7.; all's right with the world

「指示をください、ご主人様」


 新条雪希が壊れた。いつどのタイミングで壊れたのかはっきりと僕にはわかる。七日前の夜だ。時刻は午前四時頃。早朝覚醒した僕にあわせるように雪希が目覚め、寝惚け眼でぼーっとして僕を見ていた。けっこう長い時間だった。唐突に雪希は言った。


「蛍川先輩。私はぜひとも死なねばなりません」

「死ぬな新条。なんでもするから」


 なぜいきなり雪希がこんなことを言ったのか僕には全く分からない。雪希は生死に拘りのない人間だからだ。こいつは雑に生きている。自分は死ぬべきだという言葉はこいつの口から通常出てこない。思い出したくもないあの日々、雪希が最も身体的にも精神的にも拷問のような苦痛を合理的かつ合法的かつ倫理的に受けていた日々ですら、自分は死ぬべきだという言葉は出てこなかった。


 非常に幸いなことは、雪希は「死なねばなりません」と言ったのであって「死にたいです」と言ったのではない。僕の取り扱いについては前者が致命的で後者は無視してよいが、雪希の取り扱いについては後者が致命的で前者はあまり本人的には重大な発言ではない。事実、死ぬなという僕の言葉に雪希は当たり前のように応えている。


「死にませんよ。私は死ぬべきだと思っただけです。蛍川先輩のなんでもをこんなところで頂戴しても面白くありませんね。取り消してください。これは権利の行使です」

「取消はもちろん構わないが……死ぬべきだというのは穏当ではないね。たしかに死亡をもたらさなければならない人間はたとえば刑法に明記されているが、君は具体的な裁判の結果を経ずそれを事前に予見できる、というタイプの人間だったかな」

「法哲学の話をしているのではありません」


 まあ、そうだろう。雪希にはまともな遵法精神がない。法哲学そのものへの興味はあっても、それと自分を結びつけて考えることはないはずだ。


「では、君自身が定めた方針に従った場合。君は死ぬべきなのか」

「そのとおりです。はなまるをあげましょう」


 その未明のベッドの中で、雪希は僕の胸にはなまるを描いた。いつもなら冷静でいられなくなる指先が、その日は最優先事項ではなかった。


「君のわけわからん指針に一々口を出したくないが……どこか修正して死ぬべきとまでは言えない、というところまで妥協することはできないのか」

「できませんね。私にとってとても根本的かつ重要な点に違反したので、私は死なねばなりません。まあ、いいじゃないですか。死ぬわけではないのですから。べつに私は水華や父ではありません。方針に反することは私にとって珍しいことではありますが、そんなに大したことではありません。つまり、私が方針に反してしまったことはべつに構わないのです。しかし、この方針のうち私が死ぬべきだということを導出した部分は、私にとってとても大事なので変えるわけにはいきません。つまり、私はぜひとも方針を維持し、ぜひとも死ぬべきであり、そしてこうして。その指示に従わず生きています」


 つまり新条雪希にとって法に反することも自分の指針に反することもどうでもいい、ということだった。いつもの新条雪希だった。


 そして、その日からたいへんな勢いで雪希が壊れていった。これも雪希にとってはいつものことだが、こいつは自分の損傷を考慮しない。壊れていくことをどうでもいいこととして扱っている。こいつが身体的に苦しんでいることも、精神的に苦しんでいることも、いずれも僕にとっては耐えがたいものだ。そして、新条雪希のありかたそのものが壊れていくこともまた、やはり僕にとっては極めて強い苦痛を生むらしい。


 雪希のことは嫌いだ。だが、僕のモラルはそんなことには左右されない。雪希の現状は目に余る。


「なんだ、そのぺらぺらした給仕服は。どこにそんなもの売っているんだ。誰に需要がある。ばかにしているのか。だいたい、そのご主人様というのも軽薄ではないか。そもそも給仕という行為が君と不調和だ。君に似合う要素が一毫も存在しないぞ。僕はべつに構わないが、新条。それはだいぶ君の基本的な姿勢に反するぞ」

「構いませんよ。私にとってスタンスは参考ですから。そうですね、せめて旦那様と呼ぶ方が多少滑稽さが減ずるでしょうが……特にそれを考慮する必要もありませんので。それに、このいかにも粗製然とした給仕服で旦那様と口にするのはかえってばかげていませんか? ご主人様と呼ぶための衣服ですよ、これは。ご主人様もどうでもよいことはあまり気にされない方がよいかと思いますよ」


 駄目だ。完全にぶっ壊れている。


 理由は推定できている。雪希の指針違反だ。たぶん雪希は、本当に違反したくない自分の掟に反してしまった。こいつにそんなものがあるということ自体、僕にとって信じがたいのだが、たぶんそれはあった。そして、これも信じがたいことなのだが、こいつはそれをわざわざ合理化しようと無駄なリソースを吐いている。


 こいつがこんなことをしているのは、ただひとえに。自分はルールを守らない人間だ。だから最も根本的なルールすら守らないのだ。と表現しているに過ぎない。たぶん自分自身のために。そうでもしなければ精神を保護できないのだろう。


