5.JTBとは無関係な、あるいは知識とは無関係な、もしくはごく実存的な

 新条雪希は頭が良い。


 知的であるというより頭のスペックが高いと評した方が適切だろう。雪希は独習する際まず教科書を完全に暗誦あんようできるレベルで丸暗記する。僕にとってそのやり方はかなり非効率的なのだが、雪希は睡眠不足のような困難がなければさしたる苦労も時間もかけずにそれを成し遂げ、そしてその記憶を保持する。机にあれこれ広げるのは面倒だという理由でまずあいつは教科書を頭の中に保存し、それから問題集に取り組んで丸暗記を知識に変えるという方法を採っている。スペックの暴力で強引に勉強しているのだ。暗記を知識に変える効率やそれを応用する知性も僕とは比較にならないが、それでもあいつのスペックとして異常なのは暗記力だ。とりあえず頭に詰め込んでおくというやり方に関し、雪希ほどの人間を僕は見たことがない。あいつの相手をしていて幾度生物としての基礎スペックが違うと痛感したかしれない。


 雪希にはスペックが高いがゆえの悪癖がある。それは怠惰だ。あいつはとりあえず頭に叩き込んでおいて、必要になったら学ぶというスタンスを取る。ゆえに必要がなければ暗記だけして学ばない。知ろうとしない。科目に限定するならば、あいつは選択した日本史に関する体系的な知識を持たない。問題文を見て頭の中にある教科書にワードで検索をかけ、答えを埋める。歴史上の出来事の通時的・共時的な編み目をあいつは一切理解していない。興味がないからだ。


 あいつは日本史の知識を持たないからその場その場で検索をかけて、問題を解くのに必要な情報を並べ終えて一時的に情報を統合して回答する。極めて非効率的なのだが、高校における日本史は回答時間が余る。異常に余る。雪希のような姿勢で解いても時間制限があってないようなものなのでどうとでもなるのだ。だからあいつは知識を身に付けない。頭の中で本を開いて書いてあることをそのまま書き写して終わる。それで満点を取る。あいつは日本史で満点を容易に取る女だが、たとえばある時代のある地域の国外との貿易について訊ねるとフリーズするだろう。それまでの歴史の流れと当時の状況、国外との関わりを知識として持っていないので一度頭の中で本を読む必要がある。


 もちろん本があるので説明できるのだが、時間がかかるためしばらくフリーズするのだ。明らかに知識がないのに満点を取るので、カンニングを疑われたこともあったそうだが、怪しい動きが一切ないので今は全く疑われておらず、記憶力の化身として扱われている。日本史を学んでいるとはとても言えないので、教師的にはかなり困った生徒として扱われているようだ。


 あいつは(僕もだが)世事に全く興味がないので歴史を学ぼうという意欲が薄い。たとえばウィトゲンシュタインの人としての知的変遷を理解したければ第一次世界大戦を外すことはできないだろうが、僕らが興味を持っているのは理論であって彼の人物的変遷ではないのでそんなことはどうでもよいわけだ。「哲学探究」において示されたウィトゲンシュタインのパラドックスを理解するために歴史を学ぶ必要はない。そんなことをしている暇があったら古典論理の演習にでも時間を割くだろう。ポパーとウィトゲンシュタインが火かき棒で云々といった巷説も、僕達には興味がないわけだ。興味があるのは哲学的議論であって哲学者のトリビアルな人物像ではない。ウィトゲンシュタインのノートはその記述内容が重要なのであって、それがどこで書かれたか、彼にどんな心境の変化があったかなどどうでもいい。


 これは文学や音楽やその他芸術の領域においても同じ事が言える。中原中也が暴れ散らかそうと、ラヴクラフトに大なる影響を与えたマッケンがほぼ知られていなかろうと、カザルスの政治的姿勢がどうであろうと、ワーグナーがニーチェの失望を受けようと、ミケランジェロが無精であろうと、ゴッホが耳を落とそうとどうでもよいわけだ。歴史的文脈を軽視するどころかできる限り排除しようとさえして論述の整合性を検証する。論理の形式的・非形式的な誤謬の整理が終わっていない時代の文献を読んで、これは権威に訴える論証だ、これは自然に訴える論証だ、などと平気で棄却する。それらの誤謬が当時発明されているかどうかは、当該テクストが誤謬にあたるかどうかと何の関係もないからだ。


