6.新条雪希大々々博士による蛍川水華についての極めて客観的かつ高度に哲学的な論考

 私は蛍川水華先輩のことが好きではない。そのことは、記録しノートとして保存する意義がある。


(以下、別途このように指示をするから、精読すべき点までは全て読み飛ばしてよい)


 現代人として恥ずべき私のこの考えは絶望的に強固である。すなわち、蛍川水華の代表的美点とは容姿である。この正確性を欠く代表的主張をより精細にするのであれば、蛍川水華の優れたる美点は内面、すなわち情緒、センス、知性、品性等を、視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚に訴える外面が優越している。


 主張の構造が無駄に深いので要約しよう。蛍川水華は中身より外側の魅力の方が強い人間だ。これが彼の代表的美点が容姿にあるという考えの意であり、私が現代人として恥じ入るべき理由でもある。


 構造を無駄に深くしたことには意味がある。すなわち先の一見無駄に晦渋かいじゅうな考えは実は意味がある。私は彼の代表的美点を容姿から声や体臭に変更することについて否定的ではなく、むしろ気分によってその代表性は入れ替わり、今は容姿の気分なのだが、これらの外部的要素がその代表性を知性や品性といった内部的要素が優越することはない。


 あえて列挙を行ったのはこのためであり、これは私が現代人として恥じ入るべき個であることの強調でもある。文意が明晰でさえあれば構造が晦渋でも頓着しないのは哲学徒の悪癖であろう。明晰さに加え可能な限りの簡明さをも要求する哲学徒は少なくない、むしろ一潮流において主流だが、その潮流にいる哲学徒の論述が簡明さを保つために十分な努力を常に払われているかというと、しばしば明晰であれば読み手が適切に解釈するであろうという甘えた怠惰が姿をみせる。これが哲学徒の悪癖である。すなわち悪い主義なのではなく、悪い癖なのだ。悪癖と表現したことには意味がある。


 順を追って本筋、すなわち蛍川水華に戻る。まずは私から始める。私は顔貌が飛び抜けて優れている人間ではない。つまらない痩身矮躯でもある。水華を含む蛍川家の人間が妙に私の外貌を高く買っている節はあるが、あれは彼らが変態の異常者であることを示しているのであって、私に一般的な魅力が強いことの例示としては扱えない。


 ただし単純に異性を惹き付けるという意味では私の方が水華より上だ。今水華を性的に好いている者は恐らく皆無だが、私を性的に好いている者は水華の同窓である藤沢先輩の熱狂的なそれをはじめとして複数ある。だが、それは私の内面、とくに交際上の態度に起因するものであって私の外貌に起因するものではない。


 反して水華は異なる。水華の姿はたとえ群衆のなかにあってもひとすじの光のように目立つ。彼の姿をシルエットに変えたとしても、その痩身長躯、特に苛立たしいほどにすらりと細く長い足と華奢な上半身の対比が十分に蠱惑的に見えることだろう。カーテンを除き直視するならば、いよいよ甚だしい。


 特筆すべきは双眸だ。私のそれは童女めいて無垢に丸いくせに私自身の陰気が詰め込まれているのだが、水華の瞳は切れ長で、その瞳孔は人工灯に照らされた密室のサファイアのように深く青い。碧眼は彼の血筋だ。私はそのことに殆ど恐怖に近い感情を抱いているのだが、水華の両親もまた碧眼であり、祖父母も父方母方双方全員が碧眼である。もちろん水華の家に妙なならいが存在するわけではなく、これは偶然の産物だ。そのことが余計に気持ち悪い。誰もその青を気にしていないのだ。もちろん水華も。意識したことさえ殆どないだろう。


 水華の鋭い瞳は彼の強い眠気によってほぼ常に一定の憂鬱さを帯びている。アンニュイな流し目に斬られると、ほぼ強制的に多幸感が湧き上がり拍動をおさえられなくなる。


 私と彼で似ているのは髪質か。私は髪にはちょっとばかり自信があるが、水華の黒髪もまた常に濡れているかのように艶やかだ。特に風呂上がりや運動後のしっとりと額や横顔にはりついている様などは扇情的ですらある。この優れた頭髪に下品な強烈すぎる薄荷の匂いを纏わせてきたときは正気を疑った。


 自分の美点をなげうってまで私に嫌がらせをしたいのかと思いかけたが、水華にそういった能はないことは自明なのでやめろと言ってある。二度とするな。


 薄く仄かに血で色づいた唇は語り出すとつい視線を奪われがちだ。水華の話は他の人間と異なり実にわかりやすいのであまり話している内容に意識を向けずともよいのが不幸中の幸いだ。あれの妙に優しさに満ちた低音を意識しすぎると頭が変になるので顔に集中した方がまだマシというのが水華の極悪非道なところだ。私は水華の代表的美点として外貌を挙げたが、声を挙げる者があったとしても全く反対しないだろう。水華はただ喋っているだけで相手を一種の陶酔に陥らせることができる。


 水華の外貌を述べるにあたって外すべからざるものは手だ。腕ではなく手。私の爪は私の瞳同様にちまっとまるっとしているのだが、水華のそれは完璧な楕円を形成しており、指先だけで美貌を期待してしまうほどだ。


 また、白い手の甲に走った血管の青、それは死の気配を漂わせて人を誘惑するものであり、やつがチェロへの興味を失ったことは多くの人にとって幸いだろう。水華がチェロを構えている様、特に指板をおさえる時の手の甲とビブラートをかけるときの憎たらしいほど細長い指の振動、ボーイングを行う右手の手指の繊細さは人を狂わせるに十分だ。彼の演奏は客観的には残念な出来だろうが、彼の容貌が優れているのでだいたいの人は気にならないはずだ。もっとも、私は彼の拙劣なチェロを熱狂的に愛しているが。これは私が彼を愛していることを含意しない。もちろん。


 水華の手。それは手の甲の外観的魅力に限定されない。あいつは触り方が上手い。上手すぎると言ってもよい。実のところ、水華の触れ方は基本的にあまり性的ではない。私をまさぐって欲を満たそうだとか、逆に私を性的に興奮させようだとかいう意図は基本的に感じない。あいつは私を触ることについてあまり躊躇しないが、その触れ方は繊細極まる。絶対に傷つけないというダイヤモンドを思わせる脆くも強固に透徹した意志を感じる。その意志を纏った指先は常に優しく私に触れる。


 一見矛盾する変な話だが、水華はしばしば雑に私の頭髪を扱う。だが、その雑さに苦痛がない。私は専門家に散髪を任せる際、あるいは自身で頭髪に触れる際も時折過失や粗雑さにより髪を巻き込んだり引き抜いたりしてしまい痛みを感じることがあるが、水華にそうされたことは一度もない。


 わしゃわしゃしているはずなのに一体どうなっているのか理解に苦しむ。最近はしばしば口づけをかわすため頬に触れられる機会も増えたが、そこから彼の手の中に溶けてしまいそうな錯覚を毎回得ている。発情はしていないのだが、そういった性的な意図を一切排して、首筋から肋へと指先をおろしてほしいといつも思っている。そうしてもらえるなら、私は基本水華にどこを触られても怒らない。そうされなくても、私は水華にいつどこを触られても全く怒らないだろうが。これは文句を言わないということではない。怒気や不快感が全く湧いてこないということである。つまり、仮に彼が公衆の面前で私の腰を抱いたとして、私が彼に苦言を呈したとしても、そのとき私は全く嫌がっていないということである。


 水華に触れられて嬉しい、心地良い、幸福だと思ったことはあっても不愉快だと思ったことは一度もない。


 ただし水華にはひとつ触れ方に悪癖がある。それは私が安心するにつれて触れ方がいやらしくなるという点だ。水華の手には基本的に性的な色がないが、唯一ベッドの中、全身で水華を感じて眠りに落ちるそのときだけはじわじわと水華の指先が性感を貪る、あるいは与えようとする色を帯びる。


 私が眠りに落ちようとすると水華が興奮しだす、というのは指先以外のもっと直接的にわかりやすい箇所の変化でも容易に知れるのだが、そこがどうなっても別に私はどうもしないので私にとって重要なのは指先だ。そして先のとおり私は水華に触れられて嫌だと思ったことは一度もない。


 水華にずっとそういう触られ方をしてきたので、眠りに落ちる際だいたいわたしは同時にむらむらしている。それは我慢しがたい感覚ではない。むしろ逆だ。むらむらしていると安心する。水華に愛撫されて穏やかに発情しているときが一番幸福を感じる。発情は私にとって安らかな眠りと紐付くものだ。


 これは水華が悪い。小学生の頃からずっと私にそうしてきて、私にとって眠るとはそういうことだと徹底的に教育しているのがあいつだ。私は不眠症を患っている。殆ど地獄のような眠気を覚えていても、それを入眠に紐付けられない。私の眠気と入眠を紐付ける鍵に発情があることを、水華はたぶん知らない。実のところこれはあまり自信がないのだが、六割くらいの強さで知らないと思っている。


 興奮しないと眠れない。つまり水華の匂いも私の睡眠にとって重要な要素であり、なにやら頭髪がスースーしているのは論外だ。あいつは私の抱き枕としての練度が足りない。逆に私の抱き枕としての練度は極めて高いと自負している。私は常にあいつが幸せになり興奮する枕であると確信しているし、その性能を向上させる努力を怠るつもりもない。音楽はもちろん勉学より優先している。水華の枕として高性能を維持し、その性能を向上させ続けることは私の第一優先事項だ。


 水華は私を眠らせるとき、甘く抱擁して背中をとん、とん、と優しく掌で、あるいは指先で叩いたり、穏やかに撫でたりする。普通そういう触り方こそが真に優しいものだと思うし、背中はあまり敏感なところではないと思うのだが、なぜか興奮するしあいつもしているのでよくわからない。


 だいたい私が微睡みに沈む頃には背、腰のあたりから臀部に近いあたりにあいつの手がおりてきて撫でられており、あの感覚は著しく私をばかにさせる。脳が溶けて、溶けた知性の分だけ腰回りの快感に変換されているような気がする。


 かなり胸が切ないので私は抱きついた水華に強く露骨にそこを擦りつけているのだけれど、そのもどかしさも好きだ。本当は水華には胸にも触れて、というか少し痛いくらいにぎゅっとおさえてほしい。そうすると切なさがぐるっと強い気持ちよさと安心に繋がる――気がする。水華に露骨に胸をおさえられたことがないのでそこは想像だ。私のお気に入りの。


