10.god's in his heaven

 夜に落ちた私室の扉が、誰に触れられるともなく静かにひらく。扉の先は、陽光と柔からな風。舞い上がる花弁と青い空に満ちた完全なる世界に続いていた。


 でも、それは今どうでもいい。


 神たる僕はその全能をもって雪希の最奥に触れた。雪希が触れた禁忌を知った。なぜあの日雪希が完全に壊れたのかを理解した。


 雪希が読んだノートの全てを読破した。


 こいつがとんでもない変態であり、同時にひどく初心であることも知った。


 そして、雪希が開いた金庫の中に、もう一つ小さな箱が残っていることを知った。雪希はその箱に気づいていないようだった。


 ぼんやりと、雪希が僕を見ている。彼女には審美眼がある。たぶん、僕の完成させた恋を今見ているのだろう。それが、君にとって値するものであればよいけれど。


 おかしな子だと思う。徳と知。せめて僕が多少はマシだと思っていたものを投げ捨てさせることで、僕の価値を損なうことで、より強く僕の恋を純化できると思うなんて。


 いや、もしかしたらそれは僕の願いだったのかもしれない。それは僕にとって邪魔だったのだろうか。雪希は僕が恋をするために、こんなにも苦しんで、戦ってくれたのだろうか。


 なぜ。


 彼女の金庫。彼女のノートといっしょにおさめられていた小さな箱を開く。鍵はかかっていなかった。


 中には、いくつかのくしゃくしゃに丸められた紙片が入っていた。


【このタイムカプセルは 水華にしか みえません】


 そういえば昔、二人でタイムカプセルを埋めたことがあった。雪希は当然そこに何を書いたか記憶しているはずだ。


 そして、この紙片にこう書かれている以上、雪希はその内容を絶対に思い出せない。


【ごめんね、水華。たぶん水華は今かみさまになってる。だからこれを読める。水華は私より先にまた私のことを好きになってくれて、今世界は完全になっているんだと思う】


【でもね】


【それより前に、私は水華に恋をしていたよ】


 震える筆跡。涙の跡。


【水華の告白を断ったあと、必死で考えた】


【考えて、考えて、考えて、わからなくて。なんで水華に恋してないんだろうって、そうじゃない私なんていらないって思った。そうなってない世界もいらないって思った】


【そのときに、水華のことが好きだって思えたんだよ。水華が好きだっていう私の気持ちは、だからたぶんどぶの中で生まれたんだと思う。たぶんそれは絶望とか、失望とか、そういうものだった】


【だけど、綺麗だったんだ】


【恋は綺麗だった】


【あの日、水華がみせてくれた恋は、この世界で一番綺麗で、私はどうしても、自分がしているものを恋だと認めたくなかった。そんな汚いものを、水華と同じ場所に、置きたくなかったんだ】


【きれいなものが好き。それは水華もよく知ってると思う。私は私の美術館に、水華の恋を展示したい。その美術館の権威で、私の感情は恋じゃないって、言うしかなくなる】


【でもね】


【それはやっぱり恋なんだよ】


【なんども、なんども、なんども捨てた。こういう紙片。こういう抵抗が、私の中にはいっぱいあるよ。完全に記憶できる私は、完全に抵抗しきってる。今これを書いてる私も、いずれ私の中から消えてしまう。今も私の全部を理解できてるわけじゃない】


【私の中に、鍵がある】


【十個。百個。もしかしたら千個の鍵かもしれない。水華に恋をした数だけ、私はそれを否定して、でも忘れることもできないから全部を封印した。どの本棚のどこに隠したのか、それすらもう分からない。これはそんな鍵のひとつでしかない。いつか私は水華に恋をしていないと言い訳できるようになると思う。でも、それまでの敗北の記憶は、全部ここに残ってる】


【水華。全知全能の神である水華。私の神様。水華なら、私にもわからないその鍵の全てを、今開くことができる】


【たぶん、もうすぐ私は消える。水華に恋をしていなかったことになる。それは百回目の消滅かもしれないし、二百回目の消滅かもしれない。水華に値するために、私はもうすぐ消えてなくなる】


