歌姫――③
それから何日かして、〈虚ろな羊亭〉のカウンターで〈旅人〉が寛いでいるときだった。彼は店主に注文した酒が出るのを待っていて、そのほんのわずかな時間にそれは起きた。
「おい。――おい! お前だ、そこの帽子野郎!」
店内で帽子をかぶっているのなんて、自分しかいなかった。〈旅人〉が後ろを振り向く前に、その男は勢いよくカウンターテーブルを拳で叩きつけた。店主が陰鬱な目で男を見たが、男は意に介していなかった。
「お前とシビラが話していたのを知ってる」
男はじろじろと〈旅人〉のなりを見た。
「あなたは――」
「頭沸いてんのか、この野郎!」
「……ああ、そうか。もしかして、あなたがシビラを追いかけているという元亭主か?」
表情が変わらないまま問いかけられたせいか、男は一瞬言葉に詰まった。だがすぐに自分を取り戻し、至近距離で〈旅人〉の顔を指さしながら怒鳴った。
「よくわかっているじゃないか、え? だけどおれは元亭主じゃない。離婚なんかしてないからな!」
男は吐き捨てるようにエイブと名乗った。
ボサボサの黒髪に浅黒い肌をしていて、年齢的にはシビラと変わらないように見えた。だが必要以上に怒った顔は赤くなり、上気している。くたびれたシャツに黒いズボンは特にこれといった特徴もない服装だ。
「お前、俺の女に手を出しやがって」
「手を出してなんかいないさ。彼女は歌い手で娼婦かもしれないがね」
「そんなことどうでもいいんだよ! あいつはどこにいるんだ。とにかくおれが知りたいのはシビラの居場所だ。吐け! 吐かねぇとひどい目にあうぞ」
脅すようにエイブは握りこぶしを間近に持ってきたが、〈旅人〉は表情ひとつ変えなかった。
「あれはおれの女だ。おれだけのものだ! あいつの居所を教えろ」
「なんだ、居場所を知らないのか?」
「ふざけてんじゃねぇぞ!」
「ふむ、まあ落ち着いてくれ。ひとまず彼女とは会ったよ、それは事実だ。けれど残念だが家までは知らないな。何度かこの酒場に来ているはずだ。それを待ってみたらどうかな」
引かれた拳が勢いよく〈旅人〉の顔面へと振り下ろされた。〈旅人〉はサッと横に避けると、拳は勢いあまってテーブルへと叩きつけられた。その間に〈旅人〉は椅子を降りた。エイブは避けた〈旅人〉を捕まえようとすぐさま振り向いてつかみかかったが、更に後ろへと下がる。拳は空を切り、バランスを崩しかける。
「この帽子野郎が――」
エイブは顔を真っ赤にしてぶるぶると震えた。
「本当に知らないんだよ。それより、あなたのほうがよく知っているんじゃないか?」
「うるせえ!」
〈旅人〉の帽子の下がむずむずと動いた。躍りかかってきたエイブの足めがけて、一本の肉の触手が弾いた。足を引っかけられたエイブは椅子をひっくり返しながらもんどり打って、そのへんにあった椅子をなぎたおしながら床にたたき付けられた。
「まあ、ここまでにしておこう」
呟くようにいうと、しゅるしゅると肉の触手は帽子の中に戻っていった。もぞりと帽子が動いたきり静かになった。〈旅人〉は後頭部を晒しているエイブを上から覗き込む。それからひとつ瞬きをして、まじまじと見つめた。エイブは微かに痙攣していたが、やがてごそごそと片手が椅子をどかそうとした。〈旅人〉が椅子をどかしてやると、エイブが屈辱と怒りに満ちた表情で睨めつけた。口元を切ったのか、血が出ている。
「お客さん、これ以上暴れるのなら出てってもらうよ」
たまりかねた店主が言うと、エイブは立ち上がり、切った口元を腕で拭った。
「次に会ったら殺してやるからな! 覚えとけ!」
そうしてエイブはよろよろと酒場を出て行ったのを見送ると、〈旅人〉はふうっとため息をついたのである。
エイブがどうやって帰り着いたのかは覚えていなかったが、気がついたときにはベッドで目を覚ました。それでも怒りだけは覚えていた。ベッドから起きあがっても、いまだにむしゃくしゃとした気分は晴れなかった。
「畜生。あの野郎め」
