8._救世主が救世する世界は世界の範囲に制限され、その限りにおいて救世に値せねばならない
概念と状況は適切に運用され、把握されねばならない。幾つかの混乱は曖昧な概念をひたすらに拡張し任意の状況に当てはめることで行われる。概念の希薄化はその適用範囲を増し、説明可能な状況を増やす。代償として希薄化した概念は状況の説明について情報量に劣る。また、希薄で曖昧な概念はそもそも構造が不明瞭なのだからどうすれば否定したことになるのかわからない。つまり適用に有力であって除外に困難を持つ。
このような日常言語の使用法は使用者にとって有用でありうる。もちろん物理帝国民であれば蒙昧であるという理由でそのような用法を拒絶し、有用だからこそ駆逐すべきだとかえって主張するだろう。だがそれは帝国において通用する狭い民族的コンセンサスに過ぎない。
僕にとっては古典的な哲学が幾度も犯してきたくだらない誤謬の一例に過ぎないが、僕が神を自称しているという噂が校内で一人歩きしている。広めたのは雪希だ、もちろん。
それにより僕はメサイアコンプレックスを抱えているという風聞を受けることになった。不確かな状況と不正確な術語の曖昧かつ類推的な適用。こういった誤解は日常的とすら呼べるだろう。
たとえば僕はそもそも事実として神ではないし、神であるとも思っていない。正当化された真なる信念が知識であるならば、僕は自分が神ではなくホモ・サピエンスであるという知識を根拠に基づいて持っている。僕は雪希を従えていないし、神に君臨してもいない。あるいは、僕は神ではないという命題は真でも偽でもないとも言える。これは韜晦ではなく形式的な論理の話だ。ただし、二値、つまり真偽のみでなく三値以上を扱うタイプの非古典論理の話になる。神の概念が不明瞭なので、真偽は決定できない。ゆえに真偽二値のいずれも扱えないと、そう言うこともできる。偽か、偽ですらない。それが僕が神であるかどうかについての正確な表現だろう。いずれにせよ校内が噂で口にするような意味で、僕が神になったという話は真にはならない。
雪希を救うために神になった僕はメサイアコンプレックスに陥っているとの風聞。これは別の観点からもおかしい。メサイアコンプレックスが診断名であるならば、僕は容易に切って捨てることができる。僕は精神科の門を叩いたことがあり、そのような診断は受けていない。当然だ、診断書にメサイアコンプレックスと書かれることはありえない。なぜならメサイアコンプレックスは医療用の概念として作られていないからだ。診断書に書くことのできる病名は規則で制限付けられている。診断するための手続きも整備されている。
診断において用いられていないメサイアコンプレックスの概念は、本校の使用に関してもちろん整理されていない。
子供のやることだと言うには、人類種を過大評価しすぎているだろう。大人も同様にこのレベルだ。巷説の蒙昧さというものは概してそんなものだ。診断基準がしっかりしており、診断できる者が法定されていても、そんな規範とはおかまいなしに術語は濫用される。
これにはメリットがある。一切型にはめず先入観を排する他者理解はコストが高い。一方で、大雑把に把握するためには大雑把なラベリングで足りる。そのモデルは簡易粗雑だからこそ少ないリソースで物事を予測でき、実験的に明らかにされている「わからない領域をそのままにしておく不安」からも人を解放する力がある。
実際のところ、僕がメサイアコンプレックスに陥っていると誤認されても多くの場合問題にならない。僕が雪希の世話を焼くことについて、その内心に踏み込もうとする者は少ないからだ。不健全である。しかし、不健全だからこそ敬遠する。それでだいたいなんとかなる。僕を敬遠するためのラベルとしてメサイアコンプレックスを張っておくのは不正確かつ不明瞭だとしても日常実践において予防的に役に立つ。僕はそれを知的だとは思わないが、非効率的だとも思わない。
