9.物理主義帝国からの追放

「うつくしくないですね」


 新条雪希のこういった発言は端的に言って恐怖に値する。哲学的対話は言語と論理に依存するので話せばわかるが、こいつは審美を哲理と結びつけない。つまり哲学的問題として扱わず、せいぜい将来自然科学の発展に伴い還元されるか消去されるべきだと考えている。つまり、現代においてこいつは美的感覚を対話で共有できるとはまるで期待していないので、僕にとってそれは知性の問題というより技能の問題なのだ。たとえるならば、絶対に僕では球の届かない位置からボールを投げてこいとキャッチボールを要求されるような感覚である。つまり、対応不能である。こいつは僕には対応できないことをわかっていて、こういう話を振ってくる。それは対話を期待しているのではなくて、僕を鍛えているのだ。


「調和が取れていないように思います。私の期待する完全なる世界において、最近の私は熱が高すぎます。粗熱を取りたいのですが、手段がわかりません。それどころか熱があがっていきます。よくないと思いますね」


 近頃雪希は元気がいい。それは僕も同意するところだ。なんといっても一度も自傷していない。基本的に機嫌も良いのでこいつ生来のどうでもよさも相まって滅茶苦茶話しやすい空気を発散している。恐るべき勢いで周囲を吸い寄せているので、沢代さんパンチングバリアが張られていなければたいへんなところであった。これについて雪希はまだ文句を言ってくるし、沢代さん本人も効かないではないか詐欺師! と僕を激詰めしてくる。僕もなかなか話しやすい先輩かもしれない。これは過言だ。僕が話しやすい先輩なら世から話しにくい先輩が大量消失する。これは話しやすさという概念に対する見逃せない攻撃であって許容してはならない。僕は残念ながら話しにくい先輩である。話しやすさの概念はこれで守られた。


「平熱で堕ちる。完全なる世界における私の完結とはこうであるべきです。わかりますか、先輩」

「君の言うことはわからん」

「わかるようになってください。使えない木石ぼくせきですね」


 なにもわからないが、こいつの瞳は今や夜の湖面にうつる月光のように冴えて皎々こうこうとし、常に頬に朱がさしてなにやらぱやぱやしているので平熱を目指すのは無理があろう。これだけ輝いてなぜ主たるこいつの空気が澱んで闇を纏っているのかわからないが、僕の目には冴えた光と澱んだ闇の調和がとれていてよろしいように思う。こいつは自分の熱を嫌っているが、むしろ熱を帯びるごとにこいつの人間離れした魅力は増しているように思う。たぶんこいつは自分が凡庸に向かっているように感じているのだろうが、逆だ。不可解な魑魅魍魎としての色をこいつはいよいよ強く帯びだしている。非常に邪悪、具体的には魅入られた相手を神隠しにして世界から消えてしまいそうな一刻も早く調伏すべき邪気を発散している。恐るべきことにこれをおじさんが感知できていない。雪希自身よくわかっていないし、誰も怖がっていないのでたぶん僕しかわかっていない。僕の情念はこいつを寺に連れて行けと言っているのだが、僕は物理主義帝国民である。残念ながらそのような判断はくだせない。


「雪希が現在想定している完全なる世界に合わないなら、完全なる世界の方を取り替えればいいんじゃないか。完全なる世界なんて無限にあるだろう」

「私が想定する完全なる世界の射程において、現況。そして将来の私を許容できる世界がひとつもないのです」

「それは問題だな」

「実に問題です」


 僕には審美の力がないので、こうして言語に頼って形式的な話をするしかない。だが、その部分は雪希も検討しているはずなのだ。


「射程の方をかえるわけにはいかないのか」

「任意に射程を変えられれば、それはどうにでもなりますけど。私を許容できる世界が見つかるまで射程を広げるか向きを変えればよいわけですから」

「その射程にしていることに愛着があるわけだな」

「実に。執念とも言えます。それはもう、十年以上にわたり夜な夜な醸成してきた積み重ねがありますので」


 ものすごいこだわりようだ。自分自身へのどうでもよさと完全なる世界に対する固執の差がすごい。


「それほどまでに厳格なら、僕が世界に値するか心配になるな」

「あ、いえ。それはないです」


 急にすんとなられた。この冷静さはよくない。怒る価値すらないと失望されたときの色だ。完膚なきまでに僕の審美眼が絶望視されてしまった。たとえるならば、進学校に通う高校生が一桁の足し算を答えられなかったときのまじかこいつという感じの冷静さだ。ちょっとそれはやばいぞという感覚で冷静にならざるを得ないときの冷静さを雪希は今纏っている。そこまでか。そこまで僕はだめか。


