第3話 借金

借金――①

 くたびれたスーツを着た男は、全速力で階段を駆け下っていた。

 彼は急いで〈記憶屋〉に行かねばならなかった。

 金、金、金……、そして記憶!

 明日までに金を用意できなければ、二度とあの裏カジノに行くことも、脳内物質の渦に浸ることもないと思うと、それこそ死にたくなる。いや死ぬだけならまだいい。自分のことさえ忘れてあの気味の悪い怪物に成り果ててしまう。そんなことは絶対に避けたかった。

 男の名はオーディといって、これまで運だけで生きてきた。

 世渡りは決して良い方じゃない。しかし運だけは抜群だった。ほかのすべての差し置いても運だけは自信があった。自分が何かヘマをしてやらかしても、必ず逃げ延びてきた。食糧を盗んだときはだれか他のやつが捕まるうちに逃げられた。金がなくても密航者として砂船に乗ることができたし、砂船のなかでむしろ堂々と振る舞ったおかげで惨めで悲惨な航海にならずに済んだ。そうして彼はこの街へとやってきた。外に広がる大いなる死をくぐり抜けてきたのだ。

 そうして彼は自分だけの部屋を手に入れて、この街で生活し始めた。いつまでここにいるかは決めていなかったが、ここにたどり着いた人間はたいていが堕落に満ちた。ここへやってくるまでの冒険と危機を忘れてしまうか、二度と戻りたくないと思うらしい。オーディもそうだった。せっかく死をくぐり抜けてここまでたどり着いたのに、再び外へ出るなんて考えは出なかった。


 そんなオーディはときどき、酒場でギャンブルに興じていた。

 やるのは主にカードゲームだった。持ち前の運の良さもあって、何度か勝って名前も知れてくると、あるとき、こんなことを教えられた。

「裏カジノを知ってるかい、オーディ」

 表だの裏だの、この街には本来存在しない。けれども「裏」とついているのは、掛け金がでかいという意味に他ならない。そしてそれ以上に、借金でも賭けられるということだ。そこから抜け出すには非常にシンプルで、勝てばいい。期間が設けられていて、それまでに返せばいいわけだ。一般人は限度額があるものの、優良客なら限度額を撤廃できる。ただし、返せなければなにもかもがおしまいだ。

 通された先は、薄暗い路地の奥にあった。

 そこは大人の人間の半分程度のドアがあって、そこをくぐり抜けると、今度はちゃんとした高さに天井があった。薄暗いが雰囲気のある明かり。酒場のような作りで、外とは比べものにならない洒落た調度品と空間。最高級のブラッド・ワインをたしなみながら、ゲームに興じる人々。よくあるカードからボードゲームまで、なんでも賭けの対象になった。次にくる客が男か女かといったものから、萎びたリンゴに種がいくつ入っているかまで。

 そしてその賭けの金額といったら!

 たった一晩、たった一つの賭けで、すべてを失う可能性だってあるのだ。

 そこにはスリルと、生きている実感がある。

 殺しや盗みのようなちゃちなものじゃない。一発逆転。人生の頂点。本当の人生がそこにあった。

「さあどうぞ、オーディ君」

 そしてオーディは沼に引きずり込まれた。


 最高の気分だった。

 その日の掛け金は、普段の二倍、いや十倍、それどころではなく膨らんでいき、そのたびにオーディは心臓が高鳴った。脳内物質がドバドバと出ているのが自分でもわかった。ただひとつ外しただけでもはやすべてを失うスリルは、これまでの比ではなかった。

 あと一回。もうあと一回。

 そうしてあと一回というところで、引く。

 気がつけば、いままで持ったことのないような大金を手にしていた。

 この街で金なんか意味が無いと思っている最下層の人間はともかく、やはり金は金だ。これさえあれば、街の最上層に住むことだって夢じゃない。死から逃れるために作り上げられたこの街は、上に行けば行くほどに快適さが増していく。そこはどんな街だって同じだ。金がなければ最下層を這いつくばり、金のあるものがそんな蟻たちを見下ろしながら悠々自適に生活が送れる。

 あまりのことに、オーディは何に使うかさえも迷った。


 まずは家を借りた。もちろん最上階に近いところだ。

 次に家具を揃えた。前の住人のものなど使えるものか。

 食糧配達屋にありったけの食糧を持ってこさせた後は、不機嫌なその面に金をねじ込んでやった。

 たちまちに配達屋の顔がにやけ、自分にごまをする様子は何よりも最高だった。

 最高級のブラッド・ワインで乾杯。


 下層にいる歌姫にもどんどん貢ぐことができる。

 一時期はシビラという名の歌姫にも貢いだことがあるが、あの女は年をとってくたびれていった。おまけに裏には厄介な亭主がいると聞きつけると、もっと若くて歌のうまい女へと貢ぐようになった。金払いのいいオーディは誰からも慕われた。オーディはますます上り調子になった。

 この継ぎ接ぎの塔の上層階は、いかにも人間らしい生活が何たるかを骨の髄まで染みこませてくれた。肉片も落ちていない通路、生活用のパイプは人の目に見えないところを通り、衣服は皆整っていて、三度の食事をとれる生活。こんな世界がまだあったのかとオーディは感動し、そして溶け込んでいった。

 もちろん上手くいかないときだってある。

 賭けはいつでも勝てるように出来ていない。とくに、その場で唐突に発明されるような賭けならなおさら。つまらない賭けにも大金を支払う。たとえマイナスになったとしても、向こうが用意する借金用のカードを使えば、取り返すことはできた。しかし、金を全部使い込むわけにはいかなかった。この金が次の資金源になるのはわかりきっている。ほどほどのところで止めておかなければ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る