水晶の見る夢3
何度も扉に体当たりをする。
背中では、懐中電灯を手にした沙織が心配そうな顔で見守っていた。
「どうして開かないんだ! こいつ!!」
「もうやめて。将樹の体が壊れちゃう」
「どうすんだよ。閉じ込められて缶詰か」
「この扉は開かない」
「こんなことあるかよ」
振り上げた腕を扉に叩きつけた。音だけがむなしく響く。
まるで巨大な岩が外側から押さえつけてるみたいだ。おそらくブルドーザーで押しても開かない。
「ごめん。ぼくのせいだ。ぼくが外で見張ってればよかった」
「私、見てた。扉が閉まらないように石を置くところ。将樹は悪くない」
近くにあった大きめの石を拾ってきて、扉が動かないように地面に置いた。風が吹いたぐらいで閉まるわけがない。だれかが石を動かさなければ。
扉が閉まる音がすれば絶対に気づいたはずだ。そんな気配はまったく聞こえなかった。
「腕を動かせる? ほかに痛い場所はない?」
ぼくに上着を脱いで背中を見せるようにいった。シャツをめくる。
「これぐらいたいしたことない。かすり傷さ」
「バカね、後遺症になったらどうするのよ。すこし腫れてるけど、骨は折れてないみたい」
「まるで医者の娘みたいだな」
「減らず口。診察代は出世払いにしてあげる」
沙織は、ぼくの背中を軽く叩いた。
上着を着直す。懐中電灯を床に置いて、奥の壁に寄り掛かり肩を並べて座る。
「電波は届かないみたい」
沙織はしかめっ面で、スマホにタッチしていた。
あきらめた様子でポケットにしまう。
「救助を呼ぶのは無理か。Wi-Fiでもあればなあ」
「いまごろママがカンカンね。不良娘が、また夜遊びしてる」
「しれっとしてんな。だまって家を抜け出してきたのか」
「いえると思う? 夜中に男の子に会いにいってくるなんて! すぐに帰るつもりだったし。最近、門限破りの常習犯でしょ。将樹と会ってるの気づいてるみたい」
「ますますぼくの株は暴落してんな。食事会は針のムシロだ」
「いざとなったら私もいっしょに謝ってあげる。その頃には機嫌も直ってるはず」
「だといいけどな」
ぼくは空元気で笑った。
「だから堂々としなさい。いつかのライブハウスみたいに。男は自信満々で、すこし威張ってるくらいでちょうどいいのよ。自意識過剰はダメだけど」
「食事会は、夕方だよな。ずーっと飯を食ってるわけじゃないだろ」
「うちに集まるのが6時ちょっとまえで、花火が打ち上がるのが夜の8時でしょ。終わるのが30分ぐらいで、9時には解散かな。ナオミが、引っ張ってでもコウヘイを連れて行くっていってた。あとはミカとタイガだけど、そっちもナオミがうまくしてくれると思う。将樹は、なにか食べたい物ある?」
「寿司じゃないのか」
「お寿司以外に。将樹が食べたい物」
「沙織の手作り料理がなにかあればいいかも。飲み物付きで」
「腕によりをかけて、美味しいグラタンを作ってあげる。ホワイトソースの」
「グラタン? そんな手の込んだ物を作れるのかよ、沙織に」
「意外と簡単なの。まず鶏肉と玉ねぎとマッシュルームの具材をフライパンで炒めるでしょ。塩とコショウで下味をつけて、好みでほうれん草やブロッコリーもいいかも。小麦粉とバターをくわえて弱火にかけて、牛乳を少しずつ足してかき混ぜる。全体的にとろみがついてきたらホワイトソースの出来上がり。お鍋で茹でておいたマカロニを入れて、専用の容器に移して、チーズをふりかけてオーブンで焼き色がつくまで加熱すれば完成」
「まるで料理の出来る女子みたいだな」
「私を舐めんなよ」
ぼくのあごに頭をぶつける。そのまま肩に乗せる。
たとえ演技だとしても、明るくしてもらえるとたすかる。この状況で泣かれたりしたら最悪だ。
(森で遭難しかけたときも、こんなふうだったのかな)
と思った。