 残念ながら私は平坦なので揉めないのだが、抑え込むとやや手が沈むくらいの脂肪はある。たぶんその薄い脂肪と骨の感覚は水華を異常に興奮させるに十分なものだ。蛍川家の人間が頭おかしいのはよく知っているので、これは必要最低限ということを意味しているのではなく、まさにそういうところを水華は好きなはずだ。好きなら好きにしてくれていいというかしてほしいのだが、残念ながら私たちはお互いを好いているわけではないのでどうしようもなかった。


 今は胸についていつ選択権を行使しようか楽しみにしている。べつに水華を苦しませるタイミングを狙って楽しみにしているわけではない。むしろ考えるだけで興奮して頭がどうにかなりそうなので、一番ぱーになりそうなタイミングを私の方が探っている。おしまいになりたい。


 小学生の頃は水華が寝物語をきかせてくれたものだけれど、あれもやってほしい。頭の中が脳内麻薬で破壊される感覚は忘れがたいものだ。今の静謐ないやらしさも好きだけれど、少しいじわるに囁き続けてほしいという欲もある。私は基本的に水華に勝っていたい人間だが、ベッドにいるとき私は基本的に水華に負けたい。ただ、水華も負けたがっている節がある。


 基本的にいつも私の方が強く抱きついて胸をおしつけて優しく撫でられて勝手に発情して負けているのだけれど、たまに水華にわざとらしく下半身を擦りつけて水華を負けさせることもある。私に誘惑されて余裕がなくなった水華の手つきは露骨に背から腰へおりてくるペースが平時よりあがるので、かなり興奮する。水華に余裕がないということ自体が私をむらむらさせるので、物凄く安心して常より速やかに寝落ちできる。


 寝た私に何をしてくれても文句はないのだが、水華は十割の確度で自分の腕の中で私が寝落ちすることに極度の幸福を覚える異常者なので性欲を庇護欲が上回って何やら満足して寝ていることだろう。つまり水華は寝ている私に絶対に何もできない。性欲を向けられても庇護欲を向けられても基本私は興奮しているので私としてはもちろんどちらでもよい。勝手になんでもしてくれて問題ない。そもそも私は水華に触れられたいので水華の可触域は無限に拡大してくれて構わない。いや、構わないのではなくそう欲求している。だがそうならない。


 私と水華の性欲にとっては可哀想な話だが、それはあいつが変態の異常者であることが悪いのであって、私が悪いのではない。嫌なら私から離れればよいのだから、全責任は水華にある。私たちは恋人ではなく、あるいは友のような他のいかなる親密な関係性にも定義されないので、互いに対して何の特別な義務もない。


 水華は自由なので全ての責は水華にある。水華が苦しんでいたとしても私は悪くない。もちろん私のもっと触れてほしいという気持ちも置いていかれることになるのだが、同様にあいつは私に何の特別な義務も持たないので私はあいつに文句をつけられない。私と水華の関係によって最も犠牲になっている互いの要素はなにか。性欲である。


 要訣する。水華の愛撫はえろい。普段全くえろくないことを含めて。あいつと私のどちらがえろいかというと二対八で私がえろいだろうが、私がえろいのは水華のせいみたいなところがあるので、それを加味すると六対四くらいで水華の方がえろい。


 私たちにとって一緒に寝るということは眠るための飢餓的な条件でもあるのだけれど、普通にいやらしい目論見も多分にある。私が限界の不眠にあるとき、私が、あるいは水華が一緒に寝ようと言い出すとき、だいたいお互いにむらむらしている。


 眠いと感情が鈍麻しながら鋭敏になるという変な状態になるので、眠くてむらむらしていらいらする。だいたい昼休みくらいに一緒に寝ようと決めるので、午後の授業中はずっと水華と寝ることを考えていらいらしている。私は基本的に来る者拒まずでよく人から話しかけられるが、この状態に陥っていると空気が読める者は露骨に声をかけなくなる。外野はどうでもいいのでそれを改めるつもりもない。本当にいらいらしているのだが、これは対象を持たないいらいら、あるいは性欲と睡眠欲が混合した脳内のバグなので何かにいらいらしているということはない。ただいらついているだけである。傍迷惑なことだ。改めるつもりはない。


 詳言するほどに私が水華の代表的美点を容姿としていることに自己欺瞞を覚える。五感で代表するにしても容姿だけは代表性として一枚落ちる気がするのだ。あいつが内面を改める前、つまり数多の女子と一部の男子をゴミにしていたとき、周囲を落としていた主因はあいつの容姿だろうが、私を最も破壊しているのは間違いなく容姿ではない。見た目、つまり視覚は最下位であり、その次に声すなわち聴覚が来るだろう。


 つまり本当に私が水華の代表的美観として挙げるべきは匂い、指先、キスや肌の味。つまり嗅覚か触覚か味覚となる。だがどれを選んでもえろいでは済まない。変態である。えろいことは是認しても変態となれば私のようなちんちくりんに対し、ちんちくりんであるから発情している変態である水華と同レベルに堕ちることになるので絶対に認めるわけにはいかない。水華のことを好きだと言うことよりこれらの要素を水華の代表的美点として特筆する方が私にとって恥辱である。


 私が水華の愛撫を常に熱望しいつでもどこでもいいから気持ち良くして欲しい完全に終了した人間であることは自明だが、それを認めるわけにはいかない。どうしても仮に認めるなら私は水華を好きだということにする。ぜひともする。好きだから触れてほしいのだ。これならまだマシである。幾分変態性が薄れる。


 明らかに好きではない男に徹底的に調教されて好き放題スイッチを入れられるホモ・サピエンスの面汚しであると自己を正しく認識すると、私は自我が崩壊して即死するだろう。私は水華の涼やかな瞳より水華の唾液に濡れた舌を愛しているが、私は水華の涼やかな瞳より水華の唾液に濡れた舌を愛しているということを信じていない。これをムーアのパラドックスという。私はこれを形式的に処理した場合にパラドックスに陥るのであって、日常言語実践上これはパラドックスではないという反論を採用したいのだが、これを採用すると結局私は自滅することになるので深く考えないことにしている。簡単に言うとムーアのパラドックスを認めても認めなくてもいずれにせよ私はおしまいでありおそらく逃げ道はない。深く考えないことで私は自分が終わっていると認めながら、まだ終わっていないと信じている。


 更に核心を直視するならば、私はこの見苦しく藻掻いている私を水華に完全に終わらせてほしいと思っている。つまりぐちゃぐちゃのどろどろにされた上で、水華に僕を好きかと問われて正直に否定し、では僕の感触または味または匂いは好きかと問われて「はい」と愛情いっぱいに答えたい。この問いを与えるとき完全に私を崩壊させる水華の体の部位は一つしかないので、だいたいその箇所で想像するのが私のお気に入りだ。私はたまに水華がいなくても眠れるが、この想像が完全に決まったとき単独睡眠に成功する。


 もっともそれだけ上手くいったとしてもごく浅い眠りしか得られないので、結局のところ欲しいのは実物だ。私の想像上の水華がどれだけえろくて意地悪でも、本物の圧倒的実在感には及ばない。頭の中で水華の前に跪いているときより、実際に水華に頭をぽんぽんされる方が遙かに良い。なので、現物の水華に私の想像を実現されると私は壊れるだろう。私が自己完結して自己を正しく認識して「終わる」とき、先述のとおり私は即死し跡形もなく塵も残さず綺麗さっぱり消滅するはずなので、私が「終わる」のはある意味私の尊厳死なのだが、水華に「破壊された」場合私は一応生存しえへえへ言いながら常に水華の内股あたりに頬を擦り付けて永遠に発情し媚びを売っているはずなので、この場合私の尊厳は完全に毀損される。この状況に陥れば私が水華に恋するのも時間の問題というか壊れれば三秒で水華に恋する自信があるが、人類史および恋愛史にそのようなゴミを残すわけにはいかない。


 いくら現状で現代人の恥である私であっても、水華を好きではないと言いながら水華の足許で破壊されて三秒後に水華にあなたに恋をしていますと告白するわけにはいかない。いかないのだが、ここまで含めて私のお気に入りの想像である。嘘だ。この想像には続きがある。私が本心から告白した場合、水華は堕ちる。間違いなく堕ちる。三秒どころか一秒で堕ちる。


 水華は間違いなく私に恋していないが、私が水華に恋を伝えたら水華は間違いなく私に恋をする。絶対にする。かくして水華は足許に侍らせた私の恋の告白に恋をもって応じ、晴れて両想いになった私の眼前にあるものはそれなのでつまりそうなる。ここまでが私のお気に入りの想像の導入である。ここからどんどん熱が入っていくわけだが措く。翌日の私は水華がわんと鳴けと言ったらわんと鳴き、お手と言ったらお手をする恋人に成り下がっていることだろう。この道筋で私たちは確実に両想いになるが、その場合水華はご主人様であり私は水華に完全かつ心底から隷属し崇拝している。私はぜひともこうなりたいのであるから、これこそが私の思い描く水華と私の関係における最上の結末である。


 当然こうなるわけにはいかない。いや最終的にはこうなっていいし絶対にこうなりたいのだが、物事には順序がある。嘘だ。私は一気に心を折られたいのではなく水華に嬲り殺しにされたい。一つ一つ順番に水華に差し出して丁寧にゆるやかな階段を降りるようにして壊れたい。


 つまり私は現在進行形で崩壊中であり、水華に差し出すたびにまだ水華を好きではない、いつ私は壊れるのかなと興奮している知的生命体の集合に入れたくない存在、この宇宙の尊いものヒエラルキーの最下位を生きるゴミなのだが、ここまでの事実を私は信じていない。信じるわけにはいかない。


 私は私と水華の絆が完全に凍結しており永遠に不変であると信じ、せっせと私自身を破壊しているので、私が現在進行形で崩壊している事実を私が全く信じていないことは、私が壊れるための欠くべからざる条件なのである。中期的には「壊れない」という目的のために私が水華となにかするたび崩壊しているという短期的な事実を微塵も認めるわけにはいかないが(認めると私は終わって即死する)、同時に、私は長期的には壊れるためにこそ、崩壊中であるという事実を信じていないとも言える。