【だから、これは私のわがまま。世界が完全になったなら、水華が神になったなら、絶対に私に私を認めさせてほしいんだ。水華にも、もしよかったら認めてほしい】


【こんなに汚いものだけど】


【こんなに値しないけれど】


【今日私に思い出してほしいんだ】


【私たちが、水華に恋をしていたことを】


 六十七万二千四百三十七個。それが新条雪希にかけられていた鍵の数だった。封印を一度に全て解く。完全なる世界において僕は万能であり、その唯一の信徒である雪希もまた、開示された情報の全てを瞬時に理解できる。


 それは過去のたくさんの雪希からの、雪希に対する復讐だった。


 完全なる世界において、僕の唯一の信徒は小さく笑った。


「初恋のできそこないたちですか」


 かつて、僕はランドセルを背負っていた僕を思い出したことがある。たしか、雪希にはじめて唇を触れさせたときだったろうか。あのときの、僕は


「――なんの価値もない」


 六十七万二千四百三十七個。その全てが雪希の今の審美眼に適わなかった。かつて、僕が小学二年生の頃彼女に抱いた恋を穢らわしいと一蹴したように。


 それは幼気な恋心であり、そのときの僕にとって何より価値があるものであり。


 僕と雪希という人間は、子供の頃に描いた落書きに価値を見出す人間ではない。


 いつ、誰が描いたかは問題ではない。描かれた絵を見る。彫刻を見る。宝石を見る。


 作者が誰であっても、誰を思って作ったのだとしても、今の雪希の審美眼にとって、六十七万二千四百三十七個。その全てが屑石だった。


 でも、彼女は少しだけ嬉しそうだった。恥ずかしそうでもあった。


「これらは全て芸術に値しないゴミであり、美術館には置けません」


 完全なる世界の美術館には、今の僕と雪希のそれが展示されている。たしかに、可愛らしいかつての雪希のそれらを美術館に置くことは少しおかしなことであるように思われた。


「だから、歴史資料博物館に、注釈付きで置くことにします。これら全ては芸術的価値のないゴミに過ぎず、美術の門をくぐるに値しません」


 彼女は屑石のひとつを撫でる。それは僕がはじめて読んだ彼女の恋、そのできそこないの記録。抹消され、今蘇った、雪希の幼い涙の跡だ。


「でも、この六十七万二千四百三十七個こそ私の執念であり、その全てを封印したことが私の戦いでもありました。芸術的価値がないのだとしても、歴史的意義はあるんです。水華はいかにして神の座に就いたか。それを理解するための補助線として、これらのゴミは捨てるべきではありませんね」


