歌姫――②
シビラはいつもの安宿で目を覚ました。古びたシーツのカビ臭さと、部屋に染みついた化粧とアルコールの臭いがする。いつものことだった。体を起こすと、顔ほどの大きさも無い小さな窓からは、暗澹とした陰鬱な空気が漂っていた。これもいつものことだ。
灰色のベッドから起き上がると、頭がクラクラした。ここ数日は飲み過ぎたかもしれない。きっとそうだ。だからまだ大丈夫なはずで、年のせいじゃないと自分に言い聞かせる。前よりアルコールや夜更かしに弱くなっていたが、まだなんとかごまかせる。シビラはシャワー室へ向かうと、わずかばかりの水を浴びた。勢いもなく、ピタピタと落ちてくるシャワーで必死になって頭を洗い流すと、汗にまみれた体がさっぱりした。水を弾くこともなくなった髪は、ぺったりと頭皮にくっついている。そんな髪を手ぐしで触ってふと鏡を見ると、目もとに薄暗い隈のできた、くたびれた年増の女がいた。ぞっとした。鏡の存在が嫌になってくる。さっさと髪を乾かして、身だしなみを整えないといけなかった。
部屋に戻って安い化粧水をつけながら、先日会った〈旅人〉のことを思い出した。男のことを思い出すくらいだから、きっと自分でも想像がつかないくらい気に入ったんだわとにやにや笑った。彼は惜しかった。顔も悪くなかったし、体のほうもがっしりしていて頼りがいがありそうだった。この街で憂鬱そうな顔をしてうろついている奴等とは違う。なにが違うとは言えないが、ミステリアスな魅力がある。旅人であること以上にだ。なんともったいないことをしたのだろう。彼と一晩をともにすれば、淡い思い出のひとつにはなったろう。もしかしたら、自分を守ってくれる騎士になってくれたかも。シビラは手を止めたまま、またあの酒場に行けば居るかもしれないと思い直した。
けれども――たったひとつ、懸念されることがある。
エイブのことだ。
シビラと婚姻関係にあった男。
二人はかつて婚姻関係にあった。
いや、正しくは今も婚姻関係にある。
エイブのことを思い出すと、途端に鏡のなかの自分が奇妙な顔をした。とっくに離婚したつもりでいたが、あの男は、エイブはそうじゃない。
シビラは貧しい家庭に生まれ、家族関係というものは最初から壊れていた。暴力的な父親と、ほんの少しの正気のほかはアルコールと暴力に支配された母親に嫌気がさし、彼女は家を出た。他のだれもがそうだったように酒場に飛び込むと、末端の歌手として働き出した。そして他のだれもがそうだったように、煙草と酒と、男の味を覚えた。自分の存在は娼婦でもあると知ったのはその後だ。
毎日のように違う男と交わり、毎日のように違う男とすれ違う。
そんななかで出会ったのがエイブだった。エイブはことさらにシビラのことを気に入っていた。いつの頃から同棲していたのか覚えていないが、たぶん二人にとっては自然な流れだった。エイブはシビラの部屋に転がりこんで、好きなように振る舞った。好きなようにシビラを愛し、好きなように扱った。そしてシビラが男に殴られて帰ってくると、「殺してやる」と言いながら相手を探しに飛び出していこうとした。そんなとき、愛されていると心から思った。
けれど――けれどもエイブは思い上がっていたのだ。なにもかも雁字搦めでシビラを自分のものにしたがった。やがて暴力がシビラに向き始めると、かつてそうしたように家を出た。
シビラは化粧を厚く塗りおえて身支度を調えると、今日の仕事場へと赴くことにした。街の三階部分にある小さな歌酒場だ。この間と同じく〈虚ろな羊亭〉であれば良かったのにと思った。もしそうだったらあの〈旅人〉に出会えたかもしれない。でも、もしかしたら今日も出会うことがあるかも――そんな期待を胸に、彼女は階段を登っていった。相変わらず陰鬱な街だが、彼女は気に入っていた。鉄板で出来た橋を渡って目指す酒場へと赴くと、裏口の扉を開けた。
「こんにちは、マスター」
「ああ……シビラか」
店主はどことなく陰鬱な目で見返してきた。なにかよそよそしい気配を感じながらも、彼女は気にしなかった。やや遠巻きに彼女を見る黒服や同僚の視線の間を堂々と歩き、控え室へと入る。狭い部屋に集った女たちの視線が一気に注がれた。自分がいつも使っている鏡台を陣取って、いつものドレスに着替える。化粧を少しだけ厚く直せば、彼女はもうスターだ。白い光の下で皺は消え、なにもかもが若返る。
シビラに視線を向ける男たちは、もうとっくに彼女の歌には興味をなくしていた。待ち焦がれている歌手が出てくるのを待っている男もいたし、時間つぶしに他ならなかった。そうでなければまばらな拍手の向こうで、着古されたドレスから見えそうな豊満な胸と、隠された尻をにやにやしながら見つめるだけだった。
それでも彼女は気持ち良く歌い終え、舞台を降りた。いつもの光景だった。控え室に戻ろうとして、店主にそっと呼び止められる。
「すまないが、シビラ」と店主は無表情に続けた。「今日限りで来ないでくれ」
「なんですって?」
豆鉄砲を食らったような顔になる。
「お前、このあいだ来たときに客と寝ただろう。そのあと、お前の旦那と客が殴り合いになったんだ。ずいぶん暴れてくれてな。危うく死人が出るところだった」
「旦那って。あいつとはもうとっくの昔に別れてるのよ」
「だけど確かにお前さんの旦那だと名乗ったんだ」
シビラはなおも食い下がろうとした。
「でもアタシがいなくなって……、この店がどうなっても知らないよ」
店主は鼻で笑い、踵を返した。
その先を目で追うと、ちょうど新人の歌い手がステージにあがるところだった。きらびやかな髪と、張りのある肌をわずかに見せるばかりの若い女が。男たちが待ってましたとばかりに拍手をし、やんやと盛り上げる。自分のときとは大違いだ。ステージでは演奏者が増え、透き通った声が響き渡る。
彼女が目を丸くしている間に、店主は給金の入った袋を持って帰ってきた。それをしっかりと彼女の手に渡して、もうこれ以上は時間の無駄だというように背中を押した。
「ちょっと――」
「さあ、もう、行った行った」
ドアをくぐると、店主は彼女の荷物を投げてよこした。呆然とする彼女の前で扉が閉められた。ステージの声は途端にくぐもり、僅かな音だけになった。
「――あの野郎! くそっ、くそっ!」
シビラは思いつく限りの悪態をついた。
ハイヒールでゴミ箱を蹴飛ばしたが、重みで少し動いただけだった。
それでも怒りはおさまらなかった。
出てきたばかりの新人にステージをかっ攫われたどころか――エイブがここに来ている!
いや、そんなことは前もあったはずだ。この街は広い。だからそのたびにシビラは階段を上がったり降りたりして、場所を変えてきた。シビラが街じゅうの酒場で歌っているのはそのせいだ。彼女が歌ってしばらくすると、エイブがやってくる。獲物を嗅ぎつけたハイエナみたいに。最初のうちは慎重だったが、気を抜きすぎたのだ。
シビラはもういちど、壁を蹴りつけた。
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