アマサギ

佐藤宇佳子

アマサギ

 型押しガラスの窓を開けようとクレセント錠に手を伸ばしたとき、くぐもったざわめきが鼓膜をなで、空気の湿り気が鼻をくすぐった。期待に手が震える。急いで滑りの悪い窓を細く開けると、柔らかな光とともに天の衣擦きぬずれの音が部屋に舞い込み、木々の緑を洗い流したにおいが流れこんだ。


 雨だ。


 窓を広く開けると、なんどか深く呼吸してそのにおいを体中に行きわたらせる。雨粒を受けようと窓から手を伸ばしたけれど、庇に遮られて届かない。左手で窓枠をつかみ、思いっきり身を乗り出して右手を差し伸べる。ぽつぽつぽつ。雨が手のひらにたまっていく。その手のひらをなめて雨を味わう。


 一週間ぶりの雨に生き返った気分になり、窓枠に座って外を眺めた。慎ましやかに微笑む白い世界を鷹揚おうようとして眺めおろす。庭に無造作に投げ出された三輪車が不服そうに水滴をしたたらせ、その脇では青いスコップと水鉄砲が小さな黄色いバケツの中で雨水に溺れていた。

 家から歩いて十分もかからないところに、田んぼに囲まれた小さな林があった。その黒々とした茂みに見慣れない色がひと差しされているのが目に留まった。鮮やかなオレンジ色の混じる白。木の花かな? でも、それにしては大きく、鬼火のようにちろちろと揺れている。なんだろう?

 空を見上げる。間断なく細かな白い雨粒をほとばしらせる天は、一面、黄みがかった暗灰色に塗りつぶされ、もったりと重い。大丈夫、当分、雨は上がらなさそうだ。それなら行ってみよう。


 部屋のドアをそうっと開けて体を押し出し、ゆっくりと閉める。ニスがはげ、白くそそけた板張りの廊下は、不用意に体重をかけるとすぐにぎいいときしむ。かかとからつま先へとゆっくり体重を移動させながら、廊下の端を歩く。急な階段を這い下りて玄関に向かっていると、障子がぴたりと閉められた右手の暗い部屋から、かすかなうめき声とあえぎ声が聞こえた。動物のなまぐさいにおい。急いで、でも、細心の注意を払って玄関を開ける。とたんに耳も目も鼻も、優しい雨に包みこまれる。


 林までは家の裏手から細い一本道でつながっている。歩きはじめるとすぐに、降りしきる温かな雨が髪の毛の端からしずくとなって滴り落ちた。そのしずくが目に、鼻に、口に入り込む。胸にも背中にも雨が忍びこむ。つるつると流れ落ちる雨水が肌をくすぐるのが気持ちよくて、思わず声を上げて笑った。足を止め、天を仰いで雨を受ける。

 雨のヴェールは世界をくぐもらせる。だから晴れた日のように、ひりひりとする現実に怯えることはなく、濡れるのを恐れ傘の下でこわごわと身をすくめる人々よりも、むしろ、堂々と歩くことができる。Tシャツが濡れ、ズボンが濡れて体に貼りつく。少しだけ窮屈な女物のサンダルをつっかけた足は、とうのむかしにびしょびしょだ。雨に全身をくるまれて、道の真ん中を陶然として歩く。


 歩きながら林を見た。うっそうと茂る林のどこを見ても、二階の窓から見えた白とオレンジ色は見あたらない。風に吹き飛ばされたのかなと思いながら、林の入口付近をうろうろしていると、白とオレンジ色が松の高みにはらりと舞い降りた。鳥だ。円やかな白い体、鮮やかなオレンジ色に輝く頭と胸。歪んだ松の木にとまるその姿は、あかあかとした松明の炎を思わせた。しばらくぽかんと口を開けて、雨の中で燃え上がる鳥を見つめていた。




