解かれたくない謎 その2


 俺は勉強道具を鞄に詰めると、葛西の後に続いて図書室を出た。彼女は俺を部室棟にある水泳部の部室に連れて行くと言う。そう、連れて行くと書いて、正に連行だ。足取り軽やかに、とはもちろんならない。道すがら、廊下の明かりが一斉にパッと点いた。

「なあ、葛西さん」

「なに?」

「念のため聞いておくけど、葛西さんはもう俺のことを疑っていないんだよな?」

 俺の前を行く彼女は歩きながら振り返ると、また意地悪な笑みを浮かべながらこたえた。

「さあ、どうだろうね」

 その言葉に、俺の心臓が一拍飛んだ。「勘弁してくれ……」と、思わず言葉を漏らしている自分に気づいて、俺はまたも思わずため息を吐いた。

 足が枷されたように重い。これではまるで刑場に引かれていく囚人だ。

「でも、菅原が疑われているのは確かだから、もし本当に無実だって言うならちゃんと釈明しなきゃだよ」

「疑っているって……いったい誰が疑っているんだ?」

「うーん……今のところ、部のみんなかな」

「……どうして?」

「見たって人がいるの。更衣室の前で菅原のこと。近くに行ったりしなかった?」

「少なくとも放課後はあの辺りには近づいていないし、それに、それだけの理由で他人を疑うのか?」

 俺の言葉に、彼女は一瞬たじろいだようだった。それからちょっと考えるように黙った後、答えた。

「……だって、プールの更衣室って少し奥まったところにあるでしょ? 水泳部以外の人間がそんなところにいたら普通より目立つのよ」

 それを聞いて、俺は少し歩を速め、彼女の左横に並んだ。横から彼女の顔を窺うように見ると、彼女は俺の視線から逃げるように反対側を向いた。

「おい。だとしても根拠として弱いだろ。俺を疑う理由が他にあるんじゃないのか?」

「……その、なんて言うか……」

「なんだよ……」

 彼女が言いにくそうに口ごもるので、代わりに俺が言ってやる。

「……俺がいかにもそういうことをしそうな、怪しい男だって言いたいのか?」

 聞くと、彼女は慌てて釈明するように言った。

「変な意味じゃないよ。本当に、変な意味じゃないんだけど……菅原って、いつも一人でいるし、目つきも悪いし……怖がってる女子も少なくないんだよね……」

 変な意味もくそもあるか。心の中で毒づく。とんだ言いがかりじゃないか。

 俺はひとつ舌打ちをしてから、彼女の後方に戻った。実に不愉快だ。とっとと身の潔白を晴らして今日のところは帰ろう……こんな気分にさせられたんじゃ課題どころではないぞ、何か気を紛らわせるものが必要だ……。

 彼女は俺の憤りを気取ったらしく、何も話しかけてこなくなった。そして俺たちは目的地まで黙々と歩いた。


 我が鷹宮高校の校舎は、大きく三つの建物から成っている。正門側から順番に、四階建ての南棟と北棟が平行に連なっている。南棟には主に学級ごとの教室があって、北棟には化学室などの各学科の専用教室がある。北棟の東端からは体育館棟が北へ直角に伸びている。体育館棟は二階建てで、一階は屋内プール、二階は体育館になっている。

 これら三棟の二階部分には、それぞれの棟を結ぶ渡り廊下がまっすぐ伸びていて、上空から見ると、校舎はFの字の形で並んでいることが分かる。

 北棟と体育館棟に囲まれるようにグラウンドが広がっていて、北棟から見て体育館棟の裏手に、俺たちの目的地である運動部用の小さな部室棟がある。

 アクセスの不便なことに、俺が数学の課題に取り組んでいた図書室は北棟の四階西端にあるから、そこから上靴を履き替えずに部室棟に行くには、一度北棟の東端まで行き、二階まで下りて、渡り廊下で体育館棟へ渡ってから、また一階に下り、一度屋外に出てから体育館棟に沿って、その裏手の部室棟まで続く簀の子の上を歩いていく必要がある。

