第6話
「お。昴。遅かったじゃねーか」
教室に入ったとたんに、ニヤニヤと笑みを浮かべながら寄ってきた広田の首に腕を回し、一瞬で動きを封じこめる。
そして、その耳もとへ唇を寄せてささやいた。
「よくも千賀子にチクリやがったな。このサル」
「ギブギブ!」
すぐに広田は、おれの二の腕を叩く。そして力のゆるみを見逃さずに、小柄な広田は、するりとおれの腕の中から抜けだした。
大げさに首を押さえながら、広田は、真ん中でつながった両眉毛をあげてみせる。
「千賀子がいるのに、一年の女子にまで色目を使うからだっての」
「他校の生徒に絡まれているところを助けただけじゃねぇか」
「その場所に、おれもいたんだよ! 弱っちいあの連中くらいなら、おれでも追っ払えたんだ。いいとこ取りしやがって」
「相手は三人だったぞ? サルよ、おまえが逆にボコられる姿が目に浮かぶ」
「こちとらダテに柔道黒帯じゃねーよ!」
「有段者が素人さんに手をだしちゃまずいんじゃねぇ?」
「段位不要の実力主義者だって言って、わざとらしく黒帯を取らない昴は、セコ過ぎるんだよ」
「おれが習っていたのは、近所のジィさんから一子相伝の拳法だっての。段なんかハナからねぇよ」
それは本当のことだ。
近所に独り住まいの仙人のようなジィさんがいて、おれは妙に気にいられた。そして、小学校低学年のころから弟子として、一子相伝の技を教えてもらったのだ。おれは才能があるらしい。
ただ、適当なジィさんだったため、おれ以外にも、隣の学区から習いにきていたひとりの小学生にも教えていた。
それって、ぜんぜん一子相伝じゃあねぇよな。
ほとんど口もきかず笑いもしない変な同学年だったが、それはお互いさまだ。向こうもおれを変な奴と思っていたに違いない。
ただ、組み手の練習として、似たような背丈のふたりで習うには都合がよかった。
やがて、その小学生は中学にあがり、引っ越しを理由に音信不通となった。ジィさんは百歳越えで去年、人生を全うした。
完璧ではないが、ジィさんの技と知識を、おれは受け継いでいる。
自分の席にカバンを乗せたおれのあとについてきて、まだ広田は口を尖らせながら文句を続けた。
「ちぇ、おれが一年女子の憧れの先輩になれるところだったのに」
「サルが憧れの先輩になれるわけねぇって」
「そんなことねぇって。グラウンドで走るおれを見かけるたびに、下級生からの、広田先輩と呼ぶ黄色い声がキャーキャーと」
「キャーキャー、広田先輩の変態!」
「うるせぇ! 千賀子がいる昴が邪魔すんな!」
「千賀子とは、そんなんじゃねぇよ」
ここで千賀子とカップリングされることは喜ばしいが、ムキになると、サルにネタを提供するだけだ。そう思ったおれは、表情を変えずにかわす。
すると、そんなおれの片腕に、するりと白い手が絡みついてきた。目を見開いたおれの背後から、耳朶へ息を吹きかけるようにささやかれる。
「昴は、千賀子となにもないよね。だって……」
「おまえとも関係ないぜ。
おれは、身を擦り寄せてきた蔵之丞の理知的な額の真ん中へ、中指で痛烈なデコピンを浴びせた。
たちまち蔵之丞は額を押さえ、男子学生用のズボンに包まれた両脚をきれいにそろえたまま、横座るように床へと崩れ落ちる。
「ひどぉい。昴ったら」
「さっさと自分の席に戻れよ。おまえら」
人差し指をくわえながら涙を浮かべて見あげてくる蔵之丞と、歯を剥きだして威嚇するサルへ、おれは冷ややかな一瞥をくれてやる。それから、どかっと自分の席へ腰をおろした。
いいタイミングで、千賀子が教室に入ってくる。おれより後からやってきたのは、合唱部の朝練と続く生徒会の朝の仕事をこなしてきたからだろう。
千賀子は、ちらりと席についているおれの姿を確認する。そして、やわらかな笑みを浮かべてみせた。
おれはといえば、でれでれと口もとがゆるまないように顎をあげて、わざと視線をはずす。そして、千賀子にニヒルな横顔をみせつけてやった。
きっと千賀子は、おれの頬を凝視しているはずだ。ぐふふ。
カッコよく彼女の視線を受けていると、後ろの席のサルが乱暴におれの椅子の背を蹴ってきた。
「調子に乗るなよ。このタコ。てめーは蔵之丞がお似合いだっての」
「痛ぇな。このサル」
「るせーよ」
振り返って悪態をつこうとしたとき、おれの目の端に、離れた一番後ろの席に姿勢よく腰をおろした蔵之丞が映りこむ。おれのしかめた表情から、認識されたと気づいたようだ。たちまちオンナども顔負けの花が開くような笑みを満面に浮かべ、顔の横で小さく右手のひらを、ひらひらと振った。
思わずため息が漏れたおれは、サルに文句を浴びせる気が失せてしまい、黙って前を向く。
ちょうど担任が姿を表し、朝のホームルームもはじまろうとしていた。
こんな風に悪口を言い合っていても、おれとサルは気が合っている。校内では友人と呼んでも差し支えないほどだ。小柄でサル顔、がさつな性格で成績も
蔵之丞にしてもそうだ。クラスの女子以上にオンナらしい男子高校生だという部分に、少々問題があるのかもしれない。だが、普段はきりりとした端正な顔立ちの、品行方正で成績優秀な地元名家の跡取りだ。
いまでこそクラスの女子が、色白の肌がつるんとした蔵之丞の美貌の秘訣を聞きにくるほどだ。だが、高校に入学したてのころ、かばってくれる同じ出身中学の知り合いがクラスにおらず、周囲の見知らぬクラスメートからオカマと陰口をたたかれ仲間はずれにされているところを、おれが助けてやった。それから妙に懐かれている。
サルも蔵之丞も、まったくおれとは重なる部分がない。
だからこそ言いたいことも言えるし、違う考え方が面白い。
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