 次の日も、その次の日も雨は続いた。窓を開けるたびに林に目を凝らし、白とオレンジのサギがいないか確かめた。朝夕は必ずそこにいた。どうやら巣があるようだ。無理に押しつけられ、ふだんは勉強机のうえに放り出しているスマホで検索してみると、それはアマサギというようだ。飴に似た羽色からアメサギと呼ばれ、それがアマサギに転じたらしい。アマサギ、飴サギ、炎のような雨のサギ。素敵な名前じゃないか。ネットには、他のサギとともに集団で営巣すると書かれている。でも、林の入口にあるのは、あの巣ひとつだけのようだった。


 雨が降るたびに、林に通い、アマサギを見た。


 部屋を抜け出すときには、いつも、同じ儀式をする。窓から空を見上げて雨が止みそうにないことを確認する。足音をひそめ、廊下の端を歩いて階段を下りる。うめき声とあえぎ声を聞きながら、動物のにおいに辟易としながら、ピンクのサンダルを履いて玄関を開ける。すると、そこにはもう、うるんだ世界が広がっている。足を踏み出し、全身に雨をまとう。いたるところから水滴がしたたり落ちはじめると、体にぎっしりと詰まっていた重みが角砂糖のようにすうっと溶けて抜け落ちていく。

 雨粒のヴェール越しに見る町は、何もかもを赦し、そっと目をそらしてくれる。雨粒のヴェール越しに見える人々は表情がなく、まるで異国の人のように無関心だ。このままずっと雨が降り続けばいいのに。




 アマサギは巣に留まるようになった。ときおり、ひらりともう一羽が巣に舞い降りると、もといた一羽が追い出されるように風に乗る。


 晴れた日には外に出ることはもちろん、外を見ることすらできなかったけれど、アマサギのことを気にかけるうちに、いつしか、窓から林を眺めるくらいならできるようになっていた。ぐつぐつとたぎる太陽に照り付けられた道は白熱し、往来を行く人びとの輪郭は磨き上げられた銀のナイフのように鋭いきらめきに縁取られている。不用意に目を合わせようものなら、切り付けられ、息の根を止められてしまう。用心に用心を重ね、窓を細く開けて白いレースのカーテンを引き、レースの模様の隙間からアマサギを観察した。


「なにしてんの」


 飛び上がる。振り返ると入口に毒々しい色が立っている。


「まどをあけてるなんてめずらしいなんかおもしろいもんでもあるのそれにしてもさこっそりのぞきみするようなまねはやめてもらえないきちんとまどをあけてみればいいでしょ」


 ひび割れた声が耳の奥に何度もこだました。言っている意味が理解できない。動物のにおいがぷうんと部屋中に押し寄せ、吐き気がする。舌が上あごに貼りついてはがれない。手足がこわばって動かないくせに、ぶるぶると細かく震えている。


「ほら」


 その言葉とともに、ずかずかと部屋に入って来て、型押しガラスの重い窓がききいと悲鳴をあげるのもお構いなしに、広く開け放った。


 とたんに部屋の中に暴力的な光がなだれこむ。声にならない悲鳴をあげ、懸命にベッドまで這っていき、毛布の中にもぐりこんだ。ふん、という声とドアの閉まる音が雷鳴となって耳を突き破り、しばらく動けなかった。


 それ以来、ますます気をつけるようになった。


 それでも、雨が降ると外に出ずにはいられない。温かな雨の世界は毛布の中よりもずっと、心を落ち着かせてくれる。




 一か月ほどたつと、アマサギがしきりに巣を飛び立っては戻ってくるようになった。最初は何をしているのか、わからなかった。数日たつと、巣に小さな白い頭がうごめくのが見えるようになった。ひながかえったようだ。親が巣に戻ってくると、そのくちばしの奥に一羽のひなが頭を突っ込んだ。初めて見たときには息が止まるかと思った。親が、ひなを頭から丸呑みにしようとしている。ひなは食べられるとわかって、自分から親に身を差し出している。

 すぐに、そうではないとわかった。ひなは親が吐き出した餌を、口移しに与えられるらしい。ときに、待ちきれないひなが親の喉の奥に鋭いくちばしを突っこんで、食べたものを強引に奪い取るのだ。興奮した。




