白が閉ざす
つるよしの
白が閉ざす
「お前、そんなん欲しいの? 昭和の女子中学生かよ?」
僕は冬馬に、そう声を投げられた遠い日のことを思い出す。
あの日も今日のように、吹雪が舞う春のことだったんじゃないか。でも、吹雪は吹雪でも、記憶にあるその日のそれはピンクの桜吹雪だった。対していま、僕の視界を覆うのは、どこまでも白い猛吹雪だ。
風吹き荒ぶ空はどこまでも不機嫌な分厚い雪雲で、天から舞い降りた雪は激しく僕の身を打つ。寒い。身体の芯から冷気が染み渡る。
だけど僕は震えながらも、意識のどこかで、この瞬間がいつまでも続けばいい、そんなことも思っていた。
呑気な考えだという自覚はある。だけど、それでも僕は、いまこのひとときを愛しく思う。
だって、僕の隣には、いま、冬馬がいる。
あの春の日以降、手の届かないところに行ってしまった彼がいる。これを僥倖と呼ばずに、なんといえばいいのか。
しかも、冬馬と僕の身はぴたり肩を並べ、触れ合ったままだ。お互いの熱が行き交うように、これでもかと身を寄せあっている。
――暖かい。暖かいよ、冬馬。これが僕がずっと欲しかったものだよ。
たとえ、そう、たとえここが、猛々しいまでの白に閉ざされた雪山の山小屋で、しかも、僕たちが遭難中の身であったとしても――。
◇◇◇
なんで、こんなことになっちまったんだろうなぁ、と俺は吹き荒れる風雪を眺めながら、ぼんやり思う。
天候が崩れ始めたのが一昨日の夕方のことで、それで俺たちはすぐに下山すべく、雪が膝まで積もった山道を下ったのだけど、思った以上に吹雪の訪れは早く、視界はあっというまに効かなくなり、仕方なく崩れかけた山小屋でビバークしてもう二日。
俺も陸も、高校時代は同じワンゲル部で過ごした仲だから、春先の山のヤバさは一般人以上に知識がある。なのに、このていたらくだ。食糧はあと二日ほど余裕があるけれど、悪いことに持ってきた固形燃料が尽きつつある。
それで、いまにも消えてしまいそうな火を前に、俺たちは仕方なく身を寄せ合って暖を取っているわけだ。
救助が来るまで、俺たちは互いを温め続けることが出来るのだろうか? 考えまいとはしたけれど、そう思うたびに胸が絶望に黒く澱む。
だというのに、すぐ傍で白い息を吐く陸の顔に目をやれば、なんだかそこには笑みさえ刻まれていて、俺は寒さも忘れて戸惑う。
――なあ、陸。お前いったい、なにを考えているんだ? お前が、よりによってひとりで雪山に登るとか言い出したもんだから、俺はほっとけなくて着いてきちまったわけだが、どうしてお前は登山を決めた?