僕は曖昧な概念について、当座的に統一的かつ厳密なコンセンサスを数百人規模の高校生が形成することは困難だと思っているし、彼らが厳密性を求めないことに、一定の戦略的意義があると評価している。僕にとってプラスではないが、物理主義帝国民には知のために蒙昧を殺戮すべく出兵する戦闘民族と僕のような内地の引きこもりがいる。
基本的には、だから問題はない。
「あんまり、よくないと思うよ」
だから、そう主張する人と僕はまともに話をしなかった。たぶん彼らが僕に声をかけた目的は意識と行動の改善だ。だが、僕が彼らに対し目的を抱くならそれは問いの明晰化だ。
彼らの問いは複数の問題を一言に纏めていて、彼らが正確に何を求めているか理解するためには一度ひとつの問いを複数の問いに分解して、さらにそれぞれの問いの意味を明白にしなければならない。それができれば、僕は彼らの問いにひとつひとつ答えることができる。
だが、こんなことを彼らは求めていない。実践が目的なのであって概念の明晰化など必要としていない。いや、むしろ複数の思いを一つの言葉に乗せたからこその効果を期待さえしているかもしれない。
帝国兵であればそこは知のための戦場だが、僕は厭戦的な悲観主義者だ。戦いたくない。僕の態度を貫いたところで場が白けることは容易に理解できる。藤沢くんのように憤りながらも合わせてくれる人が異常なのだ。
日常的な会話に言葉を尽くしていてはいくら時間があっても足りない。だから僕と雪希に話は尽きないのだが、それは一面ではメリットであり、もちろん一面では重大なデメリットだ。重箱の隅をつつき核心を突かないような印象を彼らに与えるだろう。彼らが僕に求めているのはメサイアコンプレックスの改善だ。メサイアコンプレックスとはつまり何かをまず整理しようとする僕の姿勢は韜晦的な逃避行動と認識されるはずだ。
たとえば僕は本当は手続きを重視したい。僕がメサイアコンプレックスであるかどうかではなく、メサイアコンプレックスという概念をどこから引っ張ってきて、典拠に問題はないか、適切に引用できているか、判断基準はなにか、それを行う技能は必要か、そしてその技能は資格化されているか、さらにテストは正規の手順が踏まれたか。こういったシステムを片付けないことにはそもそも話を始められない。だが、彼らはそこまでのものを求めていないだろう。
日常会話ではある程度の蒙昧さは許容して良いし、すべきだ。しかし混乱があるときには概念を擦り合わせねばならない。今彼らと僕が会話しても、水掛け論で終わるだけだ。蒙昧な概念は否定できない。僕がメサイアコンプレックスに陥っていないと主張することは、おそらく僕を説得しようとする者にとって単なる誤った主張だ。そして僕は概念の不明瞭さにより何が誤っているか理解することができないし、概念の話をしてもらえないので理解を進めることもできないだろう。また、僕の概念とその正当化の話をはじめても彼らからは逃避行動と扱われるだろう。つまり僕に打つ手などない。
こういった問答にそれでも紳士的かつ真摯に取り組めば得られるものはあるだろう。だが、労力に見合わない。
結局のところ、
「ああ。そうなのですね」
僕は肯定も否定もせずに受け流した。これは風説を流布させる者達を必ず誤解させるから口にしていないが、そもそも僕は仮に自らがメサイアコンプレックスに陥っていたとしてもそれを何の問題とも見なさない。
社会生活上の無視できない自他に関する問題が精神に起因して生じるならば、自己啓発などせずさっさと病院に行けば良い。そして僕は定期的な通院で経過観察を受けている。素人がなにやら人生哲学を捏ねくり回すより、専門家に任せた方が手っ取り早い。
僕と雪希はよく言葉を交わす。しかし互いに等閑視していることは議題にのぼらない。つまり、これらの噂は雪希が僕をからかうためだけに機能し、雪希は真剣に取り扱わないし、僕同様真剣に取り扱うべき理由がないことを了解している。
ゆえに僕はこの問題は僕たちに対する周囲の敬遠を強めるものとして、有利な誤解になるだろうと期待した。