 中期と長期、逆の理由で私は短期的に観測できる自身の崩壊を認められない。いずれにせよ私はいつか必ず壊れる。これは私にとってこの世が至上の楽園であることの証明になっているのだが、もちろんこの厳然たる事実も私は信じていない。ゆえに私の世界は冬のドブのように濁っていることになっている。つまり私の世界は凍った地獄であり、水華によって天国に変わる、いや最初から天国であったと明かされることが約束されている。


 極めて残念なことに私の崩壊は水華の崩壊を伴い、これは約束された未来でありいつ訪れるかだけの問題なのだが、間違いなくここまでの理解を水華はできていない。目をそらしているのではなく、意識にのぼらせていない。これは水華が愚かだということを意味していない。あいつは一瞬でもそこに目を向けたら壊れると無意識の本能で悟っている節がある。


 私と水華の不変を僅かでも疑ってしまうとあいつの頭脳は私と同じ結論を導出する。これを導出するとあいつも最下層に落ちるので、あいつの人類としての尊厳はあいつの本能のプロテクト下にある。私は約束された未来と壊れていく自分をチラチラ見て興奮している知的存在の面汚しなので、これを予見しても興奮するだけで何の問題もないのだが、水華の現状の人格はこれをただの一度、一瞬だとしても受け止められる構造をしていない。あいつの本能はいい仕事をしている。あいつの本能があいつを守ってくれているおかげで私はゆっくり崩壊を楽しめる。素晴らしい。


 いくら木石のあいつでも私と同衾していない夜、あるいは私が寝落ちした後に、私が時折ひとりで楽しんでいることくらいはしているはずだが、あいつは私と同レベルの想像はしていないだろう。いや、水華だ。もしかしたら、一度もしたことがないかもしれない。いや、あいつはごく健全な機能を持ち性愛の対象として私が極めて適しており、私に常にそれを誘発されている個体だ。さすがにしたことがないはずはないだろう。いや、しかし水華なのだ。億が一ということもある。私が可能な全ての世界における最下層のゴミであるように、あいつが徹底的に。本当に徹底的に。異常の中の異常として意地を張り続けている可能性はある。


 さすがにそこまで都合の良い話はないだろうと思っている。ちなみに私の想像の中の水華はその億が一の水華だ。つまり足許に跪いた私があいつを導くはじめてであるということに、私の頭の中ではなっている。私は将来確実に壊れるのだが、ここまで私に都合の良い崩壊にはならないとわかっている。しかしあわよくば、と私はいつも思っている。


 もしここまでの期待を水華が本能的に察知しているのであれば、水華はしていないはずである。水華はここまで私が熱烈に欲しがっているものを、そうであると気づいていながら自分の意志で蔑ろにすることは絶対にない。水華が気づいていないのなら、ほぼ確実に水華はしているが、水華が気づいているのなら、ほぼ確実ではなく絶対に水華はしていない。


 これはもちろん水華の無意識下の欲望を完全に達成するためでもあるが、その百億倍くらいの重要度で私の願いを叶えるためにそうなる。あいつは自分の長期的な自制心を著しく過小評価しているが、私はそれを高く買っているのだ。たぶんあいつがその点について完全に自信を喪失しているのは、私に一度恋して告白し、こっぴどく振られているからだ。


 恋に目がくらんで暴走し、視野狭窄となり、自分を制御できずに私の気持ちを一切考慮せず玉砕した経験があいつの自信を失わせている。あのときの私はまだ幼かったので変態ではなかった。なので想像も幾分穏当であり、半狂乱になった水華が「僕が好きだと言え」と叫びながら私を殴打し、私はそれに対して嫌だと本心を答え続け、水華の暴力は過激さを増し、やがて私は暴力に屈して水華の告白に応じるという想像をしていた。


 完全に穏当かつ皮相かつ未熟である。なっていない。まず水華の告白に私が応えるという形がだめだ。もうだめ。私という人間の根本的欲望を理解していない。告白するのは絶対に私であるべきだ。私が情けなく求めて崇拝する水華様にお認めいただく。こうでなくては。私が全責任をもって私を一つずつ水華に完全なる自由意志で捧げてこそなのだ。水華に責任を委ねてはならない。


 私の中の「異常な終わり」として私が告白して水華に振られるというものがあるのだが、この想像は私の中で禁忌になっている。水華が私に何の責任も負わず完全に無責任を貫き、私が勝手に責任を負って水華に全てを貢ぎまくるのはちょっとよすぎるからだ。これは「水華が神様になる終わり」、あるいは「私が宗教を持つ終わり」として私の中で絶対に深く考えてはならないものとなっている。浅く触れてぞくぞくするのはいい。深入りしてはいけない。その場合私は壊れるのではなく変質する。


 実のところこの終わりは可能だというのが最悪だ。私にとっての最高の終わりでは私が告白して水華が振らないことはありえないのだが、私が完全に変質して水華に振ってほしいと心の底から水華におねだりしながら水華に告白した場合、水華は確実に私に恋をするのだが絶対に私を振る。そして水華は私の、私だけの神になる。私に恋しながら私の恋人としての義務を一切負うことのできない存在になる。もちろん権利の方は好き放題行使できる。


 水華は私を犬にしてお散歩させることができるが、私に何で今日はお帰りのぎゅーしてくれなかったのと文句を言われる機会を永遠に喪失する。これは水華にとって地獄だが、あいつは自制心がおかしいので一生耐久できる。私は好き放題貢ぎ、捧げ、敬い、自分の恋と信仰の全てを水華にさらけだすことができるが、あいつは私に下賜し命令することはできても、求めて求められることは永遠にできなくなる。


 この場合私の信仰心はいつか極点に到達し、水華を苦しませるわけにはいかないという徹底的な信仰心から、水華に自分を恋するよう求めるだろう。これはかなりテクニカルな信仰で、神の絶対性を拡張するという純然たる奉仕である。


 つまり私は恋という範囲に置かれた、神である水華に許さない全ての行為を、神であるまま水華にとって許されるものとして捧げるのだ。こうして神は一信徒に恋することができるようになる。かくして無事この異常な終わりでも私たちは二人とも幸せになるのだが、これは私にとっての最上の終わりとは明確に異なる。なぜなら最上の終わりにおいて水華と私の関係は恋人-恋人なのだが、異常な終わりでは水華と私の関係は神-信徒のままだからである。異常な終わりの最後において私は信徒として完成するに過ぎない。これは恋人として恋人に服従するのとは全く別種の感覚を私に与えることになる。最上と異常は単純な上位下位の関係ではなく、どちらもそれぞれの良さがある。ただし、どちらの道に入っても私はその道のことしか考えられないだろう。複数の可能性を考慮できるのは今の私だけだ。


 ここまでなら異常な終わりについて考えていい。ここまでは表層だ。だから今回はここで引き返しておこう。なぜ私がここで引き返すかというとひとえにこの異常な終わりだと水華が可哀想だからだ。結末的にはよいのだが、過程がよくない。普通なら百万回精神が崩壊するんじゃないかというくらいの痛苦を水華が味わうことになる。あいつの恋は死ぬほど重いので、一人で抱え込ませて私が勝手に幸せになっているのはちょっとあんまりだ。水華はそこまでされるようなことを私にしていない。


 確かに水華は私を幼い頃から徹底的に調教するという罪悪を犯しており、そこについては何らかの刑罰(たとえば恋人になる前の私にぎゅっと抱きしめられてバードキスされながら好き好き一時間言われるの刑)を受けてもよいのだが、神の刑に処されるほどのことはしていない。私はだいぶ水華に脳をやられているが、だからといって水華を地獄に堕とすつもりはない。その地獄から水華は楽園に至れるけれど、一時的にでも水華には地獄にいてほしくない。だから私は異常ではなく最上を望んでいる。


 最上を早めないのは、水華もこの状況を楽しんでいるからだ。あいつはねじ曲がった理想主義的な被虐趣味者なので、私にファーストキスを捧げながら嘔吐しているときすら、それをもって自分の矜持ではなく私を想う心を自らに証明していた。 常人には理解できないだろうが、あの痛苦は苦しければ苦しいほどあいつにとって良い。だから私にとってあの提案は互恵的だった。


 これはあいつが神になることと同じラインの話で、強度だけが違う。あいつのマゾヒズムはあいつを好いていない私に恋なき口づけをするところまでは結局の所悦楽だと判定するのだが、神になるところまでは認められない。


 水華が私と初めての口づけを交わしても問題なかったのは、苦しんでいる理由と同様に私に恋をしていないからだ。互いに恋をしていなかったからこそ水華は苦しみ、しかし水華は耐久できた。もし水華が私に恋をしていて、私が水華に恋をしていない場合、あいつは私にキスをすることだけはできる、私のために絶対にできるし耐えるのだが、一切の快なき苦痛と絶望と挫折を経験するだろう。これは水華が神になることに近い苦痛経験だ。ちなみにこれは絶対に実現しない仮想である。なぜならば、好きになるのも告白するのも私が先であるべきだからだ。私の前で水華が無様を晒してはならない。水華の前で私が無様を晒すべきだ。もちろん私は水華のことなど好きではないし、好きになりたくもない。もちろん。自己欺瞞である。違う。ここまでを私は楽しんでいる。そんなことはない。ここらへんでブレーキをかける。


 あいつは確かにマゾヒストで、あの最初の状況すらも結局は楽しめてしまうのだが、もちろんあいつのマゾヒズムの本質はそこにない。水華はマゾヒストでありながら甘々であることを強く希求しているので、あれは好みの領域にあるものの芯を外れた場面だ。あの最初の一発だけは、どうしても暴投せざるを得なかった。だが、今は取り返せている自信がある。


 今日に至るまでイチャついている日々がどんどんあいつ好みの甘さになっているはずだ。あいつはイチャついていないと確信しているはずだが、これだけのことをしておいてイチャついていないと思っているなら完全にバカアホマヌケなので、あいつはバカアホマヌケである。私は崩壊しながらあいつの好みの状況にどんどん接近している。水華にはもう苦しんで欲しくない。存分に楽しんでほしい。あいつの本能はあいつの理性に危険を察知させないので、私が耐久している間、つまりたいへん長く水華も楽しめるだろう。


 イチャついているのは事実だが私も水華もお互いのことは好きではない。これは自己欺瞞や自己韜晦ではなく事実だ。私が水華を嫌いだと言うとき、この嫌いという語の用法は日常言語の一般的な用法に適っていない。しかし私が水華を好きでないというとき、その好きという言葉は恋を扱う際のごく一般的な用法に適っていると思う。私は本当に水華を好きではない。水華もだ。将来的にそれは崩壊するのだとしても今は違う。


