借金――②
しかしそんな生活が基盤に乗り始めた頃、オーディは何度か賭けでミスをした。
「しまったな、今日の運は良くなかった」
負けは取り返せばいい。
これもまた裏カジノのスリルのひとつだ。
だが、その後は何度やっても負けがこんできた。借金はひとつ、ふたつ、みっつと桁が増えていく。
これはまずいのではないかと思ったのは、ある日の賭けの後、肩を叩かれたときだった。
「オーディ君」
「なんでしょう?」
「これは友人として、それ以上にきみを上客として見ているから忠告しておくけれどね。あまり借金も増やしすぎるのも良くない。きみにはまだ上限を解放してあるけれど、これ以上は少し待てないかな」
「そ、それはわかっているけど」
「でもね、きみはいま、いいものを持っているはずだ」
「いいもの……?」
体でも売れと言われるのかと思って、思わず引きつる。この頃のオーディは金銭感覚が完全に麻痺していたのだ。
「そう。いちばん高く売れるのは〈記憶〉だよ」
「〈記憶〉だって?」
不思議な事ではない。この街では記憶も売買されている。
ただ、記憶を売るというのはリスクも伴う。特にこの街では、自分を見失ってしまえばやがて怪物へと成り果てる。言葉にするとなんとも陳腐だが、事実だ。オーディにとって、それは怪物というしかない。耳のあった部分が蝶のように飛ぶ人間の顔。コンクリートに貼り付いたこの巨大な継ぎ接ぎの塔の中には、そうした生体部品も使われている。
上層にいればそんな怪物どもと出会わないで済む。このところの生活の改善である種の人間らしさを獲得していたオーディにとって、それは言い様のない恐怖だった。忘れかけていた嫌悪感と忌避感が、奴等の存在を思い出させる。
だが、それでも借金を返済し、いまの生活水準を維持するためには金が必要だった。手っ取り早く金を手に入れるには、記憶を売るしか方法は無かった。オーディは下層深く、地上に近いところにまで降りていくと、きな臭くなる周囲から離れるように〈記憶屋〉へと足を踏み入れた。
「やあ、どうぞどうぞ……〈記憶屋〉のご利用は始めてですね?」
〈記憶屋〉の男はオーディの服装を見るなり、丁寧に対応した。
オーディもまた金持ちのように振る舞った。金は無かったが、その記憶には多大なる期待を持たれていると感じていた。
「〈記憶〉には、ええ、その内容によって様々なランクのようなものがありましてね、はい」
「御託はいい」
そう告げると、〈記憶屋〉はかしこまった。
「そうだな。カジノで大勝ちしたときの記憶なんかどうだい」
「申し分ありませんな」
「……裏カジノで大勝ちしたときの記憶だ」
オーディが声をひそめると、〈記憶屋〉の男の目が白黒した。
そうして彼は、裏カジノではじめて勝った時の記憶を売った。それは借金を返すには充分な額となって返ってきたのだった。
記憶を売り払った後は不思議な感覚だった。
〈記憶〉を売るからには、その経験ごと無くなるのかと思っていた。しかし、確かに大勝ちした記憶は残っている……だが、ひどくうっすらとしたもので、そのときにどう感じたか、どんな内容だったのかがすっかり無くなっている。これまで自分の体験だったものが、まるで本の中で自分の記録として知ったような奇妙な感覚になっていた。この記憶もいつか薄れるのだろう。
しかし、彼は逆に安堵し、高揚していた。
これでまたカジノに行ける。
オーディは借金が膨らむごとに記憶を売り払った。
それに、〈記憶〉はどうやら買い直すこともできるらしかった。そもそもが質屋のようなシステムだが、有用な記憶はその場で貸し出す形で使っているものもあるという。そして、オーディの記憶の一部はその場で客に見せて使っているのだと言っていた。特に、裏カジノで勝った時の記憶は、脳の中から快楽物質が異常なほど出るようだ。それこそ麻薬のように。ならばいつか買い取って、自分の手元に戻すべきだ。
だが、次第に目標金額は遠のいていった。
負けがこんでくると、別の記憶を売り払う。そうして裏カジノと〈記憶屋〉の往復が生活の中心になりはじめた。
「オーディさん――」
かつて彼のことを「オーディ君」と親しげに呼んだ友人は、そう改めて言った。
「これ以上借金を重ねられるようであれば、我々も少しばかり考えなくてはいけませんな。そうなれば……どうなるのか、ここまで来ているあなたであれば理解できましょうや」
その言葉は死の宣告のように聞こえた。
金だ。
金が要る。
ありったけの金が!
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