常々痛感していることだが、僕は人心をよく理解していない。それは僕の読んでいた実験心理学上の定説が再現性危機や一般化可能性危機に陥り一時期たいへんだったらしいという話とは無関係だ。これらの危機はまさに科学的な手続きや不正への牽制システムなどに関する反省だったが、僕が人心をよく理解していないというのは声色や表情、身体の動きや会話の流れから想定問答を組みながら会話する技術が低いということだ。もちろんこれに関するノウハウ本は売られているが、僕は物理主義帝国人だ。指導とそう指導する根拠の浅薄な結びつきは当たり前だが炎上する前の実験心理学以前のレベルであり話にならなかった。
だが、ホモ・サピエンスの学習能力は侮りがたい。数学や自然科学の習熟なしでも僕は自転車に乗れた。ボールは上手く投げられないが。
そのためメカニズムをよくわからないままにコミュケーションがうまくできるようになった、という段階まで試行錯誤で鍛えられる可能性はあった。
だが僕は無視した。一対一、あるいはグループでの活動で僕は問題を生じなかったからだ。つまり、微妙に悪印象を保つことについては上手いので、話はそれなりに切り上げていつも必要な作業の話をしていた。プライベートな問題には、拒否するのではなく語るのでもなく「うむ」だの「あー」だのとてきとうに流していた。糠に釘を打ち込むような徒労を味わわせ続け、概ね薄っすらと嫌われていたが、他者に対して柔軟な膜を張っているような状態で、強固な壁までは築いていなかったので問題にはならなかった。会話はするし仕事もするし拒絶もしない。ただ、なんとなく距離がある。そんな状況を保った。
すべてがうまく行っていると思っていた。
問題は一人の下級生だった。雪希のクラスメイトであるという彼女は雪希が僕を信仰し、僕が神になっているという反倫理的状況を強く責めた。
正論を返すのであれば、僕はホモ・サピエンスであり神ではない、見ればわかるとおりだ。おかしいのは雪希なのであれに文句を言え、ということになる。
だがそれでは火に油を注ぐことになる。また、概念を明晰にしモデルを共有しシステムを走らせれば会話が成立するというのはコミュケーションとしての通例ではないことくらいは知っているので、そんな反論は奏功しないこともわかっている。
通っている理屈が屁理屈だと言われたときに僕と雪希には返す言葉がない。それは窮地に追いやられているのではなく、理屈さえ通っていれば良いと思っているので屁理屈だと言われて何を返せば良いのかわからなくなるからだ。具体的な論証の瑕疵、概念の不適切な使用、採用したモデルの適切さ、そういったレベルの話なら理解できるが屁理屈となると概念分析とコンセンサスなしには一歩も進めなくなる。だが、まさに屁理屈を概念的に整理しようとすることこそが屁理屈だと詰められるおそれがある。ここにきて帝国人は兵国兵となり、俺ではなくお前が死ぬんだよと基本原則のもとすべてをクリアにせんと暴れ散らかすか、内心では一切退かずにへらへらしていることになる。僕はとうぜんへらへらすることにした。
聞き流そう。そう判断した。
雪希の人徳を僕は見誤っていた。立ち上がる人は多く、そのほとんどが下級生の女子だった。ほぼすべてが雪希に恋をしていなかっただろう。心配と義憤で彼女たちは僕を詰めた。当然のことながら雪希は傍観した。僕に助けてもらうつもりはあっても僕を助けてやるつもりはない、というわけだ。だいたいの女子はひたすら糠に釘を打ち込む徒労に諦めたが、一人だけ諦めなかった。
「絶対に間違っています。新条さんを解放してください」
あんまりにも諦めないから、たぶんその子とは話せるなと思った。珍しいことだった。藤沢くん以来だろう。彼女は名を沢代さんといい、沢つながりで覚えやすかった。
沢代一年生は、燃え盛る義憤が心地良い子だった。きちんと殴られる義務が僕にはあると思った。
