YANAGASE(MIZUHARA) Nahoko
Mag Mell
悪気があったわけではなかったろう。
「自分の中にもう一つの生き物がいるって、どういう心境なんだろうね。こっちも何というかさ」
誰もいないリビングで端なくも口を衝いてしまったのであるに違いないその響きが、いつもは行儀良く、思いやりの皮膜に巧妙に隠されている彼の本音を吐露するような、しみじみとした質感で私の耳朶を打ったのは致し方ない。だからこそというべきか、私の鼓膜はぷすりと静かにそれに刺されて貫かれていた。
私が妊娠してからというもの、何かにつけて
「ただいま」
いつも通り、すぐにそう言えば良かったのに、その日は完全には閉まりきらずに少しだけ開いていたリビングのドアの、その中央に一本、太いガラスの柱のように嵌められたスリット窓を通して、珍しくソファの背にだらしなく首を凭せてスマートフォンを耳に当てている夫を見留めた時、私はふと知りたくなってしまったのだ。普段なら場所を外して電話する夫が、妻の不在のリビングで憚ることなく誰と何を話しているのか。洩れてくる声が辛うじて聞き取れてしまったこともいけなかったのだろう。
何も
誰と電話していたの、友だちだよ、本当に? 本当だよ、もしかして浮気相手だったりして、違うよ、じゃあ履歴見せてよ、いいよ、本当だ、ほらね、ごめん、酷いな、ごめんごめん、じゃあ今日のお風呂掃除はよろしくね、いやそれはずるい、などとニヤニヤしながら、
すでに陽は傾き始めていた。溶暗するリビングを下地にして、ドアのスリット窓が今や亡霊のような私の無表情を浮かび上がらせていた。顔の左半分しか映らないその鏡の中で、動揺を気取られぬよう、はっきり自分ともつかない自分の顔を努めて何もなかった風に装い直して、すでに少し開いていたドアをいつものように堂々と、妻らしい正しさで、否、正しくなどない、ドアノブを強く握ってわざわざ立てる必要のない後ろめたい音を立てて――
「ただいま」
悪戯を見咎められた子どものような速さで
早かったね、と言って、
「すぐ夕食にするね」
「誰と電話してたの?」
そう聞くのが精一杯だった。
「松宮だよ。浅井先生の退職パーティーのことでちょっとね」
疫禍で帰省出来なかった正月に義母が送ってくれた北海縞海老の頭と殻を冷凍しておいて、それをいよいよ使って昨日作ったビスクが冷蔵庫で冷やされていた。今日の夕食にしようと朝に作っておいたものだ。そのままレードルでライオントリュフに注ぐ側から、ビスクは真っ白い器の側面に丹色の滴を跳ねらせる。まるで私を
〔稿本〕現代中短篇 工藤行人 @k-yukito
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