伽藍の堂

@ninomaehajime

伽藍の堂

「……かくて山幸彦やまさちひこは水神の巫女の力に依りて、悪辣な兄の腕を射抜くことに見事成功します。たまらず海幸彦うみさちひこは退散し、兄弟の闘争に打ち勝ちました。山幸彦はかの者を追いかけ、必ずやこれを討ち果たさんと誓います」

 伽藍がらんの堂に少年の声が響いた。薄暗い本堂には燭台に蝋燭が灯され、外陣で正座する彼の影を揺らめかせている。装飾とは無縁の柱が陰影を濃くしていた。

 黒髪の少年はそこで一呼吸置き、内陣に向かって姿勢正しく問いかけた。

「今回のお話は如何いかがだったでしょうか、姫さま」

 須弥壇しゅみだんが配されている場所には御本尊はなく、代わりに奇妙な物体が白い糸を張っていた。その中心には人間一人が入るほどの大きな繭が浮かんでおり、少年の瞳の中に収まっていた。

 白絹の繭を通して、仄かな光が漏れた。蛍火にも似た明滅だった。それを見て、経験則から少年は安堵する。どうやら満足して頂けたらしい。

「では、今宵はこれで失礼します」

 深々と頭を下げ、御前より立ち上がる。楕円形の繭は黙して語らない。須弥壇の下段には、御髪おぐしを梳かすための櫛と長いかんざしが供えられていた。蒔絵によって桑の葉が生い茂っている。

 その献上品を一瞥して、少年は本堂を後にした。伽藍に覆い被さる夜は底が抜けており、満天の星が瞬いていた。呼気こきは白い。

 語り部のお役目を任じられたのは、葉月はづきのことだった。どういう基準で選ばれたのかはわからない。貧しい家に僧侶がやってきて、こう告げた。

「お主はうつほ姫さまの語り部に選ばれた」

 父と母は息子が大役を任せられたとして、泣いて喜んだ。少年は困惑するばかりだった。

 養蚕業で栄えてきたこの地では、うつほ姫という高貴な御方が祀り上げられていた。かつて蚕をもたらしたと伝えられ、世にも美しいとされるその御姿は秘匿されてきた。

 着慣れない僧衣に身を包み、案内された本堂で大きな繭を目にした少年は、腰を抜かしそうになった。何が姫か。代々この得体の知れないものを祀ってきたというのか。

 僧侶は命じた。うつほ姫さまに物語を語ってお聞かせせよ、と。少年はますます戸惑った。この繭に何を語れというのか。言葉を選びながら尋ねても、「そういうしきたりなのだ」とにべもない。

 御目付役の僧が去ってから、伽藍の本堂で繭と向かい合った。絹で編まれた楕円形の繭は天井や床に糸を張り、その下の須弥壇には乙女が髪を整える櫛や簪の一式が献じられていた。

 聞き耳を立てられているかもしれないから、このまま無言で過ごすわけにもいかない。少年は自分が知っているおとぎ話を語り出した。蝋燭の火が灯る本堂に一人語りが響く。一体何をやっているのだろう、と途方に暮れた。

 当然ながら繭は何の反応も示さなかった。やがて僧が呼びに来て、その日は放免となった。気が抜けたのも束の間、うつほ姫の様子を尋ねた僧は眉をひそめた。

「お主には文学を学んでもらわねばならぬ」

 教養がなかった少年は、次の日から書庫であらゆる本を読み聞かせられた。神話や伝承、怪談奇談に至るまで暗記することを強いられた。そらんじることを求められ、内容を間違えれば警策きょうさくで肩を叩かれた。

 理不尽を呪った。出家さえしていない己が、なぜ苦行を受けなければならないのか。何度も逃げ出すことを考え、両親が泣いて喜ぶ顔がよぎった。何にせよ、この地を離れて生きる術など知らないのだ。

 せめてもの腹いせに、少年は実に子供らしい企てをした。その夜、うつほ姫の御前ごぜんに座り、作法通り額を床につけて深くお辞儀をした。姿勢を正し、口を開く。

「これは、荒れ狂う川の神を鎮めるために捧げられた娘の話です」

 読み聞かせられた書物の中で、自分が怖いと思った話を選んだ。何を話しても構わないのなら、精々背筋が凍る物語を聞かせてやろう。

 熱心に語り終えてから我に返った。この正体の知れない繭を相手に、怖い話を聞かせたところで何になるだろう。

 嘆息したとき、須弥壇の上に浮かぶ繭に初めて変化が現れた。絹の糸を透過し、水の底に似た青い光が漏れ出た。目を瞠る少年の瞳を染めて、仄かに明滅する。この繭の中には、確かに何かが息づいている。