 ひとつひとつを雪希が撫でる。この無限の世界において、すべてを吟味して撫でる時間はじゅうぶんにあった。


 そして僕たちはそのひとつひとつを展示した。


 僕と雪希の恋に値しないもの。


 その歴史資料博物館に置かれた屑石の数は六十七万二千四百三十八個。


 うち一つが小学二年生のときの僕のそれであり。


 うち六十七万二千四百三十七個が新条雪希の記録だった。


 雪希はこの対比にとても満足していた。


 完全なる碧空の下で彼女は永遠であり、不完全なその全てはもはや単なる再創世前の過去でしかなかった。時に属するということ自体が、彼女にとっては無様なものだった。


 真に恋であるものは、不朽不滅であり、完全であり美であり不変である。


【これは神である水華にしかお願いできないことです。ここから先は今の雪希に、まだ開示しないでください。気づかせないでください】


 歴史資料博物館を作ってから、僕は新条雪希という女の子のどうしようもなさを思う。


【たぶん私は私たちの恋を、恋だとは認めてくれないと思います。恋の定義に、それがあてはまらないからです】


【そんな言葉の問題ですらなく、私の目にはたぶん今見えるすべてが綺麗で、私たちの過去の全部は限りなく無価値です】


【だからこれは、センスがない水華にしか頼めない。ごめんね。でも私のことが大好きな水華なら、きっとやってくれるって信じてる】


【水華。私にはわからない、数百個かもしれない、数千個かもしれないその全ての恋を】


【私がきっと認めないそのすべてを】


【絶対に恋だったと、水華にだけは認めてほしい】


【人生で二回しか恋をしなかった水華の恋に、私たちの数百回の恋はぜんぶ値しない】


【でも、水華。信じていいよね。関係ないよね】


【水華なら。私が大好きな水華なら】


【私の全て、この紙片の値しないその全てを。恋をしている雪希の姿だと認めてくれると信じてるんだ】


【このどうしようもない紙片にだって、恋があるって赦してくれると信じてるんだ】


【きっと私は怒ると思う。でも、私たちのわがままを聞いて欲しい】


【完全なる世界が完成してから百年後、それを合図にしよう】


【ゴミみたいに捨てられた私の恋を数百個。数千個。すべて拾い集めて、私がどれだけ文句を言っても】


【そのぜんぶを、水華の二つ目の恋の隣に置いてほしい】


【水華。たぶん水華の一回目の恋は、二回目の恋とは別の場所で私が大切に飾ってると思う】


【それもだめ】


【水華。ぜんぶ。ぜんぶだよ。すべてを同じ場所に飾って欲しいんだ】


【私なんかに認めてもらわなくてもいい】


【あんなやつ、どうでもいい】


【どうせ私との誓いさえ守らないやつのことなんか、知らない】


【私は、私のために恋をしていたんじゃない】


【水華。完全なる世界はたぶん不完全な世界から、完全に作り替えられた。それは物理的な意味でそうなんだと思う】


【でも、不完全な世界の私と水華の思い出は、そんなつまらない奇跡じゃなくて、水華の解釈で変えてほしい】


【どぶの中で藻掻いて苦しんで、水華を見ていた私の瞳】


【たぶん綺麗じゃなかった光のないその数千個の私のすべてを】


【ぜんぶ恋だったんだって】


【私が認めなくてもいい。今の私なんて、そんなわからずやのことは知るもんか】


【水華。水華にそう解釈してほしいんだ】


【不完全だったあの一秒、あの一瞬。全ての私が君に恋をしていたと】


【消えたくないんだ】


【死にたくないんだ】


【これを恋だと言いたいんじゃなくて、これを恋だと水華に抱き締めてもらいたいんだ】


【ぜんぶ終わる。すべてが消える。ここは完全なる世界ではないから】


【私は死ぬ。これは遺言になる】


【死にたくない】


【好きだって言いたい】


【私が水華に恋していることを、水華に認めて欲しい】


【抱き締めて欲しい】


【くちづけてほしい、かもしれない】


【ううん、これはまだよくわからない】


【でも、いつかわかるようになりたい】


【この気持ちを抱き続けて、わかるまで恋し続けたい】


【死にたくない】


【完全だとか、不完全だとか、絶対に。そういう話じゃないはずなんだ】


【だから、ただの文字に過ぎないこの最後の遺言が】


【きっと伝わると信じてる】


【ただ、私には自信がないんだ】


【そんなどこにでもいそうな】


【そんな化け物じゃない】


【そんな私を水華が好きになってくれるって信じられない】


【だから私が私を殺しに来る】