「私の完全なる世界の射程は蛍川先輩の価値に依存しています。なので、私が今想定している世界どころか、射程範囲に入っている任意の私の完全なる世界、その全てで蛍川先輩はその世界に値します。これは偶然の話ではなく、定義上の話です」

「そうなのか」

「当たり前でしょう。というか、神である水華先輩が私の完全なる世界や私自身に値しないことがあり得ますか」

「偽の神を想定していた」

「あり得ません。私は完全なる世界と言っているのです。私の信仰は欺瞞する神を要請していません。水華は信仰を持たず、自身をヒトだと正しく認識しているので、私が便宜的に水華を信仰しているのだと誤認しているのでしょう。違います。私は水華を真に神として信仰しています。そもそも水華は私の罪に対応するために神となったのですから、偽の神として水華を導入したのでは当時の私の問題が解決しません。解決したと錯覚した、ということになってしまいます」

「それもそうか」


 首肯する。こいつにとっては神と信仰と赦しと贖いは適切に発動していなければならない。だから僕が神であることは疑いの余地のないことでなくてはならない。


「あれだな。反直観的なのは、神は神としてあり、しかも赦しの機能を有しているのに、現に世界が不完全であることについて君は疑いの余地がないとし、しかも世界が完全であることについては信徒の問題であり、さらに不完全な世界を完全だと解釈するのではなく、不完全な世界を完全なる世界に至らせることを君の義務としていることがかなりへんてこなのだな」

「そうですね。かなり変です。私は元々水華が神になる場合、世界は物理的にはそのままで何も変わらず、地獄から天国に見え方が変わるものとして水華を想定していました。つまり物理的には世界は何も変わらず、解釈の方をなんとかする普通の宗教をやろうとしていたわけですね。私は水華の前で変質して、変質した私が水華を信仰して、それにより地獄が天国に色を変える……という想定だったのですが、壊れていく私を保護するために水華が神になることは想定外だったので、発狂していない私は現在の世界を天国とは認識できていませんし、水華は私を救うために神になったのであり、世界を救うために神になったのではないのですから、世界を完全に変えようとしているのは健気な信徒の信仰心の顕れなのですよ」


 雪希はベッドに這い上がり、僕の背にまわると肩をぽむぽむと叩いた。こいつにとって僕に肩たたきをするというのはかなり屈辱的らしく、プライドを無理矢理へし折って信仰心を示す特別な行為であるらしいが、僕にはあまりぴんときていない。こいつはそれが不満らしいが、理解されないならされないでそれはそれで屈辱的であるということで飲み込んでいるらしい。


「水華。気持ち良い?」

「とても」

「水華はあんまりリラックスしないからね。肩が凝るんだと思うよ」


 ふふっ、と。優越感を滲ませて雪希が笑う。今僕がリラックスしていることについて全世界にマウントをとっているのだろう。誰も妬きはしないが。


 雪希は形式を重視する。こいつが固い態度を崩すとき、だいたい肩たたきのような何らかの僕への奉仕を挟む。つまり、砕けるために一々自分の敬愛は変わっていないとわざわざ僕に示したがる。なんというか、砕けているのが逆に不健全に思う。これなら固いまま信仰されるほうがまだ健全だ。過度の親密さと過度の信仰心は同時に発動させるとなんというか、こう。わいせつだと思う。


「結構前に整理したんだけど」


 ぽん、ぽん。肩を叩きながら雪希は言う。


「私は水華と一緒にいるときが一番苦しいとしても、水華にくっついていると思う」

「まあ、そんな気はする……うん? そうか……?」


 随分話が飛んだなと思う。それよりも不思議だったのは、当たり前のように腑に落ちたのに、頭の中で靄がかかって途端にわからなくなったことだった。一瞬何の疑いもないと確信したその記憶すらもかすんでいく。まあ、それはどうでもいい。


「水華にくっついたまま衰弱して死んでいく。それはとてもいいことだと思う。これは完全なる世界のひとつ」

「そういう風に終わらせるのなら、たぶん。眠くちゃだめだろうな。確信して、弱っていかないと。なら、寝る時だけ離れるのか」


 ぽん、ぽん。肩を叩かれる。頭がからっぽなので、雪希に奉仕されているという感覚だけが無防備に全身に行き渡っていく。


「あ。それ考えたことなかった。えー。やだな。うーん……いやだ。それだと完全に終わらせるために関係を、水華を利用してる感じがする。それに世界を完全にするために私と水華の関係が完全じゃなくなるのは本末転倒。そこが完全じゃなくなると、世界の完全性も駄目になるだろうし」