ああ、思えばお前は前から変な奴だったよ。そうだよ、あの、高校卒業式の日だって――。
◇◇◇
「なあ、陸。いま何考えているんだよ」
冬馬が僕に語りかけてきた。
身体をぴったり合わせたままなものだから、冬馬の吐息は僕の耳たぶを心地よく擽る。なもんだから、僕は耐えきれず、ふふっ、と声を出して笑ってしまった。
唇の色はきっと紫がかっているんだろうけど、それでも僕が刻んだ笑みはこの場にそぐわないほどに、楽しげなんだろう。
それを見て、冬馬は眉間に皺を寄せる。その表情がなんとも彼らしくて、僕はますます幸せな気分になる。
「よく笑ってられるな、この状況下で」
「ごめん、ごめん。ちょっと一年前のこと、考えていたものだから」
「一年前?」
冬馬が僕の顔を訝しげに覗き込んだ。
その要領を得ない表情も、なにもかも、僕からすれば、僕の好きな冬馬そのものだ。僕はともすれば緩みそうになる頬を意識して引き締め、語を継ぐ。
「うん、高校の卒業式のこと、考えていた」
「あー、あれね。俺も思いだしていた」
「なんだ、冬馬もこの状況下らしからぬ事を考えているんじゃん。同じだね」
「仕方ねえだろ。お前を見ると、反射的に思い返しちまうよ。最後の最後に、あんな変なこと、俺に言いやがって」
冬馬が苦笑いする。
それから、僕たちの間には、数分の沈黙が続いた。
びゅうびゅうごうごうと轟く吹雪の唸り声が、やたら迫力を持って鼓膜を叩く。
「陸。お前なんで、あのときあんなこと、言ったんだ?」
再び口を開いたのは、冬馬だった。
「なんでって? 冬馬にはわからないの?」
「わかるはずなんかないだろ。『卒業の記念に制服の第二ボタンが欲しい』なんて、いきなり言いやがって。冗談にしても、言って良いことと悪いことがあるだろうが」
「冗談、ねえ」
「そうだよ。なんでそんなくだらない冗談、言いやがったんだ? あれだろ、制服の第二ボタンって、ちょっと前の時代の女子生徒が、好きな男の先輩にねだるもんだろ? なのに、なんで」
「なんでかねぇ~」
僕は冬馬をおちょくるような、答えを誤魔化すような口調で、言葉を返した。
すると冬馬がますます眉間の皺を険しくする。この距離だから細かい皺の本数までも、数えられてしまいそうだ。
「陸……、俺はお前のそういう不真面目なところが、好きじゃねぇよ」
「僕のそういうところが嫌い、ってはっきり言えば良いのに」
「まーたそう誤魔化す。だいたい俺があれからどんだけ、お前のこと気に掛けていたと思うんだよ。式の翌日にはLINEのアカウントも消しちまったうえに、大学の入学式にも来やしねえ。せっかく同じ大学受かったんだから、一緒に行こうぜ、って約束したのに」
「そんなこともあったね~」
「陸。俺は真剣に話してるんだぞ」
冬馬の語気が険しさを増していく。頬に掛かる息も、心なしか先ほどより熱い。
僕にはそれがいよいよもって、気持ち良い。
「しかも、大学にも来てる様子、いまもってないじゃないかよ。お前、なんのため、あんな必死に受験勉強したんだよ。偏差値ぜんぜん足りないけど、俺と一緒の大学入りたい、って、めちゃくちゃ頑張った末のことじゃないか。その挙句、一年越しの連絡が『雪山に登る』だぜ? ほんと、陸、お前いったい……」
「鈍感が過ぎる」
「え?」
冬馬の厳しくも暢気な声音に、僕はついに堪えきれなくなって、ぼそり、語を零した。冬馬が目をぱちくりさせながら僕を見返す。
その顔を見れば、冬馬がまったくもってなにもわかっていないことが伝わってきて、僕は急激に高まった苛立ちを我慢しきれなくなった。
だから、僕は次の瞬間には、こう冬馬を怒鳴りつけながら立ち上がることを、もう止められなかったのだ。
「……鈍感が過ぎる、って、言っているんだよ!」
そして僕は衝動のままに、山小屋の外に身を躍らせる。
途端に激しい風雪が身体を叩くが、僕にはもう、そんなことどうでもよかった。
後ろから僕を慌てて呼び止める冬馬の声が聞こえる。
でも、僕は構わず雪のなかへと、ずんずん、歩を進めた。
――もう冬馬のことなんて、知らない。ならば、遠くに行ってしまおう。あんな、わからずや、放っておいて。遠くへ。あんなわからずやが追いつけないほど、遠くへ――。
◇◇◇
「待てよ! どこ行くんだよ、陸! 危ねえだろうが、そっちは崖だぞ!」
急にわけのわからないことを叫んで、外に飛び出した陸を追って、俺は吹雪のなかに飛び込んだ。
――なんだ、なんなんだ、いったい。低体温症で意識がおかしくなったのか? いや、そんな素振りはぜんぜん、なかったぞ?