 長雨の季節が終わろうとするころ、夜半に激しい雨が降りはじめた。暗い部屋の中にいると、雨が地面を叩きつける音は、駅に向かって縷々るると流れる雑踏の数えきれない数の靴音を思い起こさせ、いったんそう思うと、もう、頭から離れなくなった。一気に気持ちが悪くなって、ごみ箱のなかに吐いた。いつもの優しい雨が恋しい。一所懸命、両手で耳を塞ぎながら、毛布をかぶって背を丸めた。


 目が覚めると、薄明りの差す部屋はしんと静まり返っていた。ベッドから抜け出すと、そっとガラス窓に近づき、耳をそばだてる。かすかに雨音がする。

 窓を開けると、夜明けの町は雨の底にいた。手に雨を受けて温かさを感じ、においを胸に満たし、全身にめぐらせる。


 アマサギはどうしているだろう?


 林を見る。白とオレンジは見えない。餌を探しに行っているのだろうか。見に行ってみよう。

 部屋をそっと抜け出す。階段を降りると、ひときわ生臭さがにおった。


 夜明けの雨ほど頼もしいものはない。隙あらばまばゆい光の矢を射かけようとする太陽をやんわりと遮り、世界の彩度を落としてくれる。力強い拍動を始めた町の営みから生気を奪い、人々の時計を二十年も三十年も進めてくれる。雨の温かさが皮膚に沁み、体の芯に伝わるのを感じながら、足取りも軽く、陰鬱な闇の居残る林へと向かった。


 巣の下の濡れた草むらに薄汚れた白いものが落ちていた。一羽のアマサギのひなだった。誤って巣から落ちたのか。それとも、兄弟に落とされたのか。腹や首の羽が荒々しくむしられ、赤黒い肉が見えている。その上にも優しい雨が降りかかり、白い綿毛をピンク色に染めている。そっと腹を触ってみた。動いた。首をゆらゆらともたげ、足でよたよたと空を掻き、起き上がろうとする。その滑稽こっけいな踊りはゼンマイ仕掛けのおもちゃのように徐々に止まった。もう一度腹をつついた。動めく。でも、先ほどより反応が鈍い。

 そのとき、頭上で兄弟たちがけたたましく鳴き叫びはじめた。見上げると、雨にけむる巣はオレンジ色に燃えていた。鮮やかな頭が白いひなたちの上で動く。すぐに親は飛び去り、同時に兄弟たちの声は消えた。

 しゃがんで、ぐっしょりと濡れそぼった落伍者を拾い上げる。拍子抜けするほど軽い。もう足を動かしはせず、目だけを開けてこちらを見た。てらてらと光る金色の眼。そこに一滴の雨が飛び込むと、そのきらめきは、ざらりとした瞼で覆われた。

 また、親が帰ってきたようだ。ひなたちが競ってたくましい声を上げる。


 濡れたひなを持って、林のかたわらを流れる小川へと行った。普段ほとんど水のない川だけど、昨晩の豪雨で増水し、濁った水が岸辺の草をなびかせながら勢いよく流れている。雨粒は猛った濁流にもお構いなしに降り注ぎ、無数の小さな水紋で飾られた水面は、まるで型押しガラスのように見えた。えぐられた土手のひんやりとした土のにおいが鼻をつく。

 水音に気づいたのか、においに気づいたのか、ひなが再びぱちりと目を開けた。濡れたような目がきょとんと見開かれ、網膜に結んだ像の意味を理解するや、つかんでいる手を激しく足で搔きのけようとする。首をもたげ、鋭いくちばしのついた頭を振りかざす。

 その体を落とさないようしっかりとつかみ直すと、ゆっくりと頭上に掲げ、滔々と流れる水にむかって勢いよく放り投げた。薄汚れた白い鳥は空中でまばらな羽の翼をはためかせ、きれいな弧を描いて水に落ち、二、三度浮き沈みすると、すぐに見えなくなった。

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