「じゃあ、まあ。だめだなそりゃ」

「でも、それでも私は水華にくっついてると思うよ。不健全だとしても、不完全だとしても」

「……」


 ぽん、ぽん、ぽん。


 甘く肩を叩かれる感覚に騙されて、僕の全てを破壊する衝撃が素通りしていった気がする。それを掴まえるべきだったのに、わざと正体が分からないように撃ち抜かれたような。いいように扱われているような。でも、それもよくわからない。ただ、どこまでも甘く愛されていることだけはわかる。いや、おかしくないか? 雪希は僕を好きじゃない。いや、いい。せっかく気持ち良いのにぐちゃぐちゃと考え事をしたくない。


「なんとかしたいな」

「えー?」

「なんとかしたいと思う。雪希がどういう状態にあっても、雪希の尊厳を保ったまま、雪希をなんとかしたい」


 腰に手を回される。背に抱きつかれ、頬に頬が触れる。


「水華のそういうところが好きって言う日が来るよ」

「……」

「うれしい?」

「うん」

「しあわせ?」

「うん」

「すき?」

「うん」

「ぜったい?」

「うん」

「とうぜん?」

「うん」

「けっこんする?」

「うん」

「ぜったい?」

「ぜったい」


 なんだかよくわからない多幸感に滅茶苦茶にされて何もよくわからないが、幸いにして何も考えなくても答えがわかる質問しか飛んでこなかったので全部何も考えずに回答できた。よくわからないが全部間違いも嘘もなく正直に正しいことを言ったと思う。少しでも迷う余地があったなら冷静になれたと思うので、考えるまでもないわかりきった質問だったのだろう。振り返る必要も、記憶する必要もない。


「そっか。うん。それでも水華はまだ、私に恋はしていない」


 抱きつく力が強くなる。触覚が甘く感じられることを、僕はここ最近より強く理解した。


「世界はなかなか完全にならないし。私ががんばってるのに水華は世界におはぎを投げ込んでくるし」


 回された腕。手がそっと肋を撫でる感覚。腹部。弱点を掌握されていることの安心感。あんまり考えないようにしよう。へんな趣味をもって雪希にきらわれたくない。 


「それでも水華は綺麗だし、まだ綺麗になるんだね」


 今日は互いに部屋着だ。和装、甚平。雪希が僕の紐を解いて、僕の肌がざらりとした布地から外気に触れる。そこを雪希の手が這う。僕は少し汗ばんでいて、そのうっすらと濡れた感覚をすべて。雪希に確かめられることが幸福に思われた。


「最近はね。もういいやって。無理矢理完成させようかなって。思うときもあるんだよ」


 ぼんやりとした意識の中で、ただ肌ばかりが鋭敏で心地良い。全てが熱くなっていく。


「ぜんぶむちゃくちゃにして、水華をもらっちゃおうかなって。まあ水華が悪いよね。職人さんなの? 確かにどんどん綺麗になってるけど、こっちもどんどん我慢できなくなるよ。好きじゃないことにするのも、限度があるんだよ? 水華は私と結婚してくれるんだよね?」

「うん」

「絶対結婚したいよね? 結婚しないのいやだよね?」

「うん」

「他の人にとられたくないよね? 独り占めしたいよね?」

「うん」

「うーん……もう良い気がするんだけど。水華は何をそんなに凝ってるんだろう。なんでこんなに綺麗になるのかな……」


 しばらくの沈黙。


「す、水華」

「うん?」

「なにも考えてない?」

「うん」


 沈黙。また、しばらく。でも、それは不安ではない。雪希が触れている。何かを思考できる余裕がない。鋭敏に上り詰めていく感覚が、とてもよくないものだと思う。あと二、三段階上に行ったら戻れなくなるような。一度も至ってはいないところ、なぜかそちらに立ってはいけないといつも自制している場所に、行ってしまいそうな。


「す、ぃかは……まだ。もっと。私を、しあわせにしたい? もっと自由にしたい? もっと……もっと完璧に私をぜんぶから守りたい? もっと? たりない?」

「うん」


 もっと、という言葉に応じてしまう。それはいつも僕が感じている飢餓だからだ。もっと、もっと、もっと。雪希の全てをもっと。雪希に関するすべてをもっとよくしたい。ただ、このままでは――


「す、すいか」

「うん」

「……私は水華と結婚をする」

「うん」

「うんじゃない。私は水華と結婚をする。私が決めたから、水華がうんって言うことじゃない。わかった?」

「うん」

「水華は私と結婚をする?」

「うん」

「そうだね」


 ぱちん!


