クワガタ
真花
クワガタ
息を殺してそっと手を伸ばす。樹液に夢中になっているクワガタの背を掴み、慎重に虫かごに入れる。つややかな触感が指に残った。虫かごを覗き、そこに入れたばかりのクワガタがいることを確かめる。これまでに捕まえてどのクワガタよりも大きい。
「やった」
声が震えていた。夜に裏山には入らない約束になっているから、一番採れる時間帯は家にいなくちゃならない。その条件で、ついに僕は記録更新を成し遂げた。小学生最後の夏休みに忘れられない日が出来た。このクワガタを連れて帰って、毎日育てよう。毎日見よう。いずれ死んでしまうだろうが、僕のものだ。誰もいない山道を胸を張って下りて行く。
東の空にオレンジの光が照って、緩やかにこっちに近付いて来た。訝し気な顔をしてみても光の動きは止まらない。僕の真上に来た。僕はそれを見上げる。光は遠くにいたときに思っていたよりずっと大きくて、危険な予感がする。走り出そうとした瞬間にオレンジの光から白い光がスポットライトのように照射されて、白い光に固定されるみたいに僕は動けなくなった。顔が上を向いたままで、手には虫かごを抱えている。その格好のまま体が浮遊して、高くて怖くて叫びたかったが声は出なくて、僕はオレンジの光に吸い込まれた。
固められたまま、オレンジの光の中に置かれた僕の周囲はモノが雑然と置いてあって、そのモノが何かはよく分からないが、何となくおもちゃとか本のような気がした。ドアが開いて、人間ではないニュルニュルした、だが四肢はあって、頭も顔もある生き物が入って来た。僕は殺されると直感した。栓を抜いたような恐怖に逃げ出そうと試みるも動けない。生き物は僕の前に立ち、じっくりと僕を観察した後にリモコンを取り出しボタンを押す。僕の首から上が動けるようになった。生き物はなおも僕を観察してから、声を出す。滑らかでテレビとかで王子様役とかをしたら似合いそうな声だった。
「怖くないから大丈夫だから。質問に答えて欲しい」
僕は訳が分からないと言うことしか認識出来ない。あ、あ、と言うのがやっとだった。
「うん。びっくりするのは仕方がないけど、質問には答えて。いい?」
どうあっても僕は動けないのだし、絶望的で、だが、せめての可能性は答えることかも知れない。
「答える」
「ありがとう。君の名前は?」
「ヒロヤ」
「何歳?」
「十二歳」
「性別は?」
「男」
「そうだね。スキャンの結果と一致している。君は嘘を言っていない」
嘘を言ったら、どうなっていたのだ。生き物は続ける。
「人生で一番恥ずかしいことをしたときの話をして」
「え?」
「恥ずかしいことだよ」
生き物の圧力が一段増した。ちゃんと答えないと、やばい。でも、言いたくない。言ったら変態だと思われる。だが、この生き物に変態と思われたところで日常に影響はないか。……日常に帰れればの話だが。
「どうしても?」
「君に選択権はない」
命を握られている感覚と言うのは、心臓に縄を括り付けて引っ張られる感じのようだ。僕は観念するよりも深く、生きるために恥を晒すことを決めた。
「家族が誰もいないときに、ママのパンツを被ってオナニーをした」
生き物は画面のようなものをチェックして、また僕を見た。
「嘘は言ってないみたいだね。さて、君はもう用済みだ。あれ、殺しちゃっていいんだっけ?」
「殺さないで」
「うん。君が決めることじゃないから。さて、どうだったかな」
生き物の後ろのドアが開き、ひと回り大きなそっくりな生き物が入って来た。僕には理解の出来ない音声を生き物に言って、去って行った。生き物は僕を向く。
「殺しちゃいけないんだって。最近倫理やら協定やらがうるさいんだとさ。ちゃんと採取したところに戻すのがルールだって、そんな厳密にやらなくてもいいよね」
「厳密でお願いします」
「仕方ないから返すよ」
「どうしてこんなことするの?」
「夏休みの自由研究だけど。それじゃ、さよなら」
僕は白い光に降ろされて、裏山の元の場所に戻った。見上げるとオレンジの光は既にいなくなっていて、僕だけがポツンと残されていた。いや、僕には虫かごのクワガタがいた。確かめると動いていて、大きくて、僕と一緒に生き残って、……僕は樹液の出ている木まで戻って、クワガタを元の場所にそっと逃した。
(了)
クワガタ 真花 @kawapsyc
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