第5話 夢に呑まれた街

 湖底沈没地域を越えるためのフェリーの運賃は一万円だった。運行時間が三十分程度なのでかなり割高だが、払わないわけにはゆかない。なぜなら、列島の西と東は完全に湖に分断されていて、フェリーしかあちら側にわたる手段がないから。

「三途の川の渡り賃もずいぶん高くなったなぁ」

 船のデッキで柵に体をもたせかけて、女がしみじみと言った。

「変なこと言わないでください」

 私がかなり怒っているのに気付いたのか、女は無表情になり視線をそらせた。

「あっちとこっちは、もう完全に別の世界だ。それこそ、あの世とこの世の距離と同じぐらいね」

「行ったことがあるんですか?」

「そもそも、分断が起こったとき僕はあちら側にいたからね。色々なものを見たよ。世界ってこんなに簡単に壊れるんだ、と思った」

 何も言えずにいる私に、女はへにゃりと笑って見せる。

「合言葉、決めておこうか。互いの姿が変わりすぎて分からなくなったときのために」

 私はごくりと息を呑んだ。噂に聞いて想像していたよりもずっと危ない場所に、これから足を踏み入れるのだということを、ようやく自覚した。

「海の欠片を求めて、とかどうですか」

「了解っ。あ、風がやんできたね。見えるんだ、風がないと」

 女が柵から身を乗り出す。私が慌てて彼女のシャツを引っ張ると、女はきょとんとした。

「何? どうしたの?」

「水族館のときみたいに飛び込むかと思って」

 女が困ったように指先で頬をかく。そしてその指を、湖へと落とした。私も、湖を見下ろす。

 青緑色に濁った水の向こうに、うっすらと街が見えた。水草の絡みついた赤い道路標識とカーブミラー。小学校らしい白い建物の窓は割れ、その隙間から小魚が出たり入ったりしている。ごく当たり前の日本の街並みがそこにはあった。道路の真ん中で斜めに止まっている軽自動車の窓から人骨のようなものがちらりと見えて、思わずひゅっと喉が鳴る。

「湖に入ったら肉が融けるから、誰も助けに行けない」

 その言葉で、女も私と同じものを見たことを知る。

 スピーカーから、ひび割れた明るい歌声が流れ始めた。陽気なメロディーと呑気な歌詞が、疲れ切った乗客たちの上を虚しく吹き抜けてゆく。

「そろそろ着くね」

 顔を上げると、向こう岸にうっすらとピンク色のもやのかかった高層ビルの群れが見えた。遠くにある東京タワーが、ぴかぴかと青い光を放っている。

 ここが、一瞬にして夢に呑まれた都市……。

 降り口に繋がる階段を下りてゆこうとしていた女が、振り返る。

「行くよ? 大丈夫?」

「はい、すぐ行きます」

 リュックサックの持ち手を、ぎゅっと握りしめた。


「コノハちゃん、手を繋ごう。はぐれないように」

 私が返事をする前に、女は私の右腕をぎゅっと引き寄せた。

「手を繋ぐって言うか、これは腕を組んでるんじゃ」

 呆れて言ってから、女の表情が真剣であることに気付く。

 街は一見すると、ごく普通だった。道路には車が行き交い、歩道を制服の学生たちやスーツ姿の大人たち、派手な服装の若者たちが歩いてゆく。当たり前の、夕方の風景。きょろきょろしながら歩いていると、誰かに肩がぶつかってしまった。

「ごめんなさい」

 その人の方に顔を向ける。

「ひっ」

 そこにいたのは、星の輪熊だった。ぼーん、ぼーんと低い音を立てながら、それは通り過ぎて行った。

「コノハちゃん、ちゃんとついてきて」

 いつも弱弱しい女が珍しく、強い口調で言った。

「すみません」

「ここでは、人間じゃないものとすれ違うのは日常茶飯事だ。しかも、それらと人間の区別も付きにくい。ほら、見て」

 女は、私と繋いでいない方の手をズボンのポケットに突っ込んでいた。それをゆっくりと出して、私の目の前にかかげる。

人差し指の先から、植物の芽が伸び出していた。みるみるうちにそれは若葉を出し、すくすくと伸びて、蕾を付け、ピンク色の花が咲き、そして枯れ落ちた。指先で立ち枯れていた草に、私は手を伸ばす。すると、草は先から細かい粒子になって消え去った。

女が目を丸くする。

「普通は、手術をしないと取れないのに」

「そうなんですか」

「まあいいや。君は、体におかしな所はない?」

「ありません」

 女の顔を見上げる。彼女の頬から、また新たな芽が伸び出していた。

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