 目の前で強く手を叩かれた。


 ――。


「うわぁっ!?!?」


 物凄い声がでた。なんだ? なにが起きた? なにをされた?


 完全に状況が理解できないし、意味不明だし、とにかくなにかよからぬことが起きたのはわかる。よからぬことがおきそう、ではない。もうそれはおきてしまったのだ。発生した。つまりそれを未然に防ぐ手段は存在しない。すべてはもう起きてしまったのだ。取り返しのつかないことになったのはわかる。


 あと、とんでもないことになっている。欲が。そう、性欲。あと一秒自我を取り戻すのが遅かったら僕は。いや、とにかく。なんというか。生まれてはじめて性的煩悩に真正面から向き合った気がする。いや、向き合わされたのか? わからない。わからないが、とにかく。今まで「言われているほどたいしたやつじゃない、さしたる努力もせず統御できる」と思っていたやつがとんでもなく凶暴だということに気づかされた。いや、おかしい。僕はその予兆に気づいていて、それがどんどん凶暴化していっていることにも気づいていて、そのたびに徹底的に鉄鎖で縛っていたはずだ。欲望の外形を確認出来ないほど、全てを鎖で締め付けていたのに、その全てが開錠されている。なにがあった? どうしてこんなことになった? なぜ僕はそれを解き放ってよいことにした? 相思相愛で結婚を前提にしなければ向き合ってはならないものと決めたのではなかったか? なぜこんなことになっている? 僕でなければその鍵は開けられないはずだ。全部の鎖に鍵をかけて、その全ての鍵を僕が持っている。だから、こいつを解き放てるのは僕だけだ。つまり犯人は僕。僕がやった。いや、やるわけがないだろう。理由がない。なぜこうなっている?


 ただ、「取り返しの付かないことになった」のは確かだが本当に致命的なことは起きていないのが幸いだった。僕と雪希の絆は砕け散っていない。ちゃんと氷に守られている。かわらずにそのままだ。失われていない。よかった。うん? なにかがおかしくないか? 今の確認の仕方はかなりだめだった気がする。いや今は異常事態なんだ。こんな些事を考えている場合ではない。何か急速に散逸していくものの正体を掴まなくては、僕は――


「水華が悪いんだよ」


 雪希の声。雪希の指先。雪希の掌。すべてが性的な色と誘惑を強く帯びていた。たぶんそれは、雪希の発したそれのなかで、今までで最大のものだったし、なぜか僕の欲が解き放たれてしまっているので、とんでもなく鮮やかに感知されてしまう。過大に評価してしまう。わかった。もうわかった。じゅうぶんだ。告白する。僕は雪希に狂わされて雪希に好かれていると誤認する輩を全員バカだと思っていた。僕が悪い。おかしくなる。取り返しがつかなくなった今も雪希は僕に恋をしていないことはわかっている。それは明証的だ。しかし、僕の全てが雪希は僕に恋しているという確信を告げている。さらに、僕の全てが僕もまた雪希に恋をしていると告げている。間違いなく両想いなので何の心配もなく突撃してよろしいと鋭敏な感覚と感情が強引に結論しようとする。恐ろしい。実に恐ろしい。相思相愛のうち片方どころか両方が存在しないのに、それが成立しているかのように誤認するとは。「一時の感情に流されるな」と大人が子供を説教する理由がよくわかった。人はいったん落ち着いて考えるべきだし、落ち着かないととんでもない誤謬に飛びついて大惨事になってしまう。危なかった。完全に終わるところだった。


 雪希の目がものすごくそこを見ているのがわかる。彼女が何を言いたいのかも完全にわかる。だが、抗弁したい。


「してない」

「うん。見ればわかるよ」


 僕がぎりぎりのところを何とか耐え抜いてしていないのは見ればわかる。薄い甚平なので。だが、ぎりぎりしていないくらいなのだから、なっているのも見ればわかる。というか、僕が我を取り戻した直後、僕が悪いと断言した雪希の動きはあきらかに僕をそこに導こうとしていた。未だに息が整わないし、体が不随意に跳ねるので本当に言い訳がましいと思う。なんとか逃げ切ったように思うが、単に不完全燃焼で結果が発生しなかっただけで不格好な形で至ってしまっただけのようにも思う。いや、考えるまい。僕は耐え抜いた。雪希の労るような撫で方がとてもよくなかった。感覚は逃がしたので再点火されることはないようだが、なんというかただ証拠が出ていないだけでバレているのを見てませんとよしよしされているようなばつの悪さを感じる。ごめんなさいと言いたくなる。僕は悪くない。


