第4話 星の輪熊
ここ数日、私たちはずっと、荒れ果てた田畑ばかりが広がり人の気配のない山間部を野宿しながら歩き続けている。小さなテントや寝袋は、水族館のあった街で買ったものだ。最後に見かけたタバコ屋で買った食料は尽き欠けている。風化してぼろぼろになったタバコ屋の軒先テントですら懐かしいほどに、人恋しかった。
「日が暮れて来たね。今日はこの辺にしとこうか」
先を歩いていた女が振り返って、微笑む。私は疲れ切っているため、うまく笑えなかった。
砂道の上にカーキ色のテントを立てる。女がどこからか拾って来た木の枝で、テントの周りに円を描いた。そして、その縁に何やら記号のようなものを描き足してゆく。いつもの儀式だ。前に、なぜそんなことをするのか尋ねると、
「星の輪熊避けだよ。彼らは欠片に惹かれて寄って来るからね」
と女は当たり前のように言った。
「そんな種類の熊、聞いたことないです」
私の言葉を聞いて、女は口元に微笑みを浮かべたまま、なぜか悲しそうな顔をした。きょとんとする私の頭をそっとなでて、
「知らなくて良いよ」
とささやいた。
夜とは言え気温が高く、テントの中は蒸し暑くて寝苦しい。寝袋のジッパーを一番下までおろして、敷布団のように使っている。網状になった窓から零れ落ちる月明かりのために、視界がぼんやりと明るい。手が触れそうなほど近くに寝転がっている女は、胸の前で腕を組んで私に背を向けている。肩が規則正しく膨らんだりしぼんだりしているので、多分もう眠っているのだろう。私は寝返りを打って、テントの壁を見つめる。眠れない夜は、色々と良くないことを考えてしまう。もう二度とやり直せない過去とか、永遠に失ってしまったもののこととか。
――海の欠片を求めている理由が、きっと二人とも同じであることとかも。
ふと、ぶーんと低い耳鳴りがした。目をつむってしばらく耐えて、その音が耳鳴りではなく外から聞こえる音だということに気付く。息をひそめた。音がどんどん近付いてくる。テントの薄い壁を隔てたすぐそこに、何かの気配がする。ずっしりと重いオーラが、のしかかって来る。
ダメだ。もしそれと目を合わせてしまったら、私は一瞬で命を失う。
必死で息を止める。苦しさでくっと喉が鳴ったとき、
「コノハちゃん、出ておいで」
と懐かしい声がした。背中が痛いほど強張る。
「待たせてごめんね。迎えに来たよ。私をずっとずっと待っててくれてありがとう」
私がずっと聞きたかった声。夢の中で何度も再生した言葉。恋焦がれた人が、そこにいる。
幻覚だろうと思った。けれど、私は入口のジッパーに手をかけた。恐る恐る、引き上げる
「ひっ」
そこにいたのは、異形の影。背の高い人型が頭からすっぽりと布をかぶっているような姿で、その布が夜の闇よりもさらに濃密な黒色をしているため、背景から浮き上がっている。頭らしい半球の周りを、金色の円環が四本、ゆっくりと回転している。それぞれの輪には惑星のような鈍く輝く球が一つずつついていて、球同士がすれ違うときに、ぼーんと木琴を叩いたような音が鳴るのだった。青、赤、黄土色。球の表面でマーブル模様がゆっくりと形を変えてゆく。女が前に見せてくれた空の欠片の色を思い出した。
「コノハちゃん、ダメだよ。心を奪われちゃダメだ。あれは、君の大切な人じゃない」
ふっと、耳元に息がかかった。我に返る。一体どれだけの時間が経っていたのだろう。畳んでいた脚が痛い。女が私の肩をそっと抱き寄せた。
「あれが、星の輪熊だ。彼らは、僕たちのよく知っている人……もうこの世にいない人の声を真似て惑わせる」
「あれが、本当にあの子の霊だってことは……」
「確かに彼らは霊に似た存在だ。けれど、決して君の、その人じゃないよ。真っ当に亡くなった人は、ちゃんと天国に行っている。星の輪熊になってしまうのは、彼らに魅了された者だけ。つまり、今の君みたいな」
ハッとして後ずさりする。女の柔らかい手がゆっくりと、私の両眼を覆った。
「もう、見ないで。寝ようか、一緒に」
ジッパーの閉まる音がした。
テントの天井がぼやけて見えないほど、涙があふれて止まらない。隣に寝ている女が、肩をぽんぽんと叩いてくれる。叩きながら、
「大丈夫。大丈夫だよ、コノハちゃん」
と、あやすようにささやく。
「あなたにも聞こえたんですか、あの子の声」
「僕には僕の大切な人の声が聞こえた」
「……ホミさん、私もなんです。私も失った人を取り戻すために海の欠片を探しています」
そっか、と呟く声が聞こえた。そんなこと、ずっと前から知っていたというような口調だった。当たり前か。この人は、私のことを知っているのだ、出会う前から。
自分の腕で目を覆う。世界が、闇に落ちた。
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