長身痩躯偏屈先輩と痩身矮躯虚弱後輩の非恋愛的対話

昼下道途

1.遡行的に敗北を決定づけられた

 新条雪希と結婚すると本気で信じていた。


「先輩。私、藤沢先輩に告白することにしました」

「そう」


 赤い黄金と紫、濃紺、そして闇と青空。こういった話をするならば薄明薄暮はくめいはくぼのうち後者が至適だろうが、今は未明の終わりだった。


 公園の四阿あずまやで、雪希は単なる些事としてそれを僕に報告した。141センチメートルの矮躯わいくが僕を見上げている。心底からどうでもよさそうな昏い双眸をしていた。雪希はおばさんに似て垂れ目がちなのだが、おじさんに似てその双眸は怜悧冷徹極まる。そして雪希個人の特質により彼女の瞳は濁りきっている。まるで彼女自身の性情のようにだ。顔の作りそれ自体はおばさんに近い、愛嬌のあるちっちゃいたぬきめいたものなのだが、当人が真冬のドブ川のような空気を発散させているので、おばさん似の温厚な顔に雪希一流の神経質が事故を起こして穏当でない空気を発散している。


 彼女はもとより過敏な性質だが、ここまでそれが鋭敏になるのは僕の前だけだ。昔は彼女が好きだった。それで僕は大失敗をした。以降、彼女の僕の前での態度は凍てついていき、気づいたらこうなった。腐れ縁なら腐れ落ちていただろう。そうならなかったのは僕達の縁が凍結したからだ。凍結縁。春になっても夏になっても溶けることのない氷が僕達の関係性を保存していた。


 絆という語はそもそも家畜等への一時的な係留の意であり、しがらみとしての否定的色合いが濃かったという巷説を耳に挟んだことがある。僕と雪希の関係はその好例だろう。好きだという彼女への熱もまた、凍結して久しい。あの火は消えて、もうどこにも残っていない。


 氷は溶けない。だが、腐れ縁が腐れ落ちるように凍結した縁が終わることもある。凍結しているからこそ、叩けばそれは砕け散る。あっさりと。時の積み重ねなど何の意味もなかったかのように。


「僕に報告する義務はない。それに、僕に恋愛上の有用な知見がないことは君が最も良く知っているはずだ」


 心にはさざ波一つ立たなかった。それは僕にとってわずかな驚きだった。多少の動揺はあると思っていた。それくらい、雪希の口にしたことはもう僕のなかではどうでもいいことになっていた。


「藤沢くんはずっと君が好きだと公言していた。一途な男だ。成就そのものはするだろう。おめでとう」


 声色が嫌味にならなかったことに安堵する。平熱とほとんど変わらないあたたかさだが、彼女の幸福を祈る気持ちは、確かにそこに含まれていたはずだ。よい思い出になればと思う。藤沢くんの愛が彼女にとって重すぎて破局の原因になるとしても、藤沢くんが彼女を裏切るということはないはずだ。少なくとも、雪希が移り気に傷つけられることはない。それなりに望ましいことだった。干したばかりの布団の半分くらいは僕を安堵させてくれる。人は、一人の例外もなく倫理的に許容される範囲で幸福であってほしい。


「告白が成功したらキスをしようと思っています」


 不覚にも失笑した。このたぬきのできそこないのちんちくりんが色惚けしているらしい。どうぞご勝手に、と反射的に口にしそうになったがかなり嘲笑的な色を含みそうだったので辛うじて耐えた。恋路を行かんとする者にあまりにも不適切だ。できそこないのちんちくりんたぬきであっても、できそこないのちんちくりんたぬきなりの本気というものがあろう。そこは汲まねばなるまい。


「今日、放課後の空き教室でします。受け入れていただいたらその場でキスをします。上手くいけば、抱いていただこうと思っています」


 僕としては彼女の尊厳を守りたかったのだが、結局の所上手くいかなかった。僕は未明の空の下で腹がよじれるほど笑った。雪希の表情は凍り付いていたが、それが余計に面白かった。氷の無表情の下で熱愛が暴走しているらしい。結構なことだ。このたぬきにもそれなりの可愛げというものがでるんじゃなかろうか。そもそも僕の前以外ではぶっきらぼうではあっても冷酷ではないやからだ、こういった可愛げは雪希の人気を後押しするかもしれない。藤沢くんには試練だが、雪希が周囲により好かれるならば僕にとっても望ましい。


