〔稿本〕現代中短篇
工藤行人
Variantes de “MAJIRIKE”
MATSUNO Itsuki
Style flamboyant
いつも午前五時半過ぎに起き抜ける僕はスウェットのままエレベータで一階のエントランスに降り、メールボックスに届いている朝刊を取り出してすぐに、マンションの管理会社が設置した、不要なチラシ類を放り込むための脇のゴミ箱に棄てる。この儀式はもう五年以上続いていた。僕の朝はそうして始まる、というか、そうして始めなければならないような気がしていた。仕方なくお義理の積もりで取り始めたに過ぎない新聞なのだから、その上にわざわざ時間を掛けて読む義理までは流石に免れるだろうし、それ以上に抑も今日日の新聞に読む価値はあるのか、読んでいないから分からない。もし今の僕が新聞にそれでも間違いない価値を認めるとすればそれは、これをくしゃくしゃに丸めて、雨の日に濡れた靴の泥を拭き取れる新聞“紙”としての物質的な側面においてだろう。そんなふうに思っていることなど、言葉として発しなければ誰にも伝わらない。心裡に思うことは総て免罪される。それでいい、だからいい。それで総て世は事もなく動いていく。もう、あいつにそう伝えることは出来ないし、世界は事後になって久しい。
大手新聞社に勤めていただけあって、あいつの結婚式は下界の民を見下ろすような外資系ホテルの高層階の会場で盛大に催された。けれどもどうにも穢らわしかった。その場の要請に従順を余儀なくされた誰も彼もが己の為人を越えて着飾り、年収や人脈を誇っていたからだ。少なくとも僕の目にはそう映った。
特に酷かったのは二次会だった。新郎新婦と同年代の男女が、未だ獲物に有り付けない飢えた獣のようにビュッフェの料理に群がり、実は眼路を過ぎるお互いを値踏みし合う視線を廻らせていた。僕は誰からも獲物として魅力的には映らなかったらしく、だからでもあるだろう、彼彼女らを僕は穢らわしい、醜いと感じてしまうのだった。皆が泥塗れで自分もそうであるならば、そのようなことは思わないに違いない。泥塗れの人を指弾する資格を持つのはいつも、その外側にいる存在だけなのだ。
披露宴で印象的だった祝辞がある。それはあいつの上司の一人が贈ったものだった。お題目のように退屈な祝辞に紛れて意想外にもそれは僕の興味を惹いた。その新聞社全体に通ずるものであったのか、あいつの部署に特有のものであったのかは忘れてしまったけれど、兎に角、あいつの職場には「赤く燃える」「青く燃える」というジャーゴンが存在するらしいのである。校了を目前にしつつも、傍目に見て如何にも間に合わなそうに、分かり易く焦っている素振りを予め見せて周囲に助けを求めている状態を「赤く燃える」といい、間に合いそうもなく焦っていることを微塵も滲ませず、まさか一人抱え込んで悩んでいるなどとは周囲に気取らせない、そして実は間に合いそうにないと最後の最後に吐露する、そういう状態を「青く燃える」というらしい。あいつは後者だったそうで、「前触れもなくそうなると突然死されるみたいだから止めてくれ」と、祝辞を贈った上司もその時は冗談の積もりだったろうそれが、冗談では済まなくなったことが返す返すも残念だ。
僕はあいつの葬儀の日から、届いた新聞を読まずに棄てるようになった。自らの書き物が読まずに棄てられていることなど、あの新聞社の奴らは知る由もないだろう。いやむしろ、一読者如きがその様な所業に及んでいることになど、何を感じることもないだろう。何よりお前如きが読まなくたって読者は他に溢れるほどいるし、購読料は頂戴しているよと、結局は金さえ入ればそれで良いのだろう。仕事とは畢竟するところそういうものでもあるのかも知れない。飯の種に過ぎない。それは事実だし、だからこそ癪に障る。
過労死というのはごくありふれているらしい。働き過ぎても、死ぬ人と死なない人とがいる。それを別けるのは果たして何なんだろう。
毎朝、僕を慰めるためだけの復讐の儀式は人知れず続いていく。僕以外に誰も知り得ない、僕の中にしか存在しないけれど、故にこそ存続させざるを得ない……そうやって折り合いを付けることでしか、受け容れられない出来事が人生にはあることを僕はあいつの死によって初めて知った。僕の記憶は褪せて朧気になっていくのに、だのになお、記憶の中に留まるあいつは決して歳を取ることはない。最も鮮明な記憶は学生時代、あいつと二人で正装して大学のOBに会うその約束の時間までの時間潰しをする喫茶店で、シングルノットの結びが甘かったあいつのネクタイを、父から教わったばかりだったハーフウィンザーの結び方で仕方なく僕が結び直してやった時のものだ。向かい合っていると結びづらかったから僕はあいつの背中にまわって、何だか奥さんみたいだなと思いながら、結び直してやった、その情景……あいつはその時の十代の若さの片鱗を残したまま、綺麗なまま燃えてしまった。
あいつを燃やした炎は果たして何色をしていたのだろうか。いずれにもせよ、燃え尽きてしまったからにはもう二度と燃えることは出来ない。そのことだけが慥かだろう。
〔初稿 R060618〕
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