時の聲

やすみ

第1話

 男は升を片手に持ち、木樋に流れる水を一杯になるまで汲み上げる。

 掬った水を溢さぬよう、両手で支え、水平に保ちながら、そろりそろりと階段を登っていく。

 天辺まで上がれば、目前には、四段に積み重ねられた漆黒の木箱が、ぽっかりと口を開けている。

 木箱にはそれぞれに細い銅管が下段へと伸び、一番下段の箱には、人形が附属し、木箱に挿したを支えている。

 男は最上段の木箱に水を注いでいく。それを何回か繰り返す。

 やがて上段の箱を満たした水は、細い銅管を通って下段へと降っていき、そうして一番下の段まで到達すると、浮きを附けた箭を徐々に上へと押し上げていく。

 人形は箭に刻まれた目盛りを指し示し、上官がそれを読み取ると、上階へ合図を送る。

 合図を受けた下官は、大きく腕を振るって天井から吊られた鐘を撞く。

 力強く、気品に満ちた鐘音が、飛鳥あすかの都に響き渡る。

 その音は、初めてこの国の人々に〝時刻〟を知らせた。


 未だ日本という国号が無く、倭国わこくと呼ばれていた時代のことである。

 時の皇太子が自ら指揮を執り、舶来の漏剋ろうこく(註:水時計)を完成させ、この日、遂に落成の祝賀を迎えた。

 人々は実物を目の前にしても尚、価値を計り知れず、眉をひそめていたが、鐘の音と共にその意味をようやく理解した。

 そして驚嘆と共に、皇太子を讃美した。

 漏剋の完成は、それまで日の傾きや影の変化でのみ、漠然と認識していた〝時間〟という概念を正確に認識し、管理を可能とする、人が神の領域に手を伸ばしたかの如き偉業であった。

 そのような青天の霹靂に、人々が沸き立つのも必然である。

 皇太子は一度咳払いをし、群衆が静まるのを待ってから、此度の事業に携わった工人達に労いの言葉を述べた。

 その内の一人に、黄文造某きぶみのみやつこなにがしという者がいた。

 某は、南山城の久世郷くせのさと(註:現在の京都府城陽市北部)を拠点とする、高句麗こうくり人の血を引く画工えたくみの長であった。

 彼らは聖徳太子しょうとくたいしの御代に置かれ、その職掌は絵画の制作に留まらず、内典外典の書写、宮殿や寺院に用いられる瓦や金具の図案など多岐に渡った。

 中でも某は、写し取る対象の、〝何がそれをそれたらしめているのか〟という構造の理解に執着し、己の納得がいくまで写生を繰り返す、直向きな人であった。

 その評判がやがて皇太子の耳に入り、漏剋の設計を任されるに至った。

 それは写生の成果を図案に起こす従来の仕事とは全く逆で、見た事のない代物を、唐土もろこしからもたらされた図画や風聞を頼りに製作するという、前代未聞の試みであったが、某はその依頼を見事に成し遂げた。

 落成の祝賀で人々の興奮を目の当たりにした少年・本実ほんじつは、己が歴史的瞬間に居合わせた事に高揚し、また、その設計に携わった父を誇らしく思った。

 何れ己も父のような画工になり、〝この国で初めての何か〟を造り、成し遂げるのだと、それが少年の志であった。

 しかし、その様な煌びやかな記憶も今は昔。

 十年の時を経た今、本実は、唐の高句麗平定を祝う使節に列し、断腸の思いで仇国の皇帝を前に跪いていた。


 漏剋が稼働してから程なく、倭国は唐・新羅しらぎとの戦に敗れ、本実は父を病で亡くした。

 さらに昨年には、祖父の故郷である高句麗も唐に攻め滅ぼされ、何時か故地を訪ねてみたいという本実の淡い思いは叶わぬ夢となった。

 唐の矛先は今、倭国に向けられ、筑紫つくしの港では二千人に及ぶ軍兵が駐在し、朝廷に圧力を掛けている。

 倭国はまさに国難の危機に遭った。

 そのような状況の中、この国に漏剋を整備する余裕など、有る筈が無かった。頼みの人材も、本実の父をおいて他に居ない。

 たった十年にも満たない歳月で、漏剋の銅管は錆び、漆で黒光りしていた木箱は朽ち果て、その存在は人々から忘れ去られようとしていた。

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