彼女に言葉で殴られる僕を藤沢くんは不思議な目で見ていた。ただ、その姿に共感を覚えた。ぼんやりとその共感の紐を辿ると、理由に行き着いた。その痛みは、失恋のそれだ。届かないものにきちんと届かないことを認めたあと、それでも視界に存在する余熱を見る目。砕け散った恋の欠片が突き刺さる痛み。彼が納得してしまっているのがわかる。何が彼の恋心を折ってしまったのかはわからないが、ひどく残念だった。藤沢くんになら、雪希を任せられると思った。神である僕ほど祝福に適した存在もいないというのに。もっとも、その祝福は耐えがたい痛みを僕に与えるだろうが。
新条雪希のことが好きだったと思う。
その痛みはなかなか強いし、なにより長引く。ほんとうに長引く。十年くらい引きずっているのに全然痛みが弱まらない。藤沢くんの痛みができるだけ早く終わるように願った。苦しむ人は少なければ少ないほどいいからだ。
「沢代さん」
一通り言いたいことを言った沢代さんに、僕はひとつ有用なアドバイスを送る。これは藤沢くんにも言わなかったことだ。なんとなく、雪希に恋する人には言いにくいことでもある。それを言ってしまうと安易に雪希を攻略してしまうことになって、先走った関係が簡単に壊れてしまうようで怖いのだ。もっとその人が雪希を理解してから言おう。そう思ってタイミングを見計らって、いつだってその人は失恋して僕はこのアドバイスを口にする機会を逸する。今日は違う。
「雪希には雪希一流の美的感覚がある。あいつの情動的脆弱性は、うつくしいものにこそあるんだ」
「自慢ですか?」
沢代さんは強く不快そうな顔をした。
「容姿か。それに限ってはないと思う。平板だけど精密なチェンバロの調べ。森林限界を超えた先の石の白と敷き詰められた緑。計算され尽くした香水――確かに、あいつの五感は鋭敏だ。でも、顔や声に夢中になるタイプの人間ではない。そこは僕が保証する」
「……そうですか? 私にはとてもそうは思えませんけど……大丈夫です? 節穴じゃないですか、先輩」
「そこは疑う余地がない。信頼してくれ。僕以上の新条雪希専門家はいない。僕は慎重な懐疑主義者なんだ。疑う余地があったら疑義に付している」
「まあ、そこまで言うならいったんそういうことにします」
「ありがとう」
沢代さんのような有望な人間に、雪希が顔面に弱い人間だと思われると困る。あいつは最低の人間だが、趣味はいい。見目を整えてどうこうできる相手ではない。
「あいつが重視しているのは内面的美観だ。これに比べればあいつの外貌への評価はゴミみたいなものだ。完全に無視できる」
「うーん……まあ。それとそれを比較すると、そうなりそうですね。でも、やっぱり新条さんはかなり顔を重視するタイプだと」
「それはない」
「まあ、そういうことにしておきますけど」
話を続ける。
「沢代さんの場合、まず新条との会話が成立することがデカい。新条の美観はこれを整っているとみる。あいつは整理整頓されているものが好きだ。だから、これはとてもデカい」
「新条さんをなんだと思ってるんですか」
「あいつはまともに話をしようとしないだろう。たぶん君相手でもそうだと思う。でも、君は新条の不誠実な態度に関わらず、新条に対し誠実であるはずだ」
「人として当然では?」
かなり不本意そうな顔だ。鋭くて熱い火を感じる。
「うん。そして、その整頓された誠実さはごちゃごちゃしてはいないという、ある意味減点がないという評価に繋がる。つまり、あんまり加点要素にはならないはずだ。沢代さんに是非武器にしてほしいのは、君のそういう高潔さなんだ」
「……? 話の流れが見えてこないのですけれど」
強い敵視と苛立ちを感じる。藤沢くんもそうだが、それで全てを投げ出さないところが本当に人格ができていると思う。
「君にとって、それは人としてあるべき最低限の一線かもしれないが。客観的に見て君は高潔だと思う。どれだけかいがなくても僕と、そして新条にも挑んでいるはずだ。この関係を終わらせるために」
「当たり前です」
すっぱりとした物言い。いっそ気持ちが良いくらいだ。切り裂かれた直後に治癒と麻痺の薬を塗られているような、痛みも後遺症もない清々しい斬撃。
