第2話

 本実が父の跡を継いで暫くの間は、寺院建立や新都の造営が続き、感傷に浸る暇もなかった。

 だがそれも一段落した頃、本実は今になって寂寞せきばくの思いに駆られ、そのような時節において、祖父の故郷である高句麗滅亡を耳にした。

 心の支えを続けて失った本実は、己の職分を果たす事もままならず、鬱屈とした気分をなんとか振り払おうと、工房を離れ、野山で気の赴くままに草花の写生に明け暮れていた。

 そんなある日、本実のもとに勅使が訪ねてきた。

「工房に居らぬから探したぞ」

 勅使はやれやれと馬を降り、草叢を掻き分けながら、本実のもとに歩み寄る。

 勅使が纏う緋色の衣は、青々とした風景の中にあって良く目立った。

 如何に写生に没頭していた本実であっても、それに気付かぬ筈がなかった。

 本実は慌てて筆を置き、勅使に向かって跪いた。

「このようないなか赤兄あかえ様がおいでになるとは知らず、失礼をいたしました」

「構わぬ。急な事であったからな」

 勅使は近くの石に腰を掛け、本実に面を上げよと手振りで示した。

「赤兄様は、唐軍との交渉で筑紫に行かれたと聞いておりましたが」

「あれは栗隈王くりくまおうに代わった。王族が出向かぬのは不義理であると、唐の将軍がご立腹でね」

「左様でございましたか」

「私が至らないばかりに難しい役目を負わせてしまったが、聡しい御方だ。心配はいらない」

 ふう、と一息つき、勅使は襟を正してから本実に問うた。

「私が直接赴いたということは、事の重大さはわかるな」

「は。大王おおきみからの勅命でありましょう」

「そうだ。いまし、大王が皇太子の御時に造られた漏剋を覚えているか」

「あれは父が設計したもの。忘れる筈がありません」

「大王はあれの修繕を所望されている」

「え?」

 不意を突かれた本実を他所に、勅使は続ける。

「我が国は今厳しい局面にあり、民草は亡国の不安を抱え、怯びながら日々を過ごしている。そのような状況なればこそ、嘗て技術の粋を集めて造ったあれを、近江おうみ大津おおつの新都で再び動かし、再興の象徴しるしとして、人々に希望を示したいのだと。それが大王の御言葉である」

 そこまで言い終わって、ようやく勅使は本実に目を向けた。

 本実は暫く呆気にとられていたが、次第に視線を地面へと降ろし、弱弱しく答えた。

「出来ませぬ」

 勅使は眉一つ動かさず、冷たく言葉を返す。

「これは勅命だ。断れば反逆罪で汝の首が飛ぶぞ」

「それは脅しですか」

「事実を言ったに過ぎぬ。それにこれは私の真心から出た忠告だ」

 暫く沈黙が流れた後、勅使は本実に向き直って言った。

「これでも私は汝を買っているのだ。新都の寺院を飾る方形の瓦文様も、斬新で見事であった。何故出来ぬ。理由も無く、大王に申し上げても、ご納得はして戴けないであろう」

 勅使は真剣な眼差しを送るが、本実は地に目を向けたまま、言葉を濁した。

「あれの設計図は、戦と遷都のいざこざで散逸してしまいました。それこそ唐で原物を検分しない限り、直すことは出来ませぬ」

 設計図の散逸は事実であった。

 だがその実は、失意の底にある己に、父が心血を注いだ漏剋の修繕など務まる筈がないという、意志薄弱にあった。

 そのような言い訳で、勅使が首を縦に振る筈もない。

 本実は本心をひた隠し、尤もな理由を附けて重責から逃れたかったのである。

 一介の画工が渡唐するなど、到底無理な話であろうと踏んでの事であった。

 勅使は、一応筋の通った本実の答えに理解を示し、相分かったと都に帰っていった。

 これで事無きを得たと、本実は胸を撫で下ろしたが、それも束の間の事であった。

 数日後、再び勅使が来訪し、本実は共に都へと上った。

 きっと大王はお怒りに違いないと畏れ慄いていたが、大王の口から発せられた言葉は意外なものであった。

「遣唐使節に同行し、その目で唐の漏剋を検めよ」

 思いも寄らぬ処遇に、本実は茫然自失した。

われの至らなさ故、あれを朽ちさせてしまった事、相済まぬ。あれが落成した時、なんじの父は朕に、何れは息子に継がせたいと、いたく汝の事を誇っていた。朕はその思いに応えようと思う」

 父がその様に思っていた事を、本実は初めて知った。

 冷たく淀んだ心は再び熱を帯び、瞼の裏で涙が込み上げてくるのを感じた。

 大王は屈み、跪いた本実と目線を合わせて問いかけた。

「どうであろう」

 己に向けられた大王の真っ直ぐな眼差しを、本実には逸らす事など出来なかった。

 本実はとうとう意を決し、大王の命を謹んで受け、遣唐使節と共に、唐へ渡ることとなった。

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時の聲 やすみ @andre_fuhito

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