歌姫――④

 それからまた数日したころ、シビラは酒場のひとつを追い出されたことで苛立っていた。

 エイブのせいだ。またエイブのせいで追い出された。これじゃ自分が逃げているのか追い出されているのかわからない。きっとエイブはしてやったりな顔をしているんだろう――そのにやにや顔が手に取るようにわかった。目の前にいるみたいに。妄想を消すように頭を振って、部屋の中にあったアルコールを瓶ごと呑む。

 畜生が、と呟く。

「思い上がりもはなはだしいのよ。あのクソ野郎が」

 シビラだってエイブを愛していないわけじゃなかった。だが暴力以上に我慢ならないものがあった。エイブの思い上がりだ。エイブはなにもかも自分のものだと思い上がった。シビラが自分のものになったと信じていたのだ。男を籠絡してきたシビラにとって、これ以上の屈辱はなかった。シビラにとって男というのは自分を追い求める存在でなければならなかった。だから逃げたのだ。自由を求めて。私は男なんかのもとで大人しくしているようなタマじゃないのよ、だから追いかけたかったら追いかけなさいと言うように。エイブは追いかけてきた。だから最後まで逃げ切ってやると思った。

 頭を冷やすために外に出た。頭がガンガンする。まるでどこかでぶつけたみたいに。きっと飲み過ぎたんだわとシビラは思った。どこに行くでもなく階段を降りて、ふらふらと地上の様子をのぞき見る。いつもと変わらぬ街があった。荒野に蔓延る死から逃れるために増築を繰り返した異形の街。ここで自分を無くして形すら失ってしまうのはごめんだった。けれども彼女にはここしかなかった。

 エイブの影はそれからあちこちに出現した。別の酒場に入ってまじまじと見られたかと思えば、今度は歌うことさえ許されずクビを言い渡されたりした。仕事のために外で立ちんぼをしていると、以前寝た男が彼女の顔を見て慌てて逃げていくのを見た。そうかと思えば「お前の亭主はどうなっているんだ」と逆に治療費を請求する男もいた。そういう詐欺ではないかと疑われもした。エイブの影はもはやどうしようもできないところまで迫っていた。見えない影がすぐそこまで差し迫っているのだ。

 シビラはもう我慢できなくなっていた。

 なんとしてでもあの男から逃げ切らないといけない。でも、どうやって。影はまとわりついているのに、肝心の本人がどこにいるのかまったく見えない。いっそこっちから殴りつけにいってやろうかと街中を探したこともあったが、そういうときに限って見つからなかった。

 入り組んだ街を歩いていると、見覚えのある通りに出た。通りから一本入って天井の低い通路を進むと、広場に出た。まばらではあるものの人通りの多いところに出てしまったことに辟易した。近くの壁に背中をつけて一息いれようとする。煙草でも持ってこれば良かった――そう思って、なんとなく広場を見回していると、帽子の男が視界に入った。