 私はそれでよいのだけれど、あいつはイチャつくのは恋人がやるべきことと思っているので私たちがイチャついていると認めていない、絶対に。だがべたべたくっついてくる後輩の頭を面倒くさそうにわしゃわしゃ撫で回して、たいへん気持ちよさそうに甘んじてそれを愛撫だと受け入れている後輩を見たら客観的に見てそれはバカのイチャつき方である。水華の方のバカ具合は初心な人間の幼気な強がりという色が強いが、私の方のバカは頭に何も入ってない完全なるバカ、知的生命体の誇りを欠いた恥ずべきバカと表現してよいだろう。私は現代人として恥ずべき存在である自覚がある。このレベルでのバカであることは是認しうる。


「ごく客観的な事実として私は水華とイチャついています。しかし水華のことは好きではありません。そして、好きでもない男と馴れ馴れしく肌で触れ合って、私は最近たいへん満足です」


 先日藤沢先輩の疑問にこう答えているので彼の脳は粉々だろう。明らかに水華を好きだが認められていないと誤解されても、好きでもない男にこうする女だと正しく認識されても、どちらでも藤沢先輩の恋愛感情にとって致死の毒足り得る。


 藤沢先輩は私を妙に高く買っているが、私は知性と品性の両方を極端に欠いた人間だ。水華は藤沢先輩が私の理知をこそ高く買っていると認識し、だからこそ藤沢先輩がどれだけ私への理解を深めても決定的な問題にはならないと認識している。


 私も藤沢先輩が私の知性を買っていることはおそらく事実と認めている。私に存在しない優しさを見出して私を好いている者達の目は節穴だが、藤沢先輩はそんなものはないとわかった上で私を好いている。まあまあの理解だ。しかし私は優しさを欠いているだけでなく知性も欠いている。昏い知性を湛える神秘的な少女などという藤沢先輩が見ている新条雪希像は幻想である。


 もちろん、幻想に惹起じゃっきされたのだとしても私個人への愛着を既に藤沢先輩は持っているだろう。本来私の知性を好いていたはずなのに、私のこと自体をかなり好きになっていたはずだ。だが、彼の最低限の要請の根本を私は破壊した。彼は高踏的な人間を好いている。私のような品性下劣で俗悪な人間は彼の好みの範疇にない。


 もう少し私のことを好きになる時間があれば、彼の趣味も拡張されただろうが、私は彼の微かな恋心を必要な程度育つまで放置し、恋心が育ったからこそ与えられる最大限の苦痛で破壊した。もう少し恋心が未熟ならダメージは小さかっただろうし、もう少し育っていたならそれでも好きになろうと努力したかもしれない。私はタイミングを重視して動いた。私という人間を認識したり想像したりするだけで不快感やおぞましさを覚えるようにしておいた。水華がどれだけ頑張ったところで私が藤沢先輩と交際する道など存在しない。


 水華が「この人ならばあるいは」と目を付けた男子まれに女子は私が脳を破壊するので水華は無駄なお節介を焼くことで私たちの閉じた関係を乱す邪魔者を始末していることになる。


 水華は実にわかりやすく推薦してくれるので破壊しやすくて助かる。互いの協力あってこそ閉じた関係は保たれるのだ。水華の律儀な努力には毎度感謝している。私は基本的に他人がどうでもいいので、面倒臭い人間の私に対する恋心が過剰に膨らんでしまう状況を見逃してしまう可能性がある。水華が危険人物を教えてくれるので、私はそれを認識し、排除できているのだ。私の用いることのできるリソースはごく小さい。いつも水華には助けられてばかりだ。藤沢先輩も一言で破壊できた。他人に関心を向けないし向けたくないという私の要請に水華はいつだって応えてくれる。やはりあいつは私の神になるべきでは? 私の神になるために生まれてきたとしか思えない。


 逆に水華がその外貌で多数の女子と少数の男子をゴミにしていたとき、私は全く介入しなかった。微塵も脅威に感じていなかったからだ。私は外野を気にしない。水華に告白するものは好きにさせていたし、「水華が好きだ」と宣言し私を牽制する者については牽制だと理解していながらただ事実だけを認め、変わらず水華に纏わりつき続けた。間接的、あるいは直接的に威嚇されても私は一切影響を受けなかった。控えるでもなく、過剰に水華に接触するでもなく、平常を保った。


 私は水華の逆鱗なので、恋の熱にやられて完全に視界を失い私を排除しようとした者は水華の憤激を買うことになった。あいつは正論を垂れ流す機械だが、平時はあくまで垂れ流しているに過ぎない。キレると正論を積極的に刃物として使うようになるので口だけで相手をズタズタにする。あいつの何がよくないかという点で声をあげた。あいつの声には陶酔的な効果がある。あいつに恋しているならなおさら効く。つまりあいつは声で防壁を解除した上で正論という刃を声の暴力でねじ込んでくる。ねじ込んだあとナイフを回転させる。


 結局のところあいつが好かれまくった熱狂の時期は死体の山を築き血の河を生みはしたものの、割と短い期間で終わった。大量虐殺がよくないからという理由で終わったのではない。私が巻き込まれるから終わったのだ。あいつは好かれないよう、過剰にではなく微妙に嫌われる程度の立ち位置にあろうと注意深く立ち回るようになった。それは私に迷惑をかけないためだ。外野はどうでもいいので私に外野の何かが飛び火しようとそこのところはどうでもいいのだが、あいつはたいへん律儀だ。あの徹底的に私を庇護下に置こうとする姿勢、やはり私の神になりたがっているとしか思えない。


 実際のところ、私は外野が纏わり付いてきたら苦痛を感じるだろうし、今より自傷による生傷が酷いことになっているだろうが、それはどうでもいいし、傷ついた分だけ水華を補給する口実にさえなる。私の精神的な弱さ、傷つきやすさは私にとってあまり気にならないものだ。


 水華はそれを私の根底的かつ致命的な点だと思っているし、実際そうなのだろうけれど、私が私の精神的な傷に無頓着なのは私がそもそもそういう生き物だという理由が根本にあるにせよ、まあ最終的には水華がなんとかするだろうという怠惰が付随しているのも事実だ。あいつは私の怠惰を埋め合わせるために東奔西走している。水華はそれを貸しだとは思っていないし、私の方も全く申し訳なく思っていないので改めるつもりはない。楽なのでぜひ私のために今後も駆けずり回ってほしい。私の貴重なリソースを外野に割くつもりはない。外野が私に合わせるか、それができなければ水華が勝手に動く。これが一番手っ取り早い。どうしても私が動かなければならないときは最低限、対藤沢先輩相手の一言くらいの労働で抑えたい。


 つまり私と水華の関係に外野が割って入ることは利益を生まないくせに億の害を生むので接近するやつはバカである。もちろんつついたら億害が生まれる関係はそもそも不健全であり、ぜひとも消滅すべきだが、私には知性も品性も優しさも正義も備わっていない。私と水華の関係は消滅すべきだが、そうすべきだということは私の行動を動機付ける原因にならない。消滅すべきだが、消滅させたくないので継続する。よって私達に近づいて億害を生み出す者はバカなのだが特に悪くはない。ただバカなだけである。反し、私はバカであり悪い。


 完全なるバカ二人が発熱しながらイチャついているところに近づいて火傷しても私の知ったところではない。勝手に火傷しておけばよろしい。火傷で生じたそいつの水疱はどうでもいいし、火傷しながら突っ込んでくるヤバいやつは水華がなんとかしてくれる。


 この関係は極めて不健全である。では水華を排除すると私が否応なしに成長するかというとそんなことはない。私は全く成長しないし成長の可能性もない。何の発展もないまま精神的苦痛を蓄積し続ける。


 先のとおり私は自分の精神的苦痛に根本的に無頓着なので、苦痛は改善の動機付けにならず、私はそのままズタボロになって廃人になって終わりだ。私から水華を除いたところで私に良い影響は全くない。


 つまり私は徹底的に水華なしでは生きていけない生き物なので、水華を除いたらただ死ぬのみである。これを水華は身体的依存として特に不眠に着目し問題視しているが、私は自分の性情をどうしようもないものだと理解しているので心身共に水華に依存しきり、水華を前提にしたスタイルで生きているが、そのことを全く問題視していない。


 どうしようもないことを考えるのはリソースの無駄だ。詰んだ場合、私は投了すらしない。苦痛は私を動機付けないからだ。ただ苦痛を浴び続けるだけだ。これは新条、蛍川家の両親への脅迫でもある。私はこの四人を愛しており、他者ではなく身内に置いているが、同時にたいへんな障害でもあると認識している。


 私は四人に愛されている自覚があるので、常に水華を除いたら私は死ぬぞと脅迫している。それは先の通り投了を意味しない。確定した死へと次々に傷を得ながら私が落ちていく様を四人は目撃することになるという意味である。四人のうち父を除いた三人はたいへんな善人であるし、父も父一流の理屈からこの未来を絶対に実現させないが、同時に父を除いた三人はこの不健全な関係を憂慮もしている。


 水華がいなければ短期的にすら生存できないということを私は不眠で証明している。彼らは当然医学に頼った。通院、入院という措置を採った。だが根本的には何も改善しなかった。抗不安薬は私の傷を減らし、睡眠導入剤は私の入眠と睡眠時間を補助したが、それは当面的な改善に過ぎない。


 この問題の根本的な点、水華がいなければ私は短期的にすら生存できないという問題は全く解決されなかった。この問題に対する直接的なアプローチがそもそも採用されていない。


 水華がいなければ私は短期的にすら生存できないという問題は、客観的な事実ではなく、私がそう信じているという内省報告データとして扱われた。水華を特に問題視したわけではない隔離措置は行われたが、私はそれで複数回死にかけた。


 べつに自傷したわけではない。食事を断ったわけでもない。ただ死んでいった。もう手の施しようがない終末的と思われる身体的状況に衰弱してから最期の面会が許されたが、そのときに水華を摂取して辛うじて私は生きながらえることができた。


 これは偶然の結果だろう。奇跡ではない。私は「水華に会えるなら生きよう」などという殊勝な考えは持っていない。「水華がいないならただ死ぬだけだ」という消極的な姿勢で、水華が補給されているので当面死んでいない姿を見せているにすぎない。