 つまり雪希は本当のところ、そのルールが単に雪希にとって守るべきものだったことと同時に、守りたかったのだし、今も未練を感じている。


 だが、これもつくづく痛感しているが、雪希にとっては何かに価値を見出すこと自体が既に負担だ。その価値のために動き回ることではなく、それ以前の段階。私にとってこれが大切だと思うことそれ自体が彼女を蝕む。それくらい、雪希は弱い。貧弱さとスペックの高さが同時に存在していて、それでやっと雪希は生きている。


 救済不能なやつだと思う。たぶんこいつは、ルールを定めた段階ではそのルールを大切だとは全く思っていなかったはずだ。なぜなら、ルールを定めた段階でそれを大切に思っていたなら、その時点でこいつは蝕まれているからだ。破ってはじめて大事だと思い始めて、慌ててそれを捨てるために七転八倒している。


 バカなのか?


 雪希をバカだと思ったことは数え切れないくらいあるが、たぶん雪希至上最もバカな姿を今こいつはさらしている。


 僕が今困っているのは、このバカをどうしてやればよいものやらうまい方途が見つかっていないからだ。こいつはバカなのだが、救いがたいほどバカなことをしている。そのため、なにをしたらこのバカなまねをやめてくれるのかわからない。


 もちろん選択権を行使することはできる。だが、それはあの日の僕の軽率な提案と同じ結果を生むだろう。雪希は正確にその指示を遂行し、だが従っているのは行為だけになる。内心は何も変わらず、結局僕の指示に従いながら壊れていくはずだ。


 やめてくれと願うこともできる。だが、それが仮に有効ならその願いはもはや魔法だ。不幸のどん底にいる人間に不幸になるなと言い続けるだけで不幸から解放できるなら、苦労はない。


 つまり、命令と希望は効果がない。


 そして、最悪なことに今の雪希は指針を軽視しようと努力している。


 つまりこいつに交渉を持ちかけることもできない。こいつに交渉でメリットを示すことはできるかもしれない。だが、「それがメリットである」ということはこいつの指針によって弾き出される計算結果だ。こいつは、指針を軽視している。メリットを見出しても、指針に価値がないのだから計算結果も意味をなさない。それは指針により導出されたものだからだ。


 このようにして、大枠では手立てがないように見える。だが、僕は実のところ交渉は使えるはずだと思っている。それはこいつが指針を完全には放棄できていないからだ。


 こいつの壊れ方には何らかの作為がある。こいつが本当に「なにもかもどうでもいい」ならどうなってしまうのか僕にはわかる。こいつは価値を重荷に感じる人間だが、真価を見出しているものを失うことには耐えられない。それはこいつが悲鳴をあげるという意味ではない。こいつはこいつにとって価値のあるものから遠ざけられたとき、ただ静かに呼吸をやめる。死ぬまで呼吸をしなくなる。息を止めているのではない。息を止めるのは自発的な行為だ。こいつの場合は違う。息をするという基本的なこと、意識しなくてもできること、文字通り意識がなくてもできるはずのことすら、できなくなる。


 つまりは、僕。こいつは僕がいないと眠れない。そして、その状況下に強制的に置かれ続けると息をしなくなる。


 七日間。


 こいつは壊れてからのその日々で睡眠に僕を要請した。ぼーっとして死にかけたのではなく、一応生きている。生き方を変えただけだ。指針に従い、スタンスに則って動くのを止め、単にその場その場の思いつきで動いて制止しない――こいつはそれを意図的にやろうとしている。眠りたいから眠り、今は給仕服を着たいから着ているのだろう。だが、そのようなやりたいことをやるという姿勢は、やりたいことをやり続けるという指針に支えられている。


 こいつには明白な行動指針があり、それに基づいて自己を破壊している。というよりも、こいつは自分にとって価値ある指針を破壊するために、効果的な自己破壊を行わなければならないのだから、破壊効果を出すためには指針が要るのだ。単に何も考えていないのなら、破壊について非効率となる。


 いつもならこいつは血が流れようが、息が止まろうが、心的なショックで貧血を起こして倒れようが、何も気にしない。


 だが、こいつは今死に物狂いだ。べつにそれをしなかったところで死ぬわけではない。こいつにとって致命的なのは僕という個体そのものだ。つまり、その指針は僕ほどには致命的に新条に結びついていない。だが、雪希は生死に関わる僕の在不在すらどうでもよいものとして扱っている。つまり、生死がどうでもいいから生死に紐付く僕の在不在は雪希にとってどうでもよいはずだ。


 そして、生死に関わらないその指針について、雪希はやれることを尽くして無価値なのだと証明しようとしている。僕に対してはそこまでしてくれないのに、ただ僕がいないなら死ぬだけなのに、何の努力もしないのに、よっぽどその指針が大事なのだと思うと、初恋の残滓が左胸に浅いところをすっとなめらかに切るような痛みを感じる。それはサファイアでできた刃を思わせる。嫌いだが、好きだった。その想いが、つまりは僕を嫉妬させているんだろう。


