第2話 歌姫①

「ねえあんた、見慣れない顔だね」

 女は、〈旅人〉の座るカウンター席でまじまじとその姿を見た。

 それは掃除屋が〈記憶屋〉をすっかり片付けてしまってから、少し経った頃だった。〈旅人〉は変わらず〈虚ろな羊亭〉の二階にある宿を拠点にして、一階の酒場にやってきては飲食を済ませていた。当初は物珍しげに見られた〈旅人〉も、その頃には普段と変わらぬ風景の一部になっていたが、女はそうではないようだった。

「あなたは?」

「アタシはシビラよ。ねえ、あんた、もしかして外からやってきたの?」

「ああ、そうだ」

「へえ!」

 女は昔からの知り合いのように、〈旅人〉の隣の席に座り込んだ。厚く塗られ、ぷんと臭う化粧の香りは、到底良い匂いとは言いがたかった。黒く塗られた目と赤の口紅だけが強調されている。ふわふわとした金色の髪は、暗い照明の下でも痛んでいるのが見てとれた。肩紐のついた黒いドレスからは膨れた乳房がこぼれそうになっていたが、それはドレスが着古され、だらしなく伸びてしまっているからだ。長いあいだ一張羅にされてきたらしく、ずいぶんとくたびれていた。肌ももう若いとは言えず、本人も気付いていないような小さな皺があちこちに見てとれる。

 シビラはぐしゃぐしゃになった金色の髪を耳へかきあげて、下から覗き込むようにした。上から自分の乳房がどうすれば良く見えるか、よく知っているのだ。

「ねえ、それなら荒野をずっと歩いてきたんでしょう。どう、アタシとおしゃべりしない?」

「ずいぶんと手早く自分を売り込もうっていうんだな」

「あら、ずいぶんな物言いね。でも嫌いじゃないわ。マスター、なにかお酒をちょうだい。そうね、甘いやつがいいわ」

 〈旅人〉はちらりと店主を見た。

 店主は「はいよ」とだけ言うと、棚から酒をひと手に取った。酒が出すのを待たずに、シビラはしゃべりはじめる。

「さっきの歌は聴いてくれた? あら、そうなの。残念だわ。ちょうど入れ違いになったのね。でも、また今度の楽しみができたわね。そうしたらアタシの歌を絶対に気に入るはずだわ。アタシは普段はこの街の酒場で歌ってるから、どこでだって聴けるはずよ。この酒場でもいつも歌うし、他の酒場でも歌ってるの」

 それにしてはずいぶんとしゃがれた声だ、と〈旅人〉は思った。それにこの酒場で歌えるような舞台はなかった。ちらりと主人を見たが、主人は同じような視線を返すだけだった。「いつも」というのが誇大表現であると知った。きっと普段は他の酒場にいるのだろう。彼女はいつもどこで歌っているかの話を一方的に喋り続け、その毒にも薬にもならないおしゃべりが止まったのは店主が酒を二人分出してからだった。〈旅人〉がコップをひとつ手にして口につけると、彼女はようやくといったように尋ねた。

「ところで、あんたはどうしてこの街にやってきたの?」

 〈旅人〉はコップをテーブルに戻してから口を開いた。

「人を探しているんだ」

「人を……?」

 その途端、下心を隠しもしなかった彼女が唐突に不審げな顔をした。

「ああ、人を。なにか思い当たる節でも?」

「そうじゃないけど……」

 まだ〈旅人〉が、シビラは少しだけ距離をとった。肩からずり落ちていた紐をかけ直し、胸のあたりの衣服も直した。

「それとも、あなたも誰かを探しているのか?」

「あんたが探してるのはだれなの?」

「記憶泥棒だよ。わたしの記憶を奪っていったんだ。そういう人間に心当たりはないかい?」

 〈旅人〉が言うと、シビラはまだ少し警戒しているようだったが、少しずつ自分を落ち着けていった。

「そう。ちょっとびっくりしただけよ。アタシを追ってきたんじゃないかと思って……」

「へえ。探されるようなことをしたのかい」

「アンタみたいないい男に探されるんだったらいいけどね。だけどアタシを追ってるのは、もっとしみったれた男よ。アタシの元旦那なの」

「なるほど。よっぽどあなたに未練があるんだな」

「そうなの。困ったものよ」

 いかにも迷惑そうな声だった。

「それで――」

 記憶泥棒について尋ねようとした矢先、彼女は気を取り直したように、猫なで声になった。

「それより、もっとあんたの話を聞かせてちょうだいよ。アタシは……」

 〈旅人〉が話をかわすまでもなく、彼女のほうはずっと自分の歌についてしゃべり続けた。恐ろしい亭主から追われていること、逃げた先でこの街にやってきたこと、最近は碌な新人がいないこと、下品でいやらしい男をこっぴどく振ってやったこと……。〈旅人〉は静かに頷きながら彼女の話を聞いていた。ときどき酒を頼んでは勢いよく口にしていた彼女を見て、喉がアルコールにやられていることに気付いた。それでも彼女は喋るのが好きと見え、自分が気持ち良くなるまでしゃべったあと、先にぐうぐうと眠り始めた。〈旅人〉はカウンターに突っ伏す後頭部を物珍しそうな目で見た。店主は彼女が眠っているのを確認すると、〈旅人〉に耳打ちした。

「その女にゃあ気をつけたほうがいいぜ、お客さん」と店主。「恐ろしい亭主から追われてるって言うくせに、あちこち男にコナをかけようとするんだ」

 なるほど、と〈旅人〉はうなずいた。

「見た通りだったな」

 〈旅人〉は白虫酒を一杯頼むと、一気に飲み干した。

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