 なかなか骨の折れる道のりだ。


 今年は暖冬と言うが、それでも二月の寒さは容赦なく肌を刺す。体育館棟から一歩外に踏み出した瞬間、鋭い風が頬を打った。制服のブレザーだけでは心もとない。屋内とはいえ、こんな季節にプールに入るだなんて、考えるだけで凍えそうだ。

 簀の子の上を歩きながら、ふとグラウンドに目を向けた。防球ネットの向こうで、球児たちが懸命に白球を追う姿が見える。視力のあまりよくない俺には、そろそろあの小さな球の輪郭も夕空の中に溶けていってしまう時間だ。

 野球部に知り合いはいない。だが、たとえいたとしても、この薄暗がりでは顔の見分けもつかなさそうだ。おまけに皆、同じユニフォームに同じ坊主頭だから、彼らですら、お互いを見分けるのに一苦労しているのではないだろうか。そんな思いが頭をよぎった。

 ……と、こんなことを考えながら、部室棟に到着するまでの束の間の猶予期間を、甲斐の無い現実逃避で浪費した。


 体育館の裏手に回ると、部室棟はすぐに姿を現した。アパートを思わせる佇まいの、古びた二階建ての建物だ。その中の一室、103号室の前に来ると、葛西は肩越しにゆっくりと振り返り、「ここ」と、これまでの沈黙に小石を投げ入れるように短く告げた。

 着いてしまったか、と、俺はちょっと肩を落とした。そして、彼女がドアノブに手をかけたので、俺はすぐに気構えた。俺にとってはこれから始まることは、負けるわけにはいかない戦いのようなものだ。


「連れてきました」

 扉を開けると葛西はそう一声かけた。

 俺は弱気を悟られないように、葛西に続いて毅然とした足取りで室内に踏み入れた。

 部室棟の中に入るのは初めてだ。にわかに鼻腔をくすぐる軟膏のような香りが、この空間の第一印象を独特なものにした。室内の様子はというと、水泳部だけだろうか、やけにこざっぱりして、机や椅子の類もない。机や椅子の類は見当たらず、壁際にロッカーと棚が据え付けられているだけだ。諸々の備品は体育館にあるのかもしれない。それでも狭い部屋のせいか、妙な窮屈感が胸に迫ってくる。

 部屋の中には葛西を合わせて六人の部員がいた。いや、一人だけ部員ではなさそうな奴がいる。男だ。しかも見覚えのある顔だ。

「村上?」

 思わず俺はそいつの名前を呼んでいた。相手はこの状況を気まずく感じているのか、俺の声に反応して少し目を伏せた。そいつは俺の中学時代のクラスメイトだった。

 そして、もう一人見知った顔があった。部屋の一番奥で、まるで自分の存在を消したいかのように顔を伏せている女子。葛西と同じ、今のクラスメイトの森だ。

 他の部員は黙って俺を見ている。


「あなたが葛西君ね。私は赤羽。ちょっと聞きたいことがあるのだけど……」

 少しの沈黙の後、そう口火を切ったのは上級生の女子だった。緑色の学年色の上履き……つまり二年生だ。この時期は三年生はとっくに引退している。雰囲気から察するに、彼女は部長だろうか。

「はい、そうです」

 俺は頷いた。と、そのときだった。

「おい! 菅原、おまえ!」

 怒号とともに村上が急に突進してきたかと思ったら、そのまま左手で俺の胸倉をつかんで、反対側の拳を振り上げた。俺は咄嗟に両腕を上げて頭部を守る体勢を取った。

 殴られると思った俺は歯を食いしばった、が、予想した衝撃は来ない。

「ちょっと、村上くん!」

 言いながら、葛西が俺たちの間に割って入ってきた。彼女の制止に、村上は思いのほか素直に引き下がったが、俺はさすがに参ってしまい、乱れたネクタイを正しながら彼らから一歩退き距離を取った。それ以上退けなかったのは、すぐ後ろに扉があったからだ。

「すっかり犯人って感じだな……言っておくが、俺は下着のことなんて何も知らないぞ……」

 狼狽を誤魔化すように俺は反論した。


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アルゴスの瞳 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto

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