 でも、そんなことはどうでもいい。


 今の雪希は確かにバカだ。大バカだ。それでも。


「新条。君は今、必死になって頑張っているんだな」


 壊れていく雪希に積極的な策を打つ以前の段階。何にも打ち込まない雪希も、何かに打ち込んでいる雪希も。僕はどちらも蔑ろにしたくない。


 バカなりになにやらやっているんだ。雪希は必死に足掻いているんだ。何か方途を示さねばならない。それはそうだが、それ以前に僕は雪希に値するものとして、最低限度の機能を有さなければならない。


「新条。僕はべつに君が頑張らなくてもいい。一生、だらだらしていてもいい。眠れないくせに、眠いくせに、僕に寝ようと誘うことすら怠くてソファでだらだら一人で寝返り打っている姿。眠いので今日の登校は止めにしておこうと負けそうになる姿。どれも好ましく見ている。バカなことをしているとは思っているが……怠惰な姿だけじゃない。今のように僕にはよくわからない理由で、君には珍しく全てを注ぎ込んで必死になっている様だって。僕は嫌いじゃない。バカなんじゃないかと思う。後悔するぞとも思う。やってみせている努力は本当に頑張っているのだろうし……たぶん、君が死ぬべきだと結論づけた指針にはそれだけの価値があった。僕は今……悔しいことにそれら全ての状況に即座に対応できない。だが、新条。君が苦境に陥ったならば……僕はいつだって、何か手立てを用意して実行したい。今、できることは何も思いつかないけれど。でも、そうしたい。なぜなら新条。僕は新条にとってしあわせで、苦痛がなく、指針にも適っている日々を送ってほしいと思っているし、それに反する新条の今みたいな破壊的な努力さえも、僕が守りたい新条雪希の日常だ。自壊していく新条雪希をすら尊重したい。蔑ろにするものから守りたい。そのバカげた自壊には尊厳があると僕は思う。何もできなくて、具体的な方途がこのとおり何も出てこないのだけれど。まあこんな感じで七日間僕は君に対し無力だ」


 雪希が、笑う。


「特に問題はないと思います。ご主人様は適正に機能しています。なので、私も生きています。ただ、最近は省力化について検討しているのです。父の教えでもあります」

「それは違う。省力化とは何を何の目的で省力化するのかという目的意識と切り離せないものだ。おじさんのリソース管理と君のやっていることは別物だ」

「……それは確かに。今やっていることに目的はありませんね。しかしまあ、純粋省力というものもあります。応用を考えずただ省力するのです。省力する意味はないのですが、省力するのです」

「それもおかしいな。君はそれを手っ取り早く極められる。純粋省力を行うというなら僕から永遠に離れてしまえばいい。野垂れ死ねば何のリソースも吐かずに済むぞ。当然、死ぬのだから君のただでさえ小さな利用可能なリソースは零になる。だが、純粋省力なのだろう? 何の目的もない省力なのだろう? ならば、利用可能なリソースが零になるということは問題ないはずだ。そこの数値の増減は純粋省力にとって意味がない。無視できる項目だ。他を無視して省力だけを考えるなら、利用可能リソースの減少すら全く考慮せず、消費リソースの削減を目的にすべきだ。真に純粋省力と言うならな。そして、真に純粋省力を行うなら君は死ぬべきだ。なぜなら死ねば一切リソースを使わなくてよいからだ。消費リソースが零になる。これ以上の純粋省力など存在しない。だが君はそうしていない。だから君は純粋省力など行っていない」

「――たしかに、そうだ」


 ぶつりと。雪希の声から色が消える。失策だったと遅れて気づく。説得効果は出たが、たぶん僕が期待したものと逆に効果を発した。反直観的すぎてどうしても意識しにくいが、雪希は本当に死ぬことがどうでもよい人間だ。


 純粋省力を口にした際、もっとよい方法があると互いに納得できる形で合意が形成されたならば。


「先輩。選択権を行使します――私が死ぬまで、会いに来ないでください」


 遠回りして、たんなる想像を確信に変える。こいつはこいつにとってとても大事な何かを間違いなく毀損した。僕が存在する以上生存できるが、こいつは最早自分を生存させるべきだと思っていないし、積極的か消極的かは知らないが確実に速やかに生存している状態を終わらせようとしている。それ自体はどうでもいい。いや、このバカをどうにかするのも平時では考えられないくらいの頭を抱える問題なのだが、こいつの命が危ないということはいったん脇に置いていい。それがどうでもいいと言えるくらい他に重大な気づきがある。


 僕を見上げるちんちくりんの、雪希の垂れた昏い瞳の奥に揺るがない光があった。澱んだ瞳の濁りを、底から表面まで貫く細く強い光。たくさんの街灯に紛れてほとんど消えてしまいそうな、か弱い夜の星のような。雪希は。あの軽薄な雪希が。


