アルゴスの瞳

坂本忠恆

葛西千佳子

解かれたくない謎 その1


 だれもいない図書室の奥の席で、俺はひとり数学の課題を解いていた。週最後の数学の授業では、まとめてたくさんの課題が出る。心置きなく週末を過ごすための、これは週一回の儀式とも言えるルーチンだ。

 司書の先生は奥の部屋にこもりきりで出てこない。図書委員の生徒の姿も、今日は見当たらない。携帯CDプレーヤーから流れる音楽は、いつの間にか止まっていた。第一に静寂が規律であり、その規律が支配する空間で、従順な俺はこの静閑な儀式に精を出していた。

 ふと、図書室中の照明が点いた。俺はちょっと驚いて周りを見回した。宿題に集中していて気にならなかったが、窓の外は薄暗くなっている。誰か来たのだろうかと、俺はちょうど背にしていた図書室の入り口の方を振り向いた。女子生徒が一人立っていた。彼女が明かりを灯したようだ。気にせず俺は再び宿題に向き合おうとしたが、音の出ないイヤホンが裏腹に煩わしく感じてきたので、外して机の上に置いた。すると、先ほどの女子生徒だろうか、つかつかと背後から足音が近づいてくるのが聞こえた。しかし、まさか自分に用があるわけでもあるまい……


「ねぇ、菅原。あなたに解いて欲しい謎があるんだけど」

 案の定、というべきか、俺は背後から声をかけられた。声の主は俺の真横に立った。その方に視線を上げると、それは同じクラスの葛西千佳子だった。

「奇遇だな、葛西さん。ちょうど俺も解いて欲しい問題があったんだ」

 俺は努めて冷静にそう答えた。

「ダメよ。宿題は自分で解かなきゃ」

 彼女の声は何となくよそよそしく感じられた。普段の関わりが少ないせいか、それもある意味仕方のないことだろう。

「俺だって善意の探偵じゃない。まぁ、そもそも探偵ではないが……どうして俺に?」

「聞いたことあるわよ。あなた、中学のとき、お友達とよく謎解き遊びみたいなことしていたんでしょ?」

「文字通りただの遊びだよ。興味本位でいろんなことに首を突っ込んでいただけさ」

「でも好きなんでしょ? そう言うの……?」

 そんな彼女の言葉に、俺はわざと眉間にしわを寄せて、あからさまに不機嫌な顔を作ってみせる。そもそも、どうして彼女は俺の過去を知っているのだろうか。

「中学のときは、な。そんな男が今じゃこうやって大人しくしているんだ。少しくらいは事情を汲んでくれ」

 それどころか俺は、高校に進学してから友達らしい友達を一人も作っていなかった。

「……何か嫌なことでもあったの?」

 フンと鼻を鳴らして、俺はまた宿題に取り掛かった。

「請け合えないってだけだ。期待に添えず悪いが他を当たってくれないか……」

 それでも彼女はなかなか俺のそばを離れようとしない。まだ諦めていないようで、そこに立ってモジモジしている。

 たまらず俺はもう一度顔を上げて言った。

「この通り俺は忙しいんだ。それこそ見返りでもない限りは、そんな依頼は受けられないな」

 彼女は俺から目を逸らすと、小さな声でやっとこたえた。

「……あるわよ」

「え?」

「見返りなら、あるわよ」

「ほう」

 俺は思わず興味をそそられて、ペンを机に置くと顎で続きを促した。

「私の下着を、あげる……」

 ゲフンと俺はむせた。聞き間違いだろうか?

「今なんて?」

「だから、私の下着を……」

 彼女は頬を赤くしている。どうやら聞き間違いではないようだ。

「……なんだそれは、流行りのギャグか何かか? 品がないな」

 俺は動揺を殺しながらこたえた。

「いらないの?」

 彼女はそう言いながら、なぜか不安そうにこちらの表情を伺ってくるので、今度は俺の方が目を逸らしてしまった。

「逆に聞くが、俺がそれで引き受けたりしたら、葛西さんはどう思う?」

「軽蔑するわ」

「だろ? 俺は恥知らずじゃない」

「……よかった」

 そう呟くと彼女は安心したように微笑んだ。情緒の忙しいやつだ。

「よかったって、何が?」

「だって欲しくないんでしょ?」

 欲しくない、とはっきり言うのも、なんだか失礼な気がする。かといって、当然欲しいとも言えない。どう返答するべきか迷った挙句、俺は曖昧に頷いておいた。

「うん……まぁ……?」

 聞くと、彼女はまたモジモジしながら黙ってしまう。なんだか気まずい。俺は彼女にさっさとここから立ち去ってもらいたくて、口を開いた。

「……さあ、もう話はついただろ?」

「でも、少しは気になったりしないの? 私がここまで言っているのに……」

 なかなか食い下がる。

「そういった無分別な好奇心からは卒業したんだ。それに、解かれることを望まない謎だってある……ポーの言葉だよ」

「フォー?」

「それはベトナムの麺料理だ……」

 俺がそうツッコむと、今度は彼女は楽し気にクスクス笑った。どうやらまだ立ち去らないつもりだ。


 椅子に座る俺は少し脱力しながら、そんな彼女の様子を仰ぎ見るようにして観察した。そして、「ああ、葛西ってこんな顔をしてたのか」と、大した感慨もなしに思ったりした。

 彼女の髪の毛が肩のあたりで揺れている。その髪は、わずかに濡れているようで、かすかにカルキの匂いを漂わせている。彼女は水泳部なのだろうか。今は二月だが、うちの高校には屋内プールがあるから、季節を問わず活動ができるはずだ。周りの同年代の女子が化粧を覚えていく中で、色付きのリップクリームをつける程度にとどめられた彼女の顔貌には、その年齢相応のあどけなさと、生まれながらの大人びた雰囲気が同居していて、言葉にできないどこかフェティッシュな趣がある。これは皮肉ではなく、彼女の容姿には一定数の男を惹きつけるだろう何かがあった。

「でも、きっとあなたは解かれることを望むはずよ」

「どうしてだよ?」

 と、急に彼女は前かがみになると、俺の耳元にぐいっと顔を寄せてきた。俺は思わず身をかわそうとしたが、逃げ場がない。彼女の髪が首筋に触れ、くすぐったい感触がした。

 それから、まるで秘密を打ち明けるように、彼女はささやいた。周囲には誰もいないというのに。

「あなた……」

 俺は息を呑み、彼女の言葉に耳を傾ける。

「……疑われているわよ……私たち女子水泳部員の下着を盗んだって……」

「なんだって?」

 俺は間抜けな声を出しながらちょっと仰け反ってしまった。そのまま俺は立ち上がると、今度は彼女の顔を少し見下ろす格好になった。彼女は哀れみを込めたような微笑みを浮かべている。

「……マジ?」

 彼女は二度も頷きながら、言った。

「うん、うん、マジ」

「じゃあ、さっき話していた謎っていうのも、それと関係が……?」

 俺の狼狽えた様子を見てとってか、彼女の哀れむような笑みが、少しずるそうな笑みに変わっていくのが分かった。

「謎を解く気になった?」


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