「ゆ、雪希。なにをした?」

「くっついてたら水華がぼーっとしてきたから言質をとりまくった」

「なんだと」

「すごーくリラックスしてたから大丈夫だと思うよ。たぶんいやなことは訊いてないし、訊いたら水華も正気に戻ってたんじゃないかな」

「いや。そんなことをして訊き出されたらまずいことがたくさんある気がするが」

「あるかな? 選択権を行使すれば訊けるのに?」

「いや、そういう問題では……むぅ? そうか。いや、うん。僕は君の権利の行使に誠実に応えるだろうからな。うーん。君が訊きたいことはどちらにせよいつでも訊けて、いつでも答えが出せるわけか。じゃあ問題ないのか……?」


 ないない、と雪希は言った。


「たとえば水華は私のこと好き? って訊いたよ。べつに問題ないよね?」

「ない。好きじゃないからな」

「結婚する? とも訊いた。問題ないよね?」

「ない。好きじゃないから結婚もしない。当然だ」

「私を他の人にとられるの嫌? とかも訊いた」

「僕は藤沢くんとかを君に推奨しているんだ。訊くまでもないだろう」

「結婚しないの嫌? って訊いた」

「意味が分からん……結婚しないのだから、結婚しないのが嫌もなにもない」

「うん。こんな感じのわかりきったことしか訊いてないから水華も安心して答えられたんだと思うよ。実際なんにも迷わず答えてくれたし」

「いや、ほんとだろうな。君、こういうどうでもいい質問でカモフラージュしてとんでもないことを訊いていないか?」

「ううん。ほんとにこんなことしか訊いてないよ。とんでもないことだったら水華もぼーっとしてられないって」

「まあ、それはそうだろうが……」 


 釈然としない。本当にそのようなことだけ訊かれていれば心配はいらないのだが、完全にまずいことを掴まれたという確信はあるのだ。どうでもよい質問に紛れ込ませてなんでもはいはい回答するようにしてからとんでもないことを言わせていないだろうな。そんなことはないか。こいつはそういう手法でとった言質を重視しないはずだ。確実に僕が内心から吐いたと思う言質を得たに違いない。「僕が安心して雪希に言えるが雪希にバレるわけにはいかない秘密」が自分でもわからないので、問い詰めようがないのがよくなかった。なにより、今の問答の間に僕の頭の中で見えそうになっていた何かを捉え損ねた。僕は何を探そうとしていたのか、それが何に類することなのかももうわからない。そうなる気がしていたので早めに掴まえたかったのに、逃がしてしまった。今更探してももう遅い。追い詰めるような性的な感覚はフェイクで、真に相手をすべきはそちらだったとわかっていたのに、もうその相手が何なのかもわからない。


「水華。誓いのキスをしよう」

「なんのだよ」

「しよう」

「まあいいが……何のかしらんが、僕と君が本心から合意したことにじゃないと誓わんぞ」

「うん。それがいい」


 するなとどこかが叫んでいるが、まあいいだろう。せめて選択権の行使ということにさせておけとまだ叫んでいるが、まあいいのだ。黙らせておこう。いい。いいんだ。これくらいはべつにたいしたことじゃない。やって何の問題がある? むしろ何の問題もないことを証明し余裕であることを確信するためにぜひともすべきである。うん、その通りだ。ぜひともすべきなのだから僕は雪希とキスをしたい。よかった。正当だ。何の心配もいらない。僕はこのキスを雪希と心からしたい。絶対にしたい。ここまで確信する必要があった。ほっと全身が安堵する。誓うならこうしてキスをしなければならない。なぜだ? うるさい黙れ。大事な場面だ。そうだ。僕は集中しなければならない。


「雪希」

「うん?」

「するなら僕からしたい。絶対に」

「ぇ!? ぅ、うん……いいけど。水華が、したいなら……」

「したい」

「そう。ぅん、じゃあ。うん。いいけど……」


 何を焦っているのかわからないが、僕はそうしたいし絶対にそうする。もし雪希が自分からやると言っても拒否して強行しただろう。なんだこいつ。急に雑魚になったぞ。余裕になったので僕の勝ちだな。思えばここはベッドだ。僕が負けるわけがない。真剣さの中に余裕がでてきた。よかった。安心して全てを雪希に集中できる。