「新条は。それほどまでに大切にしたいものを見つけたんだな」

「どうでしょう。どうでもよいと思うのですが」

「不徹底だった省力をより徹底する。そこまでして希薄化しなければ耐えられないほど、大切なんだろう。君にとっては」


 私は結果として死ぬように動いていますね、と雪希は言った。大切なものから自衛するためかどうかは知りませんが、と続けて彼女は言った。


「君は自分の定めた指針はよく守る。基本的に罰則を君は定めないが、それでもルールを破るとばつが悪そうにしていた。そして、今回は重罪を犯し、その罪悪感から逃れるために死を選択しようとしている。罪悪感を覚えるほどに、無視しようとするほどに、その指針には現時点では価値がある。もちろん、その指針は今の君が大切に思い、そして目をそらしているものにすぎない。君が死んでしまえば目論見通りそれは何の価値もなくなるだろう」

「そのような推理なのですね」


 はいともいいえとも情報を与えてこない雪希のやりくちはいつものことだ。何も期待していない。


「僕だってバカじゃない。いつもいつも雪希が策略家だとは思ってない。ちゃんと反省して成長する。僕も。雪希、今回は過失なんだろ? 故意ではないのだろう?」

「……っはい?」


 かなり素っ頓狂な声が雪希から出た。どろんとまぶたがおりていることも多い瞳が見開かれている。目が綺麗だ。本当に。しかし、僕の述べたことはこいつ自身が強く理解しているはずだ。


 こいつは聡い。そこのところで驚くはずがない。へんなところで驚いているはずだ。意味不明な回路が走っているのだろう。故意でない、過失であることはこいつにとって既知のはずだ。つまり「故意ではない」という僕の発言内容に驚いたのではない。そのことは雪希も知っているからだ。だから、「故意ではない」と言ったときの僕の動作。体の動きや発音でこいつは驚いた。おそらく、発音だ。


 ああ。わかった。


 恋ではない、と。そう聞こえたのだ。


 理解したところで、やっぱりこいつの回路はわけがわからない。それは僕達の共通見解だ。僕の口から出てきてなにを驚くことがあるのだろう。よくわからんやつだ。よくわからんので、そこを詰めるつもりはない。無視しよう。


「本来なら死に値することをしてしまった。だが実のところそれは過失によってなされた。すると、減刑を考慮するのが尋常であると僕は思う。温情のためではないよ。指針をより精密に運用するために故意と過失は別の概念で用いるべきだ」

「そうですね」

「君は過失を犯したね」

「……そうですね」

「午前四時の早朝覚醒。時間的に、寝惚けて、ぼんやり。あの感じだと、君は外的な行動で禁忌を犯せたとは思えない。君の頭の中で罪は発生した」

「……」

「抗不安薬が残り、睡眠導入剤も残り、早朝覚醒。十分に尋常な思考がままならない状態での、頭の中での指針に反する本来死が相当の君の頭の中で発生した何か」


 僕はこつこつと自分の腕を指で打った、指板を叩く強烈な強さで腕を叩くと、何か安心する。弦楽器奏者は皆やったことがあるのだろうか。それとも稀な例だろうか。


「君はおそらく指針を最も素朴な形で受け取った。だが……やらかしたなら故意を採用しても過失を採用しても、いずれにせよ死が相当であると、君のやったことは君の指針上本当に言えるのか」

「台無しにしてしまったことは、確かです。べつに、それがどうということはありませんが」

「何かを損なってしまったと。なら余計過失扱いにしてしまえばいい。今日をもって故意と過失を新設し、遡って雪希の罪に適用し、減刑してしまえばいい」


 少し黙考し、口を開く。


「そうすれば、破ってはならない掟を君は破り、君には死罪が本来相当で、しかし過失の導入により罪の価値はそのままに、処理は減じて与えられる。これは、君が大切に思っている掟の価値を損なわないだろう? 君が指針に反する何かをしてしまったという事実と掟に反したという評価は一切変えない。むしろその輪郭を明らかにするために過失という概念を導入する。これはむしろ、掟を毀損するよりも掟を磨き上げることに繋がる。不明瞭、不完全なルールがより明晰になるのだからね。その価値は減じられるのではなくむしろ増すと言ってよいだろう。僕は君の大切な掟の内容を知らないが、罪の重さ、掟の価値はそのままに、君を死ぬべき者から遠ざけることはできる。厳密に言うと、君に適用される法は変わることだろう。過失でやってしまったことと、故意で禁則を破ったこと。別の罪として扱われるはずだ。だが、それは元々君の持っていた罪刑を破壊しているのではない。その領域を一切損なうことなく、単に下位分類を置いただけだ。円に一本線を引き、線引きされたそれぞれをAとBに呼び分けたに過ぎない。円は何も変わっていない。いや、むしろ不明瞭にAもBもごちゃまぜになっていた円をより完全なものに整理したとさえ言えるだろう」

「そ、れは……べきの話です!」 


 僅かに怒気を含んだ雪希の言葉に、心が凍る。青い刃が……刃どころかもうこれは槍だな。斜め上から降ってきて左胸を貫いているのを感じる。サファイアの巨槍が僕の胸を貫いてそのまま石畳にぶっささっている感じだ。


