第3話 リセットボタンと夏の風
「コノハちゃんはさあ、人生にリセットボタンがあったらどうしたい?」
ふと、女がそんなことを言った。
青い草原の中を歩いていた。打ち捨てられた荒畑で、私たちの腰の辺りまで伸びた瑞々しい青草が、夏の風にさらさらとなびいていた。舗装されていない道は、遠くに見える小高い山の端まで続いているようだ。山道の入口には、灰色に汚れた軽トラックが停められている。
夕方に向かって色を失ってゆく空をながめなら、私は
「昔、そんなドラマがありましたね」
と呟いた。
「後悔を抱えた人の前におじいさんが現れて、過去に戻ってやり直しをさせてくれる。でも、やり直してみたら新しい人生は決して思い描いていた通りではない、ってやつ」
少し前を歩いていた女が、私の方に振り返った。
「それはつまり、君はやり直したくないってこと?」
私が答えずにいると、女はへにゃりと笑った。
「これは、昔話なんだけどさ」
女がまた、私に背を向ける。腰の後ろで手を組んで、少し大股で歩いてゆく。癖の強い髪が、冷たい風に巻き上げられる。
「僕は、ある選択をした。その先にあったのは地獄みたいな日々だった。何度も後悔したし、自分も周りの人も責めた。そんなある日、戻れたんだ、選択をする前に。僕は前と違う方を選んだ。それで幸せになれると思った。そうしたら、さ、大切な人が亡くなったんだ。やり直す前は当たり前に生きて傍にいた人が」
「昔話って……それは」
ドラマの一話のあらすじでしょう、と言おうとして口ごもる。振り向いた女が、真剣な目をしていたから。
「僕の人生、何回目だと思う?」
「わ、」
開いた口をいったん閉じて、つばを飲み込んで、また開く。
「分かりません、そんなこと。もしかして、言いませんよね? 数日前に私と出会ったのが初めてじゃなかった、なんて」
ざあっと、草原の上を風がわたってゆく。青色が翻って、白くきらきらと光る。
「前に出会った君と、今の君はちょっと性格が違う気がする。でも、多分それは勘違いで、変わったのは僕の方なんだろうね」
「――もしかして私、もうすぐ死ぬんですか?」
「まさか」
女が微笑む。
「亡くなったのは、別の人だよ」
その夜、二十四時間営業のカラオケのソファの上で、私は夢を見た。ホミさんと私が、二人で手を繋いで海辺の道を歩いていた。幸せだった。隣にいるこの人が愛おしくてたまらなかった。
目を開けて、座ったまま俯いて眠っている女を見たとき、存在しないはずの記憶は一瞬でとけてしまった。そこにいるのは、たった数日前に出会ったばかりのよく知らない人だ。
彼女の薄い顎先をながめながら、「ずるい」と呟く。
「私にも、前の人生の記憶をくれたら良いのに」
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