海の欠片を求めて

雨希

第1話 夏、出会い、旅の連れ

 青みがかった灰色の水彩絵の具を筆にしみ込ませて、さっと一度だけ滑らせたような薄暗い部屋の中に、一筋の白い光の帯が差し込む。その光はゆっくりと数本の細い帯に裂けて、膝を抱えてうずくまっている僕の上にも伸びて来た。頭を上げる。あの人が僕に、手を差し伸べてくれたような気がしたから。

 まだ、生きられる。

 立ち上がる。

 窓を開けると、冷たい風が吹き込んで僕の前髪を逆立てた。深呼吸する。目の前を、白い鳥の数えきれないほど大きな群れがバタバタと音を立てて飛び去ってゆく。びっくりして少し身を引いたけれど、すぐにベランダに出て群れを目で追った。どこまでも続く高い高い空が、何もかもを吸い込んでゆくようだった。


 ☆


 私は旅人である。あるモノを探して見知らぬ街を歩き続ける、たった一か月限定の、旅人。

 その街は、江戸時代から昭和初期までに建てられた古い街並みが国によって保存されている場所だった。白壁の土蔵が立ち並び、レンガ造りのお屋敷の前を流れる川の両側には、しだれ柳が涼しげな影を落としている。土蔵や町家はカフェや雑貨屋に改装されており、平日の早朝だと言うのに人のざわめく気配があちらこちらでする。明け方に見る夢のように、ひっそりとした狂気と闇のうずくまる街だった。

 ここには、私の求めるモノがあるかもしれない。

 勘を頼りに歩き回っていると、ふと何か紐のようなものが私の足にまとわりついた。私が気付いたとたん、その紐はすっと解けて、後ろにあった町家の扉の隙間に吸い込まれていった。

 呼ばれた、と思った。くもりガラスのはめ込まれた木製の扉に、そっと手をかける。開けたとたん、ふっと甘い木材の香が鼻をかすめた。中は薄暗かった。腰ぐらいの高さの棚がいくつも置かれている。オレンジ色のランプがそこここに灯っていて、商品らしい木彫り細工をねっとりと照らしている。

「いらっしゃい」

 どこからか、人の声がした。みしりみしり、と階段を降りる音が鳴って、店の奥から誰かが出て来た。

「君は……何かを探しているみたいだね。さて、ここにあるだろうか」

 薄暗いせいで表情はよく分からなかったけれど、声色からその女が笑っているような気がした。

「あなたが店主なんですか?」

「いやいや、僕は留守番さ。今日は店主の友人の結婚式でね。一日だけ店番を任された」

 女が近付いてくる。私より頭一つ分だけ背が高い。肩まである髪は癖が強く、好き勝手にうねっているように見えた。半袖の角襟シャツと黒いスラックス、青色のネクタイというかっちりした服装なのに、足元はサンダル履きだった。

 容姿が整っているわけではない。けれど、なぜかとても美しいと感じた。

 女は私の隣に立つと、棚から木彫り細工を一つ手に取った。

「このカエルのキーホルダーは、旅人が無事に家に帰りつくことを祈って作られたんだ。君にぴったりだと思うけれど」

 女が差し出して来たので、両手ですくうように受け取る。柔らかな肌触りだった。

「……私は、海の欠片を探してるんです」

 へえ、と女が息を呑む。

「君はそれがどんなモノなのか、知ってるんだ?」

「見たことはありません。ただ、美しい青色をしていることだけ」

「どうしてそんなモノ、探してるの?」

 唇をかんだ私に、女は優しく笑いかける。

「初対面の人間から急にこんなことを言われたらびっくりすると思うけれど」

 そう言うと、彼女は身をかがめて私と真っ直ぐに視線を合わせた。

「僕を、旅の連れにして欲しい。探してるんだ、僕も。海の欠片を」


 各駅停車の鈍行列車は、私たち以外に客がいなかった。女は臙脂色の座席に腕を組んで座り、窓ガラスにこつこつと頭を小刻みにぶつけながら眠っている。

 女……彼女は、ホミと名乗った。名字なのか名前なのかは分からない。

 間延びした車掌の声が、目的地である駅が近いことを知らせる。

 私はちょっとためらったけれど、ホミさんの肩を揺さぶった。

「起きてください」

 彼女が薄っすらと目を開ける。そして、嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、コノハちゃん」


 そうして、一人旅になるはずだった大学一年生の夏の一節が、謎の女によって彩られてゆく。

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