第2話 古傷、人ごみ、サンゴの海

 夏休み真っ最中の水族館は、家族連れでかなり混んでいた。どの水槽の前にも人だかりができていて、小さなものだとほとんど何も見えなかった。人の間に分け入ってゆくのが面倒くさくて、私はただ青みがかった薄暗い館内をぼんやりと歩き回っていた。そもそも、私の目的は魚を見ることじゃない。探しているモノがある、この世界のどこかに。

 少し距離を取って隣を歩いている女は、小さな子どものように目をきらきらさせながらあちこちを見回している。時々、とても小さな声で魚の名前らしい単語を呟く。私はため息をついて、女の視線の先に回り込んだ。

「あの、ホミさん。あなた、もしかして楽しんでるだけじゃないですよね……?」

 女ははっとしたように目の焦点を私に合わせ、恥ずかしそうに微笑んだ。

「うん、あるよ。この水族館のどこかに、海の欠片が」

「そう、ですか」

 なぜそう断言できるのか聞きたかったが、ためらった。私はこの人のことをまだよく知らない。これ以上突っ込むのは怖かった。

 私の負の感情を読み取ったのか、女は眉を寄せる。そして、

「とっておきの秘密、ばらしちゃおうかな」

とおどけて言った。ズボンのポケットから何か丸いものを取り出し、何も言えずにいる私の目の前にかかげた。

 それは、漆黒の球だった。何もかもを吸い込んでしまいそうな闇の色は、果てのない宇宙のように寂しく、親しい人の瞳孔の奥のように温かかった。よく見ると、女の掌から少し浮いていた。ゆっくりと斜めに回転している。

「これは、空の欠片。海の欠片と引き合うんだ」

「どうしてこんなモノを……」

 女はふっと愛しげに笑った。

「昔もらったんだ、大切な人に」

 素早く指を折ると、球は掌に吸い込まれて消えた。女はその手を、ポケットに突っ込んだ。


 薄暗い館内を抜けると、急に日の光が射した。目の前の鮮やかな光景に惹きつけられ、思わず立ち止まってしまう。そこにあったのは、サンゴ礁の海だった。幾筋も差す光の帯の間をかいくぐるように、赤や青、色とりどりの魚たちが泳ぎ回っている。三階までの高さがある水槽を貫くように、エスカレーターが設置されている。女はすたすたとエスカレーターに乗り、私に向かって手招きした。慌てて後を追ったけれど、二人の間に数組の家族連れが挟まってしまった。

 まるで、海の中を空に向かって上ってゆくような心地だった。三階からは、水槽を見下ろすことができるようになっていた。先に着いた女は、フェンスに身を乗り出している。危ないな、と思っていると、急に女の体が浮き上がった。

「あそこに、海の欠片がある」

「え、ちょっと待って!」

 必死で手を伸ばしたけれど、人ごみの向こうにいる女には届かなかった。

 どぷん、と低い音を立てて、海は女を呑み込んだ。


 職員用のバスルームは狭かった。くすんだ水色のタイルと、大人が体を小さく畳んでやっと入れる大きさの鈍色のバスタブ。服を着たまま洗い場に立つ私を、バスタブの中で膝を抱えた女が見上げている。濡れて黒が濃くなった女の前髪の先から、ぽとぽとと雫が垂れる。その向こう側にある目は、さっき見た得体の知れない球体のように何もかもを吸い込んでしまう深い闇をたたえていた。

「ごめんね、コノハちゃん。僕の介護させちゃって」

 暗い目のまま、女は明るい声で言った。

「一人でお風呂にも入れないなんて、さ。一人ぼっちで目をつむるのが怖いんだ」

 女の体は、古傷だらけだった。元々ケロイドができやすい体質らしいが、日常生活で自然についたものだとは思えなかった。服に隠れる場所にばかり、傷はあった。

「昔、海に溺れたときに怪我したんだ」

 女がそう言って笑う、口元だけで。

「……海の欠片は、あったんですか」

「ほら」

 女が、握りしめていた右手を広げる。ぽわあっと透き通った青い光が溢れて、女の目と、水滴を輝かせた。真夏の海面をそのまま球状に固めたような不思議なモノが、そこにあった。

「ホミさん、私、実は」

 きゅっと唇を閉じる。私がこれを探している理由は、まだ言えない。

 私はまだこの人のことを、何も知らないのだから。

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