3.WoO 27

 新条雪希のことは嫌いの部類だ。僕の人生に関与しないで欲しいと切実に願っている。


 僕は生卵が苦手で口に入れると吐きそうになるが、毎日生卵を飲むか毎日五分雪希と話すか選べと言われたら生卵を選ぶくらい雪希が嫌いだ。どうして雪希が嫌いかというと、雪希はそのような二択を目にすると自分で生卵を飲んで選択肢を一つにしてくるような女だからだ。


 あいつも生卵が嫌いだ。この二択を僕が受ければ、あいつは必ず生卵を飲む。僕を苦しめるために。嫌いだ。嫌いなものは無理して食べなければよいと思う。あまり好き嫌いの激しいタイプではないのだし、少しくらいの無理なものは許されてよいと思う。無理に食べなくてよい。しかしあいつは食う。苦しそうな顔をして食う。それが実に嫌いだ。


 雪希の天稟てんぴんは音楽にある。雪希を知るほとんどの人間は彼女の聡明さ、学業成績をその特質だと思っているが、それは余技に過ぎない。あいつの真髄はヴァイオリンにある。


 心底つまらなそうにエチュードを繰る雪希を初めて見て、僕は音楽のなんたるかを痛感して彼女に並び立たんと志しチェロをはじめた。結局僕には向いていなかったのでほどほどで道を閉ざしたのだが、あいつの名望は県内に轟いていた。


 弦楽器の私塾は市民オーケストラやジュニアオーケストラを介して緩い連帯関係にある。あいつはすぐに県下随一の評判がある師に見出された。ヴァイオリンを習っている人間なんてごまんといるから、師をかえる栄誉に浴するあいつはかなり珍しい例だった。そして発表会のたびに新条雪希は天才を証明した。しかし、発表会はあくまでも発表会だ。あいつは技量を他者と比べる場には一切でなかった。


 唯一特筆すべき点を強いてあげるならば、お遊び程度のジュニアオーケストラにおけるあいつはコンサートマスターだったが、それは僕がチェロの主席であったことと同じくらい技量について無意味な表現だ。


 あいつは数年師事したにもかかわらず、あっさり師と絶縁した。師の言い分は音楽に対し真摯でない者に割く時間はないとのことで、弟子の言い分は室内楽の本質を解さない師につく理由がないということで、完全に決裂したらしい。あいつらしいことだが、大事件を起こしたわりにどうでもよさそうな顔をしていた。元々音楽にさしたる興味はないので、続けても続けなくてもどうでもよかったらしい。続けるには不愉快なことが多すぎたからやめた。それだけなのだそうだ。


 新条家はうちと同じくやりたいことはなんでもやらせ、やめたいならすぱっとやめさせる方針なので、一切周囲の声を聞かずヴァイオリンを辞めさせた。爾後じごあいつが表だってヴァイオリンを弾くことはなくなったが、一応たまに家で弾いている。ご両親はやめさせて正解だったとそのたびに言っているが僕もそう思う。無理に続けさせていたらあいつは無表情でネックを掴んでフルスイングしてヴァイオリンを壁に叩き付けて破壊した後、弓の両端を手で握って膝でへし折っただろう。楽器に対する敬意を持つ連中をただ不快にするためだけに、あいつは絶対にそういうことをする。破壊されなかったどころか一応メンテナンスされている彼女のヴァイオリンは新条家の教育方針に感謝すべきだろう。


 新条雪希が嫌いだ。


 あの事件から三日、たった三日だ。三日で雪希はくじ引きで決めた先輩に告白すると言い出した。確実に受け入れるだろう相手しか選んでいないから安心していいとのことだった。何も安心できない。あのとき得た僕の選択権は無限に行使できるが、一日の不実行で無限の選択権は消滅するため、僕は念のため毎日雪希にどうでもいい命令をして(一昨日はジュース買ってこい、昨日は2円返せ、だ。対する雪希の命令は肩を揉め、鞄を持て、だった)、何か起きたときのための緊急対応を可能にしていたのだが、三日でやつは弾けた。何か起きたときのために権利を保持しておいてよかった。


