波に至る

志村麦穂

波に至る

 急がねば。指先にまだ熱が残っているうちに。

 乳鉢で砕いた辰砂を粉末に、滑らかな粒へと変えていく。沈着した暗い赤は昨晩のあなたを嫌でも思い出させた。閨にこぼれる黒い喀血。膠で伸ばした辰砂は明るい。涙で薄まってしまった。あなたの血はもっと、高慢で怒りに満ちていなければいけない。

 色を重ねる。夜な夜な、艶を重ねた。

 足りない、私はまた成れなかった。

 朝を迎えた身体は、すっかり冷めてしまっていた。



「写せる絵師ってのは、あんたかい」

「あたくしは絵描きじゃあございやせん」

 男は自ら棟梁だと名乗った。なんの、とは問わない。頭にしちゃあ、ずいぶん若い。入れ替わりが激しい証左だ。上等な羽織を掛けた肩は隆起が透いてみえるほどで、お着せの身形とそぐわぬ痩せた狗コロが息をしていた。この手の輩が私の手を求めるのは珍しくもない。私は常に干からびて、奴らは花より儚く淡い。

「私を探しにいらっしゃる方々は皆同じ。肌の一枚下には死斑が浮かんで見えるようだ」

「見る目はあるみてぇだな」

「芸の真は、真似ぶにはじまる。あなたはあたくしの遣り方をご存知でいらしたのでしょう?」

「皮を剥いで、肉を削ぎ、骨を洗うと。飛んだ指は、樋垣屋の怒りを買ったらしいな。その件についちゃ礼をいいてぇぐらいだ。五郎左をやってくれたんだからな」

 男の手にも指がなかった。古傷のようだが、私と同じ左の二本を欠いている。

「あぁ、樋垣屋さんに縁のあるお方でしたか」

 西の河岸を仕切る連中だ。荒磯の男らしく気性が荒く、お上にさえ尻尾を振らねえ奴らときている。古くは流れ者が住み着いた場所で、家ごとに好き勝手に組や座をつくって、同じ生業でも対立して諍いが絶えない土地だった。それを樋垣屋の先代五郎左がまとめ上げたところだった。その矢先、先代が病に倒れ、あたしの腕を頼った次第。

「あたくしの業はただびとにはわかりません」

「そうか? 家に入り込んだ鼠は払われて当然だろう。親父のお気に入りだったそうじゃないか」

「みな、真を写すためにやったこと」

「では、なぜお前はまだ息をしているのだ」

 私は身体を起こし、改めて男と相対した。だれも思い及ばなかった真を突いた。私が至るべき真髄を、この身の未熟さを暴いたのだ。

「なぜ、お前は息をしているのだ。五郎左は死んだぞ」

「然り。我が業はいまもって至らず。未熟が故に、ひとの求めるところ」

 真に迫る。真に写し取ることの意味を。

 あえて示したからには、彼の求めは私の未熟な業にはない。私ははじめて、真の業を求められていると湧き上がる感銘に身を震わせた。同じくして、未熟さを恥じ入ってもいた。

「しかし、そこまでわかっていながら、私になにを頼もうというのです」

「お前となら、成るかもしれねぇと思ったまでよ」

 手付金を投げて寄越し、羽織を翻した。

 それが私と清の顔合わせだった。


 清は腕っぷしが立つだけでなく、気っ風の良い兄貴分であった。清の仕切る美島屋は漁師の寄り合いで、出奔者たちを身内として迎え入れていた。傷があり、指や腕を失くしたものばかりが目立つ。漁場のシマ争いでよその家を揉め事を起こしては、清が尻拭いをして回る。美島の棟梁は多忙を極めていた。

「お前さんがなにもんか、聞かねぇよ。うちの決まりみてえなもんだ。どこの誰だろうと受け入れる。ただし、一度家に入ったからには家の掟には従ってもらう」

 清の先代、目を悪くして引退した権左衛門が日に焼けた肌を怒らせた。一線を退いたとはいえ、船で育った海の男だ。荒縄のような筋繊維がはちきれんばかりに、びんと張る。白濁した右目の眼力だけで、胃が縮む迫力があった。