朝早くから準備して、沙織がぼくのために手作りのグラタンを作るのを想像した。キッチンは広くて、見たこともないような調味料があって、ほとんどは母親が作って、沙織は横で見ててオーブンに入れるだけの役割のような気がした。沙織の口からグラタンという単語が出てきたのも意外だった。でも、それでいいのかもしれない。
床の懐中電灯が息切れしたみたいに点滅をはじめた。明るさが弱くなる。
「ウソでしょ。故障??」
沙織があわてた様子で手に取る。上下に激しく振った。
「電池切れか」
「そんなわけ……新品の電池に交換してきたのに。80時間連続でつくはず」
「不良品をつかまされたんだろ。心配しなくても、ぼくのライトが……あれ、おかしいな」
LEDライトのスイッチを入れるが、ウンともスンともいわない。とっくにご臨終のようだ。
なにか気づいたみたいに、沙織がスマホを取り出す。
画面を見て、こわばった顔をした。薄暗いからよけいシリアスに見える。
「母親から連絡でもあったか」
「……バッテリーがゼロになってる」
「ぼくのもだ。たしかに充電したはずなのに」
電源ボタンを押しても、まったく反応がない。表面がツルッとした、四角い板になってしまった。
ふたり揃って顔を見合わせる。本当にヤバいときは、ヤバいとか声が出ないもんだ。
申し訳なさそうに灯りが消え、息を殺して、ぼくらの様子を窺っていた暗闇が津波になって押し寄せる。
「朝になれば、学校に連絡が行ってたすけが来る。それまで、おとなしく待ってればいいさ」
しがみつく沙織を体で受け止める。
ハッタリでもいいので、沙織の不安をすこしでもやわらげたかった。
(たすけが来るといってもな)
今日は金曜日だ。土日に学校にやって来る関係者はどれぐらいいるだろう。いたとしても、敷地の一番奥にある古墳まで足を運ぶ確率は限りなくゼロにひとしい。
こんなことなら自転車を校門に停めてくればよかった、と後悔した。だれかが、かならず見つけたはずだ。
問題は、明日の朝まで酸素がもつかどうかだ。
出口の扉は、空気が漏れる隙間もないほどピッタリと閉じていた。完全に密閉された空間だ。通気口がなければ、酸素は確実に薄くなっていく。
(この広さだと長くて1日ぐらいか……これを暗示してたのか)
夢の中で感じていた息苦しさを思い出した。
吸い込んでも吸い込んでも空気が薄くて、肺に十分に届かない感覚。朦朧として、意識が途切れる。
沙織がそのことに気づいていないわけがない。いったところで、どうしようもないからいわないだけだ。
夢の中では、銃で撃たれても、ビルから飛び降りても死ぬことはない。いつか沙織がいっていた。
これはまぎれもない現実だ。酸素がなくなれば、確実に死ぬ。
(ぼくらはおびき出されたのか。ここで死ぬように)
どうしようもない無力感にやるせなさを感じる。
古墳がぼくらのお墓になるとか、冗談がキツすぎる。
「いま何時かな。もしかして、とっくに朝だったりして」
「さすがにまだ夜中だろ」
まだ1時間ちょっとしかたってない気もするし、1日たったような気もする。
ずっと暗闇で、時間の感覚がない。おまけに暑くも寒くもないので、変化というものがほとんど感じられない。夢の中で数をかぞえてるみたいに、時間の流れが早くなったり遅くなったりする。
「……ヨシオくんに謝っておいて。動画を見せてもらったのに、つまらなそうにしてごめんなさい。ずいぶんまえにあったでしょ、フードコートで」
「どうしたんだよ、急に」
「ずっと気になってて……あのときは、生意気だったと自分でも反省してる」
「ヨシオは、そういうの気にしないよ。しょっちゅうで耐性がついてる」
「私が気にしてるのよ」
「だとしたら、自分でいったほうがいいよ。ヨシオにとっても、沙織にとっても」
「そうね。将樹のいうとおり……ヨシオくん、いい人ね。科学館のチケットをくれたり、転校生の私に声をかけてくれたり。将樹の一番の理解者」
「沙織は怖くないのか。真っ暗でなにも見えなくてさ」