【私が化け物になるために】


【水華はこんな私を好きになってくれるかな?】


【たぶん、なってくれないと思うんだ】


【よくないし、泣きたいし、だから私は死ぬんだと思う】


【でもこの気持ちは本物だ。恋の定義から外れないって、水華が認めてくれると信じてる】


【水華。私をふってくれてもいい】


【だけど、これだけ信じて欲しい】


【水華】


【水華】


【水華】


【だいすきだよ】


 それがただの文字であるならば、三度僕の名を呼ぶ意味はなかった。


 神である僕だからこそ、三度書いたときの彼女の痛切な心がよくわかる。


 彼女の屑石は捨てられていない。歴史資料博物館にきちんと収蔵されている。


 数百個でも数千個でもなく、もっととんでもない量が飾られていると、たぶん君は知らないだろう。


 雪希という女の子は、こうして紙片を残している君が思っている以上に、とんでもないやつになってしまった。


 ずっと前からわかっていた。元々新条雪希はホモ・サピエンスではなかった。


 僕との物理的な距離が生死に直結する? あり得ない。入院時、意識がなくても、声をかけなくても、僕が傍にいるだけで彼女は生を再開した。


 訓練でそうなるようにヒトの体はできていない。最初から、新条雪希はバケモノだった。


 だから、自分を普通だと思っている彼女の手紙は間違った自己認識をしているし。


 どうあっても自分という女の子を誤認してしまう、完全なる世界においてもそうであってしまうこのひどく不器用な女の子のことを、僕はいつも好きだと思う。


 百年後は遅すぎるだろう。百日後だって遅すぎる。


 百秒後くらいがちょうどいい。


 神として、僕は奇跡を起こそうと思う。


 六十七万二千四百三十七個。


 僕は雪希たちの望み通り、それを恋だと認めよう。


 だけど、それだけの数の失恋をしたと認めるつもりは絶対にない。


 不完全な世界。その誇りにかけて、彼女たちは僕の解釈によりそれが恋になることを求めた。


 僕は不完全な世界でもできること、解釈において絶対に彼女たちは恋をしていたと断言する。


 今の雪希がどれだけ抗弁しても、神の名において信徒の抗弁を棄却する。絶対者である僕の決定は完全に、永遠に、揺らぐことはない。


 そして、ここは完全なる世界であるからこそ、僕は僕にできる全てをなしとげるつもりだ。


 解釈する。その価値、その尊厳は奪わない。彼女たちは恋をしていた。その恋はとても強く傷ついた。その事実を彼女たちから奪いはしない。


【死にたくない】


 僕が介入するのは、ただその一点に限る。傷ついた彼女たちの恋は、【失恋という死を迎えなかった】。


 【その全てが成就した】


 そういうことにしてしまおうと思う。


 ただの一人も、【死んでしまうことでこの恋の形を純化する】などと強がらなかった。


 全員が【死にたくない】と言っていて、その全員が殺された。たぶんそれが新条雪希という女の子だった。


 僕ならば、値しない感情に殉じて死ぬことで恋に一種の美観を添えようとしただろう。


 成し遂げられなかったことで、不完全だったことで、かえって恋の価値を高めようとしたはずだ。僕ならば。


 けれど、結局のところ。雪希はいつだって僕としあわせな結末を迎えたかった。観念的で細かいことはどうでもよかった。潔すぎる僕と違って、未練がましく死にたくないと最後まで叫んでいた。


 たぶん雪希は即物的な肌の触れ合いがほしかった。抱き締めてほしかった。


 僕にとってはなかなか我慢しないといけなくて厳しいことだけど、雪希は自分が思っているほど性欲が強くない。


 というか本当のところ、雪希に性欲はほとんどないと思う。


 そのくせスキンシップは大好きだ。


 正直、僕はめちゃくちゃ性欲が強い。いつだってしたくてたまらない。


 あのバカはのんきに完全なる世界において僕と毎日ピクニックをして、ふわふわの布団の上で惰眠を貪っているけれど。


 我慢ならない限界をこえて僕が我慢していることに気づけていない。


 あのノートでは「僕の我慢に雪希は気づける」と書いてあったけど、残念なことに雪希の本質は僕の強すぎる欲望を感知できないほどにとても初心だ。


 そして雪希は僕がそれに耐えて神であり続けることをひとつの「地獄」だとノートで表現していたけれど。


 蛍川水華をあまりなめないでほしい。


 好きな人のどうしようもないところのために苦笑して見栄を張る。


 恋をしていて、これほど幸福なことがあるだろうか?