「そういったところが、とても。新条には綺麗に見える。あいつは綺麗なものを好む習性がある。端的に言うと、理屈で新条を説得することはたぶん無理だ」
「気に入りませんね」
「だろうね。けど、道がないわけじゃない」
完全栄養食を少し口に含む。だいぶ腹が膨らんで、飲むのがきつい。
「あいつの弱点は審美眼が強すぎることだ。君が問題だと思っている今の信仰も、たぶんその信仰を必要とすることになった僕にはよく理解できていない根本的な原因となった事件も。いずれも、あいつの審美眼に起因する。あいつはうつくしすぎるものを見るとそれに敗北する。理路でだめだと思っていても、それをどうしても大切に思ってしまう」
そこを攻略する。
「沢代さんには内面的な美点がある。それは君の正義だ。新条にはないものだし、僕が持つにもふさわしくないもので、そしてなおかつとても綺麗だ」
「うさんくさくないですか、正義って言葉」
「君自身は微塵もそんなことは思っていないはずだ。たぶん、なぜそうなのか理路を整えてはいないと思う。けど、君がそういう風に正義を見ていないことはわかる」
彼女は視線を逸らした。正義をうさんくさく思っていないことが嫌らしい。ある程度疑義に付していたいようだ。しかし、彼女の強すぎる正義心がその制止に反抗している。
「そして、新条は正義が好きだ。自分自身にあんまりモラルがないくせに、正義のことは綺麗だと思っている。不義にも美を見出すやつではあるが、さしあたりそれは問題ではない」
要訣として、と僕は結ぶ。
「君の正義は新条に効いていない。君の言葉も新条には届かない。たぶん、君が理路を研ぎ澄ますにはあまりにも読書量が足りない。今から卒業するまで没頭して本を読んでも新条雪希には届かないだろう。でも、正義心は違う」
たぶん、沢代さんが新条に対し最も効果を発揮できる方法にして、僕がいつも大切に思っていることを告げる。
「たぶん沢代さんはいつも本気で説得していると思う。でも、無理を承知で言う。限界を超える気で言うんだ。本心を、更に意識して燃やし尽くすつもりで説得するんだ。理路は、拙いままかもしれない。でも、それは君の正義を徹底的に燃え上がらせる。その火は、強まれば強まるほどうつくしくなる。いつか、それが新条の瞳を奪うかもしれない。そうしたら」
断言する。
「新条雪希はこちらに一瞥をくれる。どうしても新条にこっちを見てもらわないといけないとき、僕はそうしている。理屈は変わらないのにただ綺麗さの差で折れるだなんて、新条にとっては屈辱極まることだが……まあ今の関係は適切ではないからね。へし折れるものなら、へし折ってやればいいよ」
沢代さんは、一度頷いた。
「確かに、有効そうな手です。今度から意識します」
ですが、と続ける。
「わかっているなら。あなたがやるべきです」
それは、反論のしようのない正論であり。
「僕もそう思う」
そうしていないのは、僕と雪希の絆が完全に凍結して微動だにせず、雪希を許容する余裕ばかりが大きくなり、そもそもそうしたいという動機が湧いてこないからだ。 僕の手足は、動かない。
「最低だと思います」
だから、その評価も適切であり、
「心底、僕もそう思う」
これが言葉で説得することに関し、雪希――そして僕にとって、纏まってしまっていると手の付けようがないということの意味でもある。
言葉ではどうしようもないなら、もう。
目を奪ってしまうしかないのだ。
なにより、あいつを溺れさせることに成功する瞬間はいつも。僕は心の底からの愉悦を覚えている。
衷心を告白するならば――
沢代さんには。
新条雪希の目を奪うことなど、できはしないと確信している。
たぶん沢代さんには友達がいない。だが、仮に僕をメサイアであるとするならば。救世主が救世する世界は世界の範囲に制限される。その世界の中に沢代さんは存在しない。仮に僕がメサイアであったとしても、沢代さんが僕により救済されることはない。僕が救えるのは新条雪希の世界だけで、そして事実として僕はメサイアではない。僕には新条雪希の世界を救うことすらできない。そして、新条雪希の世界を開くことも、広げることも、繋げることもできない。隣に座ることさえも。僕は新条雪希の世界を保障する必要条件に過ぎない。僕を失うことは新条雪希の世界の崩壊を含意するが、その事実は僕が新条雪希の世界を救えることを微塵も含意しない。