「あれは」

 男は〈虚ろな羊亭〉に向かう道を歩いていた。急いで後を追った。

 追いついたときには、男は――もとい〈旅人〉は思ったとおり、〈虚ろな羊亭〉へと入っていくところだった。

「ああ、あんた!」

 シビラは走っていって、続いてドアを開けた。

「あんた!」

 カウンターで座ろうとしている〈旅人〉の背にしがみつく。

 〈旅人〉は表情をぴくりとも動かすことなく、瞬きをした。

「やあ、この間の。シビラだったね? とりあえず話しにくいから離してもらえるかな」

「ああ、ああ、また会えて良かった!」

 〈旅人〉はシビラが背中から離れるまでどうしたものかと困惑していた。ようやくシビラが手を離し、にこやかに笑みを向けたが、それでも首を傾げただけだった。

「そういえば、あなたの元亭主……、いや、まだ亭主なのか。ここに来ていたぞ」

「エイブが? ここに?」

 シビラは信じられないという顔をした。

 仕事場をいくつも潰しておいて、さらにここにも来ていたのか。

「ああ、なんてこと。またここも駄目になる」

「酒場はここだけとは限らないだろう」

「酒場だけじゃないのよ、そのうちこの街にだっていられなくなる。あの野郎、どこにだってついてきやがって! 絶対に追いつかせやしないよ」

「街を出るという選択肢は無いのかい?」

「あいつときたらいつだってアタシの邪魔ばかりするんだ。つけあがりやがって! そのくせぜんぜん顔を出さないときた。こんな卑怯なことがあると思う?」

 〈旅人〉はしばらく、シビラが悪態をつくのを眺めていた。

 店主が注文はしないのかという目線で二人を見たが、どうしようもできなかった。シビラは一通り罵詈雑言をわめき立てると、ようやく落ち着いたのか〈旅人〉を見た。

「そうだ。あんた、アタシと一緒に来てよ、ねえ! あんた旅人なんだろう。この荒野を一緒に抜ける手助けをしてくれよ」

「わたしはまだ、この街で探し物があるからな。同行はできない」

「お願いだよ、こんなにいい女がいっしょうけんめいに頼んでいるのに、聞けないっていうのかい?」

「ふむ……」

 〈旅人〉はどう伝えたものかというように首を傾げた。

「だがそれは無理な相談だと思う」

「どうして!」

「どうしてと言われてもな。あなたは亭主から……エイブから逃げたいと思っているのだろうが、無理な相談だ。だけれど、どうして私が無理だと思っているか聞いたら……」

「グダグダ言うない、この臆病者!」

「では、いいのかい?」

 シビラは〈旅人〉を睨んだ。金切り声をあげたせいか、喉がひどく痛む。

「わたしはエイブがどこにいるのか知っているし、それを言うこともできる」

「なんだって? エイブがどこにいるのか知ってるのか……」

「ああ。会いたいのか?」

「言ってくれ!」

「ここだ」

 〈旅人〉はおもむろに手をあげた。後ろを指さされたのかと思ったシビラが後ろを向く。そこにはだれもいなかった。酒場の景色が広がっているだけだ。〈旅人〉の手はそのままシビラの髪の毛をかきわける。ボサボサの金色の髪の毛のなかで、埋没していた顔が浮かび上がってきた。

「ここだ」

 もういちど言うと、金髪の向こうに隠されていた黒い髪を掴んで引きずり出した。エイブの顔がずるずると出てきた。シビラにもその感覚がわかった。なにかが後頭部にいる。

「シビラ?」とエイブは言った――「そこにいるのか?」

「エイブ?」とシビラは言った――「そこにいるの?」

 声が同時にした。

 恐る恐る、シビラの右手が頭の後ろを触った。

 それだけじゃなかった。左手は何故か自分の顔に迫ってきていた。両手とも、顔に触れた感覚があった。

「ああ、あ」

「おお、お」

 もうどちらの声なのかはわからなかった。

 シビラは悲鳴をあげ、エイブは咆哮をあげた。

 二人はもうとっくに――あるいはもしかしたら最初から――くっついていたのだった。長いあいだお互いを追い求めながら逃げ続けていた二人は、どちらが表ともわからぬほどに背中同士でくっつきあい、どちらかが起きているときはどちらかが眠り、そうして互いを探し続けていたのだった。逃げ切れるはずもなく、見つかるはずもない。

 逃げるようにシビラは走り出した。それが正しいことであるように。彼女の望んだように。男の手からするりと抜け出していくように。エイブはそれを追いかけるようにくっついている。暴力的で支配的でありながら、もはや唯一、彼女が望むようにある男。永遠に捕まらぬ女にいつまでも追いすがる男。彼らは互いに口汚く罵り合いながらどこまでも走っていく。どこまでもどこまでも……。

 〈旅人〉は彼らの姿を見送ると、そっと酒場の扉を閉めた。

「ふむ。店主、強いアルコールを一杯もらえるかね」

 そうしてカウンターに戻ってくると、ようやく平穏を取り戻した。

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