 もうちょっと我慢できるだろう。何がお前をそうさせるんだ。


 確か雪希は痴人の愛や眼球譚、ロリータなどは好みではなかったはずである。ボヴァリー夫人も、もちろん。あいつは僕がウェルテルを嫌いなのと同じ熱量でエマが嫌いだ。僕に借りたボヴァリー夫人をビリビリに引き裂いて(一冊まるごとビリッといきたかったようだが、あいつにそんな力はないので数ページごと毟り取ってビリビリにしていた)、シャルルが僕の部屋にいるのは構わないがエマがいるのは許さないと暴君ぶりを披露したほどである。愛書家ならば憤死するだろう光景だ。僕は単なる活字中毒でありマテリアルとしての本に愛着はなかったのでそのことにさしたる遺恨はない。雪希はやたら応報を要求していたが、でこぴんですませておいた。憎悪のない復讐は愛のない贈り物と同じくらい空虚だ。


 閑話休題、三日である。新条雪希が恋愛脳になるなど太陽が地球のまわりを回るくらいありえないので、真に色惚けしているのではなくこいつなりの考えがあるのだろうが、新条雪希の考えを読むというのは無駄な時間を費やすということと同義である。こいつの理解にリソースを割くことほど無駄なことはない。円周率の暗誦くらい不毛だ。つまり特殊な趣味があるやつは興味を持つだろうが、僕はそういう特殊な人間ではない。


「新条、やめろ」


 命令した際の顔を注視していたが、憎たらしいほどに何の感慨も浮かべていなかった。それどころか僕を無視してふむ、と何やら自己反省に沈んでいる節があった。理解できない。僕をほったらかしにしてしばらく沈思黙考していた雪希だが、こいつはひとつ命令した。


「ベートーヴェン、デュエット」

「は?」

「ヴァイオリンとチェロのための三つの二重奏曲」

「何がしたいんだよ……」


 質問への回答が返ってくるとは思わなかったが、もちろん返ってこなかった。やれるかどうかでいうと勿論やれない。ヴァイオリンを学ぶことを嫌がっただけで弾くこと自体はさほど疎んでいない雪希と異なり、僕は既にチェロを弾くことにあまり興味がない。悪くなるからと親に促されたときだけメンテして渋々弾いている。売れば良いじゃんと親に言ったときは信じられないバカを見る目をされた。お前それは本気で言っているのかと言いたげな顔だった。駄目とか悪いとかではなく、正気か? と言いたげな顔だった。親の態度が完全に理解できないことは珍しかったので、かなり怖かったのを覚えている。完全にビビったのでその話は二度と持ち出していない。僕にとってそれはナンセンス系の怪談で、あまり思い出したくない記憶だ。そういうのは得意じゃない。


「で、どっちで弾く?」


 いずれにせよ僕に拒否権はない。僕がやめろと命令したのだから、雪希にも僕の行動を選択し強制する権がある。できるできないではなく、やらねばならない。僕は約束を守る。


「先輩の家」


 雪希に迷いはなかった。


「かなり嫌なんだけど」

「だと思ったので、先輩の家で弾きたいと言いました。おばさんもいらっしゃるでしょうしね。私のヴァイオリンを聴けてさぞ喜ぶでしょう」

「君、性根どうなってるの?」

「見たければ見ればどうです? 拒みませんよ」


 雪希は両腕を広げて小首を傾げ、ひらひらと手を振ってみせた。これは挑発ですらないただのジャブだ。そうやって両腕を広げると、雪希の体がどれだけ華奢だったか痛烈に思い出される。抱きしめたときの細さ、頼りなさ。こいつちゃんと生きていけんのかな、来年死んだりしねえかな。そんなどうしようもない不安に襲われそうになる。雪希のことごときを心配したくはないが、心配になってしまうのだから仕方ない。誰だって、嫌いな人にも嫌いな人なりにしあわせになってほしいと思うものだろう。


「ただいまー」

「ただいま」


 誰がただいまだ殺すぞ。一度雪希の家に立ち寄りヴァイオリンや譜面台等をとったあと、帰宅した僕に続いて雪希が平然と「帰宅」した。お互いの家に入ったらただいまと言う。形骸化どころか失われた約束を今更掘り返す悪質さは度し難い。雪希を横目で睨み付けると、その嫌がる顔が見たかったと言わんばかりの満足そうな顔をしていた。たぬきの山に放り込んでたぬき合戦させてやりたい気持ちになってきた。お前にはヴァイオリンよりも腹太鼓の方が似合いだ。その脂肪に欠ける腹ではいい音は鳴らんだろうなあ。たぬき大会で予選敗退し屈辱の辛酸を舐めろ。ポップコーンとコーラを手に鑑賞してやる。


