ぼくは、それを一番おそれている5

 数学の小テストで勝負することになったのは、夏期講習の申し込みをした週のことだ。

 負けたら相手の要求を聞く、賭けで。学校で、よくある話だ。

 これは、はじめから仕組まれた勝負だった。勝負を持ちかけたのは沙織だし、判定したのも沙織だ。

 エサで釣ってぼくのやる気を引き出し、勝たせることで自信をつけさせようという、沙織の狙いがはじめから見え透いていた。


 昼休憩にヤガミ少尉の部屋で、お互いの答案を見せあった。

 50点満点で、沙織は40点、ぼくは30点だった。平均は20ソコソコなので、これでもかなりいい。

「将樹の勝ちね。負けるとは思わなかった」

「どこがだ。どう見ても、沙織の勝ちじゃん」

「将樹は、私がわからなかった問題を正解してるでしょ」

 沙織は、最後の問題をミスしていた。

 ぼくが正解できたのは理由があって、数学の教師は、簡単に満点を取らせたくないタイプの教師で、大学受験レベルの難しい問題を出して、生徒を苦しませる傾向がある。本人はベルトが出来ないほど太ってて愛嬌があって、ちっともエレガントではないのだが、数学はエレガントに解答しないといけないと、いつもいってる。

 ぼくは、時間のかかりそうな途中の問題をすっ飛ばして、配点の大きな最後の問題に取り掛かり、答えはシンプルな数式だと目星をつけて、逆算で答え合わせをして、一致するように公式を使って組み立てた。

 正攻法で解いたわけではなく、出題パターンを読んでズルをしたわけだ。転校生の沙織は、そういった教師の性格まで把握していないせいで、かなり不利だ。

 ぼくは、そのことを正直にゲロった。

「そうだとしても、将樹の勝ちに変わりない。問題を見て、閃かなかったのは事実だし。私、数学的センスがないのよ」

「出題範囲じゃないだろ。解けなくて当たり前だよ。ぼくのは、まぐれ。当てずっぽうでボールを投げたら、たまたま的に当たった」

「なにをすればいい? 約束は約束」

 沙織は涼しい顔をしてた。なにがあっても、自分の負けを譲らないつもりだ。


 ぼくは、沙織とキスがしたいと、半分ジョークでいった。

「ふざけないで」とか「バッカじゃない!」と反応するのを期待して。小学生の男子が、好きなコに意地悪をするのと同じ感覚だ。

 沙織が「将樹に、そんな意気地ないくせに」と鼻で笑ったせいで、ぼくは引くに引けなくなった。


 朝から雨が降ってて、雨粒が窓を叩く音がして、部屋は灯りをつけても薄暗く感じた。部屋の空気まで湿ってるみたいだ。木製の机の上には、沙織のランチボックスに、冷えたお茶の入った水筒、それにぼくが購買部で買ってきた焼きそばパンと2枚の答案用紙がある

 ぼくはパイプ椅子から立ち上がり、肘掛け付きの椅子に座っている、沙織の肩に両手を置いて身を屈めた。

「どうしたの。やっぱり、やめる?」

「あのさ、目を閉じないの?」

「ダメなの? 将樹の顔を見てたい」

「見られてると、やりにくいだろ」

 沙織はしぶしぶという感じで、まぶたを閉じた。制服のスカートを押さえるようにして、爪を短く切りそろえた指先を几帳面に並べている。

 ここでやめたら、天才級のアホだぞ、と自分にいって、唇をそっと重ねた。

 沙織の唇はとてもやわらかくて、ぼくは息を止めてた。

(……まえに、したことがあるような)

 不思議な感覚だ。はじめてのはずなのに、こうして沙織と何度もキスをしたような気がした。まるでデジャヴだ。


 遠くから、

 静かな川のせせらぎの音だ。ぼくの脳裏の奥深くに刻まれている。

 雲一つない青空に包まれた、緑の丘のすぐ近くを、緩やかな小川が流れている。川の水はとても澄んでいて、手で触れると冷たい。ときおり、短い草を撫でるように風が吹く。どこか懐かしい風景。ぼくのすぐ隣で、黒い髪をした少女が微笑みかける。


