後ろの化け物
そいつが現れたのは、僕が小学校四年生の時だった。
僕の家にはお父さんがいない。
僕の家は、普通の家とはちがうようだ。
というようなことを自覚して、僕が悩み始めたころだった。
ある日、学校からそのまま塾に行った帰り道、日が暮れ始める中、僕は家へ向かって歩いていた。
家々に挟まれた長い道路は夕日に包まれており、人だけでなく、犬や猫すら姿を見せていなかった。
その道を、とぼとぼとランドセルを背負って歩いていた僕は、ふと、背中にだれかの視線を感じた。
なにげなく僕が振り向いてみると、道の遠くのほうに、黒っぽい何かがうごめいていた。
薄暗い夕日を背に、僕が何だろうと眺めていると、どうやらその黒っぽい何かは、こちらに近づいているようだった。
僕がとくに深い考えもなく、その黒っぽいものに近づくと、ほふく前進で人間の形をしたものが、こちらに近づいて来ていた。
やがて、その黒っぽいものの正体が分かった。
それは、焼け焦げた人間で、こちらを見上げているその顔は焼けただれているだけでなく、右目が飛び出して、ぶらんぶらんと顎のあたりで揺れていた。
僕は恐怖のあまり大声を出して、駆け足で家へ急いだ。
走りながら後ろを見てみると、化け物は獣のように手足を使って、こちらに迫っていた。
僕は息ができなくなるのも構わずに、今まで出したこともない速さで走り、お母さんと住んでいるアパートへ飛び込んだ。
お母さんは仕事からまだ帰っていなくて、机の上に晩御飯が置いてあった。
僕は怖くてたまらなかったので、布団の入っている押し入れの中へもぐりこんだ。
そして、あまりに怖かったのだろう。
いつの間にか寝てしまい、帰宅したお母さんに起こされるまで、押し入れの中で寝ていた。
「なにかあったの?」とお母さんが尋ねてきたが、仕事で疲れ切っているお母さんを困らせてはいけないと思い、僕は何があったかは言わず、適当に答えた。
お母さんもそれ以上は聞いて来なかった。
次の日の朝、びくびくしながら学校へ向かったが、化け物は出て来なかった。
教室に着いて、自分の席に坐り、きのうのことを考えた。
だれか話を聞いてくれる子でもいればよかったけれど、僕には気軽に話せるクラスメイトがいなかった。
僕は性格が明るいわけでもなく、勉強も運動もできなかった。
塾に行っているのに頭が悪いと、僕に聞こえるようにこそこそと話す子もいた。
なにより、何かの拍子でお父さんのことを聞かれるのが嫌だったので、僕は自分からクラスメイトに話しかけないようにしていた。
次の塾の日の帰り道、ひとりで道を歩いていると、前と同じように、何かの視線を感じた。
振り返ってみると、昨日の化け物が、またこちらに向かって近づいて来ていた。
僕はきのうと同じように、全速力で家へ逃げ帰った。
塾で家へ帰るのが遅くなるたびに、その化け物は追いかけて来た。
道を変えてもだめだった。
塾に行きたくはなかったが、行かないとお母さんが悲しむので、それはできなかった。
僕には、化け物に捕まらないように、なるべく速く走るしかなかった。
塾の帰りだけで、家の中や学校に現れないのがゆいいつの救いだった。
いつまでこんなことが続くのだろうかと思っていた中、学校で運動会があった。
僕は徒競走に出ることになり、順番を待っていると、たまに僕をいじめてくるクラスメイトがとなりに並んだ。
僕の方を見て、何か嫌なことを言っているようだったが、僕はそれどころではなかった。
後ろにいつもの視線を感じ、恐るおそる首を向けてみると、あの化け物がいつもの四つん這いでこちらを見ていた。
いつもより、距離が近い。
どうやら、僕以外には見えていないようだった。
去年は仕事で来られなかったお母さんが、どうにか休みを取ってくれて、応援席から僕の名前を呼んでいたが、手を振ることもできずにいた。
ただ、ちょっと気になったのは、化け物が声に反応して、お母さんの方に首を向けたことだった。
僕の走る順番が近づくと、化け物はゆっくりとこちらに近づきながら、いつもとちがって、何かしゃべっているようだったが、何を言っているのかはわからなかった。
逃げ出したかったが、お母さんやクラスメイトが見ている中で、それはしたくなかった。
どうにか我慢していると、僕の走る順番になった。
先生の合図でみんながいっせいに走りはじめた。
僕は化け物の気配を後ろに感じながら、いつものように全速力で走った。
後ろから化け物が近づいて来るのがわかった。
そして、何かをしゃべっている。
何をしゃべっているのだろう?
息を切らせながら走っているうちに、化け物が何を話しているのかわかった。
「走れ、走れ、走るんだ」
その瞬間、僕はゴールテープを切って、一着でゴールしていた。
それだけでなく、断トツの一位だった。
拍手にわく応援席で、お母さんが泣きながら、僕に手を振っていた。
化け物はどこかに消えていた。
一位の旗の下で立っていると、二位の旗の下に立っている、いじわるなクラスメイトが話しかけて来た。
「おまえすごいな。見直したよ。昼休み、教室にいないでみんなと遊べよ。鬼ごっことかしようぜ」
「う、うん」と言った切り、下を向いている僕にクラスメイトは近づいて、小声で言った。
「お父さんがいないことなんて、気にするなよ。俺も母ちゃんいないけど、そんなことでいじめて来る奴は、うちのクラスにはいないよ」
僕は頭を上げて、「そうかな?」と自信なさげに言った。
「いないものはいないんだから、しょうがないじゃないか。何か嫌なことを言ってくる奴は殴ってやればいいんだよ。それで、おまえは足が速いんだから逃げちゃえよ」
そう言いながら、クラスメイトは僕の背中を叩いた。
それからしばらくした日曜日、僕はお母さんと一緒に、お父さんのお墓に行った。
お墓に向かって徒競走の賞状を見せている僕を見て、お母さんがハンカチを目にあてていた。
そして、お母さんはハンカチをしまうと、僕の名前を呼んだ。
「おまえも大きくなったから、お父さんのことを話そうと思うの」
お母さんに、僕はひとつうなづいた。
「おまえにお父さんは病気で苦しまずに死んだと言っていたけれど、あれはちがうの。お父さんは車の事故に巻き込まれて、乗っていた車が燃えてしまってね。そこから出られなくなって・・・・・・。母さん、お父さんの最後の姿を見たかったけど、お医者さんから見ない方がいいって言われて、見てないの」
僕はお母さんを見上げていた顔を、お父さんのお墓に向けた。
「お父さんは走るのが好きでね。高校の時は短距離走の選手だったわ。運動会のおまえみたいに速かったわ、とても。おまえが大きくなったら、一緒に走るんだって言っていたわ」
お母さんの話が終わったとき、僕は背中に視線を感じた。
振り向いてみたが、そこにはだれもいなかった。
運動会以来、化け物が僕の前に姿を現すことはなかった。
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