ねじれた街の物語〈短編集〉

冬野ゆな

第1話 記憶泥棒①

 積み木のように重なった黄土色の建物の壁面に、繭のようにべったりと貼り付いたものがあった。

 肉の色がありありと見てとれるそれは、無数の糸ではなく引き延ばされた薄い膜だった。膜を盛り上げ、繋げているのはわずかばかりの骨だった。そいつはどうやら守るべき心臓を無くしたらしく、ぱっかりと左右に開かれた肋骨が筋肉の膜ごとべったりとビルに貼り付いているらしかった。ひとつやふたつではない。膜はあちこちに大きく広がっており、重なり合った隙間からいくつも球体が飛び出していた。ぷっくりとした球体はすべて禿げあがった人間の頭部であり、女とも男とも、老人か若者かも区別がつかず、虚ろな目はどこも見ていなかった。

 彼らは互いに繭のごとく溶け合い、混ざり合い、ひとつの大きな塊になっていた。大きな塊はそれ自体がひとつの生命であるかのように、規則的にぶるぶると震えることがあった。


 〈旅人〉は深くかぶった帽子の下から、大きな塊が揺れるのを見ていた。もはや人間の形をすっかり忘れてしまった者たちを横目に、再び歩き出す。

 荒野に覆われた街は、土気色の空気に覆われていた。

 すれ違う者たちは時折物珍しい目で〈旅人〉を見たが、それだけだった。大通りには人の往来がそれなりにあり、体裁を保っている。近くにある出店では、買い物客が店主となにごとか話しながら品物を買い求めている。崩れかけたパイプの階段を登っていく者がいる。それでも建物の隙間に目をやると、うずくまったまま動かずにいる者や、寝転んだままぴくりとも動かない者がいた。はたまたその暗闇から、じろりとよそ者を睨みつける目もあった。〈旅人〉が視線を上に向けると、重なり合ったコンクリートの間に、入り組んだパイプと、通路が絡み合ってひとつになって伸びているのが見えた。

 まるでバベルの塔がごとく聳えるこの街は、多くの堕落にまみれていた。荒野を覆い尽くす死の気配から逃れて街に逃げ込んだ者たちは、僅かな隙間から入り込む死を追い出すべく、コンクリートで固め、パイプを伸ばし、通路を繋げて街をつなぎ合わせていった。あるときはビルの合間に、またあるときはビルの上に。機械と生体部品とを繋ぎ、積み上げ、繋げ、街は絡み合った要塞となった。雲を貫くほどに巨大になったこの街は、もはや巨大な継ぎ接ぎの塔でもあった。

 だがそれほどまでに堅牢な街を作り上げ、仮初めの平凡さと凡庸さを手に入れてもなお、内部に渦巻いた堕落は捨てきれなかった。塔に備え付けられた巨大な生体部品の眼球は、どれも腐れ落ちるのを待つばかりで、意味をなしていなかった。


 〈旅人〉がここへ来たのは、特有の気まぐれでも死から逃れるためでもなかった。

 うっすらとした砂に覆われた地面を歩き、土気色のままのっそりと歩く人々とすれ違いながら、どこか休める場所は無いかと視線を彷徨わせていた。大通りからひとつ道を奥へと入り、何個目かのトンネルを抜けると、次第に道はこぢんまりとしていった。パイプが絡み合い巨大なうねりとなった下を歩いていると、酒場の看板の掛けられたドアが目に入った。視線が看板とドアとを行き来すると、〈旅人〉はドアを開けた。

 薄明かりのなか、カウンターの向こうにいた小柄な店主が〈旅人〉を見た。

「珍しいな」

 しゃがれた声が言った。

「外から来たのかい」

 店主は空気と同じ黄土色に染まった背の低い老人だった。周囲の風景と同化しそうな色合いだが、ボサボサに伸びた顎髭は存在感を放っていた。顎髭と繋がった髪の毛の内側には、皺の刻まれた皮膚の合間からぎらぎらと鋭い視線を投げていた。

 顎髭を軽くなでつけながら、酒場の店主はまじまじと〈旅人〉を見つめた。頭をすっぽりと覆うほどの帽子から、片側だけ髪が伸びているのに目をやったあと、首に外套を兼ねた布が巻かれていて、その下にも古びたコートと衣服、そして最低限の荷物だけがあるのを見てとった。店主にとってべつに〈旅人〉が何者でも良かった。金さえ払ってくれればみな等しく客である。