 キスを終えても、沙織はまぶたを閉じたまま、気の抜けた顔をしていた。もしかすると、ぼくがもう一度、キスをするのを待っていたのかもしれない。

 ぱっちりと目を開いて、無言でぼくを見つめる。

 一対の黒い瞳が、ぼくの心の底を覗き込むようにキスをした理由を尋ねていた。


「沙織が好きだ。順番が逆になったかもしないけど」

「わかってた……将樹が私のことを好きなの」

「友達としてじゃなく、隣で沙織を支えたい。いい父親になれるかわからないけど、いい父親になれるように努力し続けたいと思う」

「将樹は、いきなり男らしいことをいうのね……まえもあったでしょ、ライブハウス」

「あれは、トッサつーか……返事は?」

「ごめんなさい……いまは無理」

「やっぱ、沙織はシュッとしたイケメンがタイプだもんな。ぼくじゃ、釣り合わないか」

 ぼくは、パイプ椅子におとなしく座った。

 両手をポケットに突っ込もうとして考え直して、頭にやる。ヨシオを見習ってなるべく明るく振舞おうとした。

 すごくむずかしい。ヨシオはすごいなと、あらためて思った。

「そんな悲しい顔をしないで。私まで悲しくなる」

「ほかに、好きな男がいる?」

 ぼくが、生きてきた中で、ダントツにダサい質問だ。

 そんなことあるわけがないと、わかっているのに、つい口から出てしまった。それぐらい、ぼくは混乱していた。

「将樹が私を想っているより、私のほうが何倍も好きよ。いますぐ、私のすべてを捧げてもいいと思えるぐらい。いつも、私のわがままを聞いてくれて、自転車をこいだ汗の匂いも。こうして隣にいるだけで、心が落ち着く」

 沙織は、机に置いたぼくの手に、手を重ねた。

 指を絡めるて握る。最後まで話を聞いてと、ささやくように。

「それなら、どうして。沙織のいってる意味がわからない」

「本当に自分の気持ちなのか、自信がないの。名前すら知らなかったのに、祭りの夜に出会って、転校までして……まるで、だれかに操られてるみたいで、すごく嫌なの。自分が自分でないような」

 険しい表情で、ひとつひとつ言葉を区切るように、はっきりと口にした。

 ぼくも沙織も、恋愛に対して消極的なタイプだ。転校してきて、ぼくらは、ほぼ最短距離でお互いのことを好きになった。あらかじめレールが敷いてあって、早足で駆け抜けるみたいに。

 そういう状況が、自己主張のはげしい沙織には耐えられないのだ。

「ぼくは、それでも沙織が好きだ。だれかに操られていたとしても、そうでなくても」

「……将樹は、男の子だから」

「うん」

「いまの中途半端な気持ちで付き合ったら、きっと将樹を傷つける。そんなふうには、なりたくないの。だから、答えはしばらく待ってほしい」

「どれぐらい?」

「そんなに時間はかからないと思う」

「夜中に駆けつけるのと、待つのは慣れてる」

「いままで通り、一緒に帰ってくれる? ここで昼食を食べて。私が将樹の好きなおかずを作ってくる」

「さっきいっただろ、ぼくの気持ちは変わらない。どっちにしろ、沙織の頼みは断れないよ。右といわれたら、右だって答えるのが、ぼくの役割だ」

 好きなコに返事を待ってといわれて、嫌だといえる男がいたら教えてほしい。

 ずるいというか、沙織には永遠に勝てないと思う。テストの点数と同じだ。満点ではないけど、平均点より上。

「それに、私たちには、まだやらないといけないことがあるでしょ。夢の謎を解き明かさないといけないはずよ。そのために転校してきたんだし」

 ぼくの不安を拭うように微笑みかける。

(もし謎が解ければ、この学校にいる理由もなくなるんじゃ)

 ぼくは、それを一番恐れている。

 ぼくと沙織を繋いでいるのは、まちがいなく水晶が見せる不思議な夢だ。ぼくらは、夢によって出会い、行動を共にし、強く惹かれ合った。

 その謎が解けてしまえば、ぼくと沙織を結び付けている鎖が失われる。

 部活をやめたことで陸上部の女子が去ったように、沙織もぼくのまえから居なくなる予感がした。

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