 この石橋を破壊して、僕達はそのまま下の池に落ちてしまうのではないかと錯覚してしまうほどの、痛みと衝撃。僕が今立てているのは、立てているというより槍に縫い止められているので倒れられないといった方が正確だ。雪希にとって生死はどうでもいい。つまり、生死を左右する僕も根本的にはどうでもいい。だが、今の話は違う。雪希にとって、その指針は。そこまで大切なのか。怒るほど。だが、痛みは僕が止まる理由にはならない。僕が動くべき理由は雪希にある。僕が痛いことなど、どうでもいい。


「今の自分は胸を張れないと。何かに値しないことをしたと考えているんだね」

「らしく、ないでしょう」

「僕なんてしょっちゅうだよ。最近最も印象深いのは君との最初のくちづけだ。ゲロを吐いた日のことだ。倫理的人間たらんと志していた僕はあの日僕自身によって毀損された。実に最悪の気分だった」

「それを気にするのが先輩の妙味ですが、それを気にしないことこそが私の味です。私、味が濁るのが嫌いなんです。先輩は複雑性で味を出すタイプのドロドロのスープですが、私はわかりやすい方で売っているつもりです」

「ああ。それはわかる。新条は透き通っている。さらさらしている。濁るのはあんまり、良い気分はしない」


 はい、と雪希は頷く。私もです、と。


「故意だろうが、過失だろうが、誇りの一線にかけて。私は死ぬべきです。ああ、もちろん私が自らを殺すことはありませんよ。そんな動機付け、気にしないことにしているので」

「新条は……」


 少し、言葉を選ぶ。結局結果として速やかに死ぬんだろうが、という言葉は用を為さない。そんなことはどうでもいい。


「何か、最もおぞましいもの、禁忌に手を触れたか。つまり、生存を許される場所から許されない場所へ墜落したか。もしくは、新条にとって、最低限到達していなければならない場所、そこに至れなければ生存を許されないような場所に、のぼれなかった。生存を許される最底辺に辿り着けなかったか。いずれかに自分を定めた。つまり、生きていることを自分で自分に許せないほどの悪を君はなしたか、あるいは何らかの行為によらず君という存在そのものが君自身に許容できないほど生きていてはならないものだと痛感されたかだ」

「はい。後者です」

「新条の目が見た、その最低限度の生存可能な領域は……」

「綺麗です。とても。私はそこに入る権利がないのに、土足で楽園に属するものに触れました。その意味では、前者と後者の両方を犯したことになります」


 ニュアンスは伝わる。個人的な感覚としては、法に反したとか、自分のルールに反したとかいうより、もっと原始的な。神の定めた摂理に反したような絶望感が彼女にはあるように見えた。たぶん、見たものがそれだけうつくしかったのだろう。とはいえ、いくらなんでも狂わせすぎだ。何を見た。魔石かなにかの類ではないか。破壊しておいた方がよいと思う。


「君の思う神聖さへの罪というわけだ」

「はい」


 頷く。故意や過失などは実社会上の法や規則の話だ。雪希の苦境は神域の話だ。僕の説得にピンとこないのも当然だ。だが、それなら対応策がある。


「なら、悔い改めればいい。懺悔すればいい。贖えばいい」


 幾つかの方途を示す。


「神聖さに関することの場合、死に値することに関し、心から悔いたとき。絶対に許されない――こともない、ことがある」


 なんですかそれ、と雪希は呟いた。反射的な言葉だったのだろう。そして、非現実的だというように笑ってみせた。


「だいたい、誰に懺悔するんですか。私に神様なんて、いないのに」

「本気で言ってるのか?」


 こいつは本当にバカなんじゃないか――いや違う。そうじゃない。この場合事実誤認をしているのは僕だ。雪希にとって生死はどうでもいい。だから僕もどうでもいい。だから、こいつに神などいない。だから、こいつは許されない。神がいないから、神の領域にある罪を許す者がいない。


 だが、それは重要な問題ではない。神がいなければならない場所が空席になっているに過ぎない。神聖さに属する罪を犯し、しかし神の座に誰もおらず、それにより永遠に許されないものがいるなら、解決策は単純明快だ。


 神がいればいい。


「懺悔なんて、僕にすればいいだろう。むしろ新条。君にとって僕以外に務まると思っているのか。いや、神聖さに関する罪を犯したと判断したときなぜ神を置こうと判断しなかった。さっさと僕を置けばいいのに。僕が最適だろう」


 新条がフリーズした。こいつはいくつかのパターンでフリーズさせることができる。たとえば暗記しているが知識にしていないことを訊くと、脳内の本棚から暗記事項を引っ張り出して整理するためにフリーズする。だが、今回は違うようだ。


「い、いや。何を言ってるんですか。現人神なんて古いですよ。だいたい宗教なんて、物理帝国に住む私たちに似合いません」

「お前の犯した罪は神聖さに関するものだろ。物理帝国……いやもっと姿勢を明白にすべきだな。物理主義帝国に棲むなら棄教しろ。むしろ僕はたいへんそうして欲しい」

「ぐ……」

「できないんだろ。なら、君は信仰をしている人間だ。科学的発見の論理と個人の格率と社会の規範と信仰上の戒めは枠組みが違う。だから僕は信ずる何かがあればその人は信仰しているのだ、などと言っているのではない。科学も宗教だなどとバカな話をしているのではない。僕たちは精密に話す。正当化された真なる信念こそが知識であるという古代ギリシャレベルの議論でもくだらない信仰概念の広範化は抑制できる。お前がやっているのは狭義の宗教だ。残念だったな、物理主義帝国の恥さらしめ! 恥を知れ恥を!」

