2.値するもの
みんな良い感じにしあわせであってほしい。僕のその感覚は後天的に身についたものだと思う。具体的には、雪希によって
その
体つきが貧相なのもいい。背は伸びなかったし性徴もなかった。華奢というより貧相な体躯。それを着飾るでもなく親に買われた安物を何年も着古す頓着のなさも嫌いではない。微風に揺れる黒髪だけは小癪にも繊細であった。
昔からほとんど変わらないちんちくりんのこいつが大きく変わったのは声だろう。第二次性徴前からやたら酷薄な女だったが、それに相応しい調子に落ち着いた。悪意、嘲り、それらがローテンションに似合うシニカルな声だ。これも悪くないと思っている。
こいつの外貌だけは好ましいと思っているのだ。極めて不本意ながら。だが中身がいただけない。可愛いたぬきであることもできただろうに、こいつはドブが顔にまで出ている。
雪希は無表情だった。いつもの皮肉っぽい調子もなく、淡泊に言い捨てる。
「さて。キスしていただきましょうか。それと告白です」
こいつは僕の生傷を知っている。僕がそれらを重視していることを熟知している。自覚があるが僕はかなりのロマンチストだ。徹底的純愛主義者でもある。そして、清らかであることを好む。ウェルテルの独りよがりが嫌いだったし、フルトブラントの
こいつは僕の読書傾向も、好みも熟知している。こいつはソクラテスを誘惑するアルキビアデスを好んでいたし、愛読しているのは南京の基督だ。趣味が合わないどころの話ではない。
ほとんど恐怖にも近い虚脱感が僕を襲っているのを感じる。僕の大切なものが、こいつの一時的な楽しみのために毀損されようとしている。そして、認めざるを得ないがそれは僕の趣向だけの問題ではない。一つの最悪な思い出にも紐付いている。
――せ、
――やだ。
振り絞った勇気と、淡泊なこたえ。今となっては不思議なことだけど、あのときの僕は本気で雪希と結婚できると思っていた。その独り相撲は僕の中での最悪の思い出だ。雪希にふられたことが最悪なのではない。雪希が僕を拒絶する可能性を一考もしなかったことが最悪なのだ。僕はきっとあのときまで雪希のことをきちんと見ようとしていなかった。しあわせであってほしいと願う女の子のことさえ、好きだと思っていた子のことさえ、何も見えていなかった。
最悪の自分と直面することになるから、あのときのことは思い出したくない。そして、雪希は僕に最悪の上塗りをさせようとしている。僕の自尊心は、こいつの指示で地に落ちる。それは避けがたいことだ。なぜなら、僕は僕の美学に基づいてそうしなければならないからだ。そのような人間は唾棄に値する――という人間に僕はならなければならない。
長い沈黙の間、雪希は一度も僕を促さなかった。彼女は僕が約束を守る人間だと知っているからだ。
こんな約束なんて反故にしてしまえばいい。なぜならそもそもこのような契約を成立させてはならないからだ。
倫理が静かに僕に告げる。僕は首を左右した。静かに、僕の尊厳が沈んでいく。深海の中の塵のように、静かに。倫理的な人でありたかった。断固たる人でありたかった。僕にはそれができなかった。
せめて優しくありたかった。しあわせに寄与する人でありたかった。僕にはそれすらできない。塵が底に落ちるとき、何の音も響かなかった。ただ、自分が最低に至ったことを知った。
作法なんてわからなかった。したこともないし、見たこともない。支えるために彼女の腰に触れたとき、雪希のあたたかな体温を感じた。触れてはいけないものを侵犯した罪が全身の表皮を冷たく襲った。汗だ。最も恐怖するものに対面したときの汗が全身から噴き出している。全身の拒絶反応で心身が極度の緊張状態にあることがわかる。呼吸がうまくできない。ひどい吐き気がする。貧血がして、目の前が暗い。