沢代さんはこのような世界の仕組みを改革したい。僕の良心はそれを望んでいる。つまり、僕が新条雪希の世界の必要条件ではなくなり、せいぜい彼女の世界を彩る一要素程度になるのが健全であると思っている。
そして、僕は僕以外のものに雪希が目を奪われた事例をたくさん知っている。それは海であり、山であり、空であり、地平線でもある。僕のしらない何かに雪希が目を奪われ、そのせいで雪希が崩壊して僕が神になったのも最近のことだ。
僕は無力だ。新条雪希に対し僕が有効であるのは、僕に力があるからではない。新条雪希があまりにも特殊な形で弱すぎるからだ。新条雪希が強ければ、僕は新条雪希に対し機能しない。新条雪希が僕に依存しているのは、たんに彼女が弱すぎるからに過ぎず、僕に何か特別なものがあるからではない。彼女に特別な欠落があるからだ。僕という人間はなんら特別な形をしていないが、僕という人間が綺麗にはまり、そしてそれを外すと崩壊するような奇妙な形を新条雪希はしている。
さらに、雪希は高熱を検知すると溶けて、自分を溶かした相手に甘くなる性質があるので、沢代さんにそれだけの熱を感じるならば雪希は溶ける。
だが、それはありえない。
あいつには「友愛」の熱を検知する機能が今は働いていないからだ。
「恋愛」ならあいつは検知できる。僕のそれも藤沢くんのそれもあいつを「恋愛」の熱で溶かすには至らなかったが、検知自体はしている。
「親子愛」もまた然りだ。あいつは自分の両親だけでなく僕の両親も自分の親であると認識している。四人の親はしっかりと雪希を溶かしている。
僕が雪希に向ける適切な概念のない感情も、あいつを溶かしている。もっとも、溶けて固まることを含めて常態となってしまっており、僕たちの関係は凍結してしまっているのだが。
そして、「友愛」。これをあいつは検知できない。
はなから備わっていないのではなく、あいつは持っていた検知機能を大慌てで捨てた。たとえるなら、僕を神と定める直前の壊れた雪希と同じようにして壊れた。
故障したのは、あいつが幼稚園に入園した日だ。飛び交い、ときには自分に突き刺さる「友愛」の不快感にあいつは耐えられなくなり、その温度を検知する機能を破壊して自身を守った。
そして、そこまでしてもあいつは「交友」への耐性が足りていない。自分に「友愛」が向けられていなくても、周りが仲良くしている空間にいるだけであいつは蝕まれていく。
そして、さらに致命的なことに。あいつは「正義心」の熱を検知しない。その機能を有しているが、使わないようスイッチを切っている。
あいつにとって「正義」とはモデルであり、僕が沢代さんに語ったとおり本当に審美の対象だ。いかに破綻なくエレガントに仕上がっているかや、実装して運用できるかの機能美をあいつは鑑賞している。
だが、あいつにとって「正義」はモデルでなくてはならないのだ。社会が実装することのできる仕組みのセットとして、棚にずらりと並んでいるものがあいつにとっての「正義」だ。
その部分をよく見るために、モデルの輪郭をぼやかす「正義心」を除外するようあいつは意図的に操作を行っている。
沢代さんがどれだけ熱くなっても、それが「正義心」か「友愛」か、あるいはその混合物である限り雪希にはその熱を検知できない。あいつは熱により溶けるのでなく、熱を検知してはじめて溶けるので、沢代さんがどれだけ熱くなろうと意味がない。沢代さんの「正義心」により構築された「正義」を審美するために、邪魔な「正義心」をカットして見ている。
そして、モデルとは言語に依存する。あいつは洗練された「正義」に感嘆することはあるが、沢代さんの「正義心」由来の「正義」は言語的に洗練されていないので、モデルとしてあいつの目にうつくしく映らない。