 文学や哲学を志す、あるいは愛する同窓の人間は少なくないが、こういった姿勢から受容態度の対立により僕と雪希には同好の士が少ない。これは僕と雪希が幼い頃から彼女の父の影響を強く受けて育ったためだ。偏った文化の多読と世事への興味の疎さから、頭でっかちになり情緒が全く成長していない自覚が僕にはある。雪希はより甚だしいと思う。僕たちは首輪をつけた幼児だ。


 批判的かつ極めて皮相かつ冷笑的な文脈で用いられる竹林の七賢が僕達の関係をあらわせるかもしれない。清談を事とする者と評するには、関係がウェットすぎるし不健全にも思うが。


 幸い僕達が属しているのは二流の公立自称進学校だ。学内の気質として学業成績についてのコンプレックスが強く蔓延している。成績上位者であるという僕と雪希の立場はこの二流の卑屈な学力への憧憬によって「敬遠」という形で守られている。極めて俗悪な話だが、我が校において僕たちのレベルで交友の才を欠く下位成績者はこうならない。露骨かつ苛烈ないじめが学内には存在する。


 成績が良いから。それだけの理由で僕と雪希は特等席に座ることを許されている。成績上位者で集められたハイクラスにいじめはない。いじめがないというその事実をもって、ハイクラスはロウクラスを見下している。ロウクラスはハイクラスに手出しせず、ロウクラス内の成績下位者を徹底的にいじめ抜く。それが我が校の気風だ。僕と雪希はそういったドロドロとした世界に関係しないので、我が校の気風がどうであろうと何が起こっていようとどうでもいい。逆説的だが、この「どうでもよさ」が雪希が同性異性問わず熱烈に好かれる理由でもある。


 雪希は特に「よく扱われない」人間に強烈に好かれる。それは彼女が平等に「どうでもよく」他者と接するからだ。誰かを虐めている相手でも、誰かに虐められている相手でも、同じように接する。粗暴な人間だからと離れることをせず、虐められている厄介者だからと遠ざけることもない。ハイとロウで振るまいが変わることもない。全て「どうでもいい」からだ。その雑な態度は「安心できる」ものとして一部の人間を熱烈に狂わせる。あるいは勘違いさせる。地雷を引っかけて起爆させることに関してあいつは一流だ。痛い目を多々見て積極的に人間関係を回避しようとしている僕とは違い、雪希は反省しない。改めない。どれだけ爆風を浴びても「どうでもよさ」を保っている。彼女は爆風が効かないわけではない。皮膚を焼かれ血を流しそれでも我が道を改めず足許を見ず行くと定めた道を行く。足許や周囲を見て回避するという選択肢を採っている僕を弱者として見下しせせら笑っている節すら雪希にはある。


 だからこそ、僕は「優しさの誤認」で雪希に惚れたわけではない藤沢くんを応援している。彼はきちんと雪希を見ていて、雪希を概ね把握した上で好意を抱いている。その理解は僕に及ばないが、それは時間の蓄積の差が問題なのであって、彼の知性や洞察が僕に劣っていることを全く意味しない。建設的な相互理解によって、ギャップは埋まるものと確信している。藤沢くんは雪希に関する理解が足りないが、雪希を理解することで彼女への好意が減るどころか増す人間だと僕は想定している。そして、彼はとても篤実とくじつな人だ。雪希ごときにはもったいないくらいの人だ。

 

 新条雪希は頭が良い。そして良い頭を使わない怠惰の化身だ。それが眼前でゴミになっている。


「新条。何でもかんでも鞄に詰め込むのをやめろ。時間割に従え」


 睡眠不足と疲労、そしてぱんぱんに膨れ上がった鞄と登山家のごときリュックサックが雪希というバカに限界をもたらしていた。公園の四阿あずまやで雪希は脇の下やら何やらにペットボトルを挟んでぐったりと横になっている。足が細い。病的に細い。脂肪もなければ筋肉もない。この体躯でこの荷物は無理だ。雪希は僕の悪態に切り返す元気もないようで、んぅー、と不明瞭な呻きを返した。本格的に気持ち悪くなっているらしい。主因は不眠でそれに伴う不調を他の要素が増悪させているのだろう。浅い呼吸、重そうな瞼。