完全に血の気が引いた手で、雪希の頬に触れる。生暖かいものが嘔吐反射を加速させた。氷を浮かべた冷水に飛び込みたかった。それしか今の自分を恐慌状態から守ってくれるものはないように思った。
雪希の昏い瞳が僕を見上げている。彼女の空虚な瞳にうつる僕は、明らかに正気を失していた。もしかしたら唇がチアノーゼを起こしているんじゃないかとさえ思った。
雪希はなにも言わなかった。僕は、約束を守るからだ。
睫毛が触れ合う。その一秒に満たない時間が、僕を純潔から不浄へと切り分けた。
ゆっくりと、僅かに。唇が掠る。かさついていたのは僕の唇だ。他方のことはよくわからなかった。ただ、雪希は痛かっただろうと思った。
眩暈がする。視界が暗い。採血を受けたときと同じだ。僕はあと数秒も保たないだろう。
それでも。僕は約束を守る。
「新条。愛している。好きだ。僕は君が、大好きだ」
嘘。虚偽。欺瞞。自分の唇で自分の大切にするものを全て穢した。かつての無知で愚かだった僕の最低の告白を、もっと最低な告白で上書きした。
「う、げぁ……」
側頭部を大地に打ち付ける。痛みはなかった。凄い音がしたが、痛覚よりも冷えきっていく体が怖かった。大丈夫。心の中で繰り返す。貧血を起こして倒れたときは、
「げぇ、え……」
酸っぱいものが食道をせり上がって口内に満ち、大地に吐き出された。臭い。悪臭に満ちている。吐き出されたもの。これは僕の汚濁を排泄したのではない。僕が穢れていることを証明するものにほかならない。今吐き出したものと同じものが僕だ。
体が痙攣している。貧血で倒れたときによくあることだ。これも慣れている。好きにさせておけば、こっちも数分でなんとかなる。実際そのとおりになった。冷え切った体と平衡感覚の喪失、暗転、嘔吐感、それらは比較的速やかに回復していく。体の不調は急性的なもので、
「……ひっ」
喉が鋭くしゃくりあげた。経験のない感覚だった。しゃっくりかと思った。遅れてぼたぼたと溢れ出るものがあった。なんだこれ。涙だ。泣いているのか。情けないな。まあ、でも。泣くほどのことではあるか。そうかなあ。
涙滴で歪んだ視界に
半身を起こした僕の頬に、雪が両手をあてがう。包み込むように。顎先に残っていた吐瀉物が、彼女の小さなてのひらを汚した。雪の体温。掌。柔らかだと思った。あたたかいと思った。これの持ち主の精神が、永久に平安であってほしいと思った。
「……ん」
雪の喉の奥で小さな音が鳴った。それが声なのか、溜息なのか、それ以外の何かなのか。僕にはわからなかった。ただ僕の唇に雪のそれが重なった。凍り付くような恐怖はなかった。唇を重ねながら、雪は小さな体をぎゅっと彼女の弱い力でできる限り僕に押しつけた。切迫した僕の心音に、とくん。とくん。と穏やかに脈打つ彼女のそれが混じる。舌先に、あたたかで、ぬるっとして、ざらっとして、柔らかいような弾力があるようなものが触れた。それが彼女の舌だとわかっても、抵抗感と拒絶感はなかった。
汚えだろ、今。僕の口。あと不味いだろ、めっちゃ。ぼんやりとそんなことを思う。けれど突き飛ばす気になれなかった。雪と僕の間で、何をそんなどうでもいいことを。幼い頃の僕が笑っていた。黒いランドセルを背負って。うるさい。お前はなにもしらないからそんなことが言えるんだ。ふられたくせに。でしゃばるなよ。
強がっていたはずなのに、自分が雪を抱きしめていたことに気がついた。あまりにも強く。まるで彼女をへし折ってしまうかのように。慌てて力を抜く。からかうように彼女の人差し指がとんとんと、二回背中を打った。弦楽器奏者特有の、貧弱な彼女に似合わない強烈な力。その感覚がどうしようもなく甘かった。
