェはいつも前払いで、王城と会ったのはいずれも後払いだったなという発見をした。秋葉原駅ではダメだと思い、俺は御茶ノ水駅を目指し昌平橋を超え淡路坂を上り続けた。駅舎が見えてきたところで俺はLINEをもう一度開き、王城とのチャット欄を見る。既読は付いていなかった。そのときようやく、王城のアイコンがワンワンから、美しい海辺の夕焼けと、その前で握られた手という構図の写真に変わっていることに気付いた。俺は「はいはい」と口に出した。結局そんなもんだよね、知っていた。そう言い聞かせるように。


 「田井中さん!」という声が後ろから聞こえる。振り向くと小走りしてきたのだろう、息を乱しているあまてらがいた。まさか追いかけてくるとは思っていなかったので、心の底から詫びた。頭を下げたとき彼女が、それほどの高さはないとはいえヒールを履いている事に気付き、尚更申し訳なくなった。あまてらは「全然です」と頭を振って、


「大丈夫ですか? 病院とか、行きます?」


 と大げさに心配そうに尋ねてきた。


「普通の腹痛だと思うから、休めばすぐ治るよ。けど、この後一緒に居るときにトイレに行きっぱなしってのもね。ノロとかじゃあないと思うけど、感染したら申し訳が立たないし」


「そうですか……残念ですけど、でも、田井中さんのお体が優先なので」


 その言葉に頭を下げる。


「ごめん。でも、漫画は本当にすごく良かった。なんというか、凄く贅沢というか。同時に恐縮でもあったよ、二次創作同人って本当、お金にはならないから、これで少しでも収益で役立てれば……」


 あまてらが無言で近づいて、俺の左手を彼女の両手で包んだ。咄嗟に先程の行為を思い出して手を引こうとしたが、しかし彼女は掴んで離さない。握られた俺の左手の、指と指の隙間、指と手のひらの隙間に、ゆっくりと彼女の細くしっとりとした指を差し込んで、少しずつ解して開いていく。抵抗を諦めたその瞬間、一瞬栗の花の匂いがしたのを感じ、内心しまったと動揺した。先程行為が終わったあと、三回ほど手を洗い、その後アルコール消毒までした。ここまでして臭うようだったら一生その匂いは取れないだろうというほど、入念な作業だった。気付かないでくれ。


 しかしあまてらは、俺が驚いたのと同じタイミングで目を少し見開き、俺の左手のひらをじっと見つめた。そして彼女は俺の手の生命線に指を立て、つうっ、となぞった。


「くすぐったいよ」


 やがてあまてらはそっと俺の左手を持ち上げた。一体何を、と尋ねるまもなくみるみるその手は彼女の顔に近づいていき、


「あ」


 あまてらは、俺の手のひらをすん、と嗅ぐ。


「やめなよ。洗ったけど、トイレ行ったばかりだし」


 努めて、ただ困惑する青年を装った言葉を吐いたが、その心中では恐怖と興奮の入り混じったトランス状態に陥っていた。彼女は、本当に俺の匂いを嗅いでいる。それによって何か俺自身も知り得なかったような俺の深層に潜む重大な知見を得ようとしているのではないか。一体何を感じ、何を考え、何をする気なのか。あまてらの、小ぶりでつやつやとした唇がわずかに震え、彼女は再びすうぅと、手のひらの匂いを嗅ぐ。


「は」


 暖かな、湿っぽい感触。彼女のその唇が手のひらに触れたと理解するのに時間は掛からなかった。そのまま彼女は「ちゅうっ」と口を窄め、何かを吸い出すようにしながら唇を離す。離れ際に水っぽい音が鳴る。あまてらは口を開き、舌をべろりと伸ばし、再び左手を、舌から上に舐めた。その上下はゆっくりと、こすりつけるように何度も繰り返された。最後に、手首の方から指の先まで舐め、人差し指を少し口に含んでから、ようやく顔を遠ざけた。一瞬唾液の橋が指の先と彼女の唇との間に結ばれ、切れた。


「気付いてましたよ。これまで、ずっとオナニーしてから会いに来てくれましたよね。わたし、田井中さんのそういうかわいい誠意が好きなんです」


 あまてらの言葉が脳裏に響く。それは普段よりも低く、重く鼓膜を震わせる声。


「きっとわたしたちが作ったあの作品で、世界中の男がオナニーして、たくさん射精してくれます。もう何にも出なくなるまで、ずっとずっと。それって最高ですよね?」


 その音波の震えだけで再び昂ぶりそうになっている自分を見つけて恐怖した。甘やかな振動が記憶の底に滞留した泥を掻き回し、対流させ、ぞわりぞわりと何かを俺に気付かせようとする。一体どこでこの声を聞いた?