 僕が思うに雪希は早退すべきだった。そして頓服の抗不安薬を飲んで安静にし、今夜熟眠すべきだった。しかし詮無いことだ。


「新条。頓服出すぞ。鞄開けていいか?」


 薄らと開かれた目。掠れた声。薄弱な遺志。


「先輩。私がそれ飲むの、嫌いじゃないですか」

「嫌いだよ。でも、いいか。頓服は必要なときにやむを得ず飲まないとだめだ。変なとこで意地張って悪くなったこと、たくさんあっただろ。僕が嫌っているのはこれを飲むほかないという君の苦境だ。この薬が嫌いなわけでも、君を嘲っているわけでもない。もっとなんか、魔法みたいな奇跡が欲しいって思ってるだけなんだ。だって、新条。お前。そんな。もっと楽になってほしいだろ……」


 雪希は小さく鼻息を吐いた。言葉にはされなかったけれど、日常の張り合いモードから緊急時の特別素直モードに彼女も入ることを認めてくれたらしい。鞄を開けて、薬を取り出す。雪希の腋に挟んでいたペットボトルをひとつ取り上げる。まだ冷たい。ちゃんと雪希を冷却しているこいつを好ましく思う。この事態を考慮してジュース等やお茶でなく水にしておいてよかった。


「体。起こしていいか? 横になったままでもいいぞ。慎重に飲ませる」

「口移しがいいです」

「バカ言うな。真面目にやってんだぞ僕は。お前も今くらい素直に甘えろ。頼むから守らせてくれ」


 雪希がとてもつらそうな目で僕を見ている。弱々しい微笑。何もわからないが、わかった。了解した。了解する。今の僕にとって重要なことは不可解な雪希の全てではなく、雪希の痛苦の排除だ。雪希が今、強がらずに甘えて要求しているならそれでいい。


 水を先に口に含み、続いて錠剤をひとつ口に含む。よくないよなあ、と思う。口腔粘膜等を介し僕も薬効をいくらか受ける。雪希に対する飲ませ方としてもよくない。標準医療は手続きを遵守するから意味があるんだぞ、と頭の中の冷静な自分が呆れ果てている。ただ甘やかすことは守るための最良の手段ではない。そういった意味でも僕は雪希の隣に相応しくない。


 再び雪希の腋にペットボトルを挟ませて、彼女の頬に手をやる。柔らかいけれど、全く汗をかいていなかった。それが不安だった。


 雪希が苦しげに瞳を閉じる。隈が濃い。閉じた目に疲労があらわれている。その辛さのすべてを消し去りたいと思う。できることなら僕が引き受けたい。


 あわせた唇を通して薬と水を少しずつ受け渡す。最初にこいつに唇をあわせたとき、僕は恐慌状態に陥った。嘔吐した僕に重ねられたこいつの唇で、僕はひどく安堵した。今は胸部の奥が刺し貫かれているような気分だ。雪希を幸せにしたいのにできない。今も一時の感情に流されて悪い手段を採っている。雪希。この大嫌いな女のことがどれだけ大切なのか、こいつの乾いた唇を通して痛感されて苦しい。雪希の喉が嚥下に際して動くたびに少しずつ、安堵が満ちていく。


 こういうときの雪希の苦しみは薬でだいたい鎮静に向かう。筋肉のこりもほぐれるらしく、雪希曰くこの薬を飲んだあとの状態はとてもいいらしい。ただ、それを雪希が素直に言う場合、薬は増えていく傾向にある。そういう兆候をみせたとき、とにかく雪希の傍にいることでこれを回避できると僕は経験的に知っている。雪希の傍にいるとは精神的な意味ではなく、身体的な意味でだ。とにかく体が触れていること。それが肝要だ。雪希も経験的に知っているのかもしれない。僕の唇を求めたのは、その一環だろう。抱擁と愛撫はこいつに恐ろしく効くが、接吻もお気に召したらしい。


「母さん呼んどいたけど、帰ったらすぐ寝る方がいいんじゃないか」

「今日は先輩の家ですか」

「ん? お前の家の方がいいか」

「いえ。ちょっとさすがに先輩のベッドがいいです。直近最悪の体調で」

「うん。そうしとけ」

「お風呂……」

「ふらつき、転倒。筋肉の弛緩。薬飲んだあとはやめといた方がいい」


 ふふっ、と。雪希が笑った。えっち。無声音だった。蠱惑的な色はそこになかった。ただどうしようもないくらい雪希に安穏であってほしいと思った。ほとんど暴風のように制御できない気持ちだった。