「ぐ……!」


 めちゃくちゃ悔しそうだ。僕達にとり物理主義の常道を外れることは恥だ。いつだってこの帝国の中でものを考えていたい。その国境線がどれだけ曖昧だったとしても、こいつの信仰は国境線を考える必要がないほどに帝国の外にはみ出してしまっている。


「お前も重々わかっていると思うが、物理主義帝国を外れた信仰など科学的発見の手法の観点からは十把一絡げにしてよい。人格神であろうと、ただの機構である理神であろうと、神を持たなくとも、どれも物理主義帝国からすれば同様の理由で噴飯物だからだ。物理主義の正規手続きに則っていない、全て同じ理由で同じ程度に僕達にとって恥ずべきものだ。つまり、君は現人神など古いと言った。そのとおりだ。雲に乗り白髭を生やした神など古い。だが、僕達にとってはどんな神も同様にバカバカしい。そこに格付けなど存在しない。全て等しく同じ力で同じように蹴り飛ばすのが物理主義だ。差などない」


 雪希が忌まわしそうに僕を見ているのはいいが、顔を真っ赤にしているは謎だ。十中八九こいつのわけのわからん回路がわけのわからん形で意味のわからんことをしている。


 僕は基本的にベッドの中以外では新条雪希に勝てないのだが、意味のわからない経過を辿ってこいつが突然ゴミクズのように負けることがある。勝った理由がわからないので釈然としなくなるものだ。今日もそれだ。こいつが僕に詰られているのは、僕達にとって問題ではない。理路の不備を突くというのは僕達にとって日常会話だ。つまり些細な問題だ。だがこいつはちんちくりんの体を強張らせて、耳まで真っ赤になっている。まるで僕がとてつもなく屈辱を与えているような……というか、こいつの何やら挙動不審で今にも逃げ出したくなっている感じからして、猥褻な話をしているかのようになってしまうので本当にやめてほしい。僕が何をした。


「君はどうしても信仰を捨てられないカスなのであり、君は神なしでそれをやろうとしているようだが、いてもいなくても君は同じくらいカスだ。つまり神を置いても置かなくても君の評価には関係ない。エレガントな一貫性が君にはない」


 だんだんと地団駄を踏まれた。給仕を虐めている主人みたいになるので本当に嫌だ。なんでこんなことになっているんだ。もっと淡々とした感じになるではないか、いつもであれば。何が起きている? 理解できない。雪希が本気で性的に恥ずかしがっていることだけはわかる。高度すぎて僕にはついていけない。


「よって解決策はこうだ」


 人差し指を立てる。エレガントなアイデアとは単純明快でなくてはならない。


「僕が君の神だ。現人神だとも。しかも可謬だ。しかし、我々は物理主義帝国において神などどう置こうがカスだということを、神を置いても置かなくとも宗教的導出そのものを蔑視していることを確認している。つまり、不完全な僕が君の神の座についたところで何の問題もない。ついてもつかなくても君は同レベルでカスだからな。では、僕が神の座について君の懺悔をきいてやろう。然る後、必要があれば神罰を与え、それを与えるに値すれば赦しを与える」

「わ、私の指針を何も知らないくせに」

「べつにいいだろう。神が信徒を理解する必要はない。君はやりたければ人としての神学をやっていいが、僕は神としての人学などやるつもりはない。つまり君の指針など知る必要はない。神意とは人の欲求にかかわらず振り下ろされるものだ。君の指針とは関係なく僕の罰や赦しはくだる」


 雪希がなんかもう泣きそうな目で睨み付けてくる。そこまでしたか、僕は。確かに吹っ飛んだ会話になっているが、いつものことだろう。僕達はシステムに言葉をのせて走らせるので、理屈だけで変なところに走って行くのはいつものことだ。なにやら奇天烈なことになってきていることも含めて楽しいのではないか? 恋の定義の話をしたとき、雪希自身が僕に言っていたではないか。まさに面白い話をしていると思うのだが。


「だ、だったらあなたも物理主義帝国の恥さらしです! 神になるのでしょう! どうですか、帝国に留まるか恥知らずになるかの二択ですよ!」


 小物みたいなことを言い出した。いつもの格はどうした。チワワだぞ今の君は。


「僕は神になんてならない」

「……は?」


 新条の口がぽかんとあいた。


「神になるのは君の信仰上の話だ。君が僕を崇め奉る宗教を勝手にやれと言っているんだ。僕は君の宗教にごっこ遊びで付き合ってやる。自分が神だなどとは微塵も信じないまま、人間として君をあしらう。つまり、君は僕を神だと誤認して崇めていればいい。当たり前の話じゃないか。どうしてホモ・サピエンスが神だなんてことがある? バカバカしい。君は宗教をやっているので勝手に君の中で上手く合理化してくれ。神学すればいい。僕は付き合うつもりはない。僕はただのホモ・サピエンスだ。だから僕は誇り高き物理主義帝国民のままで、君だけが恥さらしになる。ごっこ遊びだけ付き合ってやるから、君はそれを本気にしていればいい。恥さらしの新条にはお似合いの無様じゃないか?」


