借金――③

 オーディは〈記憶屋〉に駆け込み、記憶を売ると喚いた。

「とにかく――なんでもいい。買い取れるものなら、なんでもだ! 俺の記憶を買い取ってくれ!」

 そのなりふり構わぬ様子に、〈記憶屋〉は素っ気なく言った。

「お客さん、これは親切心からの忠告になりますがね、これ以上記憶を売っちまうと、自分が保てなくなりますよ」

「カジノの記憶ならある……」

「大勝ちしている記憶だったらいくらでも。でも、負けがこんでるような記憶だったら、……ま、多少のスリルにはなりやしょう」

 〈記憶屋〉はそう言って、記憶を買い取った。

 処理を終えて戻ってきた〈記憶屋〉は、これまでの三十分の一ほどにも満たない量の金をテーブルに置いた。思わず目を見開いた。このままでは借金すら返済することができない。思わず彼の胸ぐらをつかみ、何かを言いかける。

「いいんですか?」

 〈記憶屋〉の男はにやにやと笑った。嫌な笑いだ。

「もしそんなことになったら……、もうお客さんのもとに〈記憶〉は戻りませんや」

「なんだと?」

「いま、この機械を動かせるのは自分しかいませんからなあ」

 オーディは一瞬目線を泳がせたあと、〈記憶屋〉を睨みつけながら手を下ろした。〈記憶屋〉は相変わらずにやにやしていた。

「しかしですね。高く売れるものも、あります」

「……そりゃ、なんだ?」

「〈名前〉です」

「名前だと!?」

「そうです……名前とは言いますがね、お客さん……〈名前〉というのにはずいぶん沢山の情報が含まれているのでさあ。あなたという人間がどこから来て、どのように生活して、どんな経験をしてこの場所に立っているのか……それこそすべての情報が入っているのが、〈名前〉です」

 〈記憶屋〉は一旦言葉を切ってから続けた。

「たとえすべてを忘れ去っても、最後まで残るのが〈名前〉です。人ひとりの人生すべてがそこに詰まっている……滅多に買い取れるようなものじゃありませんや。なにしろ〈名前〉さえ忘れ去るようなことがあれば、そいつはずいぶんと。しかしその分……」

 そこまで言って、〈記憶屋〉は黙り込んだ。あとのことは言わなくてもわかる、というわけだ。

「なあに、金さえ持ってきてくれれば、買い戻すことは可能です! それにまだ〈記憶〉は残っているんですから、猶予は可能です……」

 オーディは最後の賭けに出た。

「俺の……俺の名前を、買い取ってくれ」

 〈記憶屋〉「毎度あり」とだけ言った。

 なんとか賭けができるだけの金額が、目の前に置かれた。

 オーディは――少なくともまだオーディであると自分を認識している彼は――ふらふらと店から出ながら、なんとか薄らいだ記憶を思い出そうとした。いったい自分はどれだけの記憶を売り払い、どれほどの記憶を失ったのか?

 せめてこの金で賭けに勝ち、自分の記憶を買い戻さないと、もはや自分を保つことさえできなかった。

 もしも何もかも忘れてしまったら、そのときどうなるというのだ。

 下層を虚ろに歩く人々を見つめ、ひどく恐ろしい気持ちが沸き起こってきた。

 コンクリートに貼り付いた、もはや人の形を保っていない異形ども。自分の姿形さえ忘れ果ててしまった怪物。そして、継ぎ接ぎの塔のあちこちに繋がる生体部品の基となるものだった。


 オーディは急いで塔を駆け上り、裏カジノへとたどり着いた。

 記憶はまだ揺らいでいるが、まだ大丈夫だ。

 今回勝って、まずは自分の〈名前〉を買い戻す。それだけだ。たったそれだけ。

 勝てばいい!

「それじゃあ、賭けの内容はどうするね?」

 客の一人が、胴元へと尋ねる。

「次に入ってくる客の性別を当てるのも、ずいぶんとやりにくくなっちまった」

「この間入ってきた奴に、男と女の両方の特徴を持ったやつが来ちまったからな」

「そのときは特別だろうさ。そんなことを言っていたら何もできなくなるぞ」

 オーディは黙って賭けの内容が決まるのを聞いていた。

 この一度に賭ける。

 そして勝つ。

 名前が戻ったら真っ先にやることが沢山ある。

 ブラッド・ワインを口にしながら、その時を待つ。

 ――絶対に勝てる。金を手に入れたらすぐに〈記憶〉を買い戻す……。

「では、そうだなあ」

 オーディに視線が向けられる。

「賭けの内容はなんでもいいさ」

 そう言ってブラッド・ワインを一気に飲み干した。

「勝てばいいんだから……」

 呟きに誰も答えるものはいなかった。


 そして――オーディは大急ぎで塔を下へ下へと駆け抜けた。もっとも人間らしい場所を背にして、怪物と異形の蔓延る異質な深層へと。記憶を買い戻すためではなく、残るすべての記憶を売りはらうために。もはやそうするしか方法は無かった。

 そうしなければ終わりだった。

 すべての記憶を売り払ってどうなるかなんて、彼自身にも予想はついていなかった。

 目の前から悠長に歩いてくる〈掃除屋〉を見たとき、舌打ちするかと思った。だが〈掃除屋〉は慣れたように道を譲ったので、苛立ちをぶつける暇さえなかった。代わりにひどく嫌な予感がしたが、そんなものに構っている暇はなかった。

 この先に行けば〈記憶屋〉があるはずだ。そこでたんまり金を手に入れて、すぐに戻る。そして勝つ。それしかない。

 道を曲がり、〈記憶屋〉と書かれているはずのドアが、綺麗さっぱりに清掃されているのを見た時、オーディは叫び声をあげた。

 何度もドアを開けようとドアノブを回し、押しては引いてを繰り返す。

 とって返すと、いましがたこっちの方角からやってきた〈掃除屋〉を見つけて縋り付いた。

「〈記憶屋〉はどうなったんだ!?」

 男はゆっくりと振り返る。

「え、おい! 〈記憶屋〉はどうしたって聞いてるんだ……おれは、おれはいますぐ〈記憶屋〉に行かないといけないんだ!」

「見りゃあわかるだろう。店主が死んだ。それだけだ」

「店主が死んだ……、ど、ど、どうして。それなら、それなら――」

「あいにくだが、わたしは〈掃除屋〉でね。それ以上はわたしの仕事ではない」

「それならおれの記憶はどうなるんだ!? おれの金は!? 一刻も早く金と記憶が必要なんだ、いますぐに!」

 オーディは食い下がったが、〈掃除屋〉の男は首を傾げるだけだった。そして、もういいですか、とだけ言った。

「ま、待ってくれ! これ以上は記憶が……、おれの記憶が……」

 〈掃除屋〉は肩を竦めて、膝をついたオーディに踵を返して歩き始めた。

「おれの記憶はどうなるんだ? おれの金は? おれの、おれの……」

 記憶が薄れていく。

 売り払った記憶が。

「いやだ、いやだ……。おれは、オーディだ。おれは……」

 頭を抱えてその場にうずくまるしかできなかった。上の方から、彼を追ってきた裏カジノの店員たちがゆったりと降りてきた。そうして彼を捕まえると、もはや暴れることすらできなくなった彼の両腕を持ち、静かにどこかへ連れていく。もはや返しようのない借金を背負った彼に、支払いを求めるために。

「おれは……おれは、だれなんだ……」

 呟きに対して誰も答えるものはいなかった。

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ねじれた街の物語〈短編集〉 冬野ゆな @unknown_winter

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