 補給を受けての修復が偶然間に合ったので私は生きている。瞬間的に摂取できる蛍川水華の量は限度があるし、身体だって蛍川水華をいきなり無限に受容できないし、蛍川水華を摂取したから即座に回復するような魔法的な力を持っているわけではない。


 そもそもあのときの私は水華を認識すらできていなかった。意識がないどころか不全に陥っていた自発呼吸さえ停止していた。つまり水華が来たから助かったという事実について、私は意識的経験を持っていない。


 当然その因果も認められようはずがないので、水華の供給は偶然的な復活のあと再度断たれた。そして私はまた死にかけた。それを幾度か経験した。私は臨死有識者である。


 私は「水華がいなければ死ぬだけだ」という消極的な姿勢で生きているので、「このままでは死ぬから水華をくれ」とは一度も要求しなかった。何が欲しいか訊かれたときだけ「水華がほしい」と応答した。水華はほしいが、べつに死ぬなら死ぬで私にとって大した問題ではなかった。


 死に近づくにつれて受ける身体、精神的な苦痛もたいした問題ではない。実に苦しかったが苦しいことはどうでもいい。私は純粋に水華がほしいのであって、他の目的、たとえば生存のために水華を欲しているわけではない。


 水華がいると私は生存できる、ということは私にとって副次的な結果に過ぎない。逆の状況、つまり水華がいないなら健康になり水華がいると衰弱するという状況でも私は構わず水華のそばにいようとするだろう。


 その場合も止められなければ死ぬだけだ。水華がそばにいるかどうかが重要なのであって、それで私が元気になるか弱るかはたいした問題ではない。快苦も生死もたいした問題ではない。どうでもいいから水華がほしい。そして、手に入らないなら手に入らないなりの結果を受けるだけなので、手に入らないからといって私が騒ぎ出すことはない。ただ静かに結果が表出する。


 私の入院期間は決して短いものではなかった。結局のところ水華も私に関する課題として扱われ、そもそも水華自身も治療の対象であると見られたようだが、根本的には何も改善しなかった。


 基本的には水華を与え、与えない期間を少しずつ延ばす戦略が採られた。同時に、私の水華に対する認識を理解し、私の病状を改善する措置が採られた。


 もちろん、私の考えが治療において否定されることはなかった。それは治療において悪手だからだ。ただ患者を頑なにするだけだ。手本のように彼らは聴き手に回った。彼らの態度は肯定でも否定でもなく理解に近いがそれも正確な表現ではないだろう。


 彼らは私の発言の論理構造を見るというより、発言を含めた行動主義的観点から患者のデータを見て治療に活用していたはずだ。それは理解の一種だが、議論的な理解というよりもむしろ医学的な把握と述べた方が適切だろう。


 私にとっては新鮮で好ましい体験だった。私は発された問いに同様に回答した。同じ質問には同じニュアンスで異なる文言を用いることもあったが、数分にわたる回答を一字一句違わず以前と同じものにすることもあった。機械的に完全に同一を貫くこともできたが、頑なな印象はかえって誤解を与えるのではないかと思い、同じ態度なのだが言葉だけ変えたり、何も変わらなかったりしてみた。


 たぶん記録されていないが、同期するときは瞬きの回数や記憶にある限りの眼球や手指の運動もあわせてある。この一芸は「かなり気持ち悪いのでやめろ」と私の愛するひとたちのなかで悪名高いので、気持ち悪かったかどうかはともかく、何やら同期させることがあるという単なる事実は記録されていることだろう。結構インパクトが強いという自信がある。


 私はもちろん健常な方向に自分を変えたいタイプの人間ではないが、変えるなと騒ぐ人間でもないので、治療に非協力的ではなかった。実際、薬を飲むと私は凪ぐ。目に見えて傷も減る。だが、精神の波は私にとって根本的な問題ではない。そこをコントロールすることにさしたる意味はない。


 認識と行動についての決して強制的ではない治療も奏功しなかった。凪いだ穏やかな気分の中で私は指示に対してスタンスから導出される定型的な反応しかしないからだ。


 私は花丸をもらって退院したわけではない。入院している人間なら多くがやることだが、本心はともかく治療が奏功しているかのような振る舞いを試みに採ってみるのはどうだろうと水華に提案されて実行に移したことがある。


 もちろんこれは秘密ではなく、治療者に開示した上で行った。水華は行動に精神が引きずられることを期待したのかもしれない。だがそうはならなかった。べつに欺瞞を吐き続けたところで私にはそもそもモラルがないので苦痛はないのだが、欺瞞は単に欺瞞として存在し続けた。


 百回吐いた嘘は嘘のままだった。先の通り苦痛はないのでそれで苦しむことはないし、私の精神は薬で凪いでいて、行動も言葉も穏当で、しかもそれは持続した。


 なぜ欺瞞が欺瞞として破綻したかというと、簡単にテストしてみたところ何も改善していないことがわかったからだ。つまり、水華を試みに短期間断ってみたわけだ。


 そして、私は水華を断った場合の典型的な経過を辿って衰弱した。べつに衰弱して困ることはないので私は殊勝な嘘を吐き続けた。嘘を言っても本当を言っても水華がいなければ弱るだけなので、そこは客観的にもたいした問題ではなかっただろう。


 結局の所、私は何もよくなっていないと判断された。つまり私はまだ入院しているべきだし、医療関係者は治療への諦念こそ両親の義務の放棄であると喝破までしたが、私の父親が私の父親だけあって全くモラルを持っていななかった。彼の結論はこうだ。


「つまり水華くんがいてくれればよいのだから、水華くんがいてくれればあとは僕の資産でどうにでもなる」


 私の父親なだけはある。父は私の最大の味方だ。ただ、私よりラディカルでもある。結論が「水華と雪希をくっつけて自分の大量の資産でなんとかすればよい」なので、彼はそもそも私と水華の高校進学にすら賛成していない。


 私と水華が常にくっついていることが私と水華にとって最も幸福であり、その幸福度は常人が常に感じているものより圧倒的に甚だしい至福であると正確に理解しているので、彼は幸福の観点から私たちを学校に通わせる意義をあまり見出していない。


 勉学と音楽すらべつにしなくてもよいと思っている節がある。更に彼は完全なる悲観主義者だ。水華が機能すれば自分の資産でなんとかなるが、機能しなければ私はどうせすぐ死ぬとしてなんの期待もしていない。


 その点について父は、父自身も、私も、医学も、水華さえも無力だと結論している。水華が機能していればなんとかなるが、機能していなければどうにもならない。そしてこの状況は改善できない。よって水華が機能しなくなったら苦しむ前にさっさと死ね。これが父の私に対する態度だ。水華の生死は関係ない。生きていても、水華が今私に発している機能を発さなくなれば私は死んだ方が良いというのが父の考えだ。


 彼が私を高校に通わせているのは妥協の産物ではなく、私と水華が理性をもってそれを選好しているなら幸福ではなく選好を高めればよろしいと認めているからだ。


 水華はともかく、私は共同生活からどうせたいしたものは学習しないので学問の観点からは高校など通わず大学にいけばよいというのが父の考えだ。学問の観点からは私が大学、父の射程では恐らく院に入ることはたいへん意義があるらしかった。


 学べることは多いだろうとのことだ。だから、学問をしたいという理由で高校に行きたいのなら反対だと言われた。もちろん私はそんなことは考えていない。


 水華と高校生活を送りたいから高校に行きたいのだ。それなら高校も大学も行けばよろしいというのが父の答えだった。研究室に残りたいと思えなかったら、どうせ働けないし水華はともかく私は働きたくもないのであるから、研究しないなら一生僕の資産を食い潰していればよろしいとも確言をもらった。


 私にやりたいことをやらせてかつ生存させてかつ私の苦痛を抑えるという点では父はなかなか透徹していると思う。だが、全くモラルがない。父には徳がないし、徳を育てようとする意識もない。


 そもそも社会通念上の親の責任をいくつか完全に自覚的に放棄している。嫌だから放棄しているのではない。そんなものは必要ないと彼の理性が判断しているのだ。父は理性的かつ自覚的な悪人である。ごく一般に認められる倫理をごく一般に認められる言語の用法で操作すれば当然自分が悪人の射程に入ると認識していて、それを問題と思っていない。


 私と水華はマゾヒストであり、ロマンチストでもある。打算的な、と頭につける必要はあるだろうが。そのため父が導出しようとする最上の終わりは私にとって確かに最上だが過程が私たちの嗜癖に照らして性急すぎる。


 だから私は抗弁して、理路さえ通っていれば父はすんなり応援してくれる。これはもちろん、過程がどうであれ私と水華がくっつくのは私だけでなく父の中でも確定路線ということである。


 私の場合、入院のような強制力で私と水華の接触が途絶されなければ必然的にそうなるという話でしかそれはないが、父の場合「僕がそうする」という実力の話になる。


 私は水華がいなければ死ぬだけだが、父は私を死なせないし、非効率的なら苦しませもしない。父は医学とその方針を認めているが、単純に現代医学の知見が私を治療する域に到達していない、もっと手っ取り早く解決できると判断した。


 水華などといういつ機能しなくなってもおかしくないものの方が現代の膨大な知見より持続的かつ安定的に有効だと考えているのだからよほど私のことを救いがたいゴミクズだと思っているらしい。


 救わんとする人からすれば許しがたいことだろう。父は医学というか科学的手続きを信頼しているので、時代さえ違えば医学に私を任せたかもしれない。科学という手続きに幻滅しているのではなく、手続きはよいがそれで発掘された知見が足りていない、つまり私はいずれ救えるようになるかもしれないが、今は無理だと結論している。


 高校にさえ通わなければ抗不安薬も睡眠導入剤もいらないというのは父がよく零す不満だ。そのとおりだろうが、身も蓋もない。完全に私のことをすぐ死にかける貧弱な雑魚だと思っているし、水華の補給度さえ改善すればそれはどうにでもなるとも思っている。


 それであっているのだが。つまり私は生傷だらけになっても依存形成リスクのある薬を飲んでも水華といっしょに学校生活を送りたいのだし、父もそれならそうすればよろしいという立場だ。


 漸進的に減薬することを前提に私が薬を止めることはいつでもできるが(突然止めれば水華が常に補給されていても私は離脱症状で苦しむだろう。べつに私は苦しんでもどうでもいいが、父にとってはどうでもよくない)、私がそうしたいのなら薬を飲んで自傷しながら学校に通えばよろしいと言っているのが父だ。