 まずい。雪希の目から涙が零れた。めっちゃ悔しそうな顔をしている。まるで僕が泣かせたみたいじゃないか。いや事実泣かせたのだが。泣いて悔しがっているのはいいが、何やら興奮しているのはいかがわしいからやめてほしい。人に見られても僕が後輩を泣かせているとは思われないだろうが、僕が後輩と倒錯的行為に耽っているとは誤解されるだろう。倒錯しているのは雪希であって僕ではない。巻き添えになどなりたくない。変質的行為はひとりでやれ。僕は理解できてすらいないぞ。


「そ、そんな神を私が本気で信仰すると思っているんですか。だいたい、それが私にとって重荷になるとは思わないんですか」

「信仰するかどうかは勝手に新条が決めれば良い。宗教やってる人の気持ちなんて僕にはわからん。重荷はむしろ、今の新条の窮境を含めて劇的に改善される」

「ど、どうしてそうなるんですか」

「君が怠惰だからだ。いつだって僕がなんとかしてくれると思って何もしないだろう。僕を信仰するということは、つまりそれを徹底するだけだからだ。つまり君の割くべきリソースはむしろ減る。もっと僕任せにして荷物を放り出せばいい。全部知らん、蛍川水華がやってくれるだろう。それでいい」

「……しかし先輩はただのホモ・サピエンスなのでしょう」

「そうだ。僕には物理的限界がある。つまり、僕の助けが間に合わないことも多々あるだろう。だが、それは今までもそうだったしこれからもそうだ。どの宗教だってそこには説明をつけているだろう? この世界に悲惨が存在する理由なんて、説いていない大宗教の方が珍しいくらいだ。君の方で勝手に理屈をでっちあげろ。僕はしらん。なぜなら僕はただの人だからだ。そこも神と誤認する君が勝手にやれ」


 まだです、と雪希は言った。


「私が蛍川先輩を信じられるとなぜ言えるのですか! 他の誰でもなく水華を神にできると! わ、私は今べつに何も悩んでいませんが、仮に悩んでいたとして、私は罪を犯しました、赦します、などというやりとりで私が救われると、なぜそんなことが言えるんですか! 先輩は私が宗教をやっていると言いましたが、宗教のジャンルについてそうすべき理由、私がその宗教にそこまで没頭できる理由を何も言っていません!」


 本当にびっくりした。こいつはなんで僕がこいつに訊きたいことを全部僕に訊いてくるんだ。意味がわからん。


「いや、僕は元々探りのためにボールを投げただけだぞ。このボールは届かないと思って投げたんだ。幾つかボールを投げて、たぶんどれも当たらないから、それぞれのボールがどういう風に届かなかったのか分析して、それを元に対策を練るつもりだったんだ。つまり、たいして何も考えてなかったのに君がやたら乗ってきているので僕はとても混乱している。逆に何でそんなに効いているんだよ君は。おかしいぞ。まさに君が今口にした疑問で全部ばっさり切って捨てられるだろう。切り捨てるどころか神殿が建ったぞ。せ、雪。正直言うが水華お兄ちゃんはたいへんびっくりしています」

「せつって言わないでください! あとお兄ちゃんぶるのもやめてください!」


 怒られた。こっちだって今更兄ぶるつもりなどないが、意味がわからなくて頭が疑問符だらけなのだ。


「つまり、その」


 雪希はむーっとたいへん不服そうに口をへの字にしてそっぽを向いて黙り込んでいる。

 

「君は本気で僕を神にして信仰できるんだな。やってしまえるんだな? まじで」


 むっとしたままそっぽを向かれて一分くらい沈黙された。一対一の会話で一分の沈黙は滅茶苦茶長い。打てば響く雪希なら尚更だ。単にフリーズしているなら待つだけなのだが、こいつ拗ねているだけだ。


「……できますが。言わせたいんですか。へんたい!」


 君だろ、変態は。たいへん痛罵したかったが我慢した。まとまる話もまとまらなくなる。


「じゃあもう、いいだろ。しろよ僕を。神に。おわりおわり。それで僕が赦して全部終わりな。別に君は好きにしていればいいが、好きにした先がより穏やかで平和で幸福で君の指針にもかなっているならそれにこしたことはないからな。今の君からは何も失われない。ただ得られるだけだ。僕としては満足なので、さっさと僕を神にしろ」


 雪希が唸った。こいつは息が長く続かないので、せいぜい数秒だった。ちんちくりんのたぬきが唸ったところで怖くもなんともない。正気のこいつが理路で斬り掛かってくることに比べれば壊れているこいつのフィジカルなど何の脅威にもならない。