 そして僕も氷の絆から解放される。立木と綱から解放された獣は自由だ。家畜であればその後の安全は保証されないが、僕は文明社会の成員である。


 自由! 朝の清々しい空気が肺腑を満たす。なんとうつくしい言葉だろう。僕には倫理の範囲内ですべてが許されている。体中に万能感が満ち満ちていた。


「はじめては直接ふれあいたいと思っています」

「そうか、そうか」


 どうせそうはならない。藤沢くんは愛の重い男だ。行けてもキスまでだ。責任を持てるようになるまで無責任なことも断じてしないだろう。どれだけ誘惑されてもだ。ゆえに、何のリスクもなく色惚けしたバカを笑っていられる。バカをバカにしているのは事実だが、雪希がここまでバカになれるということに一つの安堵とぼんやりした幸福を感じているのもまた事実だ。それが安全であれば、熱くて盲目的な恋をしてみるのもいいだろう。たぶん。


「ちなみに、私は藤沢先輩のことが好きではありません」


 祝福一色だった感情が一言で迷子になった。それは、どうなのだろう。僕にはよくわからない。恋愛関係とは必ずしも双方向の感情が噛み合って成立するものではないと知識としては知っている。


 しかし、好きでもない方が好いている方に告白して関係を始めるというのは常道だろうか。逆ならば想定しやすいが。しかし、まあ、ないこともなかろう。自分を好いてくれる相手ととりあえず付き合ってみる。ふられる心配もないわけだし、愛してももらえる。とりあえず恋愛関係というものをやってみたければ、悪い選択ではないのかもしれない。僕にはあまりぴんとこない考え方だが。


「これが上手くいけば、東川君、佐倉くん、田島くんに告白して同じことをします」


 なんだろう。このたぬきは突然おかしくなったのだろうか。藤沢くんは雪希のことを好いているが、今述べた者たちの話は聞いたこともない。まず勘違いで恥を掻くからやめた方がいいと思うのだが、奔放になってみるのもひとつの経験なのだろうか。あんまりまわりの人が幸福にならないので僕としては推奨しない。雪希はよくても知らん某くんたちはかなり迷惑だろう。


「そこで掴んだ手応えをもとに金策をしようと考えています」


 金策の具体例を彼女は述べなかったが、言わんとすることはわかる。豪奢に着飾って美食を頬張る雪希を想像する。ランドセルでも背負っていそうな矮躯でじゃらじゃらと着飾って何やら高そうなものをしたり顔で食っているわけだ。憤った方が良い気がしたが、コミカルすぎた。


「いや、そうかそうか。うん、いいんじゃないか?」


 普段の僕なら絶対に止めただろう。だが面白過ぎて制止できなかった。僕がポンパドールとリーゼントで木刀を持って暴れ回るくらい、それは面白いだろう。ただ、痛い目が行きすぎるおそれがある。多少ひどい目にあっても僕がなんとかすればよいが、どうしようもなく手遅れになることもあり得るわけだ。雪希が面白いことになっているのは見たいが、雪希がバッドエンドを迎えるところは見たくない。色々あったがまあしあわせだったろうくらいの気分で死んでほしいところである。


「これが上手くいったならば、私の不純異性交遊は大衆化された商品としてパッケージングできるでしょう」


 そこまでいくと僕の手に負えない。雪希の人生だから、雪希のご両親が苦しもうと僕はそこにさして配慮しない。だが、もし仮に雪希がやり直したいと思ったときに道がないおそれがあるのは問題だった。僕はその手の問題に詳しくないから、雪希が実際そういう道に入って引き返したいと思ったとき、僕になんとかできるかどうかよくわからない。雪希の自由意志は尊重したいが、それはそれとしてもしもの場合僕に手立てがないのなら、彼女の判断材料のひとつとして懸念は一応表明しておきたい。


 なんでこのちんちくりんのために朝も早くから思考を割かねばならんのだと段々理不尽な気持ちになってきた。雪希は僕が朝に弱いことを知っているはずだ。この時間の僕は早朝覚醒で微睡みの中を苦しんでいる。僕は常に眠くて、それは睡眠不足のせいで、精神の均衡を欠いている自覚がある。柄にもなく笑ったり、今ナーバスになったりと感情の波が大きいのはそのせいだ。ここからさらに限界を超えると感情は思考とともに鈍麻どんまするだろう。


