それも愛の形

 大学院生のとき、私は学術調査のため、中央アジアの某国で暮らしたことがある。

 その土地で親しくなった老人が病気になった際、身寄りはなく、医者にかかる金もないとの話だったので、私が治療費を立て替えてあげた。

 病室へ見舞いに行くと、老人は感謝の言葉を口にしたあと、私に長細い小箱をくれた。

 老人が箱を壊さないように蓋を開けると、中には線香が収められていた。

 彼が言うには、老人は遠く東から逃れて来た王族の末裔であり、その線香は、一族に伝わる秘法でつくられたものとのことだった。

 私が話半分で聞いていると、老人はその線香について説明をはじめた。

「これは返魂はんこんの香と呼ばれる物で、愛する者が死んで魂が肉体から離れたとき、この線香を焚きながら呪文を唱えると、一晩だけだが、その者の魂を肉体に戻すことができる。細かい話は、箱の中の紙に書いてある」

 当然、私は老人の話を信じなかった。

 しかし、中身の線香はともかく、それを収めている箱には価値がありそうだったので、私はありがたく頂戴した。

「ところで、あなたは、この線香を焚いてみたのですか?」

 私が老人に尋ねると、彼は悲しげな顔で「ああ」とだけ答えた。

「先ほどおっしゃられた通り、死んだ者の魂が戻りましたか?」

「言い伝え通り、戻ったよ。確かに」

 なにげなく、線香の数を私が調べると、全部で二十一本あった。

「すべてもらってしまってもよいのですか?」

「構わんよ。それが、先祖から受け継いだ残りのすべてだ。わしにはもう不要のものだから、全部おまえさんにあげるよ。二十一本あれば、魂を二十一回戻すことができる。しかし、紙に書いてある通りに従えば、おまえさんがすべてを使うことはあるまい。おまえさんが愛しい者たちを呼び出し、おまえさんが死んだあと、愛する者たちがおまえさんを呼び出せる分はある。それで終いだ」