「こうじゃないのに。私が水華にぜんぶあげて、神になるのに。ちがう」

「意味のわからんことを言うな。さっさとしろ。許可するわけないだろ、そんな不健全な関係を」


 するんです! 先輩はバカだからわかってないんです! という目でみられたがこいつはバカなのか? するわけがない。重々承知していたつもりだったが、新条雪希は、


「じゃあ。蛍川水華先輩を。神にしてあげますよ」


 頭がかなりおかしいらしい。


 ぺこり、と給仕服の彼女が深く頭を下げた。こいつがこんなに畏まって僕に頭を下げることなど普通あり得ない。つくづく、何を考えているのかわからないやつだ。


「ごめんなさい。水華先輩。私はとても悪いことをしました。とても、とても、とても悪いことです。すごく。すごく大切なものを汚しました。絶対に汚しちゃだめだったのに」


 そして、これだけ意味のわからんことに付き合わされる上に、ここまでこいつが熱烈に思うものの話をされるのだから本当にたまったものではない。僕が何をしたというんだ。


「赦すよ。僕が君を赦す。ただし、君の罪はなかったことにはならない。君が汚してしまったものは、とても大切なものだ。今もそうだ。だから、大切に思っていていい。そして、下すべき神罰はないけれど、君は贖罪をすべきだろう。大切なものを汚してしまった罪をしっかり見つめて、受け入れて、目を背けず、大切だと認めるんだ。君は取り返しがつかないことをしたと思っている。それでも、僕が赦す。だからもう一度手を伸ばす努力をしよう。力が足りなくても心配はいらない。君は僕に頼ればいいのだから。そうすることが、罪の贖い方というものだよ」


 腹立たしい。極めて腹立たしい。新条雪希が真っ赤になっている。そして、彼女は僕を全く見ていない。ただ自身の頭の中、いや胸の裡を見ている。僕の知らないあいつの大切なものについて、大切ではないのだと証明するのではなく、大切なのだと定置しようとしている。それが、そんなに。顔を真っ赤にするほどのことなのか。


 神になってまでやっているのが僕の知らない新条雪希の大切なものとの関係の取り持ちなのだから本当に熟々容赦がない。


 大小様々なサファイアの刃が百本くらい僕の体を刺し貫いている。


 僕の初恋は実らなかったが、その後始末でこんな思いをさせられるのは理不尽であろう。


 そして、そう。僕は物理主義帝国の人間だ。神をもった新条雪希とは違う。僕の世界に神はいない。ただ物理がある。世界が理不尽だと思うのは僕の知識と機能の欠如による勘違いに過ぎず、実際のところ世界は一貫した物理的な秩序に従って運行している。つまり、僕には秩序に関し文句をつける先がない。


 それが物理主義帝国に住むということの意味であり、そしてそれに胸を張っているのが帝国民だ。だから、僕はふんぞり返る。それは帝国民としての矜持の証明だ。逆に雪希には神ぶってかっこつけているように見えるかもしれないが、それは僕の知ったことではない。残念ながら僕は今僕のことで手一杯なのだ。たぶん雪希はもうどうにかなったので、少しリソースを僕に割きたい。好きでもない女のためにこれだけやったのだ、もういいだろう。少し一人で傷心を慰めたい。


「では、ご主人様。いえ神様?」

「――は?」


 顔をあげた雪希は、いつも通りの雪希だった。さっきまでの混乱がどこに消えたのかと思うくらいの余裕面。こいつは僕を本気で神にするわけのわからない思考回路を持っているが、僕の方は帝国民として恥ずべきことだがこいつの肉体が本当に物理的制約下にあるのか強く疑っている。


 魑魅魍魎の類ではなかろうなと心のどこかで思っている。もちろん、そう思ってしまうだけで、信じてはいない。超常的な存在を想定してしまうのはヒトの基本的な機能だ。それにも関わらず、最終的な結論としてそんなものはないとこの世界に何があるのかを導出するための手続きから断ずるからこそ我々は帝国民なのだ。


 新条雪希は変わらない。僕と雪希の間にある凍結した絆のように。昔こいつに演技をしてみたらどうだと言った。こいつは演技に引きずられることなく何も変わらなかった。今も同じだ。軽薄な言葉を投げてきたが、こいつは僕をなめくさっているいつもの新条雪希だ。いつもの新条雪希を演じているのではなく、いつもの新条雪希が軽薄な媚びを、しかも誰の目にも明らかな形でわざと下手に演じている。


「神様は自身がどのように信じられているのか全くご存じないのですから、どのように尽くされても問題はないわけですよね」

「あるだろう。バカか?」

「問題ないのですね、ありがとうございます。では、やはりここは慣れていただくためにご主人様とメイドごっこをしましょう」


 たいへん腹立たしいが。


 でこぴんのひとつも食らわせてやりたいが。


 まあ、しかし。


「私は今日、このためにメイド服を着てきたのですから!」


 こいつが楽しそうなら、まあ一応。我慢できんこともなくはない。


「すべて、けいかくどおりです!」


 空は憎いほど青かった。そこに神はない。


 俯いて、足許を見る。雪希がくるりと回って、ぺらぺらの安っぽい給仕服が実に固く舞った。きっと高いやつならふわりと綺麗に浮くのだろうなと思った。


 石橋を彼女の靴が叩き、かつんと高い音を立てた。








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