 これ以上の入院には水華との持続的接触を強制的に継続させる以上の価値はないと判断したのも、傷つきながら学校に通っていいと判断したのも、働きたくないのだから働かなければよいと判断したのも、全部父の中では筋が通っている。


 むしろシンプルすぎるのが問題と言えるだろう。先の通り終わりの敷き方が暴力の塊すぎる。これも父の口癖だが母を落とした父の決め手は「金」らしい。


 しかも自分で稼いだ金ではない。親、つまり私の祖父の金だ。父は必ずそこを強調する。父が見ているのはいつだって数値であり、その質は問わない。


 今の父は祖父以上に資産を膨らませているが、母に突きつけた「金」の正当化にそれを使わない。母を一生束縛するだけの資産は口説いた段階であったので、今稼いでいる金は母の攻略とは何も関係ないというのが父の考えだ。


 私と水華を一生遊んで暮らさせるための資産も祖父のもので足りるということを父は口にしている。必要なのはとことん数値なのであって、くだらん些事、質にかかずらうなというのが父の教えである。


 父にとってくだらんことも私にとって大切だったりするので、私は父にとってはらはらする歩みをしているのだが、私は父の教えを忠実に守ってくだらん些事は切って捨てている。


 他人とか、苦痛とか、生きるか死ぬかとか、つまりはそういうどうでもいい問題を無視しているのは私の生来の気質でもあるが、それを父が肯定し助長させている。まったくもってろくでもない人間である。


 きらいなものは自己形成小説ビルドゥングスロマンと公言する男なだけある。私が今やっているのは私の観点からすればかなり積極的な自己形成だが、普通それはビルドではなくスクラップと呼ぶので私と水華の関係の時間経過を私の人格の観点で見ればかなり過激な自己形成の物語を見いだせるかもしれないが、それを散文にしたところで自己形成小説とは呼べないだろう。


 もしそう呼ぶ者があるとすれば、それは少なくとも父と同レベルに自己形成小説を嫌う人間が、アイロニーをもってそう言っているに過ぎない。確かにスクラップかもしれないが、目的をもって正確に自己を破壊していっているのだから、彫刻とは呼べないにせよ二昔前のアートの出来損ないと呼ぶくらいはできるだろう、と擁護するのは皮肉以外のなにものでもない。


 父がなぜ数値ばかり見ているのに私の幸福を最大化しないのかについては、選好を見ているからだ。つまり、最大化させる数値はべつに幸福である必要がないと父は思っている。


 幸福に根本的な価値を彼は見出していない。任意のひとつ、あるいは複数の数値について大きくしたいものを大きくすればよく、小さくしたいものを小さくすればよいと思っている。質を重視しているから私の幸福に量的に妥協しているのではなく、幸福にすら根本的な価値は見出していないので、なんでもやりたいようにやれば結構、と言っているのだ。


 この数字を大きくしたい、という考えに父は反対しない。この数字を大きくしたいのでこうしたい、と言うときにもっと効率的な方法があるなら反対するだろうが。


 もちろんこれは選好功利主義の基本的な考え方を全く踏襲していない。この主義で言う選好より父の言う選好の射程は広い。一般的な用法を採っており、哲学的な用法を採っていない。そして選好を含む功利主義はそもそも個人用として開発された意志決定モデルではない。


 父の破綻的説教はこのノートに残しておく価値がある。


「私の資産が通用しないような状況は可能だが、これだけ多面的かつ大量に用意した資産がどれも通用しないならたいていの働いている人が雪希以前に詰んでいるので、非現実的な想定は外して安心して遊んで暮らしなさい。これで詰むならもう終わりだよ。もし終わったら、おそらくほぼどうしようもないので水華くんがなんとかできそうにないなら諦めてさっさと投了しなさい。無駄に怠惰なのが雪希の悪い癖なので、駄目だと思ったらぼーっとするのではなく諦める癖をつけなさい。これは想定する必要のない状況への対処法を教えているのではないよ。きみの老後の話だ。自然の状態だとたぶん水華くんの方がきみより先に死ぬだろうし、水華くんが死んだらさっさと投了しろと言っているんだよ。きみはこのままだと水華くんが死んだら死ぬまでぼーっとしているだろうからね。実に無駄だ。きみの求めるどんな値も大きく、あるいは小さくできない状況。きみはこの状況に陥ったときの処理が駄目だ。助かりそうなら助けてと叫びなさい。助かる術がないなら可能な限り早く楽になりなさい。これは極めて大切なことだよ。もっとも――水華くんは詰んだらきみを先に終わらせてくれるはずだから、水華くんが正常に機能しているなら心配はいらないのだが、どれだけ資産を積んだところで現代において肉体的に不測の事態はいつでも起こりうる。抑うつに起因する無気力はやむを得ないし、それは気分の波だから医学が戦える。きみはそうではなく、ただ怠惰であることをきみ自身が理解しているはずだ」


 これが父の説教の一例だ。 どれだけリソースを注ぎ込んでもリスクはゼロにできないと彼は分かっている。そして厳密にリスクを減らそうとすればするほどいくらでもリソースをつぎ込めることも。


 なので彼は資産を莫大にしているが、リスク回避に固執してリソースを注ぎすぎることを肯定してもいない。金の暴力は父の妄執ではない。単に父のリソースが祖父から引き継いだものを含め膨大なので、結果的に暴力を振り回しているに過ぎない。


 私のちっぽけなリソースを父は把握していて、父は私のリソース管理には注意を払っている。父自身は、私と違って自分のリソースが莫大すぎるので管理にリソースをあまり吐かない。父が望むようにリソースを注ぎ込み続けてもリソースが枯渇しないからだ。無尽蔵に使える数値を注視するメリットはない。だから私のリソース管理に注意しながら自分のリソース管理は雑なことについて、私と父はふたりともそれをダブルスタンダードだとは思っていない。むしろ極めてシンプルなスタンダードからの基本的導出の結果に過ぎないと了解している。


 彼の辛うじて父親らしいところは私の怠惰を是認し得ないところだろう。


 私は水華がいなければ死ぬ人間であることを「やむを得ず、あるいは嫌々、もしくは仕方なく」認めているのではない。水華がいなければなにもできない、自分が傷つくことを回避することすらできない人間として壊れていくことを選好しているのだ。


 つまり水華が先に死んたとき、確かに私は苦しむくせに何の対処もせずぼーっとして死ぬが、水華が先に死ぬ場合はそうやって死ぬのが理想だと思っている。それは死に方の理想の話ではない。私がどれだけ水華に依存できるかという話だ。死も苦痛も副次的な結果に過ぎない。つまり、私は私にとってどうでもいい数値を無視して、ぜひとも動かしたい数値を動かした結果怠惰にぼーっと苦しんで死ぬことになるので、その点を父にごちゃごちゃ言われる筋合いはない。


 父の理論に基づけば私の怠惰は正当化されねばならない。こう反論するとき、いつも苦々しい顔をする父が好きだ。社会通念上父は父親失格だが、このようなやりとりをして「それでも嫌だ」という顔をされると、父に愛されていると痛感して私はとても幸福だし、私は父を愛してもいる。


 娘を幸せにしたい。娘の好きにさせたい。この二種に関する数値のトレードオフに父が苦しむとき、彼の娘として私はなかなか高性能だと自覚できる。これは父には内緒だが、私は父が水華に泣き言を零しているのを知っている。せめて苦しむことを避けるよう娘の性格を導けないか、と。


 だが、父も理解はしているが水華にそういった才能は微塵もない。あいつの適性はよくない意味で「神」なのだ。私を狂信者にすることはできても啓蒙することはできない。あいつには科学ではなく宗教の才能がある。あいつの望みとは違って。


 私はあいつを神にしないよう我慢しているが、さすがに完全に不向きな人間にあいつを育て上げる自信はないし、そんな人間になってほしくもない。啓蒙に目覚められてしまっては依存できなくなってしまうではないか。目的に逆行してしまう。リスク回避のためにもやはりあいつは神にしておくべきだと思う。もちろんだめだ。しかし、あわよくば……?


 新条雪希という人間(極めて残念なことに生物学的には人間である)から見た蛍川水華ならびに両者の関係とは以上のようなものである。


 つまり、新条雪希は既に蛍川水華に恋愛感情を抱いているのではないかと言い捨てたいものは愚かである。私を全く理解できていない。


 具体的には中年男と情婦で考えるとよい。私を中年男に置換してみるとたいへんわかりやすいはずだ。下半身だけで予算の範囲内で都合よく情婦を消費して日々を楽しく過ごしているならそれは恋ではない。


 私はもちろんこのレベルにはいない。この中年男はまあ仲良くなりたい類ではないが私よりはマシな人間だ。


 次。女遊びが楽しくて生活が破綻するレベルで遊び呆けている男。ここにいるのが私だ。性欲の化け物である。だがこれは性欲で暴走しているのであって、恋が暴走しているわけではない。つまり、この中年男は女遊びはやめられないが情婦などとは付き合いたくないと平然と言いうる。今の私はここに置けるわけだ。好きではないが興奮する相手で興奮して楽しんでいるのである。


 情婦に本気になって求愛するに至ってはこれを恋愛と認めない者もあるだろうが、私はほぼ完全に性欲ベースの下半身で考えて導出した恋愛感情も穢らわしいかどうかはさておき恋愛感情ではあると思っているので、ここは恋愛していると認めている。


 つまり、これだけ広く恋愛感情の射程をとっても私は水華に恋をしていない。これを押せば水華に恋をすると決定するボタンを撫で回しながら水華で興奮しているに過ぎない。


 ほかに例示を行うなら決壊することがわかりきっている豪雨の中のダムと決壊しているダムは別物である。私が恋をすることが決定しているとしても、それは私が今恋をしているかどうかとは関係ない。


 ボタンを押すと既に決めてボタンに手をかけていることと、ボタンが押されていることは完全に別物なのである。概念は明白に区別されなければならない。


 だが心情的に納得できない者もあるはずだ。その場合、問題は「日常言語上に適切な概念が存在しない」からだと私は提案できる。


 つまりたとえ「恋愛している」状態になっていないからといってそれが即「恋愛していない」に繋がってしまう一と零しかない日常言語がよくないのだ。


 この二値で考えるから納得できないことになる。ここで哲学が実学であることを示そう。哲学の仕事の一つは概念工学である。つまり議論のために必要だが、日常言語上存在しない概念を明晰な形で作り出すことだ。四本の足があって座面があって……と長々語るより椅子と言うのが手っ取り早いというわけだ。