 それでも、店主には何か感じるものがあった。まだ人間の形を保ってはいるが、酒場の店主として様々な客を見てきた勘が、なにか感じると言っていた。

 物言いたげな視線をよそに、〈旅人〉はカウンターへと近寄った。

「人を探しているんだ」

 おもむろに言う。

「こんなところにか」

「ああ。大事なものを盗まれてしまった」

「注文もなしに答えはしないぜ」

「もちろんだ。アルコールの少ないものはあるかい」

「白虫酒ならある」

「じゃあそれを」

 あいよ、と店主は応えてから、ひとまず酒を出してやることにした。

 〈旅人〉はカウンターの席に腰を下ろし、店主が奥の棚へと手を伸ばすのを見ていた。

 店主は棚に置かれた瓶のひとつを手に取った。瓶を揺らすと、中にいた長い芋虫が力無く酒の中を泳ぎ、下の方に溜まっていた薄灰色の液体を混ぜ合わせた。小気味良い音を立てて蓋を取ると、比較的綺麗なグラスを選んで中へと注ぎこむ。中の虫が、流れに逆らって底を目指して泳いだ。店主は僅かに濁ったグラスを〈旅人〉へと差し出すと、瓶に蓋をして再び棚に戻した。ごぽりと小さな音がした。

 〈旅人〉は受け取ったグラスの中身に少し口をつけた。白虫酒は酒とついている割にはほとんど風味だけで、液体のほうは水に近い。清潔で浄化されている水に近かった。水となんら変わりのない酒で喉を潤す。

「だがお客さん、盗人がこんなところに来ると思うかい?」

 店主は〈旅人〉がグラスを口から離すのを待ってから話しかけた。

「ここだからだ」

 〈旅人〉はグラスをテーブルに置くと、その手を頭にやった。おもむろに帽子をつかみ、ゆっくりと下ろす。その姿があらわになると、今度こそ店主は目を大きく見開いた。

 〈旅人〉の頭の右側は大きくそり込まれており、禿げた部分には拳大の肉塊がくっついていた。縮こまった芋虫のようにも見えるそれは、口の触覚か吐糸管らしきもので禿げた頭部に吸い付いて繋がっていた。内部ではきちんと脳と接続されていると見え、つやつやとしていた。どの胴体のほうも赤と青の小さなケーブルが肉塊と頭をしっかりと繋いでいて、頭と接続されていた。

「生体部品か。しかもそいつは……」

「記憶を奪われたんだ」

 帽子をかぶり直すと、肉塊はすっぽりとその中に隠れてしまった。

「はあ、なるほどな。合点はいった」

 自分の勘が鈍っていなかったと確信し、店主は頷いた。

「こうして外付けの記憶媒体でなんとか維持をしているのだがね」

「やけにでかい帽子だと思ったよ。そいつを隠していたんだな」

「ああ。以前は便利な物入れにしていたんだが……こいつを取り付けてからというもの、記憶容量に影響が出るんじゃないかと思って、碌なものを入れられなくなってしまった」

「そいつは仕方がないな。だが、そうだな、最初の言葉は訂正しよう。確かにここなら、泥棒は見つかるかもしれん。記憶泥棒ってやつならな……、たとえ他人の記憶であってもここならたぶん役に立つと思ったんだろうさ。あんただって知らないわけはないだろう」

 知らないはずはなかった。この街の入り口でも見たばかりだったからだ。

 自分が何者か忘れてしまった者は、次第に自分がどんな姿であったかさえ忘れてしまう。肉体は崩壊し、やがて剥き出しになった心は肉体という器を失ったことで彷徨い続ける。だがこの街に限ってはそれだけではなかった。形を失った肉体は変容を繰り返し、人間の姿からは大きくかけ離れた姿で存在することになる。

「……街に入ったときにすぐ見つけたよ。絡み合って繭のようになっていた」

「そりゃ大通りのやつかい。何日か前から貼り付いていたんだ」

「たぶんそれだ」

「ああ、じゃあもうどうなるかはわかるな」

 〈旅人〉は静かにうなずいた。

「それで、他に心当たりはあるのかい」

「これから探そうとしているところさ。何かそれらしい場所やなんかは知らないかな」

「そうさな、このあたりで記憶のことといったら、それこそ記憶屋に行ってみたらどうだい。もしかすると端末ごと売られている可能性もある」

「記憶屋……?」

「記憶を売り買いしている奴がいるんだ。ここじゃ失った自分の記憶を補填しようとする奴と、記憶を売ってまで何かを手に入れようとする奴がいる……」

「なるほど。行ってみるよ、ありがとう」

 地図は必要かという問いに、〈旅人〉は頷きで答えた。

 店主が紙切れに住所――というより行き方と目印になるものを書いてくれている間、〈旅人〉は不意に口を開いた。

「もうひとつ聞いてもいいかい?」

「いいぜ。答えられることなら」

「他人の記憶であっても、自分の形を保っていられると思うかい?」

 店主は鼻で笑うと、〈旅人〉が呑んでいたグラスを引き取って言った。

「さあな」

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