 そのとき俺は日本国という存在を、郷土や物語としてではない、法の執行主体や主権国家としてのその実在を、人生でこれ以上ないほどに強く実感した。王城の言った通り、もしアメリカに生まれていれば俺は今この瞬間、銃による現状転覆を行うか否か、それを問われ、答える必要が出てくる。眼前の、この俺を犯し支配しようとしてくる存在になぜ抵抗する能力があるのに抵抗しないのか、俺自身に責め立てられることになる。選択肢があるにも関わらず選ばなかったのならば、その後についてはその本人に全ての責任が帰せられる。日本であればそれを問われることはない。その答えを決断する必要はない。それはもはや天災と一緒で、ただ眼前の状況を受け入れるほかない。だから俺はそのまま俺自身を、彼女に寝取られてしまう。しかしそれは同時に、日本国という人為に基づく改善可能な実体が、あたかも人の手の及ばぬ自然神のように振る舞っているようでもあった。そしてその抵抗の選択肢は、生まれる前から奪われているということでもあった。


 王城なら、あの理屈っぽく長々と話し続けるSF好きの女ならこの状況をどう評する? 俺は彼女を二次創作する。


『つまりあなたは、あなた自身をこれまで二次創作していたんじゃないの。あまてらは、そんなあなたの創作物を見てあなたを分析しきった。だから彼女はあなたよりも、あなたの本質を理解して、あなたが欲することができるものの中で最も良いものを提供することが出来るようになった。閲覧情報などという間接的な表明ではなく、創作物という直接的な表現がその形のままに収集され、分析される。もしかしたら、それは未来の在り方なのかもしれない。行動履歴を収集して分析して売るようなプラットフォーマーの商売は終焉を迎える。だってそれは結局情報から帰納的に類推したモデルに過ぎない。これからの私たちは自らそのままの写像である表現を、無加工に生産者に直接売って、対価を得るようになる。表現そのもの、創作そのものがそうやって消費者分析のための材料として商品価値を持つのだとすれば、万人に創作の動機、どころか生活上の必要さえもが生まれる。人類総創作者時代が来るってこと。人々の創作は芸術性や娯楽性なんていう曖昧で主観的な価値ではなく、例え一時的でも、確かに対価を産みうる顧客データとしての価値を独立に確保する。そんな社会においてはAIの生み出す創作物は無価値になると思う。だってAIは何も買わない。分析対象としての商品価値はゼロなので、恐れられていたような未来は訪れないってわけ。けれど同時に、人間の読者も無価値、というか無益になる。顧客データとして創作物を読んでくれるAIこそが対価を払う読者で、人間の読者は広い市場からは消え去る。みんな生きるために自分のを創るのに必死で、他の人のを読む暇なんてないだろうし。純粋な芸術を求める好事家や篤志家がパトロンとしてごく一部のお気に入りのみを支援するような時代に戻るでしょうね。そうした革命のような転覆のあとで、それでもなお、創作は全人類に解放され、あるいは強制される。そのとき、全ての創作物は、その人によって書かれる、描かれる、創られる意味を持つ。その人に独自であるかどうかではなく、その人をどれだけ赤裸々に映し出しているか、という観点に立脚してね』