 僕と雪希の寝床は共有物だが、自分のテリトリーで寝るより相手のテリトリーで寝る方がお互いよりよく眠れる。そのため雪希はある程度の余裕があれば自分の部屋で寝ることを好み、自分の領土で僕を駄目にしようとする非常に不健全な趣味を持っている。それすらできないということは、今日は本当にきついわけだ。自分の回復を優先するのはとてもよいことだと思う。


「先輩。さっきのお願いは選択権の行使にあたりますか」

「お願い? ああ。薬の? お願いなんだろ。じゃあ、違う」


 いつもある程度かっこつけて笑う雪希の表情がふにゃ、と崩れる。かっこつけているときはかっこいいし、可愛いときは本当に可愛い。やっぱり雪希の顔は好きだ。中身にはもったいない。


「普通にしたはじめてのキスになりますね」

「確かに強制ではないな。君が求めて僕が乗った。でも、普通でもない。新条は助けを求めて、僕は新条を助けたかった。お前の本当のはじめてが、もっとしあわせで、もっと切なくて、もっと甘くなるといいと思ってる」


 雪希の前髪を玩ぶ。少し目にかかって邪魔そうな部分を払う。くすぐったそうな彼女がそれを受け入れてくれるのが、先程交わしたくちづけよりずっと甘かった。僕が今感じている気持ちをもっとずっと素敵にしたものがこいつの本当のはじめてになればよい。ばかみたいなしあわせが、たくさんこいつに降ってきてほしい。冬のドブみたいな目をした女が、冬のドブみたいな苦しみを受けてよい道理などない。


「先輩のそういうところは本当に気持ち悪いです」

「だろうさ」


 僕に「そういうところ」を教えたのは雪希だ。既に失われた初恋は僕にとって大切なもので、そこから得たものもまた、大切なものだ。だからお前のおかげだと言いたかったけれど、そんなことはとっくにわかっている雪希に言っても無駄なことだ。お前に僕は負けたんだと言っているようなもので、それは最早イチャついているに過ぎなくなる。好きでもない相手とイチャつくなどぞっとしない。


「先輩はどうして今もずっと、夢を見ているんでしょうね」

「恋について?」


 雪希はわかっているだろう、というずるい沈黙で僕に応じた。


「お前は真剣に恋を取り扱うことを忌避しているというか、恥ずかしがっている節があるよな」

「正直なところ、そのあたりは先輩に比して情緒が未発達な自覚があります。単純にそういうことを真面目に取り扱うのが恥ずかしいというのもありますし、先輩のようにおそらく発展途上の人の、ふむ。煌びやかな憧憬? そういったものは余計に羞恥心を煽ります。そこに羞恥を覚えるということこそが、私が先輩より僅かに発達しているか、少しあるいは大きく劣っているかの証左であり、私の理解が正しければ、私はその点先輩に大きく劣っているはずです。なぜなら、先輩は数歩を踏み出していて私は一歩も踏み出していない。無と有の差はあまりにも大きいはずです。あるいは、無と有の差をこれほどまでに強く意識していることこそが、無学の証明になっているのかもしれませんね。それを問題だとは思いませんので、コンプレックスにはなりませんが」

「むしろお前は恋愛への興味のなさを誇っているように見える」

「それこそまさに、噴飯すべき幼稚性の証明でしょう?」

「韜晦だな。一般論だ。お前は絶対にそんなことを考えていない。無と有の差を大きく見ているのは本当だろうさ。だが、無に留まろうが有に踏み出そうがお前はお前の在り方に変更を加える気がないだろう。そこがお前の誇りの根本だ。経験がなく、知の蓄積がなく、ゆえに未熟であることを誇っているのではない。どうせ自分は経験し、知を蓄積し、熟達しても変わらないと確信していることを誇っている」

「知った風な口を利きますね?」

「事実だからな。そしてお前はこんなことを考えたこともないだろう。得意げな顔をしていることを指摘されて気づき、その理由を僕に指摘されて気づいたはずだ、新条。お前が物事に割くことのできるリソースは、お前のスペックの高さを考慮してもあまりに貧しい。怠惰な等閑視、必要ないものを必要なしの領域に入れ、その領域に一瞥を与えないことはお前の基本戦略だ。今の僕の話はお前の基本さえ知っていればそこから単純に導出できる」

