セーヌ川の上で

蜜柑桜

こんなのパリジェンヌになりきれない

 セーヌを臨んで、先にはフランス学士院、背後にはルーヴル美術館。絵に描いたような光景の中で、それにそぐわぬ呆れ顔をしたアジア人がいた。

「ねえたくちゃん、まだ行くの?」

 すたすたと早足で石橋を進む匠の背中に向かって響子は口を尖らせる。

「あと三つ。サン・ジェルマン界隈で三店舗……あ、四つか。店があるから」

「マレでもう二軒も買ったじゃない。しかも日本にもお店あるじゃん。もう十分じゃないの」

「んなわけあるか。こっちにしかない商品もあるんだよ」

 響子が持っていた小袋を上げて見せても、匠はすげなく却下する。無益な抵抗とは分かりつつ、響子は紙袋を睨みつけた。スタイリッシュなデザインのA6サイズの手提げ袋はパリ、マレ地区のショコラティエのものだ。

 今回のパリはバレンタイン・シーズンであることも手伝って、いつになく匠のショコラティエ巡りが多い。日本のデパートのようにひとところに名店が集まっているわけでも無いので、連日パリ市内を東西南北ショコラを求めて回っているのである。

 しかも街中にも良さそうな店がちらほらと立っているものだから、基本的には徒歩だ。既にショコラティエ巡りで二時間は歩いているのではないだろうか。

「もう……なんというかマニアックというか」

「研究。職業病だよ。自分だって楽譜屋とコンサートだったら一日いくつも梯子する癖に」

「職業病ですぅ」

 膨れっ面で言い返してやる。手提げ袋の中からショコラが無造作に詰め込まれたプラスチック製の小袋を取り出し、響子はしげしげ眺めた。日本のように包装紙やリボンで手の込んだ包装をするわけでもなく、本当にただの袋に入れただけのショコラだが、一粒一粒がどれもため息が出るほど艶めいて魅力的なのは同意する。

 同意する、のだが。

——バレンタイン、なのになぁ。

 そんな雰囲気がこれっぽっちも無いのである。ここはパリなのに——いや、パリだからこそ。

 幸い、観光客の日本人は周りにいないのだ。ならばきっと何も恥ずかしいこともない。

「ねぇーたくちゃん」

「んー?」

 スマートフォンで地図を確かめている匠に、響子は日本ではできない試みを仕掛けた。

「せっかくだから、パリジャンとパリジェンヌっぽくしてみませんか」

「何が」

 匠が振り返るタイミングを見計らって、響子はにこっと笑って唇に人差し指を当てた。

 ただ、パリだろうが宇宙だろうが匠は匠である。 

「馬鹿言え、これまで歩いてそんなパリ人見たか」

「こっちの人にはただの挨拶じゃないのぉ」

 やっぱり駄目かぁ、と予想通りなはずなのに若干落胆しつつ、響子は前に向き直った匠の背中を改めて睨みつける。季節行事に乗じて甘えたい気持ちが分からないとは、この人はショコラティエより座禅でも組んだらどうだろうか。

「つっまんないの。いいよもう。ショコラで我慢してあげる。たくちゃんが選んだの一個もらっちゃうから」

 当てつけでペリとテープを剥がし、中から格子模様のプラリネを摘み出す。「何だと」と匠が反応したのをざまぁみろと思いながら芳香なカカオの香りをさせる粒を口に近づけた。

 あと少しで至福の甘さで満たされる——そう思った時。手首がすばやく掴まれ、パキンと小さな音がする。

「ん、やっぱり芸術品」

 甘い香りの息が響子の額にかかり、至近距離で匠の眼が感動に輝く。手にした正方形のプラリネは見事斜めに割れ、中からベルガモットの香が混ざったガナッシュが顔を覗かせていた。

 それは、いいのだが。

「たくちゃん、いま、」

「全種類一個ずつしか買ってないんだから味確かめられなかったら困るだろ」

「だから……って……」

 響子が摘んでいたショコラをそのまま咥えて器用に割った匠は、奪ったプラリネを吟味して飄々と言う。

 掴まれた手首がみるみる熱くなる。普通に食べさせてあげるなんていうのは漫画でよく見るが、そんなこともしたことはない。

 しかし、こちらの方がよほど恥ずかしい。

 不意打ちの驚きと想定外の動揺に言葉が続かない。腕が震えて、プラリネを覆っていたショコラコーティングのかけらが手の甲に落ちた。それを認めて「あ」と匠が掴んだままの響子の手を引き寄せる。

 そのままそっと感じる柔らかな感触。

「ほらパリジェンヌ、満足か」

 こぼれた茶色のかけらが、響子のパンプスの先に落ちた。

 口づけした手を解放すると、匠は響子からショコラの袋を奪い返す。そして再び踵を返してしまうが、すぐに追えるほど響子の心臓は強くない。

「く……食い意地……」

「ばっか」

 振り返らない匠の顔はきっといつもと変わらないのだろう。その反面、やっぱり自分はパリジェンヌにはなれない、と火照った頬を押さえて響子は小走りに匠を追いかけた。



 Fin.


 ちなみに。響子ちゃん、自分の分は好きな味をいくつか詰め込んで別に買っていますので、匠さんはショコラをひとつも食べさせない気ではないですよ🎵

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セーヌ川の上で 蜜柑桜 @Mican-Sakura

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