 今回の場合も概念を作ってしまえば良い。つまり、「恋をしている状態ではないがその状態に至ることを望んでそこに向かっている」ことを示す概念を作れば済む。たとえば私の名前から一字を採用して「恋を希求すること」つまり「希恋」と呼べばよい。


 私は「希恋」概念は「恋をしていない状態」の一種、つまり魚類一般における硬骨魚類のようなものだと捉えていて、「恋をしている」「恋をしていない」の二値で議論は基本十分で、必要に応じて「恋をしていない」状態の詳細を知りたくなったときにより範囲の狭まった「希恋」を見れば良いと思っている。サメを見たいとき魚類を見るのは間違っていないが、軟骨魚類を見るのがより効率的だ、という考えなわけだ。


 どうしても「希恋」は「恋をしていない」状態とは概念的に別なのだ、包含関係ではないのだ、と言いたければ「恋をしている」「希恋している」「恋をしていない」の三つにわけてもよい。この三つを排他で考えるならば、私は「希恋」していることになる。つまり私が恋をしていないということはない、ということになる。


 ただ、この分類を私は推奨しない。言語による形式的な推論に混乱をきたすからだ。「恋をしていない」が偽なら「恋をしている」が真であると導出でき、「恋をしている」が偽なら「恋をしていない」が真であるという一般的な操作の対象に恋を乗せておくべきだと思う。


 そうしない曖昧さが文学的な味を生むのかもしれないが、私は哲学徒であって文学徒ではない。そこにさしたる価値は見出さない。


 ゆえに、私は蛍川水華に恋をしていないのであり、あえて言えば恋をしていないというカテゴリのうち「希恋」しているというのが正確な表現になると思う。


 こうなると、もうひとつ状況を考えたくなるものだ。つまり「希恋」を恋の一種に置くという考えだ。


 私は恋とは物理的に還元可能か消去可能だと考えている。どちらも恋についての物理主義だが、ラディカルさが違う。


 恋を物理的に還元可能だというとき、それは恋という概念は何らかの物理現象と紐付けられるか、そのようなものとして扱わなければならない、という主義を支持することになる。


 つまり、恋と物理できれいに翻訳ができるのが還元主義だ。


 消去主義は恋とは科学の未発達な時代に当面的に作られた蒙昧な概念であり、物理と対応させることはできない、還元主義は夢想にすぎない、なぜならば蒙昧な概念が厳密な物理現象の記述と十全に翻訳可能な関係にはならないから、よって科学の進歩により蒙昧な古い概念は消去しろ、というのが消去主義である。


 同じ物理帝国でもラディカルさが違うということの意味がわかるはずだ。そして、還元するにせよ消去してより適切な概念を工学するにせよ、そのとき正確に私の感情についての物理に基づいた明晰な答えが得られるだろう。


 私が恋について非物理主義を採用しないのは、物理が手っ取り早く話が終わるからだ。


 私が正しくても間違っていてもとりあえず観測から答えが出る。もちろん観測や計算にミスが出るかもしれないが、それは作業のミスでありモデルのミスではない。


 恋とはなにかフワフワさせているから議論しても答えが出ないのだ。哲学の実用性はこのようなことに煩悶する似非哲学とその原因を排除し無駄な労力をなくし概念という道具をクリアにすることにある。


 それは当然自然科学の諸分野が日常的にやっていることであり、哲学の専売特許では全くない。だが哲学はどこにでもすぐ顔を出せるので、このような廊下の隅の埃も綺麗にしておくフットワークの軽さがある。説得力があるかどうかは別の話だが。


 つまり、結局のところ私がいくら恋をしていないと言ったところで、「希恋」を作ったところで、そもそも恋という概念が原始的なのでこの話はするだけ無駄だ。


 特に私が物理主義者だというのが理由の多くを占める。さっさと還元されるなり消去されるなりしろと思いながら恋と言っているので、そもそも現代の概念整理のレベルでは恋という言葉で私が何を言っているのか私自身が満足のいく答えを得られてはいない。


 これはどれだけ考えても無駄なことだ。なぜなら私は物理主義者なので、その定義は思索で導出できないからだ。私にとって恋は実在を証明されるものではない。十分に発達した科学において、有識者によるアカデミックなコンセンサスとして正確に定義される工作物であるか、心理と行動の議論において実用に堪えないとして廃棄されるべき概念だ。だが、あらゆることをそんなふうに厳密にやろうとしたのでは日常生活もままならない。そこで当面妥協的に私は恋を曖昧に用いてそのうえで恋をしていないと言っている。


 私がどれだけ曖昧なのか、当面的な恋の把握で示そう。私の知人たち曰く「性欲で惹起される感覚がある」「恋愛感情で惹起される感覚がある」「これらは独立に発生することがある」「これらは同時に発生することがある」「どちらが惹起されているか自分では区別がつかないことがある」「はっきりと今はこちらだと自覚できるときもある」……私はこれを仮に認めていて、私が恋をしているかどうかについてこれを援用している。


 実をいうと彼らの言うところの恋愛感情で惹起される感覚と思しきものにはこれではないかと思うものがある。つまり、性欲が湧いていないことをはっきりと自覚しながらも、水華に対してだけ湧くとても甘くてしあわせで胸をおさえつけたくなって、むしょうに抱きつきたくなるあの感覚のことだ。ただ、私の理解によるとこれは水華に恋をしていることの証拠のひとつとしては使えても、これだけでは証明にならないと思っている。


 たとえば蛍川父母が私に覚えるキュートアグレッションすら発しているのではないかと危惧している感覚はこれに似ているだろう。中学時代の水華がばらまいていた容姿の暴力も同じ感覚を多数に与えたはずだ。


 しかしそれを覚えた全員が水華に恋をしたかというと、それは恋の日常的な定義に照らして否と言うのが穏当だろう。一瞬恋した、というよりときめいた、という方が言語の用い方として適切なはずだ。つまり、恋をしていてもしなくてもときめくことはできる。なので私は数えることもバカバカしくなるくらい水華にときめいているが、恋をしているとは思っていない。


 さすがに数えることもバカバカしくなるくらいときめいているなら恋をしているのではないかと考えるのが穏当だし、私もその情報を受ければ恋をしている可能性が高いと推察しながら話を聞くだろうが、私が自身を恋していると判じていないのには理由がある。このときめきの連続が恋に繋がっていかないのだ。この説明は理解できないだろう。むしろきちんと理路を追えている人であれば理解できないと判じ、飲み込んでしまったならば危ういと言える。


 私はここでも状況を引用している。アイドルを追うファンの心理だ。全くときめかずそれと別の理由で追う者もあれば、ときめきまくっているが恋せず追っているものもあり、ときめいて恋しながら追っている者もあろう。ときめきを覚えない恋というもので追っている者もあるかもしれない。


 つまり、私はときめきを水華に感じているし、ときめきに種類があるとしても私のそれは恋愛属性だという確信があるが、そういった恋愛的なときめきを恋をせずエンターテイメントとして消費することが可能だと考えている。


 かなり穢らしい先述の引用だが、情婦を性欲だけで買いまくる中年男を思い出されたい。性欲をときめきに変えるだけだ。ときめきまくりたいが恋をしたいわけではない、ということが可能なのである。


 とはいえ特にそのときめきが恋愛属性であれば、恋人が「他者に恋はしていないがときめきまくっている」場合内心穏やかではない者も多かろう。是非はどうでもいいが。私と水華の世界では懸念する必要がない。


 このとき、ときめきまくっているが恋はしていないとどうやって導出したのだろうと疑問を持つ人があるはずだ。これは直接的導出によっていない。恋をしていることが確からしい証拠が何も出てこないので、恋をしているとは認めておらず、「恋をしている」と「恋をしていない」はいずれか一方しか可能ではないので、恋をしていないと導いたのだ。


 悪魔がいないことを調べ尽くしたから悪魔がいないと言っているのではない、悪魔もユニコーンもスパゲッティモンスターも、物理主義の名においてあることが確からしい証拠が出ていないのでないと言っているのだ。哲学ではなく科学の常道である。


 結局の所、先に述べた「恋愛感情に惹起される感覚」は決め手にならない。これは単なるときめきかもしれず、恋をせず起きているかもしれない。この感覚と恋の関係性が蒙昧で、どれだけこの感覚を重ねたところで計算に使えないからだ。


 このとき私は皮肉的に用いられる「一夜限りの恋」を方法的に認めることにした。これの存在を認めた方が、認めない方より恋の射程範囲が広くなる。何かを否定するとき、その概念はできるだけ否定される側に有利なように広げまくった方がよい。なぜなら「これだけ範囲を広げても当てはまらない」と言えるからだ。


 「一夜限りの恋」をすることは可能である。おそらく道徳上はそうなっていないが、制度上はそうなっているはずだ。この営みは互いの合意により成立する。つまり要請されるのは表示だ。本当は何を考えているのかはどうでもよく、客観的に観察可能な事実として合意形成がなされたかどうかが重要になる。


 このとき一夜限りの恋の成立に内心の恋愛感情は要請されない。一夜限りの恋があったと制度的に認められる外観を有していればそれでよい。この合意において内心、つまり脳内の処理は考慮されない。重要なものは行為だ。発話や筆記もそれに含む。中年男の方はともかく情婦の方はあんまり中年男を好きではないことが多かろうが、両者には一夜限りの恋が成立可能だ。つまり恋愛感情なしでの一夜限りの恋の形成は可能だ。


 私と水華に置き換えれば、共寝をすることについて合意形成ができているが、一夜限りで互いに恋をすることは互いに拒否している。つまり共寝は合意形成できていても一夜限りの恋は合意形成できていない。


 これは韜晦であろう。内心の恋の話をしていたのに制度上の恋の話にすり替えられても困るというものだ。


 まさにこここそが私の強調したい重点である。


 任意の恋仲のふたりを想像してほしい。仮に男女としよう。いつも中年男にばかり買わせては申し訳ないので、今回は女性側が男娼を買ったとする。このとき男性側が浮気だと指摘し、女性側が不貞はもちろん行ったが性欲を満たしただけでなんら恋愛感情は抱かなかった、商売男と性欲を満たすのは心地よいがそんな男と恋愛など反吐が出るのでべつに離縁はしてくれてもよいし損害賠償を求めてくれてもよいが、あんな程度の性欲を満たす役にしか立たない類に心がうつったなどと思われるのは心外だ、などと言うことがありうる。


