最終回

 東京に、夜が来た。

 まるで半球型のカップを地球ににかぶせたかのように、直線的に空がピンク色から紫色に変化し、地平線からおもちゃのように大雑把な形をした半月と星々がぷかぷかと揺れながら浮かんで来る。星座は最初から銀色に光る線で繋がれており、夜空全体を画用紙にして子どもが落書きしたとしか思えない光景だった。

「なんですか、これ」

 唖然とする私の背中を、女が軽く叩く。

「今日の宿はもう予約してる。ダブルの部屋しか空いてなくて……申し訳ない」

「別に謝ることなんかじゃ」

 そう言ってから、自分がいつの間にか女に心を許してしまっていたことを自覚する。

 出会ってから二週間。たったそれだけの時間なのに、一生を共にしたような気さえする。

 夏の夜の濃密な空気を胸いっぱいに吸い込んでから、私は女の後を追った。


 女が取ってくれた宿は、繁華街のすき間にひっそりと建っている個人経営らしい小さなホテルだった。時間が遅いせいかほとんどの照明が落とされ、薄暗い中受け付けのランプがぼんやりと浮き上がっている。事務服を着た高齢の女性が、うつらうつらしながら座っていた。

「ホミです」

 おばあさんが薄らと目を開けて、女を見上げた。

「死体の始末は自分らでやってくれよ」

 え、と息を呑む。女は表情一つ変えず、

「分かってます」

と答えた。

「はいよ、五〇五号室ね」

 鍵を受け取り、階段を昇る。エレベーターはなかった。天井の黄色い蛍光灯が、今にも消えそうに点滅している。

「死体って、なんですか」

 息も跳ねさせず上ってゆく女の背中に問いかける。

「東京ではそれが普通なんだよ。あの日から、ね」

 答えになっていない。けれど、これ以上は何も教えてくれないだろうと思った。

 部屋は意外にこざっぱりとして清潔だった。二人で一緒にシャワーを浴びた後、備え付けられていた浴衣を着て布団にもぐる。

 女は側臥位になって、私に背を向ける。

「ねえ、コノハちゃん」

 ささやくような声だった。カーテンが開いたままになっている窓から、紫色の光が差し込む。車のヘッドライトのような直線的な光がいくつもいくつも通り過ぎてゆく。ここは五階なのに。

「もし僕に何かあったら、今から言う携帯電話の番号にかけて欲しい」

 返答に困っていると、女が寝返りを打って私を見た。満面の笑みを浮かべていた。


 目が覚めた。体を起こす。窓の方を見ると、昨日はピンク色のもやに覆われていた街が、ごく当たり前の朝の光を浴びて静かに光っていた。晴天。空の青さが目にしみる。

「ホミさん……」

 女の名を呼ぶ。返事がない。まだ寝ているのかと思って視線を落とすと、

 そこには小さな原っぱができていた。

 ベッドの上に、シロツメクサが群生していた。白い花。生えている葉は、全て四つ葉だった。

 手を伸ばす。花に触れる。すると、それは一瞬で枯れ落ちた。あっという間に全ての草がしなびて、後には何も残らなかった。ただ、空っぽの布団だけがあった。


 ホテルをチェックアウトし、街に出る。異形の者など一人もいない、透き通っているのにどこか疲れたような空気。

 スマホを開く。女が言い残した番号をダイヤルする。

「もしもし」

 聞き慣れた声がした。

「お姉ちゃん?」

「コノハに職場の番号教えてたっけ。どうしたの?」

「ホミさんが消えちゃって」

 沈黙が落ちる。

「ホミって……うちの同僚のことやと思うけど……二週間前にもう」

 最後まで聞かなくても分かった。

 ああ、そうだった。思い出した。

 私が失った人のことを。

 夏休みが、終わる。

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海の欠片を求めて 紫陽花 雨希 @6pp1e

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