アルゴスの瞳

坂本忠恆

プロローグ

青春は「謎」らしい


 多くの人にとって――いや、大人たちの得々と垂れる講釈を総合してみるに――青春は「謎」らしい。

 本当にそうだろうか、と俺は首を傾げる。


 その「謎」は、物事の奥行きをひたすら有難がる態度の陳腐さと紙一重だ。万物が深みを帯びるのは、それらが等しく世界の根源的な不可思議へと通じているからにすぎない。壮年期には壮年期の、老年期には老年期の、それぞれ謎と呼ぶに足る神秘めく何かしらがあり、また(青春のそれとの比較の上でも)かなり厄介な謎を運ぶ何かしらがあるはずだ。青春という一期間にだけ特権的な神秘が宿るわけではない。それでも青春に、何らか卓越を見出すとすれば、それはただ、無知ゆえの恥ずかしい過去をありていには認めたがらない、大人たちの往生際の悪さに過ぎないのだと俺は思う。いや、もちろんその場合も、翻って考えれば、すべての真理が深いのと同じ理屈で青春も深淵を孕むと言うことになるのだが……、それでもなお俺にとってそれは、手垢のついた、むしろ分かりやすいほど凡庸なものに思えてならない。


 俺が青春を陳腐化したがるのは、いずれ失われるそれへのエクスキューズを、大人になるに先んじて得ようとしているからなのかもしれない。高校生にもなると、もはや俺たちに多くの猶予が残されていないことは分かり切っている。あと数年で就職していく同級生も多い。世間で使われる場合に、高校生という肩書きや、それに付随する青春というレッテルは、控えめに言っても誇大な広告のようなものだ。それにも関わらず、人生という坂道を見上げる不安な視線が、俺たちにとっては最早使い古された「青春」という語にさえ一抹の羨望を内側から漂わせ、高校生活という今現在に安心材料を見出そうとする卑屈さに繋がってしまっている……。まるで、かつての子供らが、彼らにとっての大人たちの懐古する「青春」に翻弄されるの慣いが、今日まで孫孫と続いているようで、それが俺には癪だった。


 それでも俺たちの日常は相変わらず平熱で、期待したドラマは何もなく、ちょっとやそっと現実に脅かされたくらいでは熱を出す素振りもない。終章へ向かうごとに薄くなる教科書のページこそが、唯一「過ぎ去るもの」からの静かな警鐘なのだろう。ところが、春になるたびに配られる新しい教科書が、俺たちに無限に続く学園生活の輪廻を幻視させる。

 そう考えると、俺たちの取り繕われた無自覚は、もはや青春という名の病理に近い。


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