惑星などのモチーフが持つ刺すような鉱物性と透明感

・人類として生きること六年目 姪は新緑の笛を吹きたる

・少年になりたかつた日の藻だらけのプール夏野となりて羞しき

と、いきなり「連体形止め」が二連発されてビビる。
一瞬係り結びかと思って係助詞を探したが見つからない。だからこれは連体形止めという修辞だろう。

第一の歌は「新緑の笛」、すなわち草笛の歌だろうか。六歳の姪が草笛を吹いている。

第二の歌は「少年になりたかつた日」という形で子供の頃を回顧しつつ「藻だらけのプール」が「夏野」になっている現在の様子を描いた歌か。
プールが潰れて空き地になり夏野になっているのか。

あるいは昔は綺麗なプールだった場所が「夏野」に似た「藻だらけのプール」へと変化してしまったという歌か。
「少年になりたかつた日の藻だらけの……」という文の形だけで読むと前者の解釈がより良いように思われるが、意味合いを考えれば後者の方が良いような気がする。

「羞しき」とはなにを羞じているのだろうか。
「プール」が「夏野」となるのと同様に歳を取ってしまった自分を羞じているように思われる。

・西瓜食みつつ非恋愛小説をダウンロードす五秒かぞふる

これも「かぞふ」ではなく「かぞふる」としている点を見れば連体形止めか。
「非恋愛小説」というのが面白い。
「小説」とは違うが、ゴールデンタイムに放送される美男美女が主演をやっているドラマをいくつか見ると「刑事モノ」だろうが「医療モノ」だろうが「法廷モノ」だろうが全部恋愛要素があって驚いた記憶がある。

別に恋愛要素が無くても成り立つ話ですら恋愛要素をねじ込んでくるのである。
そういうのを見たあとで梶井基次郎「檸檬」なんかを読むと「恋愛要素が無い!」と感動してしまう。

私のしょーもない体験談はどうでもいいが、「非恋愛」に注目した歌は良い。
考えてみれば、この連作だって「非恋愛」歌集なのである。

思うに「小説」よりも「短歌」の方が「恋愛」との関係は密接である。
「百人一首ほぼ恋愛の歌」とかよく言われるが古今集だって新古今集だって恋歌の部がある。
万葉のことはよく知らない。万葉にある「相聞」の部は恋愛のみならず家族愛の歌を多く含むらしい。

短歌で「非恋愛」を目指すなら「恋ふ」「愛づ」を徹底回避するのではなく、
「恋ふ」「愛づ」の意味を拡大していく方向がより現実的だろう。
ある物が欲しい。これも「恋ふ」ている。遠く離れた家族が心配だ。これも「恋ふ」ている。火星に住みたい。これも火星を「恋ふ」ている。

いわゆる「恋愛」を回避しつつ「恋ふ」とか「愛づ」とかの世界の言語(つまり「短歌」というジャンル)で世界を描写する。

・殲滅の物語したためつつも犬のかたちの雲に会いたし
良い歌である。
これもまた「犬のかたちの雲」を「恋ふ」ている。