「俺たちゃ血のつながりはねぇが親兄弟も同然。兄弟が困っていれば助け、喜びは分かち合う。大波が襲うときは力を合わせて対抗する。俺たちは流れもんの集まりだ。寄り合わねば生きていけねぇ。裏切りだけは許さねぇ、わかるな?」

 権左衛門と親子の盃を交わす。

「お前ら、あたらしい兄弟を迎えな」

 その晩、私の盃が乾くことはなかった。集った兄弟たちが代わる代わる酒を注ぎ、家の者皆と同格の盃を交わした。清とさえ五分の盃であった。

「兄弟に上下はねぇ。困っていたら力を貸し、俺たちは腕を組んで船を繋ぐ。親父の下に一本の太い綱になんだ」

 清も同じだけ呑んでいたはずだが、顔色一つ変えずに宴の音頭を取っていた。

「頭の席は譲った。今はお前がこの家の親父だ」

 権左衛門は未だ親父と呼ばれており、私の目にも隠居には早すぎるように思われた。目を病んで海に出れないとは言え、まだ親父の権勢が港で幅を利かせている。清が他家と渡り合えるのも、権左衛門の威光あってのものだとわかる。傍目にも、清は重すぎる荷物を背負わされているようだった。

 だが、懸念はもっとも。清の見回りについて回り、縄張り争いの激化を感じた。

「悲しいこと言わねえでくだせぇ」

 家中の者が泣き上戸にすがる。

「みっともねぇ、やめねぇか。今が潮目なんだ。清を帆柱にして、皆で家を支えてくれな」

 権左衛門は集った兄弟を見回し、最後に私をみた。

「頼むぞ」

 権左衛門の激励に、清は澄ました顔で唇を結んでいた。海の男にしては、青すぎる顔だった。


 清の住まいは潮騒の打ち寄せる、あばら家同然の漁師小屋だった。

「家の親父がこんなみすぼらしい家に住んでいたんじゃ舐められる」

「鰊で建てた御殿にでも住めってか。冗談じゃねぇ、それじゃ樋垣屋と変わらねえ」

 私は清の肌をみて、潮の香りを嗅ぎ、翳を推し量った。真に迫るとき、要となるのは自らの肌で知ることだ。そのものの皮を着て、同じ息を吸い、目の高さを合わせることだ。

 清の身体は精強だ。だが、波に揉まれて洗われたような荒々しさがない。強かだが、船を結ぶ綱はみえてこない。妓楼で響く、弦のごときしなやかで細い強かさだ。指先こそ傷があるが喧嘩傷だ。仕事で擦り切れ、皮が固くなったわけじゃねえ。水面に照る日が染み付いてない。まだ、足りねぇ。

 筋張った清の甲に指を這わせた。

 肩が跳ね、私の手は振り払われた。清は自分でも驚いて目を見張った。

「すまん。急におっぱじめるもんだからよ」

「なにがみえた」

「なに?」

「あたしがなんにみえやしたか、と聞いてます」

 一寸の瞬きに覗いたのは、怯えだった。次いで浮かんだのは深い惑いの色。幾重にも垂れかかった幕を開いていくように、奥へ、奥へと上がり込んでいく。

 再び添わせた手は、払われることはなかった。袂から滑り込み、穏やかに、強く波打つ肋に耳を済ませる。

「聞かせておくれ」

 あんたは、なにを怖がっているんだい。

「傷だ」

 清はただそれだけをこぼした。

 潮風を肩で切った棟梁の姿はなかった。幼さを面立ちに残した、若い男。所在なさげに吹かれる浜辺の松。ぽつねんと根を張り、岩べりで波をかぶる。そこには親父も、兄弟もおらず、眼下の海の暗さに怯え、暗雲に背を丸める童がいた。

 稲光が曇を裂き、海に突き刺さる。

 背筋を走る、迷いのない刀傷。盛り上がった肉と成長で引っ張られちゃいるが、かつてはぱっくりと背をふたつに割っていたであろう。幼い時分につけられたものだ。それは海溝のように深く、見通せない奥底まで切り裂いているようだった。


 樋垣屋の五郎左亡き後、続いていた縄張り争いの小競り合いは戦の様相を見せ始めた。その火種は美島のもとへ飛び火して燃え上がる。かねてより漁場のシマ争いで揉めていた隣家の樋口座と、沖で難破した船のことで刃傷沙汰になったのだ。