「ああ。個別具体的な私の観察ではなく、私についての一般的な知識から単に操作したに過ぎないと」


 雪希は彼女が最も作り慣れている皮肉っぽい笑顔を浮かべた。


「それこそまさに、私が恋に特別を見出している証拠になりますね。つまり先輩に指摘されるまでの私は、私の恋についての態度は私の基本戦略からは導出できない特別なものだ、と無意識に想定していました。有識者である先輩は、私の恋についての態度は基本戦略から導出できるものに過ぎないと証明してみせたわけですが……なぜなら私は先輩の推察に心から同意しますから。しかし、私の恋についての態度が基本戦略から導出できると私が事前に想定できなかったこと。これこそがメタ的に私が恋を特別視している証左になるというわけです」

「言葉遊びだな、新条。お前が恋という言葉をこれみよがしに使ってみせたのはカモフラージュにすぎない。重要なことはそこではない。確かにお前のメタ的な態度はお前が恋を特別視していることを証明している。だが――僕に言葉遊びの欺罔ぎもうが通用すると思うなよ。この特別という言葉は文字通り特別であるに過ぎない。お前の予想していない状況が発生したということしか意味していない。つまり、新条にとって特別かつ価値があるものと特別かつ無価値なものは両方可能だ。お前にとって、今回の特別とは特別かつ無価値なものだ。考慮に値しない例外事項だと思っていた恋が、考慮に値しない通例事項だったと判明したに過ぎない。お前は恋のカテゴライズに失敗していたが、そもそも成功していようが失敗していようがそんなことはお前にとってどうでもいい。いずれにせよお前の興味関心の射程にそれは入らない。特別なものは注意を惹くものだというイメージで僕を惑わそうとしても無駄だ。メタやら特別やらそれっぽい言葉でてきとうに振り回せると思うなよ」


 こちらもよく見る雪希の顔。昏い瞳の奥に炯々けいけいと輝く興味の炎。こうなっているときの雪希は、経験上常に僕の上を行く。


「蛍川先輩」


 射貫くような声。体力が尽きて衰弱しきっているくせに、朦朧としているくせに。徹底的に研ぎ澄まされた刀剣に似て妖しげな光が僕を貫通する。こういうときの雪希の最も嫌な点は、僕を圧倒していながら僕を対等に見るところだ。値するもの――雪希がそう判じて僅かなエネルギーを僕に向けるとき、僕はこいつに蹂躙される。


「あなたの主張には事実誤認が含まれます。厄介なことは、あなたの主張は言語の問題に関して正鵠を射ているということです。ここまで述べただけで既にあなたは自身の陥穽かんせいを了解したでしょうが、念のために明示しましょう。私が特別という言葉で主張を悪しき蒙昧主義オブスキュランティズムに陥らせていたこと、そして私の述べた特別とは実のところ私の興味関心の範疇にないこと。この点は事実です。これが言語の問題について先輩の主張が正鵠を射ているということの意味です。そして、先輩が事実誤認を起こしているというのは、先輩がこれを言葉遊びであり欺罔だと述べたことです。先輩」


 彼女の瞳がまた、色を変える。この表情の意味を僕は言語化しないようにしている。それは僕にとっての禁忌だからだ。正しく解釈できるかどうか不安がある、という意味ではない。僕はこの表情を解釈するという挑戦自体から逃げている。


「結論を簡潔に述べましょう。先輩の事実誤認。それは私の主張の言語に関する問題を先輩は故意として扱ったという点にあります。事実は違うんです。過失なんですよ」


 雪希がそのあまりにも貧弱な腕を伸ばし、こいつの体で唯一強靱な指で僕の額をこつんと叩く。


「あなたはいつだって私を過大評価します。とてもくすぐったいです。私を高く買いすぎているからこそ、まさにこういった点が先輩の理解できていない私についての盲点になっているわけです。ここを潰さない限り、永遠に私には勝てませんよ」


 そして、と彼女は更に絶対に解釈したくない微笑を浮かべる。


「私はこのことについて故意ではなく過失を犯しました。つまり、自分のミスに気づけていなかった。先輩は私のぼやけていた視野を明瞭にしてくれたんです。先輩はこういうときいつも私を捉え損ねてしまいますが……先輩が私を捉え損ねているとき、いつだって私は至らない自分を先輩の指摘で知り、先輩が過大評価する私へと一歩近づいているんですよ」


