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コラム:旧大和川の地理から紐解く、物部守屋が築いた渋川の拠点

こんにちは、大藤やすみ(あんどれ)です。

現在『君想い刺す五色の縫取』を連載しています。
読んでくれている方、評価の方もありがとうございます。
https://kakuyomu.jp/works/16817139555806216441

この小説では、古墳時代末期におこった丁未の乱(物部戦争)を題材に、対立した物部守屋と蘇我馬子、二人の関係性を守屋視点で進行していきます。

一では、丁未の乱前日夜の様子を描きました。

物部守屋が居を構える澁川という地は、現在の大阪府八尾市跡部・渋川・植松付近と考えられます。
http://mille-vill.org/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E9%83%A1%E8%B7%A1%E9%83%A8%E9%83%B7(%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C)

周辺地域では、物部守屋の伝承を今に伝える史跡が数多くあります。

大事な導入部分の情景描写なので、解像度を高めるため、古代における地理や、豪族の拠点と思われる地域、伝承地などを調べました。

Google Mapにまとめたので合わせてご覧ください。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1RWkA9854LBRfAepKeTV7aflignRUkiM&usp=sharing

現在、八尾市では大和川が東から西へとほぼ一直線に流れ、大阪湾に注いでいますが、この大和川は1704年の治水工事により付け替えられた新しいものです。

それまでの大和川の本流は、今の久宝寺川あるいは長瀬川にあたり、玉櫛川(今の玉串川)、平野川などに分かれながら北西に向けて流れ、旧淀川(今の大川)に合流していました。

https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0609_yamato/img/0609_yamato_01_01.jpg
※「日本の川 - 近畿 - 大和川 - 国土交通省水管理・国土保全局」から引用

http://www.city.kashiwara.osaka.jp/_files/00087582/yamatogawa1_11.jpg
※「1.大和川の歴史 | 大阪府柏原市」から引用


ちゃんと調べる前までは、勝手に山間部をイメージしていたのですが、実際は川に囲まれた緩やかな丘陵地帯でした。

そして、物部守屋の伝承を伝える史跡の位置と、上の地図を見比べると、おおよそ、久宝寺川と平野川に囲まれた地域が、渋川と呼ばれていたようです。

そこで自分が物部守屋ならと考えると、川を濠として機能させる城塞を築きたくなります。

この地域一帯は傾斜が少なく、勢いよく水が流れないため、大和川は普段静かな川ですが、一度雨が降るとあっという間に水位が上昇し、濁流が流れるという側面もあるようです。

それゆえ旧大和川は、長年の間に大量の土砂を運んで周辺地域よりも水位が高い天井川となっていて、ひとたび氾濫するとたちまち一帯が水びたしになりました。

であれば、川周辺に土砂が大量にあるわけですから、少しの手間で敵の侵入を妨害するくらいの土塁は築けるのではないか、とも考えました。

また原典とする『日本書紀』には、稲城を築いたとあります。
これは稲を積み上げた垣のことのようです。
シンプルですが、おそらく敵は文字通り草を分けるように前へ進まなければならず、足が鈍ることになります。

その稲垣を、川沿いの堤の上と、その内側にも巡らせたら、敵からすれば攻めづらい砦となるのではないでしょうか。

なんてことを考え、守屋の渋川の防備を描きました。

引き続き、どうぞよろしくお願い致します。

2件のコメント

  • 『荒陵寺御手印縁起』または『四天王寺御手印縁起』と称される平安後期に作成されたとされている四天王寺の縁起資材帳(平安初期と言う説もある)によれば、記載された地名には弓削・鞍作・衣揩・葦原など、大阪府八尾市にあたる地名が見られ、この地は物部守屋の本拠地と言われており、特に衣揩は衣摺の事と言われており、「地名辞書」によれば守屋が防戦した渋川稲城はこの地であろうと書かれている(『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』 谷川健一 河出書房新社 288~290ページ)ということぐらいまでは調べていましたが、ここまで詳細に地図まで明示してくださり助かります。ありがとうございました。

     稲城については諸説ありますが、垂仁天皇紀五年では稲城に火が起きた事が書かれているように、火矢に弱そうなイメージがあります。水で濡らしてから土嚢のように積み上げていたのかも知れませんね。

     守屋の兵力が文献には無いので気になるところですが、(江戸時代末期に書かれた小説では守屋軍が3万。蘇我氏中心の連合軍が1万というありえない作品がありましたが)後世和田合戦で和田義盛の兵力が二百程度だったこと考えると、多くて保元の乱程度の規模ではないかと想像しています。

     山背大兄皇子が蘇我入鹿に攻められた時は奴婢十数人で戦った事が書かれているので、案外その程度の人数だったのかなとも思いますが、日本書紀を信じるならば、武で鳴らす大伴氏を含む連合軍をそれだけで3度も退けるのは不可能かと思うので、捕鳥部万が守屋の邸宅を守るのに率いた百人が現実的な数字で、連合軍は万の征討に向かったという数百といったところでしょうかね?
  • 麗玲さん、遅くなりすみません!
    こちらにもコメントありがとうございます!

    たしかに稲を積んだだけの垣では火矢には弱そうですね。一方で、燃えたら燃えたで火中に飛び込んで進むわけにもいかないので、かえって好都合かも?とも考えたり。

    動員数については難しいですが、鎌倉時代に書かれた覚什の『太子伝記』では、守屋側の兵力は一万三千騎以上、厩戸王子側の兵力は二百五十余騎となっていました。
    壬申の乱では二万の兵が対峙したそうなので、そう考えると味方が少ないはずの守屋側の兵力一万三千騎以上というのは、まだ盛ってる感じがしますね。(お話としては熱いですが)

    対して厩戸王子側の兵力二百五十余騎というのは、厩戸王子隊として考えると、結構リアルな数字な感じがします。

    個人的には、守屋側は多くて数千、守屋討伐軍は五千〜一万以下くらいかな?という感じです。
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