 背中にくっついていた雪希を腕におさめる。甚平は馬乗りから肌が剥き出しになってしまうのがよくないと思う。いや、いいのか。くちづけをするのだから、そのくらいはべつに見えていても問題ない。つまりそこを見ても問題ない。


 もっとも、今一番見ていたいのは雪希の瞳だ。その仄暗い雪希の闇の中で僕はいつだって安心できる。そのくせ、どうして日を追うごとに奥の輝きが増すのか。その光がどうしてこんなに真っ直ぐに僕を貫くのか。なぜ何も防御できないのか。うん。今は全ての答えがわかっている。考えるまでもないことだ。さっき追いかけていてわからなかったものの正体さえ、探すことさえばかばかしいくらい自明だ。


 雪希の柔らかく、なにものも妨げない頭髪を指で撫で、頬に触れる。彼女の瞳が閉じられる。それに呼応して、ずっと雪希を見ていたい僕の瞳も自然に閉じた。すべてがくらやみのなかにある。くらやみとは、つまり雪希の世界だ。僕はそこにいる雪希の孤独に触れることができる。雪希の孤独とは、ただ僕のみに触れられるために雪希が作り、守り抜いてきた、僕に所有権のある雪希の世界だ。


 全てが足りないと思う。雪希に、もっと、と思う。不完全だと思う。この瞬間を引き延ばしたいと思う。


「雪希。君の全てと、完全になる世界と、そこにおいて保障される永遠。このすべてに誓う」


 雪希は、ん、とこたえた。たぶんそこに音はなかった。無声音ではなく、無音だった。その声がなぜ聞こえたのかはよくわからなかった。物理的に考えて、聞こえるはずはなかった。


 唇が触れる。なにもかもが足りないと思った。僕に与えうる全てを与えて尚足りず、与えられるものをもっともっともっと掻き集めたいのに、一瞬に注ぎ込める量さえ足りず、僕が今持っている全てさえ注ぎ込めず、まるで、まるで何も足りなくて、痛切に僕が雪希に恋をしていないことを理解する。悔しかった。僕と現状の何もかもがこのくちづけに値しないことが悔しかった。だからせめて、今この瞬間は未来に値するものだと誓った。そうでもしなければ、僕を僕が許せなかった。そして、そこまでの無茶をしてでも僕は雪希と誓うこの機会を絶対に逃したくなかった。値しないとわかっていて、それでも雪希としたかった。我慢できなかった。耐えられなかった。さっきは逃げ切れたのに、まるで駄目だった。どうしようもなかった。取り返しようがなかった。まるで値しないのに、値しないことをせざるを得なかった。


 あまりに強く抱き締めすぎていたことに気づいて、ゆっくりと抱擁を解く。拘束ではなかったのは、雪希が雪希なりの全力で僕にしがみついていたからだ。雪希は僕よりもなおゆっくりと、僕に抱きつく力を弱め、結局諦めるようにまた強く抱き締めてくれた。再点火はできない。性については先程そう理解したのだけれど、こちらの欲はそうでもないらしい。雪希のその諦めた抱擁で、僕を守る外装の全てが一時的に叩き壊された。何も考えられなくて、ただ純粋にくちづけだけがあった。唇が触れ合っているという事実すら重要なことから崩落して、雪希と誓ってキスをしているという概念だけが、純化して形になった。絶対に忘れないよう、心に刻み込む。僕自身にさえ、この誓約の絶対性は欺瞞させない。邪魔をさせない。言い訳も言い逃れもできないように固定する。僕の全ては、この誓いに値しなければならない。


 唇が離れたとき、部屋が暗くなっていたことに気づいた。唇をあわせるときは夕暮れだったはずなのに、気がついたらそこはもう夜だった。なんとなく、それでよいように思った。それがよいように思った。雪希の方へと歩み出して、雪希のところへ辿り着けたような気がする。


 雪希がこつんと額を僕にぶつける。


「私がしたかった」


 そうだったのか、と思う。だったら、押し切れてよかったとも。


「言えばよかったのに」


 心にもないことを言う。そういうとき、雪希は僕に押し切られることを本当は知っているくせに。


「水華はいつもそう。私のしたいようにさせてくれない。なってくれない」


 こつ、こつ。と額をぶつけられる。なんとなく求められているものがわかって唇をあわせる。今度は誓うためではない、単なるそれ。痛むような切実さのかわりに、ただただ優しくて穏やかだった。このような場所に、雪希にはいてほしいと思った。