 長い息。脱力。リラックスしきった表情。全身の緊張がこいつから消えていく。瞳の炎も消えて、静かに雪希は瞑目した。僕は、絶対に彼女の心を探らない。


「今みたいな経験をしたとき、いつだって私は程度の低い自分がすごく恥ずかしくて、そして同時に私の生の領域にいつだって先輩がいてくれて、いつだって見守ってくれていることを嬉しく、幸福なことだと思っているんです。私が先輩を嫌いだというとき、その嫌いだという言葉は言語の一般的な用法に則っていません。それは先輩が私を嫌いだということと同じに、です。私たちの常識、ですよね? 私はあなたが嫌いです。そして、今お伝えしたそれ以前の言葉は全て真心です。本心です。嫌いだという言葉と、私がどれだけあなたを大切に思っているかという気持ちは両立するということを強調させてください。今――正確には先程からですね。先輩が私から目をそらしていること。わかっていますからね。嫌でも私の本心を先輩に刻み込ませてもらいます」


 目を背けても、目を閉じても無駄だった。耳を塞ぐべきだったとは想定できなかった。いつだってそうだ。本気になった雪希に、僕は勝てない。


「……お前に僕が勝てないことの一因は、僕が恋をしたことがあるからかもしれない」


 呪わしく呻く。薬が効いて穏やかな雪希はふにゃふにゃ笑う。

 

「いいですね、それ。最高です。先輩、お気づきですか? その時恋についての私の特別とは、特別かつ無価値ではなくなります。特別かつ興味関心の対象になく、かつ先輩と今このときを過ごせる理由であるという点において――価値が生まれるんです。恋は私にとって特別であり、興味関心の対象になく、価値がある。ふふ、言語を操る私たちにとって、こんなにも反直観的な恋の置き方は面白いでしょう? こんなことを面白がるのは私の世界でお父さんと、私と、先輩だけですよ。クラスの誰に言ったって、それの何が面白いのか全く共感してもらえないはずです。こんなに面白いのに!」

「はいはい。よかったな」


 言語化はしない。だが僕も雪希もわかっている。雪希が自身にとっての恋をそう定義するとき、恋に価値があることの必要条件として僕が要請される。雪希にとって今定義するところの恋が価値あるものであるためには僕が要る。それは観察を要さない言語と論理の操作だけで導かれる自明な知識だ。反論の余地がないだけに、かわしようもない。死ぬほど恥ずかしい。恋という言葉で雪希を恥ずかしがらせて沈黙させたことの意趣返しがこのレベルで返ってくるのはさすがに性格が悪すぎるだろう。


「あ、おばさんきましたね」


 目を閉じたまま、雪希が言う。四阿に伏す瀕死のたぬきから公園の外に目を遣るが、車の影はない――と思っていると見慣れた一台がやってきて停まった。音か。全く意識していなかった。思考と五感の全てを雪希に集中していたからだ。そうしなければ僕は雪希と対峙できない。だが雪希は薬による鎮静下にあっても高度な思考を保ち僕の相手をしながら周囲の音を必要に応じ拾うことができる。この世の大半のことに気を配らず、しばしば電信柱に激突している女だが、僕が呼んだそのときからずっと一定の注意を車の音に向け続けていたのだろう。つくづく、勝てる気がしない。


「あ、そうです先輩」


 悪戯っぽい声。まるで思い出したかのように。だが、わざとらしすぎる。予めこいつは言葉を考えていた。


「キスが選択権の行使になりませんでしたから、今使います」


 薄く、僕の初恋の相手が目を開く。


「おんぶじゃなく、だっこでお願いします」


 俵抱きにしてやろうか。心中で悪態を吐き捨てる。


「ああ。ちなみに抱き方は先輩にお任せしますよ? どうしましょうね」


 幼少の頃。あまりにもか弱いこいつのことを。


 僕は自分の守るべきお姫様なのだと思っていたことを、数年ぶりに思い出すはめになった。


 ここまでやられるいわれはない。冷酷無慈悲の性悪女。新条雪希には可愛げがない。こいつにとって恋に価値があるとはつまり、こういうことなのだ。 


 後部座席に乗り込んで、僕の膝の上でうとうとしている雪希の髪を弄び、まあしょうがないから許すが、という気分になってくる。


 これは最悪の自覚なのだが、僕にとって惚れた弱みというものは恋心を失ってからも持続するものだ。


 理不尽にも限度があろう。

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