YANAGASE(MIZUHARA) Nahoko

Mag Mell

 悪気があったわけではなかったろう。


「自分の中にもう一つの生き物がいるって、どういう心境なんだろうね。こっちも何というかさ」

 馨市きょういちが普段から軽薄な物言いをすることは多かった。けれども、一聞してそう思われるいつものそれは好もしかったから、それこそ実は極めて緻密な計算に基づいた優しい知性によって構築された成果物だったのだと予期せずこの時、直感的に気付いてしまった。それは彼の本来の性質ではなかった。例えば甘さの中に何らか苦味を加えたり、クリームのもったり感をレモンの酸味で引き締めたりするようなそういった類の、平板な日常にアクセントを与えるような作為だったのだろう。

 誰もいないリビングで端なくも口を衝いてしまったのであるに違いないその響きが、いつもは行儀良く、思いやりの皮膜に巧妙に隠されている彼の本音を吐露するような、しみじみとした質感で私の耳朶を打ったのは致し方ない。だからこそというべきか、私の鼓膜はぷすりと静かにそれに刺されて貫かれていた。

 私が妊娠してからというもの、何かにつけていたわってくれる夫が、その気疲れの断続する狭間に油断して漏らしたこれが偽らざる本音なのかも知れないと思うと、それを通話の先の誰かに向けているという事実も相俟って、疑いなくこの耳に闖入ちんにゅうしてきた夫の言葉が言おうようもなく私を脱力させたことは慥かだった。彼にとってという以上に私にとって不運だったことに、私は折悪しく帰宅してしまった。


「ただいま」

 いつも通り、すぐにそう言えば良かったのに、その日は完全には閉まりきらずに少しだけ開いていたリビングのドアの、その中央に一本、太いガラスの柱のように嵌められたスリット窓を通して、珍しくソファの背にだらしなく首を凭せてスマートフォンを耳に当てている夫を見留めた時、私はふと知りたくなってしまったのだ。普段なら場所を外して電話する夫が、妻の不在のリビングで憚ることなく誰と何を話しているのか。洩れてくる声が辛うじて聞き取れてしまったこともいけなかったのだろう。

 何もやましいことはしていないはずだった。それどころか、絶対的な安心に根差した出来心というか無邪気な背徳というか、そんなものが頭を擡げてきて、こんなことでは私達の信頼は揺るがないと確信するための悪戯を仕掛ける少女にでもなったかのようだった気分は、萌してから消えるまでに一分と要さなかった。

 誰と電話していたの、友だちだよ、本当に? 本当だよ、もしかして浮気相手だったりして、違うよ、じゃあ履歴見せてよ、いいよ、本当だ、ほらね、ごめん、酷いな、ごめんごめん、じゃあ今日のお風呂掃除はよろしくね、いやそれはずるい、などとニヤニヤしながら、はなから何も疑ってなどいないし疑われてもいないことが自明の、ありふれた陳腐な筋書きをなぞるだけの、舞台の上での芝居がかった冗談に帰結するはずだった未来の素描は思いも掛けない形で裏切られてしまった。いつも何気なく繰り返されている、恐らくこれからも繰り返し続けるはずの「ただいま」「お帰り」という遣り取りさえ、唐突に終わりを告げるのではないかという予感が頭を過ぎった。


 すでに陽は傾き始めていた。溶暗するリビングを下地にして、ドアのスリット窓が今や亡霊のような私の無表情を浮かび上がらせていた。顔の左半分しか映らないその鏡の中で、動揺を気取られぬよう、はっきり自分ともつかない自分の顔を努めて何もなかった風に装い直して、すでに少し開いていたドアをいつものように堂々と、妻らしい正しさで、否、正しくなどない、ドアノブを強く握ってわざわざ立てる必要のない後ろめたい音を立てて――


「ただいま」

 悪戯を見咎められた子どものような速さで馨市きょういちの後頭部は反転した。帰宅した妻を見留めると、彼はソファから起ち上がって、噂をすれば帰ってきた、うん、じゃあパーティーで、はいはい、どうも、と言って通話を終えた。

 早かったね、と言って、馨市きょういちは私が手に提げた荷物をいつものように受け取り、ペニンシュラキッチンの天板の上に載せてくれた。バルバレスコの赤ワインのフルボトルの底が、硬い天板に当たる音が鈍く響いた。


「すぐ夕食にするね」

 斜子ななこ織りの手提げでなくレジ袋を提げていたなら、馨市きょういちは私の帰宅を、リビングに入る前にその音で気取っただろうか。この四年ほどで世界は大きく変わってしまった。私にはまだ日常の音として耳慣れたレジ袋の立てる音を知らない世代に、お腹の中の子はなるのだろうか。


「誰と電話してたの?」

 そう聞くのが精一杯だった。


「松宮だよ。浅井先生の退職パーティーのことでちょっとね」

 馨市きょういちは恩師である浅井の退職記念祝賀会の発起人だった。パーティーまではまだ半年。その間、私は彼との生活を維持できるだろうか。媒酌人をお願いした浅井先生に会わせる顔がない、などということがないように、私は自らの気持ちを、それまで偽るしかないのだろうか。

 疫禍で帰省出来なかった正月に義母が送ってくれた北海縞海老の頭と殻を冷凍しておいて、それをいよいよ使って昨日作ったビスクが冷蔵庫で冷やされていた。今日の夕食にしようと朝に作っておいたものだ。そのままレードルでライオントリュフに注ぐ側から、ビスクは真っ白い器の側面に丹色の滴を跳ねらせる。まるで私をなじるように。私は義母が苦手だ。そして或いは夫も。

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〔稿本〕現代中短篇 工藤行人 @k-yukito

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