「さて先輩。三つ、私に関する選択権を差し上げます。何をしても構いません。権利の時効は一回ごとに五分です。一度でも時効を迎えると全権利は消失します。先輩は三度私に働きかけてもいいですし、そうしなくても構いません。私はそれで何か変わるかもしれませんし、変わらないかもしれません。すべては先輩の自由です。ただし、先輩が一つ選択するかわりに私も一つ先輩に関して選択します。何をしても構わない選択を」


 くそめんどくさいことを言い出した。なんだこいつ。こっちが面倒くさいのに雪希も面倒くさそうな顔をしているのがかなり不本意だ。眠気で若干苛々してくるのを感じた。もうどうでもいいからてきとうに処理しよう。頭のスイッチが眠いときモードに切り替わるのを感じた。


「僕が選択し、君が選択する。その権利を渡し合う。これは互いについての契約だ。契約は双方の合意に基づかなければ成立しないし、そもそも全権の譲渡は現代的な人権に関する成員の合意に反する。だからそんな契約はできない。君も社会の成員なら合意しているはずだ。それを反故にするのか?」


 雪希はどうでもよさそうに切り返した。


「4分30秒」


 僕は非文明的な野蛮人が嫌いだ。倫理的に洗練されていないことも好きではない。


「脅迫のつもりか。新条、わかっているのか。それはクズのやることだ」

「4分」


 雪希がどうしようもない人間になったことは残念だった。僕にはふたつの道がある。倫理的な道と、ウェットな道だ。倫理的に判断するなら、雪希と僕の間に交渉の余地はない。なぜなら雪希の提案に乗ることは倫理的であることの条件に反するからだ。考えるまでもなく、このときの僕の行動は一択になる。契約は成立しない。


 ウェットな道では、僕は雪希が幸福になる公算が大になる選択をすべきだ。僕は周囲の人に幸せになってほしい人間だ。べつに周囲だけじゃない。世界中の全ての人がより幸福に一生を過ごして欲しいと思っている。誰だって普通に持っている考えだ。この常識的な考えに基づくとき、非常識的な選択ができる。雪希の不幸が自明であるとき、それを強制的に停止できる強権を握ることは僕のウェットな道での戦略上有用だ。


 もちろん、どちらも嫌だ。雪希には僕に関係ないところで勝手にしあわせになってほしい。他の全ての人間がそうであるように。僕は僕でしあわせになるので、人類は人類でしあわせになるべきだ。こんな問題に関係したくない。


「33、32、9、3、2」


 こいついかさましやがった。30秒で熟考して結論を出そうと思ったのにもう考える余地もなく。


「選択する」


 雪希のカウントが止まった。彼女はどうでもよさそうに僕を見上げている。僕は――歪みきった顔をしているだろう。


「僕の選択回数を無限にしろ。一回の選択の時効は一日だ。それを経過したら元の条件どおり全権が消滅する」


 なるほど、と雪希は言った。僕の雪希に対する権力を絶対にする発言だった。屁理屈だが、雪希はべつにそれを問題にしないだろう。


「構いませんよ」


 想定通りだった。そんなことはどうでもいいことだからだ。


「では私も先輩に二つ理不尽を強いましょう」


 どうせこうなる。僕は二回選択をしている。選択回数の無限化と時効の延長だ。僕が無茶苦茶した分だけ、雪希も無茶苦茶することができる。全部をなかったことにしてもいいし、更なる理不尽をぶつけてもいい。先攻の僕が後攻の彼女にここまではやっていいと示した。だからこの屁理屈は問題にならない。


 なんでこっちにしたかな。倫理的かつドライにやりたかったな。ぼんやりと悔悟する。まあ、いいか。どっちかというと、雪希のしあわせの可能性の方が熟考しても僕には大事な気がする。雪希個人はどうでもいいが、雪希が人である以上それなりにしあわせに暮らして欲しい。だから、まあいい。そう思うことにした。


「では先輩は私にキスをして、爾後じご私に告白をしてください」


 こいつの幸福を願った自分自身を釘バットで殴りつけてやりたい気分だった。釘バットで殴りつけられたところで、選択が変わるわけでもないのが最悪だった。










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