「雪希ちゃんおかえりー! 相変わらず本ッ当に可愛いねえ! 美人さんだねえ! 一生おっきくなっちゃだめよ!!」 


 母が一瞬で興奮状態に陥った。極めて残念なことに母と父は雪希を視界に入れると理性が蒸発する。母も父もちんまい女の子が大好きである。この犯罪的な趣味が僕に継承されているかどうかは論をたない。雪希は「当然」とでも言いたげなやたらむかつく表情をしていた。スター気取りに見えるが、滑稽なだけだ。


「木偶の坊。なにしてんのよ、譜面台と鞄は持ちなさい。ヴァイオリン持ってるんだから。あんたなんのために生きてると思ってるの。えっ雪希ちゃんヴァイオリン弾きに来たの!?」


 説教しながらシームレスに発狂しないでほしい。反論もできない。母にとっては残念なことだが、僕が生まれてきた理由は雪希の荷物を持つためではない。母も父も普段は温厚な両親なのだがたぬきが絡むと人が変わるのが子として残念なところだ。この両人が雪希の気分を害したのは雪希とテレビにうつるたぬき(真)を交互に見てかわいい!! と狂っていたときくらいだ。失礼極まりなく雪希嫌いを自任する僕も愕然とした。


「久しぶりに水華とやろうかなと」

「――ッ!!」


 母親が跳躍しだした。ウサギというよりバッタである。かなり怖い。新条家の方も長年僕を可愛がってくれているのだが、あちらのご両親は穏やかな慈愛に満ちている。おじさんのあれを愛と呼ぶべきかどうかは客観的にかなり微妙だが。いずれにせようちの両親は見習ってほしい。主に理性を。残念なことにうちの両親は熱狂的で、新条家は頭でっかちのきらいがある。僕は少し新条家の気風に染まっているところがある。これで雪希がうちに染まっていたら変なつりあいがとれてしまっていたが、そうなっていないのは幸いである。いや、幸いだろうか。雪希がヤバいのは新条だからというところもある気がする。


「弦切れてないかなあ」

「水華!」


 僕の願望は母に一喝された。


 緩んでいるだろう弦をチューニングで事故を装ってぶち切るという戦略もあるが、約束したことは誠実に守りたい。卑怯者にはなりたくなかった。澱んだ気持ちで私室に入り、ケースを開く。一人で弾くにせよ私室は狭いので常ならリビングでやるのだが、二人でやるときなんとなく私室でやる不文律ができている。お互いに小さい頃、楽器もそれにあわせて小さかった頃ならまだいいが今となっては窮屈も窮屈である。なにせ一人でやるにもちょっと、と思うくらいだ。二人はかなりきつい。とはいえ互いに運弓で激突しない位置取りも弁えている。一々苦闘はしない。


 ゴミ束のように積み上げられている楽譜から雪希は該当するものを引っ張り出して僕に押しつけ、僕は文句を垂れながら譜面台に置く。当時の師がポジション等を鉛筆で記している。ざっと眺める。運指も運弓もまるで間に合う気がしない。ヘ音記号から先の全てが無理だよこれ、と僕に訴えている。無理だ。しかしやらねばならない。約束は約束だ。


 雪希と目を合わせる。このときだけは、快も不快もない。ただ、雪希に乗る。チェロとして、いつでもどうぞとヴァイオリンに送る。


 軽い吸気音。二人の胸が膨らみ、肩が同時にぴったりと持ち上がる。


 出だしの一音は完璧だった。僕と雪希でここをしくじったことはない。だが、そこまでだ。跳ねるように軽妙な運弓を僕はできずのっぺりとした響きになり、指板を叩く指は的確な音を外している。まあこんなもんだろうなあ。ただでさえ上手くない腕が鈍りきった駄目すぎる演奏だ。対する雪希は遊びたっぷりに狭い室内で満喫している。二重奏では遊ぶ。こいつの癖だ。暗譜しているのだろう、乗って来いよ、と雪希が目で僕を誘っている。無理でしかないのだが、薄らと彼女が微笑しているのが目に入ってしまったので、諦念を執念にスイッチする。弾けないことで退けなくなってしまった。