 老人は話し終えると、疲れたとばかりに眠りに入った。



 帰国した私は、当時恋人であった妻に、老人から託された小箱を見せた。

「ロマンティックな話ね。本当だったら」

 彼女が屈託なく笑ったのを、今でも覚えている。



 私が妻と結婚して数年が経ったとき、彼女に異変が起きた。

 勤め先の人間関係に悩んだ末、体調を崩し、休職を余儀なくされた。

 会社に行かなければよくなるだろうと思っていたが、日に日に状態が悪くなり、寝室に引きこもるようになった。

 職場から早く帰宅して、彼女の世話をしてあげればよかったのだが、家のローンも払わなければならず、私は仕事に追われて、彼女に寄り添うことができなかった。

 その結果、ある日、家へ帰ってみると、妻が寝室で首を吊って死んでいた。


 私は妻の遺体をベッドの上へ置いてから、彼女の顔を見てみると、斑点のようなものが浮き出ていた。

 本来ならば、救急車を呼ぶべきだったが、もはや手遅れであったので電話をかける気にはならなかった。

 長い間、妻の顔を眺めつづけたのち、私は自分の部屋へ向かった。

 そして、押し入れの中の物を後ろに投げ捨てながら、老人からもらった小箱を私は探した。

 やがて目当ての品が見つかると、私は寝室へ取って返し、蓋が壊れるのも構わずに小箱を開け、中に入っていた紙を取り出し、そこに書かれている文章を読んだ。

 ところどころ、文意が不明の箇所はあったが、おおよそは理解できたので、その紙の指示通りに線香を焚き、祈るような気持ちで呪文を口にした。

 しばらくして、線香が燃え尽きたので、私は呪文を唱えるのをやめて、妻の顔を確認した。

 すると、彼女のまぶたが動きはじめ、やがて目を開けた。


 私は起き上がろうとする妻を抱きしめて、涙を流した。

 妻は状況がつかめていないようだったが、私に笑顔を返して来た。

 それは久しぶりに見る、妻の笑顔であった。

 事情を私が説明すると、妻には自殺をした記憶はなく、また、引きこもるようになった勤め先での出来事も忘れているようだった。

 私と妻は、楽しかった学生時代の話などをして時間をつぶした。

 やがて朝日が昇る時間になると、妻は「何だか、とても眠いわ」と言いながら、ベッドに体を横たえて動かなくなった。

 小箱の中の紙に書いてあった通り、遺体に魂を戻すことができるのは、日が昇っていない時間だけだった。



 翌日、会社から帰宅し、寝室に入ってみると、腐臭が鼻を襲った。

 私は急いで窓を開けようとしたが、それはやめて、エアコンの冷房をいちばん低い温度に設定した。

「いまが冬なのがせめてもの救いだな」

 私は冷却剤と消臭剤を手に入れるため、寝室を後にした。

 二度目の帰宅後、私は買って来た物を妻のまわりに置いてから、きのうと同じように、彼女の魂を呼び戻した。

 妻が意識を戻すと、私は彼女を抱きしめ、口づけをした。

 唇の感触は柔らかかったが、今まで嗅いだことのない悪臭が鼻の奥へ広がり、吐き気をもよおした。

 それを私は我慢しながら、しばらくの間、彼女との口づけをつづけた。

 昨晩寝ていないので、私は強い眠気に襲われたが、それを我慢して、妻とたわいもない話をつづけた。

 話している途中で、妻が手鏡をせがんできた。

 私がしぶしぶ妻に渡すと、彼女が手に取った瞬間、手鏡はベッドの上へ落ちた。

 物を持つことはできないようであった。

 私の手を借りて、赤黒い自分の顔を見た妻が、化粧道具を持ってくるように求めたため、私は彼女の言う通りにした。

 そして、妻の指示通りに、私が彼女に化粧を施した。

 不慣れなためにうまくできなかったが、妻は満足そうだった。

 夜が明け始めると、きのうと同じように、妻は死者に戻った。

 それを確認してから、私は小箱の中に入っていた紙の末尾へ目を落とした。

『魂を戻すのは、長くても三回までにしなさい。それまでに死者との別れをすませ、あきらめをつけ、死者を埋葬しなさい。それが、生きている者の務めです』

 私はその行を何度も繰り返し読んだ。



 二日寝ないまま、私は会社へ行き、上司へ長期の休暇を願い出た。

「明日からお願いできませんでしょうか? 妻の病気が悪化しまして、そばにいてやりたいのです」

「ずいぶんと急な話だな。期間はどれくらいだね?」

「三週間いただきたいです」

「三週間か……。いまは閑散期だから、ほかの課員が残業を増やせば何とかなるが」

「ぜひ、お願いします」

 上司は私の顔をしばらく見つめたあと、課員をふたり呼び、私の休暇について話し合った。

 相談が終わると、課員は心配そうに私を見ながら、自分の席に戻って行った。

「わかった。認めよう。有給休暇の申請をしなさい」

 そう告げた上司に、私は頭を下げた。

「奥さんのことも心配だが、その前に君が倒れては仕方がない。今日はよく寝るんだ。昨日から顔色がひどいぞ。最低限の引き継ぎが済んだら、今日はもう帰りなさい」

 私はもう一度、上司に頭を下げてから、自分の席に戻った。

 眠気と疲労のために朦朧もうろうとする意識の中で、引き継ぎの作業をしている最中、ふと、もう、ここには戻って来られないような気がした。



 引き継ぎをすませて帰宅した私は、これで気兼ねなく妻との時間を過ごせると思い、心が躍った。

 玄関を開け、妻が眠っている二階の寝室に近づくと、廊下にも異臭が漂っていた。

 私は部屋の中に入り、妻の様子を見た。

 体全体が少し膨らんでいるようだった。

 しかし、私は気にせず、二日ぶりに覚えた空腹を満たすために、コンビニで買いこんで来た弁当のひとつに手をつけた。

 妻の手料理をもう一度食べたいと思ったが、それはもう叶うことのない願いであった。


 日が沈むとすぐに、私は妻の魂を呼び戻した。

 笑顔で私は妻に話しかけたが、彼女の答えは不明瞭で、何を言っているのかよくわからなかったし、声質も本来の彼女のものではなくなっていた。

 それでも話しかけると反応があり、時おり、妻が笑みを浮かべてくれたので、私は気にしなかった。

 私が気にしていたのは、小箱の中の紙に書かれていた『魂を戻すのは、長くても三回までにしなさい』という文言であった。

 しかし、私はすべての返魂の香を使うため、死んだ妻に会えるだけ会うために、無理を聞いてもらって会社を休むことにしたのだ。

 だから、迷いはしたが、その忠告を無視することにした。

 出会ってからの楽しい思い出を妻に話したり、ふたりの好きな曲を歌っていたりしたら、あっと言う間に、外の闇が薄れて来た。

 私は、動かなくなった妻のとなりに体を横たえた。

 ベッドのシーツは、妻から流れ出る液体のために濡れていたが、私は構わずに、三日ぶりの眠りについた。



 警察官は、その部屋の惨状を見て、声が出なかった。

 無数のハエに覆われながら、ベッドに坐っている男が、抱きしめている腐乱死体に向かって、楽しそうに何かをささやいていた。

 死体はすさまじい腐臭を放ち、黒ずんでいる体から出る液体が、ベッドや床にぽたぽたと落ちている。

 死体をよく見ると、ところどころ、白い骨が露わになっていた。

 警察官は携帯電話で応援を要請しながら、ベッドの横にあるナイトテーブルに目をやった。

 テーブルの上には、中に何も入っていない小箱と、灰の積もった線香立てが置いてあった。



「腐乱死体は男の妻で、他殺か自殺かは……」

 部下から報告を受けた刑事は、パンをかじりながら、パソコンの画面に映っている現場の画像を、無表情で確認した。

「男は話を聞ける状況なのか?」

「いえ。まったく。一日中、独り言を口にするばかりで、意思の疎通はほとんどできない状況です」

「奥さんとの会話を、楽しんでいるのだろうな」

 パソコンの画面から目を離さないまま、刑事がつぶやくと、部下もひとつうなづいた。

「ただ、毎日、日が暮れる時刻になると、線香をよこせと、騒ぎ立てるそうです」

 最後の報告に、刑事は部下の方を向き、「なんだ、それは」と言い放ちながら、食べ終わったパンの袋をゴミ箱に捨てた。

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短編集「ア、雨」 青切 吉十 @aogiri

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