だが、沢代さんの発している熱はそれだけではないし、雪希の検知する熱のリストもこれだけではない。
事実僕の発している熱のうちいずれかあるいは複数で雪希はよく溶ける。
だから、僕がアドバイスしたとおりとにかく熱を出せば総合力でどれかが雪希に刺さる可能性がある。理論上は。
そう、それは理論上の話だ。
ほぼ全ての人がそうだろうが、交際に際し単一の熱を発していることなどない。雪希は多くの熱、ときには絶大な熱を受けてきた。だが、あいつが純粋に弱いといけるタイプのそれは「親子愛」に関するものだけだ。あとは、例外的に僕の発する熱を受け取りやすいようあいつは自分で自分を弱体化している。
総合的に沢代さんが熱を上昇させたところで、あいつが溶けるに値する熱は出ない。沢代さんの特筆すべき点は正義であり、熱を出す性能そのもの、つまり熱血さではない。沢代さん程度に熱血な人間なら一山いくらで存在する。彼女が特殊なのは、そこに正義心までもが備わっているからに過ぎない。
そして、あいつに対してなんでもいいから熱をぶつけるということは実のところ禁忌だ。
あいつは自分の嫌うタイプの熱を検知したとき、溶けるのではなく破損する。ほぼ全ての人は雪希を溶かせないが、雪希を破損させることはとても簡単だ。学校で過ごす一分一秒が熱であいつを破損させていると言ってもいい。
だから僕は雪希に恋する多くの人を焚き付けなかったし、沢代さんを焚き付けた。彼女の熱はたぶん、雪希をひどく破損させる類ではないからだ。絶対に溶かせないが、あたたかくはあるだろうからだ。
僕はメサイアではない。雪希の世界を救えない。だが、ごく普通の人間として可愛がっている妹分に対して余計な節介を焼くことくらいはある。
もちろん、雪希はそれすらも煩わしく思うだろうが。それは神意に似て、とても理不尽なものなので僕を神と誤認するあいつには、甘受してもらうほかない。
「かんべんしてください。なんなんですかあのひと。せんぱいですよね」
帰路、雪希は完全にへそを曲げていた。今日は僕の肩を揉まないとまで言った。雪希は信仰を表現するために屈辱的なことをすると表明して僕の肩を叩くことを勝手に日課にしていたが、それを今日はしないと宣言することはなかなかこいつの怒りの度が過ぎていることをあらわしている。珍しく激怒していると言ってもよい。こいつがこうして雑に怒りをぶつけてくるときは、深刻な怒りではないので深刻に扱う必要はない。逆にこいつは深刻な不快感をごく僅かな感情で示すことがあるので、そちらの方が注意を要する。
「沢代さんだ。覚えておくといい。ぼこぼこにされたようだな。いつも受け流している風を装っている君には良い薬になっただろう」
「ひたすら殴られ続けたんですよ。神として何か思うところはないんですか」
「君が殴られ続けたことについてどうでもよさそうではないので、上手くいったと思っている」
雪希は長く嘆息した。
「どうして世界に雑音を入れるんですか」
「君の世界にもともと沢代さんはいた。認知されていなかっただけだ。そして、今日受けた君のダメージは君の傍を沢代さんが維持し続けたおかげで若干軽減されている。君が殴られ続けたことは副次的な効果に過ぎない。元々僕も君も正論に殴られることは気持ちの良いことで、不快感を覚えるたちではないだろう」
「あの人、パンチの音がうるさいんですよ。ただでさえうるさいのに、今日はひどかったです。蛍川先輩が何か不要なことを言いましたよね?」
「そのやかましさで周囲の音をかき消してもらおうと思ったんだ」
「余計なお世話ですよ……」
「まんざらでもないことに拗ねた風を装っているのは幼稚性を示しているに過ぎないぞ」
「そういうのを私が気にしない質だ、と恋愛論で先輩が仰ったでしょう。なのでめちゃくちゃ拗ねています」
はああああ、とまたしても長くわざとらしい溜息を雪希が吐いた。俯いたおかげで頭がよい位置に来たので、撫でる。雪希の手が伸びてきたので撥ね除けられるかと思ったが、結局彼女は僕の手を引っ張って耳のあたりにもってきた。そこを弄れということらしい。雪希の耳を触るのも好きなので僕は特にそれでも構わなかった。