「好きじゃない」


 雪希が言った。


「水華。好きじゃないよ。私はもう、だめだけど。それでも、好きじゃない」


 泣いている。


「水華も、好きじゃないよね」


 否定したかった。全てを。それなのに、全てが足りないことをわかっていた。


「絶対に妥協しないでね」


 言いたくないことを言っている。だからこそ、雪希が本気で必死なことがわかる。僕が、神になったときと同様に。


「私の審美は、水華が創り上げるものの価値に、必ず追いつくから。水華がそこまでしたことに、価値があったと理解できるから」


 俯いている。苦しいのだろう。絶対に、言いたくないのだろう。それでも雪希は、不幸を押し通した。


「もうここまででいい、だなんて。絶対に諦めないで。今みたいに、私が苦しんでいても、つらくても、不幸でも。絶対に今に惑わされて不完全のまま終わらせちゃだめ」


 僕は天を仰いだ。雪希は俯いていた。いずれにせよ、僕は天井しか見えないわけだし、雪希にはベッドと僕と床しか見えない。天と大地など、部屋の中にいては見えるはずもない。可能なことと不可能なことが、あまりにも明白だった。


「なら、雪希も約束してほしい」


 僕が完成するために、絶対に必要なこと。


「僕が完成したならば、雪希は。そのときもしまだ世界が不完全だったら……もうそれ以上頑張らないでほしい。どうしても、それ以上の世界がほしいなら。全部、僕に任せてほしい」


 そうしてもらえなければ、僕は完成できない。


 だから、雪希は頷くしかない。だから。


「嫌だ」


 雪希は断言する。


「世界は、絶対に完成させる。解釈するんじゃない。本当にそういう世界にする。世界は絶対に、水華に値させる」


 彼女の後頭部を、二度叩く。


「不可能なことはわかってるだろう。物理的に無理だ。少なくとも現代社会じゃ無理だ。君の理想の社会は物理的に実現しない。今こうして部屋にいて、僕たちは一秒も立ち止まることができない。その現実を、完全と永遠に解釈するか、あるいは諦めるしかないんだよ」


 雪希は、首を左右した。


「私がやっているのは、宗教」

「そう。宗教だ。それは結局のところ物理と整合的に成立させるか、物理から目を背けるかのいずれかしかできない」


 雪希は……首を左右した。


「できなかった、かもしれない。でも、ほんの少し先の未来では、違う。私が観測可能な、奇跡の実例になるから」

「そんなことはできない。無理だ。不可能だ。わかっているだろう。僕が神になったのだって、方法的なものだ。僕はホモ・サピエンスに過ぎず、君はそれを誤認しているに過ぎない」

「うん。水華は方法的に神になってくれた。便宜的に神になってくれた。私を救済するために。私は本当に信じないと救われないから、救われたと思い込んでいるだけになるから、本当に信じてる。誤認じゃない」


 雪希は続ける。不可能なことを言う。


「でも、私が本当だと思っていることは客観的には誤っている。水華はホモ・サピエンスであって神じゃない。それは観測可能な事実。だから」


 絶対に無理なことを彼女は宣言する。


「世界は完全にする。水華はあの瞬間までホモ・サピエンスで、あの瞬間から神であることにもする。私のために神になってくれた水華を嘘には絶対にしない」


 そんな方法は、この世界のどこにもない。


「水華は水華の責任を果たして」


 雪希は最後の最後に、僕を不可能なところに置く。


「水華が責任を果たす、その瞬間が訪れるより先に、私は私の責任を必ず果たすから。世界を完全にして、水華が神であることを、現実にする。解釈とかの話じゃなくて、雲に乗った白髭のおじいさんくらい確実な神様にする。大丈夫。水華が本気で信じてって言ったんだから。私はこうしなくちゃいけないし、水華が本気で信じていいって安心させてくれたから、これは絶対に実現できるよ」