「私、平気よ。将樹がいるから」
「そっか」
「ここは私と将樹の夢の合流地点」
「……」
「将樹、まえにいったでしょ。どうして、私と将樹なのか。ちゃんと理由があるの」
「理由?」
「小学生のときに近所の水泳教室に通っていたの。ほかにピアノ教室に学習塾、英会話教室でしょ」
「習い事のオンパレードだな」
「水泳教室は、すごく人気なの。体力がついて姿勢が良くなる。子供がたくさんいるから社交性も身につくし、毎週楽しみにしてた。子供にとって最高の習い事よね。プールで遊べるんだもの。そのぶん、月謝はすこし高いけど。
平泳ぎで25メートルぐらいスイスイ。上級生の子にも、負けなかった。
ある日、ひとりで泳いでて、プールの底にキラキラと光る物が落ちているのを見つけたの。
あ、コインが落ちてる! と思った。
幼児コースは水に顔をつける練習からはじめるのよ。プールの底にコインやイラストのついた玩具を沈めて拾う遊びをする。そうやってすこしずつ水に慣れていく。
こっちまで流れてきたのか、拾い忘れたのかわからないけど、拾わなきゃと思った。私じゃなくても、みんなそうしてたと思う。
潜ってみてわかった。それはコインじゃなかった。
子供が泳ぐコースは、プールの底にプラスチックの大きなプレートを沈めてあって、底上げしてあるの知ってる? でないと、足が届かないでしょ。プレートとプレートを固定するために、穴にビニール製のロープを通して繋げてあるの。それが水の揺らめきと光の反射でコインのように見えたのね。
私、思わずなんだろうって指を入れたの、その穴に。好奇心で。
そしたら指が引っかかって抜けなくなって、ドジよね。深さは1メートルちょっとなのに。穴の大きさが絶妙なの。ちょうど子供の指が入るサイズ。
周りの大人たちは、足がつくんだし溺れるわけないって思うでしょ。
あとでパパに聞いたんだけど、プールの底に沈んでる私をスタッフの人があわてて引き上げてくれて、すぐに人工呼吸と心臓マッサージをして、救急車で市内の大学病院に運ばれた。
大学病院には、とある大企業の寄付で導入した最新設備のICUがある。国内に、東京の大学とそこの2か所しかないようなとても高価な。どこの企業かは、いわなくてもわかると思うけど」
「篤志家だから。幼少期に受けた恩を、分け隔てなく配って回ってる」
「連絡を受けたパパとママがすぐに駆けつけて。
ベッドで、人工呼吸と頭に電極をつけた私が横たわってて、呼び掛けてもまったく反応がない。
大学病院に運ばれたときには、すでに脳死状態だった。5分以上酸素が供給されないと、脳に深刻なダメージを受ける。
よくある誤解だけど、脳死と植物状態はちがう。
植物状態は脳が生きてて、呼びかけるとわずかにまぶたがピクピクするの。聞こえてるけど、反応できないだけ。ごくまれにだけど、回復した報告もある。
でも、脳死は脳幹の機能が停止していて、脳の血流も止まってる。脳波がないの。回復することは絶対にない。
延命治療をしたとしても、長くて数週間ぐらい。
脳は神経細胞の集まりだから。一度壊れてしまうと再生できないの。生卵は、ゆで卵になったら二度と元にもどらないでしょ。あれと同じ。不可逆的な反応。現代医学では、手の施しようがない。
パパはすぐに状況を理解した。
でもね、悲しんでばかりはいられない。パパには、まだ大事な仕事が残ってた。臓器移植の書類にサインして、私の体から臓器を取り出す。娘の私はダメだけど、それでたくさんの患者が救われる。
それに大学病院のICUは、治る見込みのない患者をいつまでも置いておくわけにはいかない。貴重なリソースは限られてる。
もしママが半狂乱になって反対してなかったら、私はこうして生きてなかったかもしれない。ママが、この子はまだ生きてる、絶対に見殺しにしないって、眠ってる私の体にしがみついて放さなかった。