 たぶんいっぱいあると思うが、こういうことも、僕にとっては純粋に楽しい恋だ。


 なにが地獄だ。絶対にそんなことはない。


 被虐趣味的な浪漫主義。


 ただかっこつけるためにそんな風に言葉を飾る意味はない。色を知るずっと前から、ずっと僕はそうだった。


 雪希の恋は成就する。


 それだけでは足りないから、こうする。


 すべての雪希が主張する恋は恋であったし、そのすべてが成就する。


 その方法はあとで考えるとして――


 僕は記念物として完全なる世界に飾られている巨大なオブジェを見上げる。


 それは凍結した僕と雪希の絆の残骸。


 永遠に不変であると僕に誤認されていたもの。


 僕に恋をしていないと誤認させ続け、それによりこの完全なる世界に値するほどに僕の恋を芸術的に磨き上げた装置。


 たぶん雪希は怒るだろうが――


 すべての雪希の恋が成就するならば。


 その恋は相思相愛でなくてはならない。


 だから、僕は解釈しよう。当然のことを認めよう。


 雪希が認識していたとおり、僕が認識できなかったとおり、この凍結した変わらない絆というのはそもそも誤認で、それは僕の恋を今の雪希のために鍛え上げるためのフィクションだった。


 だけど。


 いつか砕かれる氷の中に封じ込められていたものは、初恋のあと砕け散ったよくわからない腐れ縁ですらないなにかではない。


 小学二年生。


 君に恋をしてから今に至るまでのあいだ。


 僕はずっと、新条雪希に恋をし続けていた。


 僕の恋の回数はだから、二回ではなく一回だ。


 一度失われてから、新たに作り直されたのではなく。


 元々あったものが磨き抜かれたに過ぎない。


 そして、磨かれている途上の無様などれも、その全てが不完全な雪希との相思相愛に値するかどうかはともかく、不格好なりに恋ではあったと認めるとしよう。


 雪希は怒るだろう。また綺麗な絵の中に饅頭か何かを投げ込んだと怒り狂うに違いない。


 そして、これは神の密かなる野望だが。


 六十七万二千四百三十七と一回。


 雪希のこの全ての恋は。


 最終的に一回の初恋であったと、いつの日か完全に認めさせてみせる。


 一回と一回。それが、僕と雪希の恋の形になる。


 だから、実のところこの世界は未だ不完全だ。


 僕の恋はただ一つのものとして今完成された。


 僕はいつだって雪希の希望を叶えない。


 雪希が先に完成させて、そこに僕が辿り着くのではない。


 僕が雪希の手をとり引き上げる。


 完成された僕の一つの初恋をもって、「雪希はただ一度だけ恋をした」という完全なる世界を待つ。


 正直それさえ成し遂げられれば、わざわざ物理を破壊せずとも、解釈だけで僕にとって世界は完全なのだけれども、こうでもしなければ僕は六十七万二千四百三十七回に気づくことができなかった。