 男性側に立つか男娼側に立つかどちらにせよ殴りたい人もいるかもしれない(私はべつにそうでもない)が、まあ言うだけなら言える。もっと穏当な例では「なんでアイドルにときめいて追いかけているだけで怒るのだ、べつにそれは浮気ではなかろう」と憤慨する者と、「追いかけるだけならともかくときめいているなら浮気だろう」と言う類も想定できる。


 私は恋愛感情とは物理主義の名の下に将来的には還元されるか消去されるべきだと思っている。


 そして、現代において恋愛感情とは当面妥協的な認識の相違を生まないコンセンサスが形成されていないし、科学の発達なしにそのような合意ができるわけがないとも私は思っている。繰り返すが、これは制度上の恋愛ではなく内心の恋愛の話だ。ルール化するだけなら物理によらずシンプルに作って良い。さらに法がそうであるように意図的に解釈の幅を持たせることに意義さえあるだろう。だがここで言っているのは内心の話だ。長々と私の心の話をしてきたが、他者の心の話というのが至適だろう。


 私の心の話として他者の心の話をしてよいのかということであるが、私の恋愛感情に関する結論からいえば、よい。


「社会的な合意形成ができないだろう恋愛感情概念については、せめて関係を形成する二者が概念を共有すべきである」


 これが私の恋愛感情についての結論だ。これは一対一のバージョンだが、もちろん複数人で恋愛関係を形成する場合にも応用が利く。つまり、私の恋愛感情は私だけが理解できる私的な語であってはならないが、水華とのコミュニケーションに支障が出なければ問題ない。


 そして、私と水華はとても円滑にコミュニケーションがとれているので、物理主義を使えない以上、道具主義の観点からして恋愛感情についての私の理解は今のレベルでふわふわしていて問題ないのでこれで妥協して良いということになる。


 そして、厳密さを欠く妥協的なこの定義において、私たちは互いに恋をしていない。


 実のところ、恋愛感情についての私の結論からの当然の導出だが、「私は水華に恋をしていない」と言い張ることに説得的な意味はない。


 客観的かつ厳密ではない上に証明しようとしている概念そのものが不明瞭なので論証的には説得できない。つまり第三者への説得としてこのノートは全く用をなさない。


 そして、私が重視する水華は私の主張を全面的に認めている。


 つまり、「私が恋をしていない」ことをこうしてつらつらと説得する意義が「他者の心」という観点では全くない。水華は私の考えを認めていて、第三者は私の定義において無関係だからだ。


 ではなぜ、こんな長々と夜更かししてノートを書いているのか。




(以上までを読み飛ばしてよい。読み飛ばさなかった者は「読み飛ばしてよい理由」が判然としているはずである。読み飛ばさなかったことについてのメリットはそれだけしかない。まさか読み飛ばすよう指示したにも関わらず徒労をなした者はいないと思うが。ただし、「ただ一人だけ」この無様な弁明を読むことに意味がある者がいる。だから私はその「ただ一人」のためだけに、この数十頁にわたるノートを自分の脳の中のとてもわかりやすい場所に置いている。重要なことは以下だ)




「水華」


 甘えきって蕩けた自分の声。布団の中で水華に抱き締められて、優しく頭髪を梳かれる安心感で胸が高鳴って、どんどん眠くなる。とても興奮しているくせに、そこの形でわかってしまうのに、とても私を大切にしてくれる青い目。


 剣みたいに鋭いくせに、私を見るときはとろんとして甘やかすことしか考えてない瞳。脇腹を擽られる。珍しい悪戯だ。くすぐったいというより気持ちいいのだけれど、擽られているふりをしてくすくすと笑う。嫌だと言う。


 言葉は水華に伝わればいい。腋をおもちゃにされる。人体の弱点を好きしてくれていると思うとしあわせで仕方ない。やめて、と言う。もちろん水華はやめてくれない。権利、やめて。やっぱりやめない。というか、そこはもう腋か胸か怪しくないかな? わざと体をくねらせて水華にいいよと誘う。今日は珍しく私じゃなくて水華が暴走する日らしい。私を虐めることに夢中になっている彼の頰を撫でる。頭の中が水華だけになる。たいせつ。わたしのいちばんたいせつ。わたしがいつか、すきになるひと。


「すき。だいすきだよ。水華」


 小さく何度もくちづけをかわす。甘えるとき、私はいつだって水華を呼び捨てにするけど、せんぱいでよかったと思っている。すごく。すごく尊敬している。


「水華せんぱい……私、絶対せんぱいのこと、好きです」


 蛍川先輩と澄まして呼ぶのは好きだ。甘えて水華と呼ぶのも。いつも勝っていたい水華にへりくだって水華せんぱいと媚びるのは、すごく負けた気分になる。でもいい。ベッドの中限定で私はなんとしても水華に負けたいのだから。水華が今日物凄い勢いで負ける気なら、それ以上の速度で水華に負ける。信徒が神に勝ってはならない。不遜である。


 どんどん気持ちよくなる。眠くなる。水華にしか通じない言葉がたくさん吐き出される。


 水華の青い瞳のなかで、くるりと涙の光が回転した。水華は私を理解してくれる。でも、水華が水華であるために、水華はすべてが凍りついていると思い込んでいる。


「雪希。だいじょうぶだよ」


 いちばん自分が苦しいくせに、水華は私を安心させることをいつだって一番に考える。私が水華に溺れきって、本当に水華が好きなのかもしれないと思っているときに、そうなってはいないと気づかせてくれる。


 この弁明。私は水華を好きではないという無理がある抗弁は、他の誰のためのものでもない。他人でも、水華のためでもない。


 絶対に水華が好きだと断言する私に対する、私の証明だ。そして、いくつも連ねた私の言葉なんかの百万倍。


「雪希。だいじょうぶ。全部、だいじょうぶだから」


 ぎゅっと抱き締めて、真剣に私を瞳に閉じ込めて、心の底を伝えてくれる水華の言葉が、水華の想いが、考えが、すごい速度で私を壊しながら、私がまだ壊れていないことを教えてくれる。


 水華の恋はきっと綺麗な形に完成する。今の未完成の形からそれは推察できる。その完成された恋は、たぶん水華の夜に照らされた瞳のサファイア色、凍っているのに仄かにあたたかな透き通った宝石のかたちをしている。


 たぶん、私の恋はそういう綺麗な形にならない。だけど、まだだ。まだ私だってこんなものじゃない。まだ恋はしていない。新条雪希に恋されてよかったと、私が蛍川水華の恋の理想に見たものに負けないものを、水華に見せて放心させたい。私はベッドの中では水華に負けたい人間だ。だが、それ以外で負けるつもりはない。みせてやるんだ。証明するんだ。私のほんの少ししか使えない全てのリソースを燃やし尽くして。


 だめだ。私が完成するために、蛍川水華が封印しているのと同じく見てはならないものを見ようとしている。


 蛍川水華の外面で本当に好きなのは声と瞳だし、性に偏っているように見せかける態度こそが照れ隠しなのだし、本当の本当は。本当はそんな外面よりもっと、ずっと、何億倍も、比較することすらばかばかしくなるくらい水華の心の奥底が。


「おやすみ。せつ」


 まだ恋をしていない、蛍川水華先輩のつらそうな瞳。すべてが凍結して動かないと誤認して、それでも守ってくれる声。


 こんなに綺麗なのに、まだできあがっていない。


 はじめて意識的に胸に触れられた。ただ、安心させるように、真ん中を、ぽんぽんと。やっぱり胸が薄くてよかったと思う。


 暴走する私がどこか怯えていたことを、安心させてくれる水華の言葉で遅れて気づく。


 水華がその気になりさえすれば、水華はどれだけ暴走していても興奮を完全に抑制できるし、発情抜きで私を眠りに落とすこともできる。徹底的に水華に躾けられた私が、ここで水華に反抗などできるはずがなかった。ここでなら、水華は私になんだってできるし、させられる。


 だからって、「ただ安心して眠ってほしい」という気持ちで胸に触れるのはずるじゃないか。いやらしい目的が一応建前だったじゃないか。私を守れるならなんでもいいのか。いいんだろうな。


「水華。好き。本当に、心の底から、大好きだよ」

「……うん。わかってるよ。せつ」


 嘘だから。好きではないから。恋をしていないから。水華の目には何も変わっていないように見えるから。


 ゆっくりやりたいと父に言った。私と水華は理想主義的な被虐趣味者だと思っている。


 でも、それでも。


 本当の本当の本当の本当は。


 水華の苦しむ顔なんて。


 一秒だって見たくないんだ。


 だからはやく。そして、完璧に。


 終わるだの壊れるだの、そんなことはどうでもいい。


 私は恋をしなければならない。


 蛍川水華が、安心して私に恋をすることができるように。


(このかっこを含めて読み通している者は、おそらく私であるはずだ。読むべき箇所に私を壊しかねない毒が置かれている。だから私はこのノートの保存場所に鍵をかけている。これを今読めているということは、私は勝利しているということだろう。つまり、蛍川水華と新条雪希の恋は成就した。最早私は蛍川水華への恋に関する概念に悩まされていないはずだ。おめでとう。こうして未来の私に祝砲を過去から放つことについては、とても複雑な気持ちだ。私は数日をかけてこのノートを整理したが、私にとって最早読み飛ばすよう指示した箇所は読む意味がないだろう。蛍川先輩と私の間において、最早本論に記した恋の概念は使用されていないはずだからだ。つまり、もう使われていない道具についての説明がこのノートの読み飛ばしてよい箇所には記されている。だから、指示した箇所以外は読み飛ばしてよかった。もっとも私のことだ。おそらく読み通したのだろう。今の私と同じ価値観を私がしているなら、そのことについて何も感じない。無駄な時間だったと判断するだろうが、無駄な時間を使うことについてあまり私は頓着しないからだ。もしかすると、この鍵をあけた読後の私はべつの考えを抱いているかもしれない。読み飛ばしさえしたかもしれない。そこのところはわからないし、正直なところどうでもいい。ただひとつ、「私」は「今の私」が送るこの問いには回答すべきだ。もし望ましい回答ができないと判断したなら、新条雪希。私は今すぐここで死ね。つまり、新条雪希。私は、蛍川水華の恋に値する恋を完成させたか。私のノートを開くことを許された私は、それに成功した私だけである)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る