見かねたパパは、3日だけ様子を見て目を覚まさなかったら天国に送ってあげよう、それまでにしっかりお別れをしようとママを説得した。
ママは泊まり込んで、ずっと手を握っていた。もちろん、私は覚えてないけど。
当日、パパとママに見守れて、大学病院の先生が装置のスイッチを切る直前に、私はパッチリと目を開けたの。
まるでよく寝たみたいに、ママを見て「お腹空いた。今日の晩御飯なに?」っていってた。
そんなことあるはずないのに。
卒倒したママをパパがあわてて支えて、ほとんど寝てなかったんだもの。おかげでICUはてんやわんやよ。準備してたのが全部キャンセル。
そのとき、ふと隣のベッドを見たら、同じ年齢ぐらいの男の子が人工呼吸器をつけて眠ってた。
ねぇ、あれは将樹じゃない?」
ぼくは、沙織を抱きしめたまま暗闇を見つめる。
それがぼくなのか、そうでないのか、ぼくには判然としない。
目覚めたときには、山間のリハビリセンターだった。
沙織の話が事実なら、ぼくらは大学病院の集中治療室で、同じ機械に繋がれて長いあいだ眠っていた。
「パパは、そのことをすごく後悔してるの。もうすこしで自分の娘を殺すところだったと」
「それで、転校も許してくれたわけか」
「まあね。私、これっぽっちも怒ったり腹が立ったりしないのよ。パパは医師として当然のことをしようとしただけ。ね、パパってすごいでしょ」
「ぼくも会ってみたくなった。娘思いのいい父親なんだろうな」
「しばらくしてICUを覗いたら、ベッドは空になってた。看護師さんにたずねたら、あの子にも奇跡が起きたら良かったけど、と教えてくれた。子供心に、大人は辛いことがあるとこういう表情をするんだと思った。心配をかけないように笑顔をして、忙しそうにしてる」
「その男の子が、ぼくじゃないとしたら」
「なにも……将樹は将樹だから」
沙織はそれっきり黙ってしまった。
ふたたび静寂が訪れ、暗闇が世界を支配する。目を開けているのか閉じているのかさえ、わからなくなる。
まるでぼくの体が暗闇と同化したみたいに、心までが暗闇に取り込まれそうになる。
ぼくらはお互いの存在と温もりをたしかめるように、きつく抱きしめ合う。ぼくは沙織の息づかいを感じ、沙織はぼくの息づかいを感じる。小さな胸の鼓動が伝わる。それは暗闇の中で、ひそかに輝く星となってぼくを勇気づける。
「私たち、とっくに死んでるのかもしれないわね。何日も、何年も救助が来なくて、魂になって抱き合ってる」
暗闇の中から、直接ぼくの心に話しかけるように沙織の声が聞こえる。
「らしくないじゃん」
「……そうかな」
「夜中だし、いろいろあって疲れてるんだよ。眠ったほうがいい。目が覚めたら、まぶしい朝日が見えてるはずだ」
「……おねがい、そばに居てくれる……私が寝るまで手を握っててほしい」
「ぼくは、ずっと沙織の隣にいるよ。この先、なにがあっても」
「よかった。その言葉が聞きたかった」
安心した様子で静かに眠りについた沙織を抱えて、壁をずり下がる。
全身がものすごくだるい。だんだん海の底に沈むみたいに息が苦しい。どうやら限界のようだ。
薄れゆく意識の中で、ぼくは気配を感じる。
密閉された石室に、ぼくと沙織以外の何者かがいる。
(……そこに、いるのか……)
この状況で、ぼくたちを救うことのできる人物がいるとしたら、1945年のヤガミ少尉しかいない。
丸い黒ぶち眼鏡に軍服姿をした、長身の将校。部下から信頼があつく、大切な場所を守るために命がけで上官の命令に背いた。ハレー彗星とともに生まれ、ハレー彗星とともにこの世を去った。
まさにこの場所で、ぼくは彼と会った。彼の魂がいる場所は、ここしか考えられない。
沙織だけでも、どうかたすけてくれるように心の底から願った。
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