 藩の御用船の積荷を奪うことは一大事であるが、あろうことか隣家の奴らは助けを求めた船乗りたちを沈めてしまったのだ。義憤する美島の男たちに対して、樋口座の連中は荷を奪おうとしているといちゃもんを付けてきたのだ。不味いことには、樋口座は樋垣屋の先代と盃を交わした兄弟分の家であり、河岸でもっとも有力な家のひとつだった。

「捨て置かれた妾腹なんぞが、俺らのシマででかい顔をするんでねぇや!」

 樋口座の下っ端が、清をみて唾を飛ばした。

 奴らがことのほか、美島を目の敵にするには理由があった。

 樋垣屋先代五郎左には盃を交わした兄弟分こそいたが、息子は早くになくしていた。跡目争いが大きくなったのも、息子がいないことが理由のひとつ。しかし、不義の子ならばいた。行きずりの情婦にはらませた子が清であった。五郎左は清を切り捨て、家から追放した。樋口が恐れているのは、樋垣屋の連中が清を担いで支配を続けることであった。確かに、そのような動きは少なからずあり、清が樋垣屋の人間と接触することは少なくない。

 船は波間で揺れていた。

「俺は拾ってもらった親父に恩を返さなきゃなんねぇ。兄弟たちを助ける、それが家の掟だ。だが……美島だけの話じゃねぇ。この河岸の争いを収めるためにゃ、力のある樋垣屋を頼ることが手っ取り早い」

 美島の棟梁を継いだ清が樋垣屋を頼る。それは彼らの思惑通り、五郎左の子として河岸をまとめる旗頭になることだ。そして、それは美島の家が樋垣屋にくだることを意味する。親父の守ってきたものを投げ捨てることになる。

 清の船は両側から押し寄せる大義と忠孝に挟まれ、波を被り続けていた。搔いても、搔いても、海がせり上がってくる。

「樋口一座とぶつかりゃ勝ち目はねぇ」

 私はひとまわりたくましくなった自らの肩を回した。

「だから、あたしを求めたのだろう」

 精強な身体、色を塗り、身形を整えりゃ誰が見分けられるもんかよ。

「翳を踏んだか。早いもんだ」

「まだいまひとつ至らねぇ。奥だ。もっと、あんたの奥を開かせてくれ」

 清とひとつに交わり、その悔いも肉の味も、深く底まで潜り、知ることだ。


 月のない夜だった。

 篝火を掲げた美島屋の連中を率いて、清は漁にでた。火の粉が散り、脂を含んだ松が弾けるたびに辺りが照らし出された。

 刃が照り、怒号が行き交った。虚を突かれた樋口一座は泡を食って、海に飛び込む者もいた。血が飛び、海鳥どもが目を覚ました。屍を狙って、船上を旋回する。

「覚悟ッ!」

 清は身を突き破る刃の熱を腹に感じた。背を切った五郎左の冷たい殺意とも、夜にまぐわった熱とも異なる。黒潮のようにあたたかく、それでいて逆らうことを許さない力強さ。死だ。

 眠りそうになる瞼をかっ開く。眼前には樋口一座の棟梁がみえていた。口の端から血を吹き出し、互いにもんどり打って水面に落ちる。

 清は樋口一座の棟梁と相打った。


 抗争の一報が入るより先に、俺は腹に熱いものを感じていた。

 懐にもった匕首を抜き去った。予想もしていなかったのだろう、樋垣屋の連中も動けずにいる。今更、妾の子なんぞが出てきて河岸を仕切れるわけがねぇ。火種にこそなれ、上から押さえつけたのでは恨みをためるだけ。肝要なのは権勢を誇っていた樋垣屋が他家と五分になることだ。

 刃は樋垣屋の三役を捉えていた。権力にしがみつこうとする、その綱を切る。

「やりやがったな、この野郎ッ」

 怒声が腹を突く。

 一晩でふたつの家が五分になる。

 海水は掻き出され、船の傾きは正される。

 血と熱が、俺たちを繋いでいた。それは太く、撚り合わされ、どんな荒波にも切れることはない。

「成ったか?」

 清が私の耳元で問うた。

「至り」

 遠い潮騒が耳朶を打った。

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