とぷり、と流し込まれた雪の唾液はあたたかだった。酸味も苦味もなく、少しだけとろみがあって、ただ薄らと水飴を溶かしたように甘かった。穏やかなしあわせは、こんな形と味をしているんじゃないかと思った。僕がそうだったらいいなと思うしあわせの色だった。
僕と雪の拍動が重なっていた。指先の冷たさが消えていた。ただ、あたたかだった。とんでもなく心地良かった。安心する。すごく、安心する。雪の手が僕の頭を優しく撫でた。ぴりっとした痛みと僅かにぬめる感じ。出血しているらしい。でも、そんなことがどうでもいいくらい、僕の頭髪を弄る雪の指先が優しかった。
頭どうかしてんのかな。普通に嫌いなやつにこんなことされて。
ぼんやりと、体温のすべてが戻ったころ。雪が唇を離した。
「
甘くからかうような響き。水華。僕の名前だ。綺麗な水みたいで好きだと思っている。そう思うようになったのは、確か彼女が僕をその名で呼んでくれたからだ。小学校で名の由来を調べたことがあった。でも、両親は本来の意味の後に言った。透き通るように綺麗な水だから水華。雪希ちゃんの言葉が正しい、と。雪希ちゃんの言葉に値する者になれ、と。
「泣くな水華。もー、なに?」
少し困惑したように笑い、しょうがなさそうに雪が唇を二度軽く重ねてくれた。それで涙が止まるのだから驚いた。僕は憎らしく思う女に唇を与えられて泣き止む人間なのか? それは人として終わっていないか? 幼少期の頃の僕は脳内から姿を消していた。お子様には早かったらしい。僕にも早すぎるが。こんなはずではなかった。
「水華」
ぎゅっと
「大嫌いだよ」
その言葉に、こんなにも安心するのはなぜだろう。きっと、嘘でも好きだと言われていたら、僕はまた恐慌状態に陥っていた。たぶん、先程よりもひどく。なのに今こんなにも嬉しいのはなぜだろう。
「僕も嫌いだ。新条。とんでもないこと、させやがって」
ふっと彼女は笑う。彼女の笑いが僕の口の中で溶ける。雪が笑ったのは久しぶりだとなぜか思った。最近もそれなりに、笑顔は見たはずなのに。
三分ほど。無意味に抱き合っていた。その間に、何度か唇を重ねた。無意味に。
雪は――雪希は、僕から体を離すと両手を伸ばして背伸びをした。まったく扇情的ではなかった。オオアリクイの威嚇みたいだった。
何もかもがどうでもよさそうなしらけた顔で、彼女は僕を見下ろす。彼女のやっすい部屋着がゲロで台無しである。辛うじて1円の品が0円のゴミになった。
「賠償金だ」
上下あわせて2円。僕は彼女に手渡した。雪希は淡々と毟り取った。
「足りないのでは?」
僕は200円を雪希の掌に置いた。2円取り返そうとしたが、彼女は202円を自分のポケットに全部ねじ込んだ。
「では先輩。私はいきますので」
背を向けた新条が、ぽてぽてと歩み去っていく。後ろ姿はアライグマみたいだった。ただ、伸ばした黒髪は綺麗だった。
ぽてぽて、ぽて。ちんちくりんが、振り返る。昏い瞳が僕を見つめる。射貫かれるような気持ちがしないのは、なぜだろう。あいつの瞳は濁ってはいるが、刺してはこない。
「ああそうそう。私の告白。あれ、今日はやめておきます」
雪希は、歩み去る。
「他の男の吐瀉物まみれの口で、キスするわけにもいきませんので」
たいへん心外であるといった調子で言い捨てて彼女は公園を辞した。なんとなく、雪希は帰ってくると思う。たぶんスコップだのポリ袋だのを持ってくる。僕の吐き散らしたものを掃除するために。僕も同じことをするとあいつは著しく気分を害するだろう。なにをしでかすかわからない。最悪の結果すらあり得る。
なにをどうしてどうすりゃいいんだよ。
唾液を呑み込んで、歩き出す。水飴を溶かしたようにとろけた甘さ。雪希の味。嫌じゃない感触の相手が嫌いであることが、とても嫌だった。
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