 雪希は楽しそうだ。僕の好きな熱情をのせて、ここはお前の見せ場だろと渡してくる。へたくそな僕のチェロの上を、一切の外しがない遊びが透き通って響いていく。雪希はただ僕をみていた。だから、必死になるしかなかった。雪希を見て、呼吸を見て、弓を見て。譜面にかじりついて、何度も落ちながら追いすがる。


 右腕が痛い。当たり前だ。ボーイングは筋肉を使う。今でこそ細身の僕だが、昔は腕と上半身にだけ筋肉がついていた。今はそれが見る影もないのだから腕が悲鳴を上げて当然だ。左手の指も痛い。当然だ。指先はすっかり柔らかくなってしまっている。指板を擦ってポジションを移動する度に反発する弦をおさえる指にダメージが蓄積する。


 めちゃくちゃだった。散々だった。こんなひどい演奏はそうそうないだろう。ただ、聴いている誰もがわかるはずだ。へたくそなチェロが滑稽なくらい必死で、完璧なヴァイオリンがちょっと笑ってしまうほどテンションが上がりきっていることくらい。特にジュニアの演奏では楽しくなってきたファーストが暴走して譜面の指示を逸脱しテンポが破壊され全てがメチャクチャになりストップがかかることが多い。今がそうすべき状況だ。僕も散々だが、雪希もやりすぎている。つまり、音楽の楽しみとして今は不適切になっている。


 だけど、元来雪希とはそういうやつだ。音楽を楽しんでいるのではなくて、音楽で楽しんでいる。こいつにとっては、奏でることではなく奏でることで何をするかがいつだって重要だ。だからこそ、へたくそな僕が必死になることにも、僕だけでなく雪希にとって意味がある。汗を散らし、苦悶に歯を食いしばり、全部を弾ききる。やりきった感満々の最後のボーイングは音楽としては零点だ。遊びとしては、しらないけれど。


 ふぅーっと雪希が長い息を吐いた。汗で髪が張り付いた顔が、まあたぬきにしてはかっこいい部類なんじゃないかと思った。


「水華」


 なぜか、キスを思い出した。一度目じゃない。二度目のキス。もしかしたら、それ以降の無意味に交わしたキス。雪希の澱んだ瞳が、揺らいできらめいた。昏いからこそ映える光があるのだと思った。


「へたくそ」


 なぜか腰の奥にあたたかい火がついたような、変な気持ちになった。ナボコフの主著、その名文を想起する。かなりいたたまれない。チェロを抱えていてよかったと思う。雪希は高揚した無表情とでも表現すべきへんてこな表情で僕のベッドに腰掛けた。もう弾く気はないらしい。よかった。腕が死ぬところだった。


「罰ゲームね」


 は? と僕が訊き返すまでもなく、雪希は行儀悪く弓で僕を指した。


「水華、無伴奏」


 頭の中に百万字くらい文句が浮かんだ気がした。だが、全部噛み殺す。へたくそだったのは事実だ。醜態をさらしてピエロになってやるくらいのことはしてもいいだろう。


「全部って言わないよな」

「主席のお任せで」


 くそが。どうせ何を演るかわかりきっているくせに。ジュニアの休憩時間に僕が一人で演っているとき、雪希はあれいいよね、あれいいよね、とメチャクチャ鬱陶しい絡み方をして僕に何度もそれの演奏を強要した。


「じゃあ新条。君もやれよ。僕のあと」


 雪希は微かに口許を釣り上げた。挑戦的な、こちらをバカにしきった顔だ。


「なにを?」


 彼女の言葉に、間髪を入れずに返す。


「決まってんだろ。無伴奏。好きなもん弾け。コンマスのお任せで」


 数分後。短いチェロのへたくそなブーレの後、録音すべきヴァイオリンの無伴奏組曲が通しで演奏された。雪希の独奏はいつだって一切の遊びなく完璧だった。ただ、死んでしまいそうなほど切実な、真剣なその顔を見たことがあるのは。


 たぶん、僕だけなのだろうと思う。


 全てを終えて、爛々と輝く瞳をこちらに流し、フッと笑んでみせる彼女は。不愉快極まりないが、僕の知る限り世界で一番かっこいい顔をしていた。


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