「先輩は美的感覚を養う必要があります。自分が管理している世界がどのようにしてうつくしいのかをまるで理解していません。ああ、世界はひどく乱れました。大いなる損失! 完全性の毀損! だからチェロが下手なんですよ!」
「珍しい。本気で怒っている」
「憤激していますよ! 第七次いっしょにお風呂に入ってあげない事件に比する怒りです! 先輩頭スースーする事件程度の怒りだと思わないでくださいね……!」
「そんなにか」
「先輩! あなた、澄み切った静謐な冬の湖を描いた絵画があるとしますよ! 針葉樹が林立し、全てが静止し、凍りきったように完全なる世界です! その湖に巨大なるおはぎを突然ブチ込んだら、あなたどうなりますか!」
「ブチ切れるだろうな。絶対に許さん」
「そうです、ブチ切れます! ブチ込んだのが先輩であれば絶対に許さないということもありませんが!」
「まあ君がブチ込んだのなら僕も怒らん」
「怒りはしてください! 激怒するんです! 斯様な美的感覚に対する鈍感さ、唾棄すべき等閑視! それが今回の事件を生んだんですよ! 私の神として常に繊細微妙なる世界管理をお願いしたいです!」
「神意とは理不尽なのだ。解釈せよ、信徒よ」
「黙りなさい! 屁理屈を捏ねるな!」
「はい」
やっぱり雪希は可愛いと思う。最早好きではないが、好きになる前から抱いていた可愛いと思う気持ちは悔しいことに変わらないままだ。耳から手を離そうとすると、押しつけられて接触を強制された。やむなく耳を撫で、頬を撫で、首筋を撫でる。雪希の口から蕩けきった声が漏れた。屋外だぞ。こいつ変態ではなかろうか。
「あーあ。先輩のせいで完全に私は気分を害しました。破壊された藝術品の復旧には著しい努力が要請されるでしょう! 先輩は私の歓心を買わねばならないのです!」
「なら今度頭でも洗ってやろう」
「はっ! 嫌ですね! 私と先輩がまた互いに全てを晒すのはそうすべき完全なる世界における完全なる時のなかにおいてです! そんなに脱がせたいなら感性を磨いてください! 文学的な艶が不足しているんですよ! ただ色さえあればよいと思っているんですか! 変質者!」
「君は哲理においては適切に冷たいのに、ほんとうに美については熱いな……」
そして、それを隠さなくなったのはたぶん僕の知らないあの大切なものを、大切だと認めたからだ。
「当たり前じゃないですか!」
雪希の昏い緑瞳が僕を見上げる。その双眸、暗闇の奥から僕を貫く光は、彼女の昏さはそのままなのに日を追うごとに倍する勢いで強くなっているように思う。そして、その輝きは彼女の昏さと同居してうつくしいのだ。光と影が、互いを侵害することなく互いの美観を補完し、かつ独立してうつくしい。こんな目をしていたら、それは鏡を見るたびセンスが磨かれるだろうと思う。片方僕の目と交換してくれれば僕だって毎朝少しはマシになるはずだ。彼女の闇に包まれた光の中に、落ちていく感覚がする。それは僕が恋をしていると錯覚するほどのもので、事実僕と雪希の関係が永遠に変わらないのだと理解していなければ、このとき僕は誤解に堕ちていたことだろう。
「蛍川先輩に値する世界――」
一瞬、完全を幻視した気がした。その完全の中で僕は今回の行いが完全に誤りだったことを痛感した。それは一瞬の幻覚で、すぐにそんなことはないと我を取り戻す。
「――そうなっていない私の世界は、いかなる理由があろうとも! 私の責任における私の判断によって、須く否定されるべきなのですから!」
彼女は僕から離れ、胸に手を当て、宣言する。
「それが、私。新条雪希が蛍川水華に対し負い、必ず果たすと誓う義務です!」
そうしてはじめて。
僕は心の底から、今新条雪希が本気で激怒していることを知った。
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