 もし王城が、俺とあまてらのこれまでを全て俯瞰して見ていたなら、こんな話をしてくれたかもしれないと期待する。しかしすぐ冷静さを取り戻した。分かったようなことを言いやがって、王城は俺が分かるような言葉を吐きはしない。俺が好むようなことも考えない。革命なんて言葉を心地良く夢想的に弄んだりもしない。いつだって彼女は俺の期待を裏切るのだから。もし彼女が俺の思う通りの人だったとしたら、LINEのアイコンをあんな詰まらない色狂いアピール画像にするはずないのだから。これは王城の言葉などではなく、ただの、俺の考えだ。二次創作が、俺の外を描けるはずはない。そして王城なら、「現実の二次創作など、既に現実があるのだから要らない」と切って捨てるはずだ。俺は二次創作した彼女をゴミ箱に捨てた。


「そんなことをする人は」


 かろうじて、ようやく振り絞った。


「そんなことをする人は、現実には居ないし、居るべきじゃない」


 努めて、そこにあるのは嘲りの感情であると明確に伝わるように言い放った。その行為に動揺している自分を絶対に彼女に覚られたくなかった。彼女の、俺を屈服させようという試みが失敗に終わっていることを示したかった。彼女がすうっと、俺の周りに漂う何かを吸い込む。あんなに蠱惑的だったその行為が、今はトリュフを探す豚のそれに見える。


「やっぱりおかしい。勝手に君を置いて店を出ていったら、それを、追いかけてきて、しかも俺の手を舐めるなんて。そんなことをする理由も、必要もない。君が俺に好意を持つ理由なんか、一つもない。不自然だ」


 俺はこの世界をプログラミングするように、世界の原子の粒の位置のあるべき場所を記述するように、当然の摂理を言葉にした。お前は俺の前に居るべきではない。頼むから、消えてくれ! アバダケダブラ、アバダケダブラ。ぐじゃぐじゃになりながらあまてらの反応を待った。しかしあまてらは消えなかった。少しの沈黙の後に微笑み、


「そんなにわたしが、性欲を排出しきった人に親しみを覚えるのが不思議ですか、一ノ瀬さん」


 と言った。彼女の背後、神田川の向こうに聳える、秋葉原にあっては淡泊なガラス張りのオフィスビルが、ビスマスの結晶のように濃紺が滲んだオレンジ色に染まる。夕暮れが来ていた。幾何学的な構造物が、不規則に移ろう色彩の迸りにより、未知の深さをそこに表出させている。湖畔のようにつややかな冷たい風に、金木犀の香りが溶け込んで運ばれてくる。世界の全てが、俺が理想とするような状態にあることを感じて、そのあり得なさに俺は吐きそうになった。


「なんで俺の名前を?」


 その問いに彼女は答えなかった。


「あり得ないって言いますけど、でも出来てますよ、こうやって」


 彼女がその顔を一気に俺の耳元に近づけ、肌からの輻射、呼気による対流、その後に唇からの伝導により彼女の熱を感じた。火照り切った俺の耳に、直接に言葉が流し込まれる。


「わたしは、この世界で出来ることの中で、いちばん善いなって思うことをやります。手段も手順も文脈も、必要ないんじゃないかって思うんです。だって、出来るんだから。一ノ瀬さんも、そうなんじゃないんですか」


 その言葉が革命の奔流となって、脳血液関門を突破していく。うあ、と声が漏れ出た。そのときようやく、俺は彼女の声をどこで聞いたことがあるのかを思い出したのだ。入社式のあの動画だ。彼女は――いや、もう俺が認識していた「あまてら」なる人は存在しない。榊は顔を俺から離し、再び俺の指にキスをした。セキュリティーゲートに入館証をかざすような軽やかさだった。ぴっ、という間抜けな開錠音が脳幹の底で鳴り響く。もう醜い豚は居らず、質点もアルゴリズムの権化も真円の美もなく、ただ榊という人が居た。すると、一体誰が存在しないのか。


 俺は周囲に救いを求め、視線を彷徨わせた。すると駅の方、かつて待ち合わせた広場に王城が立っているのが見えた。グレーのコートを着て誰かを待つ彼女に大声で呼びかけそうになったその時、駅から男が出て来て、彼女に近づいていく。王城は顔を上げ華やかな表情となり、その男と腕を組み、俺に背を向け遠ざかる。俺の右手にはいつの間にか、レミントンのM870が握られていた。


〈了〉

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