俺は疑問に脳を疼かせながら、雪を踏みしめる。
吹雪はより激しさを増していて、一メートル先でさえ白い靄がかかって見極められない状況だ。すぐ前にいるはずの陸の姿すら見えない。
しかし、膝までの雪を搔き分けて進む陸の痕跡は、なんとか目で追うことができたので、俺は必死でそれを辿る。ついで、ひっきりなしに、陸に向かって叫ぶ。
「陸! どうしたんだよ、陸!」
しかし、猛烈な風雪は己の声すらも遠くする。
果たして、俺のその声は、陸に伝わっていたのかどうか。だけどそれでも、俺は声を枯らして怒鳴ることを止められなかった。
――また、あいつがいなくなってしまう。俺を置いて姿を消してしまう。そして、今度こそ、俺の追いつけないところに行ってしまう――。
ここ一年間、俺のなかに渦巻いていた恐怖が、よりはっきりとしたかたちをもって、心を締め付けてくる。
苦しい。それが堪らなく怖くて、苦しい。
激情に押されるようにして、俺は陸の姿を求めて叫びつづける。
やがて、白の向こうに、ゆらり、赤いものが揺れた。
それが陸の蛍光オレンジ色のダウンジャケットだと気付いたとき、俺は思わず安堵し……そしてその数秒後、心が悪寒で凍り付いた。
なぜなら、近づいてみれば、そのダウンジャケットは、俺の眼下で揺れていたからだ。
「陸!」
「……それ以上、動かない方がいいよ。でないと冬馬も、滑落する」
崖にしがみついた姿勢なのだろうか。足元から陸が、途切れ途切れの言葉を発する。
吹きすさぶ雪のなか、その声はか細く、掠れていて聞き取りにくかったが、たしかに俺の真下にいるはずの陸はそう言っていた。
そして俺の足は、いままさに、白く埋もれた崖っぷちにあるのだ、と知り、寒さのせいではない震えが胸中を駆け抜けた。
しかし、震えてばかりもいられない。なんとか、陸を引き上げなければ。ことは一刻を争う。
俺は必死にオレンジ色のジャケットに向けて、手を伸ばす。白い靄に邪魔されて陸の頭ははっきり見えないが、ジャケットが認められる位置からすれば、陸はそこにいるはずだ。
だから俺は腕を伸ばす。吹雪のなか、声を限りにこう叫びながら。
「掴まれよ! 陸、俺の手に掴まれって!」
ところが、風雪のもと、微かに響いてきた陸の声は、思いもよらぬものだったのだ。
「嫌だ」
「……へ?」
「冬馬みたいなわからずや、僕は嫌いだからね。言う事なんて聞かない」
「冗談言ってる場合じゃないだろ、陸! 掴まれよ、早く!」
「だったら……最後にもう一回、真剣にお願いするけど」
「陸! なんだよ! なんなんだよ!」
「今度こそ、第二ボタン、僕にくれる?」
その陸の一言に虚を突かれた俺の動きは、一瞬止まった。
すると、その間隙を縫って、俺の身体は激しく前のめりに引っ張られる。
それが、陸が最後の力を振り絞って、俺の胸元に掴みかかったからだ、と気付いたのは全てが終わってからのことだ。
崖下へと、雪の塊とは別の「なにか」が転げ落ちていく音が鼓膜を打つ。
なおも荒れ狂う吹雪のなか、小刻みに震える手を胸に添えてみれば、俺のダウンジャケットの二番目のボタンは引きちぎれられて、なくなっていた。
◇◇◇
一日後、助けられた俺は、救助のヘリの人からの話を淡々と聞いていた。
崖下で死んでいた陸の蛍光オレンジのダウンジャケットが、俺の位置を知らせる役目を果たしたとかなんとかいう、そんなことを。
白が閉ざす つるよしの @tsuru_yoshino
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