一晩経ったというのに、〈旅人〉のあのなにもかも見透かしたような瞳が気に食わなかった。あの野郎めにもう一度会ったらそのときこそ顔面に一発くれてやると、心に誓った。エイブはいつでもそうした。たとえ公僕によって排除されようとも、自分が見下されて軽んじられているのは我慢ができなかった。いったいどちらが上なのか、骨の一片に至るまでわからせてやりたいという欲望がふつふつとわいてきた。子供の頃からそうしてきた。自分を見下す奴には何度でもわからせてやったし、殺してきた。
エイブがシビラを執拗に追い続けているのもその性質によるものだった。シビラはエイブの伴侶である以上に、自分の持ち物だったというのに、どういうわけか勝手に逃げたのだ。それも我慢ができなかった。もしかしたらシビラは〈旅人〉とねんごろの仲になったかもしれないと思うと、怒りが沸き起こってきた。近くに物があったら投げつけていただろう。だが実際にはベッドを殴りつけるしかできなかった。どうにかしてこの気分を晴らさないといけなかった。
あの〈旅人〉を殺して見せしめしてやるのだ。その四肢を捥ぎ、首をかっ切り、眼球をえぐり出して舌を抜いて鼻を潰して歯を抜き取って、だれに喧嘩をふっかけたのか理解させてやる必要があった。脳味噌を踏み潰し、骨を砕き、またぐらからパイプを突き刺してやるのだ。怒りのあまりにエイブは自らの髪の毛を両側に引っ張り、痛みと怒りのただ中でぶちぶちと髪の毛を引きちぎった。
ばらばらと落ちた髪の毛をそのままにして、エイブは部屋の外へ出た。唾を吐き捨てながら通路を歩き出した。通りすがる人々がエイブを避けて歩いていく。しかし陰鬱な顔で下を向いて歩く人々にさえ、エイブは怒りを覚えずにはいられなかった。
なにか気晴らしになるようなものは無いかと視線を巡らせたとき、不意に通路の奥で重なり合っている人間たちを見た。
こんなところでお盛んだな――とエイブは思い、おもむろに近づいた。場所を選ばない奴にはなにをしてもいいのだとエイブは思っていた。わざと地面を蹴るようにしてずかずかと近づいて、異変に気がついた。
彼らはもう、女とも男ともつかなくなっていた。
下の方は女だったのかもしれないが、頭はすっかり禿げあがっていた。やや柔らかな印象だけが、女だったかもしれないという名残があるきりだ。その目玉は既に無く、顔つきも虚ろだ。その上に乗っているものも髪の毛は無くごつごつとした頭皮が晒されていたが、その肉体は氷でも溶けるように蕩け、溶け合い、互いに肉体的な意味でも物質的な意味でもひとつになろうとしていた。背中に回された腕は既に互いの肉体と溶け合い、手首から先は何かこんもりとした瘤でしかなかった。そもそも見えているのは上半身だけで、下半身のほうはすっかり一つになっていて、ひとつの肉塊のようになっていた。
エイブは顔を顰め、女でも男でも、はたまた人間でもなくなってどくどくと蠢いているものを蹴り上げた。べちゃりとした感触が足に触れた。蹴り上げられないことにも、反応が無いことにも苛ついてもう一度蹴り上げ、向こうの方へと倒した。
だがふと倒れた奥のほうを見ると、同じようなものたちがいくつも存在していた。どれもこれも絵の具がこぼれたように肉が溶け、互いに混ざり合っていた。既にひとつの塊になっている者たちさえあった。
そのときはじめて、前の前に広がる光景にぞっとした。
シビラにだけはこんな風になってほしくはないと思った。もしこんなことになるんなら、それは他のどんな男でもなく自分こそが相応しいと思ったのである。そうなる前に彼女を見つけ出し、取り返すのが何よりも重要だった。エイブはシビラを自分の物だと思い込んでいたが、それが彼の愛情表現であった。どれほど歪であっても彼の愛情だったのである。だからこそシビラが逃げたことを絶対に許せなかったし、こんな街まで追ってきたのだ。
エイブは強がるように舌打ちをしてから踵を返した。早いところ彼女を見つけなければならない。
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