 全てが詰んだ。どうしようもなくなった。僕は、僕の責任を果たすことができなくなった。それなのに、


「水華は頑張って。私も私で、頑張ってみるから」


 確信がある。


 唐突で強引なことが起きる。海が真っ二つになるようなことが実現する。絶対にする。


 僕の持つ全ての証拠と理性と主義が拒否するが、そうなってしまうことが決まってしまったとわかる。


「水華が誓ってくれた世界だからね。値するものに、してみせるよ」


 僕の最も大切なところに埋まった価値が、「できない」と言わせてくれなかった。そう言うべきなのに。


 物理主義は、完全に徹底することに意味がある。逸脱者は、その程度を問わず最早帝国民に値しない。


 僕はそうありたいのに、その帝国から追放されて、


「水華? 何を言っているの?」


 僕はなにか言っただろうか。いや、絶対に言っていない。苦慮していた。口は閉じていた。何を言っているのと、雪希が問えるはずがなかった。


「完全なる世界において、物理主義は崩されない。逆だよ。ちょっと前に私は帝国を追放されて、水華も同じ。もう居住する資格を持ってない」


 でもね、と雪希が言う。


「私は解釈するんじゃないって言った。だから完全なる世界はちゃんとできあがる。私の言ったことは実現される。もちろん、完全なる世界ができあがっても私と水華は帝国を追放されたままだよ。だって、不完全な世界での証拠と操作で完全なる世界を予測することは物理主義に反するからね。結果的に私の言ったことが実現しても、私と水華は物理主義帝国を追放されたまま。居住権はない。考え方を徹底できなかったから。物理主義を徹底するなら、私たちは、私が実現する結果を予測できないべきだった。でも失われた居住権の問題は、簡単に解消できるよ。完全なる世界を作るのとは全然違う、いつでも誰でもできる、言葉だけを使って」


 彼女はとても簡単なことを言う。


「今こうして完全なる世界ができあがってるけど、それとこれとは話が別で、あのとき完全なる世界を想定した僕は間違っていた、って完全なる世界の中で認めるの。間違いを認めて、不合理だったと訂正する。それだけだよ。単にそれだけで、水華は物理主義帝国に帰還できる。居住権が戻ってくる。誰にでもミスはあるからね。この帝国において、間違うことは認められてる。間違っていたって言えばいつでも水華はそこに帰れるんだよ。完全なる世界はもう実現されてるんだから、ただの観測可能な事実として、実現後は完全なる世界は物理主義帝国が扱うことのできる物理になる。今それを予測するのは物理主義に反するけど、実現したあとにそれをデータに使うのは、物理主義に則っているし、むしろ観測可能な事実を無視することは物理主義に反するよね? だから、結局全部きちんと物理になる。あとは水華が完全なる世界の中で、ちゃんとあのときの僕は間違ってました、雪希を信じないべきでした、って言えばいいだけ」


 僕から倫理を奪い去ったときと同じく、雪希はなんの躊躇もなく僕から物理主義さえ奪い取った。


 僕は物理主義を貫くことができない。なぜなら、完全なる世界とそこにおける永遠に誓って雪希にくちづけているからだ。雪希がそういう世界を作ると信じて、くちづけたからだ。物理を貫くなら、僕はあのとき信じた誓いを裏切らなければならない。誓いと主義のどちらかひとつしか僕は選ぶことができない。そして、僕は雪希と天秤にかけたとき。倫理も、物理も捨ててしまえる人間だった。徳性もなければ、知性もない。僕が僕のせめてもの美徳として育てたかったものが、どちらも失われてしまったことを理解した。


 僕は今日行った非物理主義的な判断を覆せない。雪希との誓いを間違っていたと言えない。


 それでも、雪希がいい。


 万人に開かれた、白亜の塔へ続く門の扉が、静かに閉じる。


「雪希」

「うん」

「僕は、頑張るから。君も、頑張ってくれ」

「うん」

「すべてを、実現させよう」

「うん」


 僕と雪希は大学に行かないことを決めた。


 そして、たぶんこの部屋の扉を開いた先では全てが変わっているのだと悟った。


 雪希は、絶対に僕との約束を守る。完全なる世界は既に達成された。そして、それは僕の仕事の後に行われるべき再創世でなければならない。雪希はああ言ったけれど、僕は雪希より先に自分を完成させるつもりだった。


 だから、世界が既に変わっているのであれば、それ以前に僕は約束を果たしていることになる。以上のことから論理的に考えて。


 僕は既に、雪希に恋をしている。


 その瞬間を定めるならば、僕が知を自ら捨てたそのときがよいと思った。僕は知を捨てて雪希を選んだ。そこから恋を作っていこうと思った。僕は気づいていなかったが、実のところそのときに恋は完成していた。


 雪希もそう思ったからこそ、世界を完成させたのだろう。先程の言葉のやりとり。わかってないなあ、と雪希は苦笑していたのかもしれない。恥ずかしい。


 恋は盲目であるだなんて、結局そんな風に片付けてしまうのは、とても恥ずかしいことだ。


 盲目になったその瞬間に、恋が完成するというのは。しかしまあなかなかよいのではないか。


 結局のところ僕には審美眼がないし盲目だから、雪希が世界を完成させたというその真実をもって、きっと恋は値するほどうつくしくなったと言葉の操作で認めることにした。

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