第2話

 一五〇度にオーブンが温まったことを確認したおれは、生地を流しこんだ直径十五センチのマンケ型を、湯を張った天板に乗せて放りこんだ。

 これで三十分ほど湯せん焼きすれば、いままでの経験上、完璧なカスタードプディングのできあがりとなる。


 満足気にうなずいたおれは、昨夜のうちに焼きあげていたバターケーキを取りだした。たちまち甘い香りが、周りの空間へフワリと広がる。

 オーソドックスなパウンド型のバターケーキはシンプルなだけに、味の差が大きくでる。おれの得意な焼きケーキだ。一日置いたほうが、生地が程よくなじみ、より美味となる。


 おれが、充分な食べ応えでありながら、なおかつフォークでカットすればひと口で食べられる絶妙な厚さに切りだすと、その様子に気づいたらしい千賀子ちかこが、おれの手もとへ視線を向けた気配がした。


 しめしめ。

 予想どおり。

 その瞳は、期待に満ちて輝いているはずだ。 


「――ねえ、すばる。ケーキの端っこ、味見させてくれるの?」

「おう。もちろんだ」


 控えめな口調で問いかけられたおれは、視線をあげずに、だが口もとへ笑みを浮かべながら、千賀子へ返事をする。


「――やったぁ」


 不意打ちのような彼女の、小さくも華やかな声に、つい、おれは顔をあげてしまった。


 右手でフキンを握りしめた千賀子は、嬉しそうな表情のままで、目の前のテーブルの表面を磨いていた。もう、おれのほうを見ていない。

 慌てておれは、だが気取られないようになにげない動作で、手もとに視線を戻す。


 彼女の反応に――彼女の発する心地よい声が、耳朶を打つたびに一喜一憂しているなどとバレては、おれの格好がつかないじゃないか。

 ケーキのカットを再開しながら、おれは千賀子の様子を盗み見た。


 さっぱりとショートにカットされた黒髪に縁取られた小顔には、力強い光を宿した印象的な瞳と小さな鼻、形のよい唇がバランスよく配置されている。

 とくに、その桜色の唇から紡ぎだされる歌声は、人並み外れて甘美なものだった。


 知的な柳眉が物語るように、成績もトップクラスで人望も厚い。歌うこと以外は口下手で、それゆえとっつきにくい優等生の空気をまとった千賀子は、我が高校の生徒会副会長という肩書きを持っていた。


 日本の高校二年生になったばかりの女子としては、ほぼ平均的な身長だろう。しかし、体重は下回っていると思われるスレンダーな体躯だ。手足は長くしなやかで家系的に色白の肌をしており、見た目は華奢な印象を与えている。

 その細い身体で、千賀子は、誰もが想像できないほどの心を揺さぶるような声量を生みだすのだ。


 朝の千賀子は、あとはブレザーをはおるだけの高校指定の白い清楚なブラウスと、膝が隠れるくらいのチェック柄のひだスカートを身につけている。

 両そでをまくっているために、細く白い腕が、目が覚めたばかりのおれには、すこぶる眩しく映った。


 いま、おれたちはあずま千賀子の父親が経営する喫茶店にいた。

 父親が十時から開店できるようにと、朝の六時に鍵を開けた千賀子が、店内の床を掃除して、四人席のテーブルや椅子などを拭いている。そして、そんな千賀子のそばで、おれはスイーツとサラダの仕込みをやっていた。

 罰ゲームとかそんなものではなく、みずから進んでおれが手伝っているのだ。


 千賀子は校内きっての才色兼備といわれている。料理の腕も悪くない。

 だが、千賀子が掃除でおれがスイーツ担当という役割分担は、料理に関して、ただ単純におれのほうが得意というだけだ。

 幼馴染みであるおれたちは、中学に入ったころから、登校前の日課と化したこの時間を一緒に過ごしている。


 バターケーキを切り終わったあと、おれは、朝食の準備にとりかかった。

 隠し味にマヨネーズと粉チーズ、砂糖と塩をひとつまみ混ぜこんだスクランブルエッグを作り、色鮮やかな山盛り生野菜のそばに添える。


 近所のパン屋から届いたばかりのフランスパンを切ると、食欲を刺激するぱりぱりの音と香りが広がった。

 焼きたてはたまんねぇな。このまま丸ごと一本食べられる。


 バターケーキも別皿に乗せると、あらかじめ用意していた絞り袋の生クリームで、皿の淵を飾った。お、量も形も完璧だね。


 作りたての野菜スープをカップに移していると、掃除を終了した千賀子が手を洗って、カウンターのそばへとやってきた。

 おれの手もとをのぞきこみながら、千賀子はカウンターの席に座る。おれは、彼女の前とその隣に、手際よく朝食セットを並べた。

 たちまち千賀子は、ふんわりと表情をゆるめる。


「ありがと。今日も美味しそう……」

「どういたしまして」


 おれは、千賀子の嬉しそうな笑顔を見られるだけで充分だ。

 だが、間抜けたツラにならないように、片方の口角だけ引きあげて応えてみせる。


 いつもの時間にぴったりだ。

 千賀子は、テレビのリモコンで七時のニュースをみるために電源をつけた。

 決まったチャンネルに合わせると、朝の番組に相応しい爽やかなイケメンニュースキャスターが映しだされる。

 挨拶のあと、さっそく真面目な表情でニュースを読みあげた。


『今朝未明、――県――区のマンション前で、帰宅途中だった住民の女性が何者かに襲われ、意識不明の状態で発見されました。以前から発生している同様の被害状況から、同一グループによる犯行の可能性があるとみられており……』

「――やだ。この現場って、けっこう近くじゃない?」


 食い入るようにニュースをみた千賀子が、ぽつりと告げた。


「ああ。そうみたいだな」

「――この事件、まだ続いているのね……」


 千賀子は、少し眉根を寄せる。そして、画面が切り替わり、現場を映しだしたニュースを、じっと凝視しながら黙りこんだ。


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