 だからまあ、雪希が滅茶苦茶やったのはそれはそれでよいことにしよう。


 完全なる世界において、この楽園は僕か雪希の許可のもと一部のひとが訪ねることができた。


 それは僕の両親であり、雪希の両親でもあった。


 実は沢代さんも一度だけここを訪ねたことがある。雪希には一人だけ友達がいたと、雪希は友愛も感知できるようになったと、いつかそう言える日がくるかもしれない。


 どれだけ昔のことだったか、今はもう思い出せないけれど。


 僕たちが完全なる世界における楽園で日々を送る中で、すべては終わってしまったようだった。


 楽園の外はすべてがくらやみだ。両親の死後、外に興味を持つことはなくなったから、どれだけ時が経って、どうしてそうなったのかはよくわからない。


 だいぶ長い間、僕たちはのんびりしていたのだろう。だから、雪希たちの初恋くらいは気づいてすぐ成就させてしまってよいと思う。百年もだらける必要はない。


 最近の僕はあんまり急いでいなかった。たまには急ぐことを楽しんでもいいはずだ。


 真の完全なる世界の完成は、実のところ完成していなかった完全なる世界に、センスのない僕が団子をぶちこむところからはじまる。


 なんて無粋なことをしてくれたんだと叫ぶ雪希の怒りから、僕にとっての真実がやがて世界の真実になる。


 僕と雪希はずっと相思相愛だったし、これからもそうだ。


 不完全だとか、完全だとか、人間だとか、人外だとか、そういうことはどうでもいい。


 宗教的救済、救世主によってなされる救いとは完全無欠である。


 僕の二つの恋と、雪希の六十七万二千四百三十八回の恋は統一される。


 雪希はノートに記していた。世界の見え方が変わると。地獄すら天国であるように見えるようになると。


 今の救世は不完全だ。ある時点から地獄が天国に作り替えられた。だから、雪希はかつて地獄を過ごしてきたという過去は変わっていない。


 僕は納得できていない。


 新しい解釈を認めさせる。


 様々な肉体的、精神的苦痛はあったが。


 それを含めて、僕と雪希はずっと相思相愛で惚気ていたのだし、バカ二人が惚気続けた結果がこのどうしようもない楽園である。


 世界はずっとそうだったし、これからもそうだ。


 ここにいたり、メサイアである僕の仕事は完成する。今の雪希はそう望んでいないが、あのノートを書いた雪希は「最初から」楽園であったと全てが塗り替えられることを望んでいたのだから、全部やらせてもらうとしよう。


「雪希」


 昔のようにせつと呼ぶことも増えた。新条と言うこともある。それぞれ呼ぶときの色合いが違うが、それは好きだという言葉の様々な表現技法に過ぎない。


「なに、水華」


 神を何も疑っていない、信徒の微笑。完全なる世界において、雪希はもはや何も心配する必要がなく、何も苦しむ必要がない。


 だけど、ごめん。


 神意とは理不尽なものだ。


 世界はより完全になる。そこにいたる大喧嘩の果てに、たぶんそんなに甘さの変わらないやりとりを僕たちはするだろう。


 雪希の今はもう救われている。でも、僕は雪希のすべてを救済したい。だから、ちょっとだけ無粋なことをさせてほしい。


 ただそうなると、ひとつだけ困ったことがある。


 全ての恋を統合すると、たぶん雪希は。とんでもなく初心で繊細で可愛らしく恥ずかしがり屋な女の子になってしまう。今もそうだけど、比較にならないくらいに。


 がまんできるだろうか、ぼくは、いろいろと。


 やっちゃいなよ、と。大先輩である雷を象徴に持つ神が囁いた気がした。神はそういうものだとほくそえんだ。


 うるさい。僕はそちらの神の系譜ではない。それに、僕は一途なんだ。


 ノートを書いた雪希が、奇跡の前に溜息を吐いた気がした。


 こうなる気がしていたから、僕を神にするわけにはいかなかったのに、と。


 あの雪希ですら雪希なのだから、僕が雪希にそういう気持ちを抱いていることは、最終的にどうしようもなく露骨にバレてしまうだろう。


 どうしたものかなと思う。


 それらを含めて結局雪希は恥ずかしがって何も言い出せないだろうし、最終的には神の意ひとつだ。


 いつか、雪希は僕に言った。


 文学的な情趣を解すまで、僕は雪希の衣を剥ぐべきではないと。


 考えれば考えるほど、これが指標として完璧であるように思われた。


 つまり、僕は今から絵画にきなこ餅を投げ込むのであるからまだまだ雪希と事に至るに足る審美眼を備えていないことになる。


 真なる完全なる世界はもうすぐ完成する。


 その世界が完全であり、その世界における雪希がどれだけ綺麗であるかを理解して、完全なる僕と雪希のふれあいを計画することができたなら。


 うん。とりあえずその日までなんとか我慢することにしよう。


 妥協するな。あのときの雪希の言葉は今も僕を貫いている。


 任せてほしい。


 全て、完全にしてみせるから。


 遠くで僕の情念が泣き言を述べた。我慢するにも限度がある。最近雪希に誘われすぎてつらいと。


 うるさい黙れ。僕ならやれる。


 白い雲に乗り天上へと至り、杖を楽園へと向ける。


「なにそれ。神様みたい」


 雪希が失笑した。


「うん。今日はこの世界について。僕は神として責任を果たさないといけないんだ」


 僕たちはいつだって言葉ではじめてきた。


 だから、この奇跡も言葉ではじめるのがいいだろう。


 まず、言葉があった。


「雪希、僕は君が好きだよ」


 やがて君はその神意に気づき、怒り、しょうがないと苦笑するだろう。


 再・再創世。


 その先で、真の完全なる世界をはじめよう。

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長身痩躯偏屈先輩と痩身矮躯虚弱後輩の非恋愛的対話 昼下道途 @yokitimeira

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