 その輝きに目を奪われた。繭の発光が収まっても、忘我ぼうがにあった。御目付役の僧の出迎えがあって、ようやく我を取り戻したほどだ。

 繭に起こった変化を話すと、しかつめらしい顔の僧侶は頷いた。

「それで良い」

 その仄かな輝きに少年は強く心を惹かれた。如何いかな物語を語って聞かせれば、綺麗な光を見せてくれるだろう。

 前日とは打って変わり、意欲的に物語を学んだ。読み聞かせさせられるうちに自然と読み書きを習得し、日中は書庫で書物を読み耽る日々が続いた。

「……寝たきりの少年は、金魚の影が踊る障子の向こうを覗きました」

 うつほ姫は、ありきたりなおとぎ話より怪談奇談を好んだ。怖い話を聞きたがる繭など、この世に二つとないだろう。

 語り終えるたびに、須弥壇の繭は色とりどりの光を放った。赤、青、紫、橙。言葉では形容しがたい色彩もあった。どれも美しく、少年の目を楽しませた。物語にも色があるのだろうか。

 書庫の本を読み尽くすと、人にも聞いて回った。旅の途中に立ち寄ったという旅の僧にも、道中で見聞きした出来事を教えてもらった。

 笠の下で、薄い瞳をした僧は言った。

「これ以上魅入られてはいけないよ」

 彼は不思議に思った。自分はただお役目を果たしているだけだ。そう言うと、旅の僧は「そうか」と呟いた。細めた目によぎったのは、憐憫れんびんだろうか。

 うつほ姫に抱く感情は、いつしか敬愛へと変わっていた。繭の中に横たわる少女の姿を想像した。その御姿おすがたは美しく、きっとこの世のものではないのだろう。

「千本鳥居を抜けた先は、暗い暗い森の中でした――」

 ただ一つ、気がかりがあった。多くの物語を語り、繭は美しい輝きを放った。それだけにとどまらず、奇妙な胎動を始めた。日々を追うごとに強く脈打ち、伽藍の堂に響いた。

 僧侶に相談すると、彼は満足げに言った。

「お主は良い語り部らしい。姫さまが羽化する日が近づいておる」

 うつほ姫はいずれは繭を破り、何処かへと飛び去るのだという。その御姿をお見送りするのが語り部としての最後の務めらしい。

 その説明を受けて、少年は懸念を抱いた。繭の中身は想像することしかできなかった。決まって見目麗しい白絹の髪をした少女が、空洞の中に身を横たえている。

 実際にその御姿を目にしたら、自分はどう感じるだろう。胸中に不安を抱えながら、鼓動を打つ繭の前に座り、今宵も語り出した。

「……今夜は、杣人そまびとの男の話などは如何でしょう」

 繭の胎動はますます強まった。床に張った糸を通じて、その力強い脈動が伝わってくる。今にも絹糸を破り、うつほ姫は姿を現わすかもしれない。

 少年はその日が訪れるのを密かに恐れた。自分は姫さまを敬愛している。この世ならざる繭の中から現われた御姿が、彼の想像とかけ離れていたらどうなるのだろう。

 もし恐怖すれば、嫌悪すれば、この想いはどうすればいい。

「――これは、不老不死となった山の猟師が死を追い求めた話でございます」

 やがて最後の物語を語り終えた。須弥壇の繭は一層輝きを増し、胎動が激しくなった。目に見えて繭全体が震え、中にいる何かが突き破ろうとしている。少年は膝立ちになった。

 ああ、だめだ。見てはいけない。

 その瞬間が訪れるより先に、須弥壇に供えられた簪に目を留めた。少年は手を伸ばした。

 訪れた僧侶がまず目にしたのは、内側から突き破られた空の繭だった。次いで、その御前に座る少年の後ろ姿だ。どうにも様子がおかしい。

 その物音を聞いて、少年は振り返った。蝋燭に照らされたのは、手にした簪によって両目が貫かれ、血の涙を流している光景だった。簪の先端からは鮮血が滴り落ち、描かれた桑の葉は紅く染まっている。

 黒かった髪は、眼前の繭によく似た白髪へと変わり果てていた。

 その後日、両目に包帯を巻いた少年は座敷に通された。

「何を見たかは問わぬ」

 若くしてめしいた少年をあわれみながら、僧侶は言った。

「ともあれお主は立派に役目を果たした。十分な褒賞を――」

「何を仰っているのです」

 盲目の少年はその言葉を遮った。

「姫さまに物語をお聞かせせねば」

 僧侶は困惑を隠せなかった。

「一体、何を言っておる」

 白繭の髪をした少年は言った。

「うつほ姫さまは、まだ繭の中にいらっしゃいます」

 それからというもの、伽藍の堂には少年が物語る声が響いた。夜ごとに聞こえてくる彼の語り口の中に、鈴が転がるような少女の笑い声を聞いた者がいたそうだ。

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